SM自伝・婬の放浪記(1)
一、踊り子の楽屋
昭和二十三年…。
戦争で叩きのめされた日本が、よろめきながらようやく立ち上がろうとしていた。
焼け跡がまだあちらこちらに残っている静岡の町に、当時としては珍しく
本格的なお芝居とレビューの常打ち劇場が、華々しく幕を開けた。
名前を、静岡歌舞伎座という。
現在の歌舞伎座とは何の関係もないが、戦争中疎開していた
ムーランルージュの残党が専属になって、現代劇、時代劇、それにバラエティ
ショーの三本立て…。出し物も、当時最大のヒットとなった田村泰次郎の
「肉体の門」をはじめ松浦泉三郎の「火あぶり」「生きている小平次」など、
なかなかの意欲作が多かった。
復員がまだ完了していないので、当然のこととして女優が多い。川上好子、
清水町子、月野弥生…。名前を上げても、もう思い出す人とていないスターたち…。
踊り子は、ほとんどが近郊からダンサーに憧れて応募してきた女の子。
進駐軍専用のいわゆるパンパンガールを除けば、当時としては唯一夢のある
華やかな職業だった。
そのころ私は旧制中学の3年生で、毎日のようにこの劇場に入り浸っていた。
それまで見たこともなかった女の太腿や、リズムに合わせて揺れる乳房は、
思春期真っ盛りの少年には痺れるような魅力だった。
いちいちチケットを買っていては小遣いが続かないこともあって、矢も盾も
たまらず事務所に飛び込んで、自分から志願して楽屋の手伝いをするように
なった。今で言うアルバイト、ただし無給である。
その日から学校には行かず、心配した担任の先生が楽屋を訪ねてきたが、
蹴飛ばすようにして追い返してしまった。教師の地位と権威が完全に
地に堕ちていた時代である。
こんな時代だったからこそ、今では考えられないような面白い体験もできた。
「坊や、お風呂に入ろう」
幕が下りると、よく月野さんのお姉さんから声をかけられる。先輩の
幹部女優をお姉さんづけで呼ぶのは、踊り子たちのしきたりである。
「洗ってあげるからさ、早くおいで…」
風呂は楽屋番の小父さんがどこからか廃材を拾ってきて一日中沸いていた。
素っ裸に楽屋から浴衣を引っ掛けてきて、眼の前でパッと脱ぎ捨てる。
ダンサー特有の美事なプロポーションで、真っ黒な陰毛を見せびらかすように
露出されると、16才の少年には眼がくらむほど眩しかった。
「坊や良い身体してるね。触らせて…」
風呂に入ると、月野弥生は股の間にこっちの身体を挟むようにして
背中や太腿を撫ぜまわした。時おり指を尻の穴に入れたりする。これが
たまらなく気持ち良くて、若い男根がピンピンに立った。
楽屋風呂では二人だけということは滅多にない。大抵は複数の
幹部女優と一緒だった。みんな開放的で、中島三都子はおまんこの奥まで
見せてくれたし、相川まゆみはオッパイを自由に触らせてくれた。いま思えば
良いように遊ばれていたのだろうが、まるで天国にいるように楽しくて、
学校など問題ではなかった。
その反面、下っ端には苛酷なタコ部屋のような現実があったことも事実である。
ダンシングチームの踊り子は、最盛期には30人以上いた。舞台は初めて
という女の子ばかりだから、レッスンは厳しかった。出し物の替わり目が
早いので、練習は殆ど毎日、それも深夜になる。ラインダンスのステップが
揃うまでしぼられ、間違えると振付の先生の平手打ちが飛んでくる。年令は
16才から23才位まで、労働基準法や児童福祉法など全くお呼びでなかった
時代で、みんなよく頑張ったものだと思う。
彼女たちのもう一つの現実は、バンドマンや数少ない男の幹部俳優から
セックスの標的にされることであった。
信じられないことだが、実際、当時の踊り子にはバージンが多かった。
と言うより、戦争でセックスそのものがタブーだった。その抑圧から一挙に
解放され、男たちにとってはまさに宝の山だったのである。
ここで、どれだけの踊り子が処女を失っていったことか…。
チョンの間に犯されて、ステージの横で泣いている女の子を何人も見た。
声がかかれば嫌応なしに承知させられる。断ればクビであった。替わりは
いくらでもいた。
世の中は、まだまだ、ひどいインフレと食料難に喘いでいる。食うためと
僅かばかりの虚栄心で、彼女たちは意外に従順だった。
こうしたアブノーマルな環境の中で、私は自然に女をいたぶる楽しみを
覚えていったのだと思う。終戦後わずか三・四年の間に可憐に咲いて、
いつの間にか虹の向うに消えてしまった女たちとのエピソードは多いが、
残念ながら写真は一枚も残っていない。
二、処女のカルテ
戦後の復興は、地方都市よりも東京のほうが圧倒的に早かった。
リンゴの歌が流れ、それが東京ブギに替わり、美空ひばりがデビユーする。
こうなるとお姉さんたちも一斉に東京に移動して、静岡歌舞伎座は、
あっというまにただの映画館になってしまった。
仕方なく私は学校に戻り演劇部を創った。その部員の一人に青島好子がいた。
16才、新制高校1年生である。彼女は私にとってマゾ第一号でもあった。
学校は旧軍隊の兵舎をそのまま利用していたので、部屋はいくらでも
余っていた。その一室を部室兼稽古場に占領して、私はそこで徹底的に
好子を虐めた。
最近のいじめとは違う。授業をサボッて演技指導?を口実に裸のまま
芝居させたり、クリトリスを刺激しながら台詞を言わせたり、稚なかったが、
それなりにサディスティックな性欲のはけ口であった。
初めて好子を姦ったのもこの部室で、痛がって悲鳴を上げたが
容赦しなかった。やる時はいつもオナニーで一度精液を抜いてから嵌めた。
そうしないとすぐにイッてしまう。絶頂を少しでも引き伸ばして、女という
未知の肉体を思いきり確かめてみたかった。
後日談だが、彼女とは別れて後30年以上経ってから、再び運命的に
出会うことになる。
静岡歌舞伎座の消滅は、踊り子たちの人生にも様々な変化を与えた
ようであった。
そんな時、ダンサーの一人から手紙を貰った。芸名は星すみれ、17才…。
ダンシングチームの2期生で、少女小説の挿絵のような娘だった。
手紙には故郷の焼津に帰るのでその前に是非一度会いたい…、という
意味のことが、不馴れな文字で書いてあった。
踊り子が自分からこんな手紙を渡せば、これはもう立派なラブレター、
ベッドへのお誘いである。
ラブホテルなどはまだなかった。会ったのは駅前の安旅館。ベニヤ張りの
四丈半くらいの部屋で、意外なことに彼女にはまだ男の手がついて
いなかった。処女だということは、固い身のこなしや痛がり方で若い私にも
すぐにわかった。
これが華やかなスポットライトを浴びて踊っていた女だと思うと、イメージが
二重写しになって一層性欲が昂進する。相手の気持に構わず一晩中
犯り続けて五・六回はイッた。別れるとき、どうしても何か記念に残して
おきたいと思って、マン拓を取った。
犯られたあとの粘膜は、腫れて大きく膨らんでいたが、舞台用のルージュを
クリトリスから左右のビラビラに塗りつけて何枚も取った。その間じゅう、
女はほとんど無言でひとことも文句を言わなかった。
暫くして、彼女の自宅らしい住所からもう一度手紙がきた。結びの一節
だけは今でもはっきり覚えている。
『私、必ず幸せな結婚します。どうもありがとう…』
それきり、消息は判らなくなった。
同じ2期生に、背が高く当時としては際立ったプロポーション、将来有望な
ダンサーがいた。若宮かおる、19才である。
「坊や…」
舞台の袖で、思いがけなく彼女のほうから声を掛けてきた。
「さっき、深沢のお兄さんに呼ばれたのよ。私、嫌なの。初めては坊やに
上げるから、貰ってくれない?」
真紅のコスチューム、濃い舞台化粧の奥に涙が溜まっていた。
深沢俊太郎は、やりかたが酷いというので踊り子たちから毛嫌いされている
敵役の俳優である。
「今夜、家に泊まって…。お願いね」
現代の女性には考えられない神経だが、どうせ姦られるんなら、その前に
綺麗な思い出をつくっておきたいと彼女は言った。深沢にバレて意地悪
されるのも困るが、こんなおいしい話を断るテもなかっただろう。
ふた間しかないバラックで、隣の部屋には母親と妹が寝ていた。蒲団を
頭から被って、声を殺して痛さを耐えながら、若宮かおるはこの夜、淋しく
バージンを捨てた。
それから一週間もしない日の、夜の部のステージ開幕の直前だった。
「ほら見て…」
鳥肌の立った二の腕を見ると、爪の痕のような擦り傷が何本も残っていた。
とうとう姦られやがった…。
心の中にゾクゾクするほどの嗜虐的な快感が湧きあがったきて、私は構わず
開演のベルを押した。