「深 窓 の 隷 嬢」








  この館を取り囲む生垣は、

  花筏(はないかだ)と呼ばれるミズキ科の落葉低木でございました。

  この植物は、葉っぱの真ん中に花を咲かすのでございます。

  花を乗せた葉っぱを筏に見立てて、

  花筏という名前が付いたのだそうでございます。

  でも、

  この館の独特の雰囲気がそうさせるのでしょうか?

  この世にあってはならない花であるかのように、
  ひっそりと、世を忍ぶように、
  この花は、
  何かを幽閉しているように、
わたしには見えてしまうのでございました。

  時に、あでやかな色香を放つ花もあり
  時に、蝶とたわむれる花もあり
  時に、風とたわむれる花もあり

  己の使命を知ってか知らずか
  様々な想いを残し、
  はかなく散って・・・

  やがて、実を結ぶ花もあり
  そのまま、闇に沈む花もあり
  花は花として完結する花もあり
  未練を残して、花になりきれなかった花もあり
  
  それでも・・・花は花

  それでも・・・花は花

  それでも・・・花は花




 《東の空から覆いかぶさる射干玉(ぬばたま)色の夜に隠れて》


 街を見下ろすように丘の上に立つ洋館は、夕陽を背負ってシルエットを作り、

振り向けば、東の空に浮かび上がった満月が、血のような緋色で見つめている。

黄昏た街角に無愛想に街路灯がともり、人気のない洋館が、今、ゆっくりと闇夜に

沈むところ・・・

 処女(おとめ)は、何を葬ろうとしたのか?

 廃屋となった洋館の庭に、夜毎の闇が降り積もってゆく。かつての洋館の住人の

夜毎の闇を更なる闇で塗りつぶすように、目くるめく汚れた色欲が深い深い漆黒の

淵に沈んでゆく。しんしんと、しんしんと、闇が降り積もってゆく。

 風が立った。

 洋館を囲む生垣の根元。カタバミのハート型の葉っぱの陰に、半ば地中に

埋もれながら銀色に鈍く光るもの・・・カタバミの葉が揺れる、ハート型が揺れる、

心が揺れる。

 記憶・・・呼び戻せない
 想い・・・閉ざされた
 埋葬・・・心の儀式
 封印・・・未来へと永遠に解き放す

 風が立った。

 人はどんな時に神を想うのか?
 人はどんな時に神に祈るのか?
 人はどんな時に神を呪うのか?

 鈍い銀色の光・・・
 
 処女(おとめ)は、溢れるばかりに注がれる熱い思いと、それによって惹起される

歓喜との引き換えに、諦めなければならない多くのものがあることを知った。

 例えば、拒否。
 例えば、批判。
 例えば、疑惑。

 素直であれと言う教えに従えば従うほど、清らかであれと言う教えに背くことに

気付いた処女(おとめ)は、やむなく身体に従った。心は身体の僕(しもべ)となった。

もちろん、身体は主の僕。主の導きで歓喜にむせび震える身体は・・・肉!

 風が立った。
 
 裸足の処女(おとめ)は、いきなり庭に飛び降り、薄闇の中で大地に爪を立てた。

大地に反旗を翻し、大地と共に古き己と決別するために・・・

 闇の中にできたもう一つの小さな闇に、生まれてこの方肌身離さず付けていた物を

葬った。計り知れない誓い、願い、祈り、望み・・・銀色の心の糧・・・闇と

同化して黒く錆付いてゆくであろう、銀の十字架のペンダントヘッド。

 涙の乾いた処女(おとめ)は、首輪に繋がれた鎖を胸元から背中に回して、夜空を
見上げた。

 何事も無かったように、当たり前の時間の流れを意識させるように、風が立った。




 《さらさらという音が聞こえる鬱金(うこん)色の月明かりの中で》


 外壁の下見板は、萌黄色のペンキ仕立て。背の高い庭木の緑に覆われ、保護色と

なり控えめな印象であった洋館も、色あせ剥げ落ちた塗料のせいで、取り繕うことの

醜さを逆に露呈していた。

 主は、何を葬ろうとしたのか?
 
 歪んだ記憶、汚れた想い・・・
 表が裏へ、裏が表へ・・・メビウスの輪・・・

 主は、何を葬ろうとしたのか?

 それは宝物だった。大事な大事な宝物だった。誰にもあげない、自分だけの宝物。

誰かと共有することの出来ない自分のためだけの宝物。そして、秘密の宝物。

 所有は最悪の拘束だと、誰かがヒステリックに叫んでいたっけ・・・

「妹の誕生プレゼントだって?」

 放課後、体育館の裏に呼び出された。やけに暑かった中学二年の夏・・・

「おまえに妹なんかいたっけ?」

 別の奴がそう言いながら変な笑い方をした。

 身に覚えのない言いがかりをつけられていじめられることには慣れていた。抵抗

しなければ、暴力も我慢の限界を超えるほど長続きはしなかった。でも、今回は

違った。 

「気持ち悪い男だな、お前」

 もう一人が、芝居がかったしぐさで唾を吐いた。

 全身から汗が噴き出して、他人からもそれと分かるような震えが来た。身構える

ように自然に力が入った。

「わざわざ、隣の町まで行ってよ、嘘までついて、それが欲しかったんだ!?」

 最初の奴が、別の奴の肩を抱いて、続けた。

「着せ替え人形相手におままごとか?」

 三人は転げまわるかと思うほど、大声で笑った。

 そして、暴力の代わりに、口止め料を要求された。



 その年の冬に、大事な大事な宝物のお葬式が執り行われた。嫌いになってしまった

のではない。飽きてしまったのでもない。いつまでも、大事な宝物だからこそ・・・


 完璧な所有・・・
 永遠の所有・・・
 所有することの完結。

 あまり日の当たらない台所の傍にあるヤツデの花が満開で、まるで、真冬の花火の

趣だった。

 寝かせると目を閉じた。ミルクを飲んでお漏らしをした。お腹を押すと泣き声を

立てた。赤ちゃん赤ちゃんした洋服が不満だったが、唯一納得できたエプロン姿は、

手垢にまみれ、どことなく哀れだった。

 ヤツデの花火の上がる中、穏やかに目を閉じた人形は、死に水を口にした後は、

無言のまま、地中に埋もれていった。

 フリルのついたブラウスとフレアスカート・・・純白だったエプロン・・・

衣装に隠れて見えなかったが、肌色のセルロイドは、線香を押し当てた焦げ跡を

無数に残し、股間には刃物で切り裂かれた割れ目を残し、麻紐できれいに縛られて

いた。

 寝かせると従順に目を閉じた。お漏らしをするいけない子だった。踏みつけると

悲鳴を上げた。心から愛した大事な大事な宝物。

 それでも、何事もなかったように、人形は、地中に埋もれていった。宝物は、

闇の中に終わることのない落下を続けるのだ。





 《青鈍色(あおにびいろ)の蝉時雨を浴びながら》


 風上のどこか遠くないところで夕立でも降ったのか、いくぶんひんやりとした

湿った苔色の風が渡ってきた。

 洋館の裏にそびえる大木の欅(けやき)から、気だるそうな蜩(ひぐらし)の鳴声が

響いている。
 
 庭の一角にある物干しから洗濯物を取り込んでいる処女(おとめ)は、額に脂汗を

にじませていた。

 西に傾き、橙色がかった夕日は確かにまだじりじりと暑かったが、風はかなり

涼しかった。処女(おとめ)の着ているゆったりとした小花模様のワンピースの

裾と、夏の風がたわむれていた。

 処女(おとめ)は肩で大きく息をした。

 生垣の向こうの道を、買い物帰りの主婦が、大声で話しながら通り過ぎて行った。

 最後の洗濯物を取ろうと物干し竿に手を伸ばしたその瞬間、処女(おとめ)は

左手で抱えていた洗濯物を地面に落とし、お腹を押さえて屈みこんでしまった。

 学校帰りの四五人の小学生の笑い声が通り過ぎて行った。

 こんなところで、恥ずかしい・・・
 自分の意思の届かないところ・・・
 だから・・・わたしの代わりにコントロールして・・・

 繰り返し繰り返し重なるように鳴き交わす蜩の鳴声が、耳の奥へ奥へと消えて

いった。処女(おとめ)は、音のない庭に取り残された・・・
 
 この感覚・・・
 眠りに落ちるような・・・
 全ての自分を投げ出してしまったような、安心感・・・
 生と死の間に横たわる、神にゆだねられた肉体・・・

「後で、処置室に行きなさい」

 普段の主が後ろに立っていた。事の顛末が理解できた・・・

 言いつけを守れなかった処女(おとめ)の不安をよそに、主は満足げだった。

 今の自分の置かれた現状を少しづつ理解してゆくにつれ、身の置き所のない

恥ずかしさが全身を拘束した。

 蜩の気だるい鳴声が、耳に戻ってきた・・・紙おむつが、重く、生暖かく腰を

包んでいた。

 憂鬱な気分で洗濯物を畳んではいても、この、不快な、情けない紙おむつは、

恥ずかしくてどこかへ逃げ出しそうな自分を、紛れも無く、繋ぎ止めていた。



 《突き抜けてしまいそうな群青色の空に吸い込まれ》


 庭の東はずれにある無花果(いちじく)の木が、大きな葉をゆっくりと揺すって

いる。南風は正面から庭を越えて、大きく開いた広縁の窓から吹き込んでくるが、

今、無花果の葉を揺らしている西風は、庭をかすめて街へと吹き降りるだけ。

今日のような穏やかな日には、この広縁は、午睡(ひるね)には最適の日溜りとなる。

 主の肩に頭をもたせかけた処女(おとめ)は、庭木の向こうに見え隠れする無花果

の実をじっと見つめていた。

 広縁の日溜りの中・・・

 あぐらをかく主と、そこにしなだれる処女(おとめ)。

「赤ちゃんが・・・」

「俺はいらん。お前がいればそれでいい」

「でも・・・」

 主がショートガウンのポケットに手を入れた。

 まもなく・・・

「あぁ・・・」

 ピクっと身体を硬くして、甘い声を発した。そして、切なげに・・・

「石女(うまずめ)・・・」

 主は、低くはき捨てるような声で、

「嫌な言葉だ」

「はい。あっ、うぅ・・・」

「それを承知でお前をもらった」

「ありがとうございます。いい・・・」

 カチッカチッというスイッチ音と、グーンという断続的なモーター音が、

琥珀色の日溜りに溶ける。


 大きな無花果の葉に、隠れ切れなかった無花果の実が、恥ずかしげに赤く

色づいている。

「無花果には・・・花が・・・咲かないのですね・・・」

 主は、その言葉をかみしめるように、しばらく目を閉じていたが、やがて、

笑っているような声音で、

「あの実の中に花があるのだ」

 主の中に自分がいる・・・処女(おとめ)は主の優しさに包まれて、すべてを

捨てる決心が出来た。主と共に生きる、いや、主の中で生きる・・・

 喜びと悲しみが一気にあふれ出し、処女(おとめ)の瞳を潤ませた。

「ああぁ・・・んん・・・」

 処女(おとめ)は、伸び上がるようにして主の頬に口づけ、それから、屈むように

丸くなって、主の股間に顔をうずめた。

 熟れた無花果の実が、
 割れて、

 その奥に、

 赤くただれたような花が、
 濡れていた。




 《昼と夜の糊代の、とまどう菫色(すみれいろ)のはかなさに》


 昼が動だとすれば、夜は静

 昼が生だとすれば、夜は死

 昼が始だとすれば、夜は終

 昼は醜・・・そして・・・夜は美

 洋館の洋館たる形式は、応接間のある尖った三角屋根の一角であった。祈る

ように掌を合わせて、天に届けといわんばかりのとんがり屋根、と、その先端の

風見鶏。

 洋館の歌う鎮魂歌は、夜毎の闇の伴奏を得て、穏やかにその全てを、ゆるやかに

なだめていった。庇の陰に巣くう羨望の眼差しや、窓辺の奥に見え隠れする疑惑の

眼差しを、犬走りに身を潜める非難の眼差しや、戸袋の隙間に張り付いた哀れみの

眼差しを、黄昏色に塗りつぶすように・・・


 暗闇におびえてお腹を抱えて丸まった団子虫は、丸まった安楽の中で餓死する。

 尻尾の先をなくしたカナヘビが、体温の上昇を待ちわびて、薄闇の中に凍死する。

 雨を待ちながら干からびていったカタツムリが、この闇に無限の渦を巻く。


「わたしも来月には取り壊されると聞きましたから・・・」

 宵闇に沈む洋館の、遺言・・・どこまでも落ちて行く暗闇の黙示録。

「その時に、はたして、見つかりますかどうか。わたしの下、応接間の火の焚けない

飾りだけの暖炉の下。床下1mくらいの土の中に、ここのお嫁さんの骨が眠って

いるんです」

 洋館は、昼にも夜にも組しない静穏の表情で、

「そう、墓石じゃなく、わたしの下で・・・」

 ところで・・・処女(おとめ)の行方は?

「え? お葬式? 火葬? そんなことをしたら死んだことが分かってしまうじゃ

ありませんか」

 夜の装いをまとって、あくまでも、洋館は落ち着いていた。

「土葬? 死体をそのまま土の中に葬る事でしょ? だったら、違うわね。

わたしの下には、あの人の骨だけが眠っているのですから」

 応接間の窓を見下ろすように、柘榴の木がほっそりと立っていた。誰が取って

食べるでもなく、柘榴の実が割れて、透明なルビー色の命が輝いていた。

         ・・・アーメン(笑)・・・






(愛読者サロン)