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風変りな服装
空想の産物にせよ現実の試みにせよ、ひろい意味のアブノーマルな服装がそれぞれどんな意 味をもっているかは、一概に断定できません。それは一に考案者の好みによるからです。本誌 にも現われた眼帯やマスク、コンビネーションなども、ノーマルな眼でみれば何の変哲もない
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ものだが、ある種の人々には特殊のセクシュアルな意味をもってくるし、 その場合にも同一対象がフエティシズム、サディズム、マゾヒズムに利用 される。たとえば女のズボンは沼氏と私とにとって正反対の性衝動をあた えることができます(氏の言われるように私の場合は珍らしいにしても)。 だから、今まで述べてきた服装の例もさだめし異論が多いだろうと存じま す。おそらく、私はサディズムの色眼鏡をかけているのでしょう。そして 他の立場から解釈すべきものをサディズムに帰しているかもしれません。 ただそれは私が私自身であるかぎり免れがたいことだと思います。 だが 考えてみると、一眼で明白に意図の分るようなものは別として、一般には 同一の服装がちがった解釈を惹き起すのは、アブノーマルな場合にはある 程度自然だといえます。私は女の赤い腰巻などには、なんの興奮もかんじ ない。だが汚れたズボンを穿かせると興奮する。これと正反対の場合もあ りうるわけで、リピドの結びつきが極度に分化していることそのものがア ブノーマルな人間の特徴だとすれば、私がこの雑記のなかに、自己の感じ えないものは書けないし(サディズムと感じないし)、感ずるものは書か ざるをえないということもお許し願いたいのです。したがって読者の方々 に、私がサデイスティックだと述べることは吾妻新一箇の主観であって何 等一般性を強調するものではないこと、またそんなことは不可能だと信じ ていることをおことわりしておきます。
そこでさっそく風変りな服装から二、三抜いてお目にかけますが、1の 「兎」なども、日劇の踊り子がこんな装りをしたところで変哲のない仮装 |
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とも云えます。然し、ある種の人々にとっては通常の仮装以上のものです。た とえば大きな耳を立てた頭布がすっぽりと頭と咽喉を掩い胸部につづいている 点、それと短いタイツの対照、兎の意味する柔順さなどから連想されるものが あるのです。たぶん特殊な集りの席では、この「兎一は狩り立てられる運命に あり、また人々に「狩猟ごっこ」の欲望を起させるための服装のように思われ ます。
2は「雨」と題する空想的な服ですが、濡れた感触のしなやかなビロード( ?)の上衣は、わずか一ヵ所で留めてあり、リボンは両腿を縛っているのでは ないかと疑わせます。さらに、うしろに廻した手と手は手錠でつながれている かもしれません。
8は本誌六月号の口絵で紹介しましたが、いま一度こゝに採録させてもらい ます。おなじみの「ポニイ」で、アクセサリが議論の余地なく服装の意味を物 語っています。私の非常に好きなポーズで、後手に縛り、猿轡から手綱がつづ いている。ぴったり密着した服を締めつけるバンドの中がひろいのも、その下 を通して細いバンドを縦に締めたのも好みに合っています。(股間を縛るのは 着衣の上からというのが私の持論です) |
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このようなポーズは当然密会などの公開の集りよりも家庭での、二人だ けの遊びとして楽しまれるべきでしよう。
「さあ、家のなかを、一廻りしてもらおうかな」
と云って、夫は手綱をとる。彼女は早く苦役をすませたいので、いそい で駈け出そうとするが、そうはいかない。たちまち手綱を引かれて、奇妙 なうめき声と共に顔が仰向けになる。
「ずるいことを考えたってダメだよ。ゆっくりと、どの隅々も落さないよ うに歩かなくっちやいけない。それから断わっておくが、少しでも声を出 したり音を立てたりしてはいけないよ。分ったね?」
だが、声は出さないにしても、足首に結びつけた鈴が鳴るのをどうして 防ぐことができようか。彼女は注意深く、そッと足を動かしてみる。やは り鈴は鳴るのである。
「どうしてすぐ約束を破るんだろうねえ。よしよし、お前が鈴を鳴らすた |
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びに、そのむっちりしたお尻も音を立てることにしよう」
彼は尻尾をつかんで持ち上げ、みじかい鞭で叩く。こうして走ることもできず、ゆっくりと、 一足ごとに澄んだ音と鈍い響きとが入れまじってゆく……。
こんな光景が浮びます。
「御誌の予約広告のなかでみた女教師は、私が数年前フランスで知った人と、とてもよく似て います――彼女が脇のあいた膝までのスカートを穿いているのを別にすれば。彼女はとても踵 の高い靴をはいて、上級生たち全部のものにそれを見習えというのです。非常に美しいけれど この上なく厳格で、いつも軽い笞をもっていました。だが、彼女が上級生を罰するいちばん好
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きなやり方は赤ん坊のように扱って教室の隅に立たせる ――ときにはまる一時問も――ことでした。低悩児とか いた帽子をかぶせ、リボンで後ろ手に縛り上げて」
もちろん作り事でしよう。だが帽子は凌辱的であるし、 美しいリボンで縛るのはロマンティックです。緊縛の意 義を、苦痛を与えるよりも自由を奪うことに置く人なら ば、荒縄で高手小手もいゝかもしれないが、リボン手錠 もわるくありません。その意味では、この挿画はなかな か楽しめます。
「払たち女が肉体的によわい性だということを存分に思 い知らせてくれるような男」にめぐりあいたいという女 の手紙。
「………そういう男を識るのが私のたった一つの望みで す、彼は私を無力な囚人にしてしまい、ありとあらゆる 方法で私を羞かしめるのです。ああ、いつ、いつ、いつ の日のことか! 彼等は私たちがたとえ美しく女らしか ろうと、否応なく無力にしてしまわぬかぎり決して無抵 抗な人形みたいに扱われたがらないことを、実証してく
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れるでしょう。どうか私たちに花なんか捧げず、代りに紐をもってきて縛ってください、膝ま ずいて嘆願したりせずに、あなたの命令に従うため私たちを這い寄らせてくたさい。 あなたのE・X・E】
次は相互的な楽しみについて。「御誌六月号の『カロリイン』は、男が絶えず女に窮屈な服 装をさせ、控え目になるように訓練したり其他いろんなことを課するのを嘆いています。彼女 は、男というものは天成こういう趣味をもっているのだと思っています。
多くの場合そうなんですよ、カロリイン!たとえば、私と妻とはある協定を結んでいるんで す。その協定によって、一週間のうち六日間は私が支配者になり、七日めだけ、妻が支配者に なることにしています。その七日めには、私は完全に二十四時間、女の服を着なければなりま せん。そして私はすっかり女になり切っているので、そのまゝ一緒に買物や映画に出かけるこ とができるのです。
この日は、彼女は私をジェーンと呼び、私は彼女の命ずることを何でもしなけれはなりませ ん。もしも私のやり方にちよっとでも不満を感じたら、役女は自分がいちばん良いと思う懲罰 をなんでも課します――そして、時によるとそれはとても厳しいのです。ある時など私は、両
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手を頭上に縛られてまる一時間立たされた揚句、長い定規でピシピシ打たれました。しかも私 のスカートはまくり上げてピンで留めてあるので、鞭打の苦痛はたっぷり味わうというわけで す。
その日に、おきまりのルールが一つあります。それは、私が床につくとき、手足を縛られ、 かたく眼かくしされることです。時には解放されることもありますが、そのまゝ寝込んで、一 晩じゅう縛られたまゝのこともあります。
だが、云うまでもなく、私がジェーンの役割を演じているときに過度にひどい折檻を妻が絶 対に加えないことだけはたしかです、彼女は、翌日になって私がそれと同じひどいことを、い や、もっと厳しい折檻を加え得ることを知っているのです。 鎖につながれたジェーン」
これらの投稿の信憑性について私は何ひとつ保証できません。というのは、最近このアメリ カの雑誌の事情に精しい人から厚意ある警告を受けたからです。したがって私がこの「投稿」 を訳したのは、たれが書いたかでなく、このような欲求が活字の形で現われているという点に あります。 加虐被虐の要求はどこの国にもあり、重要な性生活の領域として潜在的にも顕在 的にもみとめられています。むしろそれを前提としなければ、このような雑誌も生れず、右に あげた「投稿」も生れないわけです。そしてこれはデモクラシィだの専制主義には関係があり ません。なぜなら人権の問題でなく、趣味の問題だからです。 この二つの投稿の中、特に後 者の相互享楽は、サディズムおよぴマゾヒズムが同一人のなかで巧みに調整され、六対一の形 でバランスを保っているのも面白いと思いますが、それが反社会的な危険な衝動とならず、愛 し合う夫婦の間の無害な楽しみとなっていることに注目して頂きたいのです。マゾヒズムはと もかく、サディズムは一般に危険な有害なものとして、ヒロポン患者の犯罪の責任まで背負わ されていますが、火薬の外装を強めれば爆発力が増すように、抑圧は危険性を増すのみです。 いかなる権力をもっても性衝動の根元を亡ぼすことはできないのだから、それを遊戯的な形で 発散させることはいちばん腎明な現実的なやりかたに相違ありません。こゝではサディズムの 大勢が次第に個人的な無害な遊びの方向を辿っている一例として、この「投稿」をかゝげまし た。
服装のことを大分かいたので、最後に私はズボンについても語りたいと思います。もちろん 特殊な意味に用いられる場合のズボンであって、衣服論とは関係ありません。自由且つ解放的、 活動的で合理的な服装が、こゝでは肉感的な拘束衣として扱われます。 おなじ人間である私 にそんな心理の使い分けができるかという点に関してほ、理性と感情があると答える外ないの です。女学校の教師かならずしも異性に魅力を感じないわけではない。だが美しい女生徒を教 育する資格がないとは云えない。或はまた、ニーチェの人および思想に尊敬は払うがその思想 に承服できないということもありうる。さらに私は色情狂ではないから、すべての女に欲望を 感じないと同様、すべての女のズボンに血を騒がすわけではない。
しかも女のズボンは、サディズムの世界においても殆ど問題にされていません。スカートや キモノはさまざまの道具立てに使われるが、ズボンはまず、無縁のものとされています。だか ら私の場合は二重に特殊なのであって、一般に興味もりや否や、すこぶる疑問です。だが、他
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の版装の利用を語ってズボンを語らぬことは私には絶対に不可能です。それほど私の性生活に おける比重が大きいからです。主観色の濃いのは十分に承知の上で、吾妻新内心の声をすこし お聞き下さい。
まず、女のズボンをサディズムの色眼鏡で見る場合、第一に拘束という性質が意識されてき ます、だから私は単ズボンや七分ズボンを好みません、かならず足首まで達する長さでなけれ ばなりません。これな密着感と大きな関係があります。つまり腰から足首まで、つねに布で掩 われているという感覚がなければならないのです。これは足首を締めることによって達成され ます。
次に長ズボンのすぐれているのは足と足をつなぐ場合です。裸の足首を紐で縛ると、緊縛感 が強すぎて感覚はその部分に集中され、全体としてのズボンと皮膚との触感を消してしまうの です、これでは後に述べるようなズボンの効果は半減してしまうので、どうしても長ズボンが 理想形となるのです。その場合でも、ただズボンの上から縛るのは拙劣なので、実際にやって みればわかりますが、あまり裾にもってゆけば、足首に辷り落ちるおそれがあり、余祐をみて 位置を高くすると、ゆるやかなズボンなら格別だが、細みのものでは膝から下が突っ張って触 感は単調となる上に、距離が短くなって七分ズボンに近くなります。そこで、いちばんいゝ方 法は裾の最下瑞にいくつも小さな穴をあけ、それに細い布紐をくぐらせて軽く締め、必要に応 じて左右の足をつなぐのです。穴のあけ方は広い間隔と狭い間隔が交互になるようにする。そ して布紐が表に多く出るようにする。これは紐が少しでも皮膚にじかに触れぬためで、私のつ くったものではズボンの裏を通る紐の長さは三分づつ四カ所、計一寸二分にすぎません。紐に 布を使うのも当りを柔げるためです。こうして締めると、足首はすこしも痛くなく、裾の最下 端の布全体のしっとりした圧迫だけで、もちろん外れる心配もなく、見た眼も刺戟的です。
裸ばかり縛っている人には分らないでしょうが、着衣のときは(持にズボンは)布のデリケ ートな触感を傷けるようなことは大の禁物なので、けっして痛く縛ってはいけないのです。部 分的の痛みは、常に全体の触感をこわします。それでは着衣の意味をなさないので、衣服その ものが部分々々のアクセント(緊縛部分ないし単に締めた箇所)の扶けをかりて、全体として 拘束具の感覚を呼び超さねばならないのです。
次に布地ですが、これは目的に応じて二通りあれば理想です。当事者が肌触りで悩ましく感 ずるには薄っぺらな人絹やあまりに柔いクールではダメなので、ざらついたデニムやラシャ地 がいゝのです、ただデニムのブルー・ジーンズなどは視覚的に勝れている割にごわつきすぎて 布が宙に浮き、触覚的にはそれほどでもありません、むしろ粗末なラシャズボンの、嬬子の裏 地を剥ぎとってしまったのが最上のようです、それはある程度しなやかでよく肌につき、ある 程度ざらついており、もっとも触感を刺激します。
ところが本人でなく第三者の感触を主にすると、もちろん薄いものがいゝのです。パジャマ のごときは、丈夫である程度バリッとした上質のポプリンなどが好ましく、ビロードなどは見 た眼に美しいのみです。
次に形状。これこそは人それぞれの好みによって千差万別ですが、主観を申上げれば、あま りにゆるやかなものも、あまりに細いものも不可です。一方は肉体の線を失い、他方は即物的 すぎて空想の余地がないからです。ズボンの場合にシワやヒダがいかに感情を表現するかを経
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験したものはすぐ理 解できることです。 魅力的なのは、腰か ら腿までぴったり詰 め、膝のやゝ上部( または腿の中間部) あたりから膨らみを もたせたものです。 従来の女のズボンは 裾廻り38センチほど で、膝位はそれに8 ―10センチを加えた 位ですが、最近はヒ ップから裾までの曲 線に膝位でアクセン トをつくり、膝から 下を同寸に近くした りライフ誌のオード リ・ヘプバーン特集
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に見るように、極めて細い形のものが流行しはじめていますが、これらは諸種の理由で一般化 しないだろうし、この場合には関係のないことです。ただ腿まで密着させた意味から、従来の 裾口の広さを膝位に移すと適当に美しく、且つ肉感的となります。
さて、このような布地と形態をもち、手首や足首を締め、上衣をズボンの中に入れて、バン ドで腰をかたく締めた姿は、それだけで「準備」として完成しているので、私のように次の動 作との関係に馴れすぎた人間にとっては、いまでは連想が排他的となってしまって、既に刺戟 的です。それで今やそれなしに遊戯を行うことは興味がなくなっています。だがそうでない人 々でも、この姿にしておいて足首をつないだり、手足を縛ったり、猿ぐつわをはめたり、縦に 紐を掛けたりすれば、潜在的なこの服装の効果を一挙にして感ずるでありましょう。
ある特殊な服装にたいする特殊な感覚を推しひろげる危険は、誰よりも私自身が知っていま す。しかし、意識化されぬ広い欲望が――程度は別として――こうした服装と漠然と結びつく ということは、私は昔から感じていました。ズボンの性的魅力については比較的簡単です。だ がその魅力と、多くの人々の胸の奥にまどろんでいるサディスティックな欲望との関係につい て論証することはきわめて困難です、それは心理学上のいろんな側面をもっていく興味あるテ ーマにかゝわらず、ある人々にとってはこじつけに思われるであろうし、豊富な資料によらな ければ独断に陥ります。だからこゝでそれを論じようとは思いません。ただ「色眼鏡」を通し ての推測にとどめることにします。
5の写真は、一九三一年ニューヨークのチェスター・ヘイル舞踊団が上演した「機械化時代(」 の一場面です。前にボタンのない密着した上下衣服(ズボンと接続している)は、まず自分一
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人では着ることも脱ぐことも楽ではありません、腹部を締めた金属性 胴衣やバンドから、金輪が吊られ、腿に嵌められ、あるものは股に接 しています。そのため両足を揃えて立つことは困難であり、かなり足 を開いてもその接触から逃れられません。さらに注目すべきは、大半 が手の自由を失っていることです。あるものは金属性の大きなマスク をかぷせられ、手を袋に包まれており、前方の三人の両手は金属球の 中にすっぽり入っています。おそらく球の内部に把手があって、踊子 はそれを握っているのでしょうが、みたところは確実に拘束されてい るとしか思われません。
機械化時代の象徴だということは一眼みれはわかるのだが、これを 人々はどう見るでしょうか。最も無難なのは、奇抜だという印象です。 だが、この奇抜という印象を分析すると、おそらく単なるエロティシ ズム以上の、くすぐり(に似た名附けがたい興奮が出てきます。そして それを、ある人々はサディズムと名づけるのです。なぜならば裸体を 連想させる密着したズボンに、股間縛りを連想させる金属の輪が嵌ま っており、その触覚は直接観客を「くすぐる」ものだからです。しか もそれを阻止することを許さないかのように手先きの自由を奪われて いる。この異様な着想はどこから、なぜ生れたのでしょうか? |
この大胆な服装が、ホンの思いつきで決ったとは信じられません。またかくしようのないズ ボンと金輪の効果が無関係でもありえない。原図を描き、手を加え、振付者とも相談し、書き 改め、身長や輪の寸法を計って決定するまでに、漠然とした大衆の欲望は正確に予測し計算さ れ、ハッキリした言葉に出たと思います。またそれを踊子たちに着せるとき、彼女たちが羞ら りたり、批評したり、監督がそれを叱りとばしたり、冗談を吐いたりまたその姿を楽しんだり したことも想像されます。
次に掲げた写真6は一九二七年春(月は不明)パリでサントスというダンサーの踊った「未 来派の妖婦」の一場面です。解説に曰く、「なごやかな線と迫るような音律の交錯で春の夜を 倦かず讃美する感傷的なパリジアンの心を捕えずに措かなった………」とあります。なごやか( な線と特に記されてあるのが、私の注意を惹きます。それは舞踊の動作ばかりでなく、肉体の 線が印象的だったという推測を刺戦するのです。この服装をよくみてください。肉体を露出し ている部分はほとんどありません。わずかに顔と指先と足先をのぞけば、全部が包まれていま す、その顔すら仰向かなければ埋まるばかりに咽喉を掩われ、縄のように数珠紐がかゝってい ます。それが単なる首飾りでないことは、二の腕、手首、膝、足首(そしておそらくは腰)を 締めたものと全く同じであることから言えます。
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これらの数珠紐のアクセントは、なんたる強烈さでしょう! ゆるやかな上衣もズボンも、 この緊縛のために引きしまり、この上ない効果を示しています。しかもその位置はなにを暗示 しているでしようか? この写真を見ればわかるように、足をそろえて立つと完全に縛り上げ られたような錯覚をあたえるのです。つまり、脚の活動を全く奪うに適切な位置に紐が締めて あるのです。同様に上体も、ふつう両手を縛るところです。もし両手をうしろに廻して手首を 重ねれば、やはり縛り上げられたとおなじ印象を与えます。
私はこの一場面しか蒐集できなかったので残念ですが、舞踊がいかに複雑多様なポーズをと るかを考えてみましょう。たぶん、おなじ位置を縛った左右の腕は、ある動きのなかでシンメ トリカルに置かれ、密着した脚に似た錯覚を十二分に与えたと思います。なぜなら、腕にせよ 脚にせよ、深く食いこんでみえる紐の効果が前もってどんなに理解されていたかを疑うことは 到底できないからです。そしてその場合に、私には、どんな他の服よりも裸体よりもこの緊縛 効果がズボンによって最高度に発揮されていると感ずるのです。
次に、サディズムにおけるズボンの利用に汚辱という方法があります。これは「感情教育」 でくりかえし述べたことで、私も結域章三郎とおなじ傾向をもっています。だから彼の耽溺も わかるのですが、要するに「汚す」ことは凌辱の昇華された形にすぎません。黒ずんだ、油じ みたズボン。つぎの当ったみじめなズボン。それらは脚の皮膚が接触から逃れらないという点 で、じかに身についているという点で、汚れたスカートやキモノよりも残忍さを帯びています、 肉体的苦痛でなく不快さはまったく精神的のものです、たとえばみじめな境遇に陥ったような 錯覚ないし空想の効果であって、その残忍さは擬制的であるが故に、合意の遊びにはいちばん 適しているようです。つまり実害がない。しかも空想の範囲がひろい。いかに無害かは、どん な汚れた服装をしても世界中のもっとも厳しい検閲官ですら眉一本動かさないであろうし、い かに豊かな空想の余地があるかは、章三郎のように懲罰服にもできれば小説や映画でさまざま な事件と組み合せて使えもすることでわかります。
無声映画時代に、ルイズ・ブルックスという女優の主演した「人生の乞食」という映画があ りました、津村秀夫が「異常な美貌と肉沐をもった大根女優」と評したように、彼女はこの作 品の他、「カナリヤ殺人事件」「パンドラの函」「倫落の女の日記」に出た位で消え去ったの ですが。その暗い、ヴェデキンナを想わせるアブノーマルな妖気はいまだに生々しく私の胸に あります、パブスト監督が好んでこの大根女優を使い、好んでアブノーマルな作品(「バンド ラ」では同性愛者にいどまれる陰惨な場面があり、最後に殺人鬼に殺される。「倫落の女」で は淫獣そのものゝような男に冒される)に出演させ、異様な迫力をあげたことに私は私なりの 嗅覚が仂くのたが、横道に外れるのでやめましょう、とにかく「人生の乞食」では養父に処女 を奪われようとして誤って殺してしまった娘が、少年に変装して浮浪者(リチヤード・アーレ ン)と一緒に逃げだす、そのときの服装が汚ないよれよれのズボンで、断髪の美しい顔とおよ そ対照的なのです。貨物列車をねらって飛び乗ろうとするが、もんどり打って坂の下まで転げ 落ちる。次の列車にやっと乗ったが、見廻りの男にみつかって直ぐ下りろと云われる。
男は飛びおりたが、汽車のスピードが早くて彼女は下りられない。半泣きになるのを容謝せ ず、監督は棍棒で彼女の尻をいくつも叩き、とうとう飛び下りたが、また思い切った転び方を
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する。
問題は尻を打たれたり転げ落ちたりする即物的描写にはないので、 全巻に漂うサディスティックな空気と汚れた服装との有機的結合に あると云えるのです。継子で育った彼女が義父に羞しめられようと した冒頭からはじまって、警察に追われ、浮浪者の群に入り、疲れ きって跛をひきながら線路を歩いたり、藁束の中に寝て熊手で追い かけられたり、女と見破られて森のなかで浮浪者のボスにころがさ れたり、貨物列車のなかで全浮浪者の淫虐な視線の集中攻撃を受け たり、やがて彼女の肉体を賭けて眼の前で二人のボスが乱斗をはじ めたり、要するに映画の筋全体がサディスティツクに組み立てられ ています。華かな場面、明るい場面はただ一つもなく、終始汚れた( 世界(です。アメリカ映画共通の落ちとして最後に恋人と結ばれます が、その附け足りのホンの数カットに、スカートが登場するのみで、 服装も終始汚れたズボンです。そして、その筋と服装にふさわしく、 彼女の表情もきわめてマゾヒスティックです、一時間半の間にただ 一回しか笑わない、断髪の美しいその顔は妖しい愁いを帯び、大き な眼は訴えるように湿り、かたく結んだ口唇はふしぎに肉感的です。 この映画の筋と、扮装と、ルイズ・ブルックスの魅力とは、いわば 切り離しえぬ三位一体なので、それが意識的にせよ無意識的にせよ 人々を惹きつけたのです。純粋な芸術の意味をはなれて私は場末の
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小舎まで追いかけ、この映画を八回みました。「キング ソロモン」(最近のでなくその前に 作られたトーキー)でも、名は忘れたが小柄な女優が蠻地に向う途中、馬車のなかで男のズボ ンを切りつめて穿きます。やはりよれよれのズボンで、バンドもなく、紐をバンド代りにした ひどいものです。やはり「人生の乞食」のように疲れきって男にひきずられて歩くのですが、 その脚が大写しになって印象的です。そして槍をかざした土人の群にかこまれたり、いいろの 冒険にぶっかるのですが、このような苦難と汚れたズボンとの結びつきが一般に自然に思われ るのは、その服装がサディスティックな心理反応を程度の差こそあれ惹き起すからではないで しょうか。
衣服の汚辱が苦難、逆遇、転落、受難などの要素と心理的に結びついて、それがさらにアブ ノーマルな性体験と結合する場合には、汚れたズボンそのものが極めてセクシュアルに映りま す、写真7は外国の例でなく、昭和六年の立川飛行場における日本飛行学校女子生徒の一例で すが、油によごれた作業服で機体の掃除をしているところです。
汚辱には汚れの他にツギ当ての方法があります、二例ほどお目にかけます、写真8は「珊瑚
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礁」でジャン・ギャバンと共演したミシェル・モル ガン。これも薄倖な娘の生活を表現するために、こ うしたズボンを穿かせたのです。写真9はパット・ パターソンという女優。年代不詳なのが残念ですが、 英国からフオックス社に招かれて渡米し“Bottoms up”という映画に出演し、シャルル・ボワイエと結 婚した直後の写真だから、調べれば分るかもしれま せん、これはツギの当て方、裾の裂き方から、わざ わざ作ったズボンに相違ないのですが、たとえ戯れ にせよ女優がこの様なズボンを穿くのは珍らしいの でお目にかけました。
私は意識的にこのような写真を蒐集したのでなく、 衣服資料として集めた写真の中から拾い出したにす ぎないので、率から云えば数千分の一にすぎないし、 衣服そのものゝ意義とは、なんの関係もないことを 重ねてことわっておきます。ただ私を含めてある種 の人間は、これをアブノーマルに利用できるのだと いうこと、また汚辱その他の方法によって利用しう る条件をもっているのだということを述べたのです。 |
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次にフィクションを一つ、10図は水夫シンバッドの筆名で書かれた「印度の網の魔術」の挿 画です、文章はあまり永いので訳しませんが、要するにアメリカの水兵たちがカルカッタの大 道でみた魔術の話です、地面に打ちこんだ捧に美女を縛りつけ、カーテンをひいて、再び開く
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と、そのまゝの姿で他の棒に移動している。ふしぎでたまらないので、水兵はじぷんでその女 を縛り上げるが、やはり移動してしまう。その彼女は東洋のズボンをはいています。
「彼女の背は五呎(六吋(位らしいが、正確には云えない、というのは、私が今まで見たことも
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ないような高い赤い踵のサンダルを穿いているためもっと高く みえたからだ。その他の点ではその靴は有りふれたモロッコ風 のサンダル・スリッパーで、足先のまくれ上った奴だった。白 い繻子の紐には宝石がちりばめてあった。身装りについて言う と、彼女は透きとおるような白い絹のハレム式ズボンを穿いて いたが、その横に裂目がついている……」
サディズム小説の例に洩れず、魔術の説明はどうでもよいの で、結局はこの魅力ある服装をした美女を丹念にぎっちり縛り 上げることや、綱が皮膚に食いこむことや、それが弛みはしな いかと身体を撫でまわすことが細かく書いてあります。そして 最後に一緒に酒をのむのですが、そのときも彼女を縛って撫で たりさすったりするのです。
この中にも、フーデイニの名が出てきますが、映画「魔術の 恋」でも魔術王フーデイニがロンドン監獄を破ると賭をしたと き、待ち切れない観客をなだめるためにフーデイニの妻が夫に 変装して舞台にあらわれます。すると客の一人が舞台にかけ上 って、「この手錠を外してみたまえ」といやがる彼女の両手を うしろに廻して手錠をかけてしまう、本物のフーデイニではな いのだから外せる道理がない困り果てゝもがく場面があります。 |
これも、フーデイニの場合には必ず両手錠なのに彼女にかぎって後ろ手錠をかけられることゝ、 男装ということゝに、なにか大衆にアッピールするものがあり、その]を分析してゆくとサデ ィズムが顔を出します。ただそれとズボンとの関係だけが究明されず理解されていないだけで
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す。だがもしこれが背広でなく汚れたオーバーウールなどであったら、ある人々は興奮の秘密 の所在を突きとめるかもしれません。無数の中間段階にならぶ生きた男女を説明するためにワ イニングルが男女の窮極観念を設定したように、あらゆる段階のサディズムとの関係を明らか にするため、私は誰の眼にも理解される形のズボンをもってきて、置き換えてみたいのです。
この雑記も純粋な紹介にとどめるつもりだったのが、つい自己の趣味に淫する結果となって しまいました。書いてしまってからいさゝか気がさすので、このへんで一応幕を下そうかと思 っています、気が向いたらまた書くことにします。
(完)
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