灰になるまで。。






 私が一番最初におぼろげに感じていたセクシャルなシーンは、肉食獣が草食獣を狩りそして食らい尽くすことでした。
チーターがインパラを狩るシーンなどテレビにくぎ付けでしたし、首に食らいつき息の根を止める段階は、
子供ながらむずむずとして快感があったのです。
さらにハイエナやライオンたちが、集団で狩った獲物に食らいつく場面は、たいそうドキドキしながら見ていたのです。
今思い起こすとき、そのシーンのどこが官能的であったのか、その当時園児であった私には
理解できていなかったのでした。
死を確信し生きながらに腹を裂かれる苦痛と恐怖を草食獣が感じていたであろうと、想い当たらなかった私は
テレビ画面をうっとりと眺めていたのです。
草食獣の息の根を止める状況に似た、首に食らいつくシーンの描写が出てくる吸血鬼(ヴァンパイア)物語は、
いまだに好きなのでございます。

 その次にセクシャルだと感じたのが、縛られた女性をいたぶるシーンです。
共稼ぎであった我が家は、祖母が私たちの面倒を見ていました。
祖母は時代劇を好み毎日欠かさず夕暮れ時に見ていました。
私もそれをいっしょに見ていたのでした。
密やかな私の楽しみは、町娘が縄で縛られていたり、女囚を拷問しているシーンでした。
目にするたび、官能的なときめきを感じていたのです。
だけどそのシーンを食い入るように見るのは恥ずかしく感じ、気のないそぶりでちらちらとしか見ることが
できませんでした。
何か、いけないものを見ているような気がしていたのです。
それは、キスシーンやベットシーンを家族と一緒に見るような、恥ずかしさでありました。
縛られた女性にどこかセクシャルなものを感じていたのです。

 小学生のいつごろであったのでしょう?
保険体育の授業で、始めてsexという行為を知ったとき、汚いと感じました。
その頃、足の間にある股は、尿やうんちが出る汚い場所という認識しかなく、尿をする場所に尿をする物を入れて
汚いと単純に感じたのです。
だけどsexは大人たちが恥ずかしく思い、隠したがる行為でもあるようなのです。
子供なんて隠したがったり恥ずかしがっている事ほど、食らいつく嫌な生きものです。
第一印象で汚いと感じたsexでしたが、ほどなく興味の対象になっていきました。

 鏡に自分の陰部を映してみたのも、小学生のころでした。
たぶんsexを知る前のことだと思います。
第一印象は最悪でした。
ぴらぴらの内側には内臓がそこにはみ出したような、グロテスクな形の肉のひだになっていたのです。
こんな醜いものが付いている私って、かたわじゃないかとショックを受けました。
だけど子供なりに考えたのです。
かたわであったら両親が騒ぎ立てているはず、これはこういうものではなかろうか?
(かたわって差別用語でしたっけ? 使わないほうがいいのかな?)
だけどそれが醜いと感じたのは事実であって、もしかしたらこれは付いている人と、付いていない人がいて、
私は運悪く付いていたんだとも思っていました。
そのようなグロテスクなものを持っている私は他の子供たちと比べ劣った存在に感じていたのです。
これが付いていない女の子には、おしっこが出る穴だけちょこんと、箸で突いた穴のように皮膚に開いていると
思っていたのでした。
今思えばそれこそ奇形で困ったことなのに、私はそう有りたかったと嘆いていたのでした。

 学生の頃、私はレイプ願望を持っていました。
愛し合った男女が行う性行為は素晴らしいことだと思いますが、M女性の多くにレイプ願望があるらしいとブログやHPを
拝見しながら感じています。
これはレイプされた女性にとっては、信じられない願望に違いありません。
レイプされた経験がないからその恐怖を知らないから、願望として持っているのやもしれないと・・・多少は感じています。
レイプ願望が歪んだ性欲であると、中学生にもなれば気付いていました。
それだけでなくレイプされることで得る不名誉や、リスクもそれなりに理解できる年頃です。
中学生にもなると理性というもう一人の自分がしっかり出来上がっているものです。
危ないことや変態行為は妄想として寝付くまでの間、お布団の中で想像するだけでした。

 処女膜という存在を知ったのも、中学生の頃であったと思います。
また女の子もオナニーをしていると聞いて、自分もしてみようと思いました。
でも、陰部は汚いと小さい頃から教え込まれていた私は、直に触れることができないでいました。
ショーツの上から股の間を触れていたのですが、少しもキモチヨクなりませんでした。
幼いころに鏡に映して見た時のおぞましさも、気持ち良くなれない原因であったのでしょう。
処女膜があるから初めてのときは痛いらしいと知った時、グロテスクにはみ出した内臓みたいなところのどこが
処女膜だろうと、好奇心から手鏡で覗いてみました。
だけど・・・よくわかりません。
その時、何かを入れて痛いところが処女膜に違いないとひらめいたのでした。
一握りの色えんぴつを準備して入浴中、お風呂場で一本ずつ挿入していったのです。
何本入れても多少窮屈になる程度で、思ったほどの痛みはありません。
これ以上は入れられないのに、破れるという感覚どころか処女膜を意識できませんでした。
拍子ぬけいたしましたが、だったらオナニーをしてみようと、色鉛筆をちょぴり出し入れしてみたのです。
だけど、ぎゅうぎゅうに詰め込んだ色鉛筆が窮屈で思うように動かせません。
それでも少しばかり出し入れはできました。
だけど何がいいのかまったく理解できずじまいでした。

 レディコミでSMが流行っていたころ、他の雑誌の間にはさんで羞恥に顔を赤らめないようにと、素知らぬ顔で
購入してきました。
レイプまがいのsexや、弱みを握られSM行為をしぶしぶする女性や、夫の留守にあがりこんできた男の調教される
漫画がのっていたと記憶しています。
それを読んでいると何もしていないのにショーツがべっとりとしてしまいました。
感じると濡れる描写が、マンガにあったのにそれと気がつかず、ちびっちゃったのかしら? と、ショーツを履き替えて
恥ずかしく思っていたものです。
だけど不思議なことに、そのマンガを思い出しながら(見ながら)ショーツの上から触れても、
ショーツが濡れるほどにはなりません。
自分で触れてもクリトリスはさほど感じず、膣の周りもなんだかなーという感じで、マンガの主人公が
感じているらしい快感は全くありませんでした。
その気になれないのに膣に何かを入れる気には、さらさらなりませんでした。
毛が生えそろっても、おまたは汚い場所でありグロテスクな器官というイメージがあり、忌むべき場所でした。
それでも、不感症というわけでもなかったらしく、今ではキモチイイと感じますしイクこともあります。
その頃、私にとってキモチイイと感じるのは皮膚感覚よりも、感情による部分が大きかったのだと思うのです。

 その後、順調に何事もなければ、SMなどしないで済んでいたはずでした。
文章として読むことや、マンガで見ることで妄想の上で疑似体験をするのです。
それ以上のSM的な願望は、理性が抱かせなかったように思います。
だけど、人生思い通りにはいかないもので、自傷行為に走りそうになったとき、逃げ道としてSMを求めてしまったのです。
自傷行為なんてはた迷惑なだけですし、ましてや自殺などしたら、周囲の人にとってうっとうしいばかりだと、
思いとどまらせたのです。
そんなどうしようもない自分が許せなく殺してしまいたい気持ちに、手綱をつける手段がSMでした。
もしも、お相手の人がとんでもない人で、殺されたとしても自殺願望を他人に叶えてもらっただけのことなのです。
リストカットをやめられなくなり迷惑をかけるよりも、SMをして誰かの玩具として楽しんでもらえるほうが、
よっぽど生存する理由に繋がると思ったのでした。
自傷を1度でもしたら歯止めが利かなくなりそうで怖かったのです。
他人から罰してもらうことで、自分を許せるような気がしたのでした。
私のSMへの扉は、感情のコントロールができない弱さでもあったのです。

 今ではその頃の切羽詰まった気持ちは吹っ飛び、快楽を得るためにSMをしています。
SMに肉体的な快楽があっていいんだと、知ってから・・・何か吹っ切れたものがあり、プレイを楽しめるようになりました。
主従といった気持の枷を外したとき、痛いときは痛いと言い、いやなことはいやと言えることで、閉塞を感じていた
心が開放されました。
いやといったところで、縛られていたら相手の思うがままになってしまうのがSMです。
苦痛であってもそれを相手が楽しんでいれば、自分もなんだか満足しちゃう事って、sexでは感じられない
満足かもしれません。

 さて。。。大人になっても子どもの頃の嗜癖が、そうそう変わるものではありません。
縛られて玩具にされる主題は、始めてSMを体験した当初から変わることがありませんでした。
だけどいろいろ体験した今、好む行為をあげるとき、縛られるだけでなく叩かれたり踏みつけられたり噛まれたり
首を絞められることになります。
それって、子どもの頃に惹かれていたシチュエーションを、思いだされる行為でもあります。
噛まれたり首を絞められるのって、チーターの狩りのようですし、縛られることや鞭も時代劇で心ときめかせて
いたことです。
子供のころから温めていた嗜癖は、ちょっとやそっとではやめられるものではないと思うのです。
三つ子の魂百までとは、よく言ったものだとこの頃思うのでした。

 それでも理性ではSM行為を楽しむことって、あまり褒められたものではないと分かっているのです。
できることならアブノーマルなことはしたくはないのです。
だけど願望は理性の思い通りにはならず、もっと更なる快楽をSMに求めてしまいます。
だから理性的な私とMのスイッチが入ったときの落差は大きく、その瞬間瞬間の感情を正直に言葉にするとき、
まるで正反対のことを私は口走ってしまうのでした。
矛盾した言動をしたりプレイの最中に葛藤することを飼い主は面白がっている風で、あるがままの私でいいんだと
リラックスができるお相手です。
私は私のままでいいんだというメッセージを、言葉でたびたび言われなくとも些細な言動から感じることができるのでした。
きっと誰でもそうだと思うのですが、ありのままの自分を受け入れてもらえることは、何物にも代えがたい
幸せなのでございます。

 女は灰になるまでと申しますが、M女も灰になるまで、M女なのかもしれません。
それを身をもって体験する場面は、死を覚悟した瞬間でございましょう。
その瞬間まで私は嗜癖と言う螺旋階段を、どこまで転がり堕ちることになるのでしょうか。
否定と切望という矛盾を胸に抱きつつ私は、階段を一歩一歩踏みしめるのでございます。






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