一、敗戦の焦土にて
今年、戦後50年…。いつの間にか、平和であることが当り前の世の中になった。
ここで一章を割いて、終戦前夜の思い出を書いておくのも意味のないことでは
あるまいと思う。
戦争の末期、私が疎開していたのは静岡市の郊外、町までは歩いて20分くらいで
行ける住宅地だった。当時、旧制中学の4年生、今で言えば高校1年である。
3月10日に東京がやられて、それと前後して静岡もB293百機の来襲で、全市が
焼け野原になった。
ゴォーッと滝と夕立が一緒に落ちるような音がして焼夷弾が降ってくる。防空壕の
隙間から空を仰ぐと、魔鳥のようなB29の翼が両手を一杯に広げたほどの
大きさに見えた。
時おり高射砲の破片がヒュッヒュッと音をたてて落ちてくる。何故か股間が
カチカチになって、私は隣に蹲っている年上の従姉妹の乳房を背中から握り締め、
折り重なるように息を殺していた。
恐怖の一夜が明けると、市街地の空が真っ赤になって、生暖かい風が
吹き荒れていた。
私が焼け爛れた静岡の町を歩いたのは、それから三日目の夕方である。
ちょうど、阪神大震災の被災地が町全体に拡大された情景と思えば間違いない。
瓦礫の山にはまだ熱気がこもっていたが、不思議なことに、屍体らしいものは
どこにも見当たらなかった。誰かが片づけてしまったのか、瓦礫の下に埋まって
いるのかは定かではない。そのかわり、早くも焼け棒杭を焼けトタンで囲って、
仮小屋を作っている人の姿があちこちに見えた。
防空頭巾にモンペ姿の娘がよろめきながら歩いている。
私より少し上の年頃で、学徒挺身隊の女学生だったろうと思う。何かを探して
いるらしいのだが、精神状態が多少おかしくなっているようで、娘はやがて
崩れたコンクリートの塊りの陰にしゃがんで動かなくなった。
近寄ってみると、ボンヤリとこちらを見上げるのだが、ほとんど表情が
なかった。穿いているモンペを脱ぐことに気づかず、前屈みになった尻のあたり
から、ボタボタと水滴がしたたっている。
ションベンしてやがる…。
まだ女を知らなかった私は、一瞬ドキッとなった。もちろん、こんな状況に
出くわしたことも初めてである。
棒立ちになっていると、娘はまたよろよろと歩きはじめた。モンペが膝のあたり
まで、ビッショリと濡れている。
私は本能的な衝動に駆られて、哀れな娘のあとを追った。
こいつ、犯れるかも知れない…!
ドキドキと胸が躍った。
戦争中、学生の身分で、女は触れてはならないタブーだった。だが思春期の
真っ盛り、地獄のような空爆を受けたあとの神経には野獣化した性欲だけが
先行していた。
ヤリてえな、おまんこはどんな形をしているんだろう…。
30メートルほど離れて尾行しながら、妄想が限りなく膨らんでいった。
だが経験のない悲しさで、どうしても声をかけることができない。気持ばかり
焦っても襲いかかる勇気がなかった。
あたりには、もう夕闇が迫っている。
そのとき、腹を揺するような暗く重苦しい響きで空襲警報のサイレンが鳴った。
これはもう馴れっこである。
あわてて女の後ろ姿に駆け寄ろうとしたのだったが、気がつくと、どこから
出てきたのか別の男の影が寄り添っていた。少女は少し争う仕草を
見せながら、肩を抱きすくめられるように歩いて行く。
くそ…!
折角のチャンスだったのに、急に嫉妬に似た凶暴な感情がこみ上げてきた。
歩くたび、瓦礫がガサガサと音を立てる。空襲警報のなかを、そのまま
10分近くあとを尾行けた。すると突然、焼け落ちて柱だけになった家の前で、
フッと二人の姿が消えた。
畜生、どこに行った…?
足元に気をつけて近寄ってみると、すぐ横の瓦礫の陰から急に女の泣き声が
聞こえた。
「うぇぇ、うぇぇ…ッ」
ガサガサッと何かが崩れる音がした。ほんの2メートル足らずの所である。
ハッと身をすくめて、私は両手を地面についた。
「こん畜生、声出すとブッ殺すど…」
干涸びたような男の声であった。
「黙って、おとなしくすりゃ良いだ!」
「うぇぇぇ…ッ」
「うるせえっ」
ガシャッと、瓦礫が微かに揺れた。首を伸ばせば覗けるほどの近さだったが、
全身が凍りついたようになって身動きすることができない。そこで何が
起こっているのか、頭の中が真っ白になった。
「うぐゥ、ひッ、ひぃ…ッ」
女が藻掻いているらしいことはわかる。だがここで転げまわったら、身体中が
傷だらけになってしまうだろう。おそらく瓦礫に圧しつけられて、濡れたモンペを
脱がされているのだろうと思った。
「これっ、脚あげんか、こっち向けて!」
「あぅ…、う…」
「早くせんかっ。痛くなんかねえでよ」
「や、やめてェ。やめ、てぇ…よゥ」
初めて意味のある言葉が聞こえた。そしてまた、張りつめた一瞬の
沈黙があった。
「ぎゃあぁぁ…ッ」
殺された…!
それが、最初に閃いた映像であった。私は無意識に立ち上がっていた。
女を救うためではなく、とにかく逃げようという突き上げるような恐怖だった。
「ダッ、誰だッ」
とたんに男が叫び声をあげた。夢中で走る後ろから、割れた瓦の塊りが
二・三個飛んできた。
暫く行って肩で息をしながら振り返ると、国民服を着た中年過ぎの男が
背中を見せて走り去って行くところだった。やはり向こうも怖かったのである。
もう一度、戻ってみようか…。
女はまだ倒れているだろう。もし死んでいたとしても、今なら犯しても
平気かもしれない…。ふと、そんな悪魔的な衝動が頭をかすめた。
だが、結局それも出来なかった…、というのが正直な告白である。
今思えばあれは殺されたのではなく、凌辱された瞬間の悲鳴だった。
少女が危害を加えられたことに変わりはないが、生命に別条はなかったと思う。
女は哀れだったが、明日は自分が死ぬかも知れないという極限状態に
追い詰められて、あの男が最後に求めたのは、もう一度温かい女の肉を
むさぼっておきたいという本能だけだったのではないだろうか。
こうした人間のマイナスの部分は、歴史には絶対に書き留められることはない。
誰に訴えることもできず、償われることもなく、闇の中に埋没していった
悲惨な体験はまだまだ無数にあったろうと思う…。
二、SMショーの夫婦
ボクシングの白井義男選手が初の世界チャンピオンになって、日本中が
沸いていた頃の話である。
小林洋二という、ボクサー上がりのさわやかな青年がいた。選手としては
全くの無名だったが、引退した後の彼の経歴こそ、いわば天職といっても良かった。
当時26才だったと思うが、奥さんが18才で(正式に結婚していた)まだあどけない
感じの少女である。半年ほど前から夫婦でシロクロの役者を始めたのだが、
みるみるうちに腕を上げて、浅草界隈でも指折りの人気スターになっていた。
その頃の日本人としては珍しい筋肉質で、ブルース・リーばりの均整の
取れた体に美少女が絡んで展開するセックスショーは、ただハメて見せるだけの
見世物だったシロクロの世界では、飛び抜けた一級品である。
天性のバネとリズムを持っていたし、彼女の肢態もしなやかで美事だった。
その上ストーリーにも工夫を凝らして、彼らの演技は次第にレイプショーの
色彩を帯びるようになっていった。
世間ではようやく日劇の額縁ショーが、女が裸になると騒がれていた時代で、
言い換えればこの二人こそ、日本で初めてナマのSMを舞台で演じた
タレントだったのである。
おぼろな記憶だが辿ってみると、初めに男が半裸の少女を担いで登場する。
逃げ惑う女を捕らえて裸に剥き、変態的なポーズで犯しまくるといった
ストーリーで、一種のアクロバットのような雰囲気があった。
女が弓なりに曲げた脚の間から顔を出して正面に秘所を晒す。少女は
陰毛をツルツルに剃っていたので、可愛い花弁のような陰唇がはっきりと見えた。
その上に覆い被さって挿入する態位は、その後のどんな写真にも現れなかった
特技である。
ハメた後の動きも抜群で、ボクサー特有のリズムというか、よくあれで
イカないものだと感心するくらいに激しく抜き差しするのだが、射精しそうななる瞬間
パッと抜いて次の態位に移る。アクロバチックにねじ曲げられた少女の肉体を、
可哀相になるほど残酷に犯す情景は圧巻であった。
彼等のことが忘れられないもう一つの理由は、私生活での二人の仲のよさである。
バラックのようなアパートの四帖半に住んでいたが、彼はまるで宝物のように
奥さんを猫可愛がりにしていた。彼女のほうも、戦後の女には珍しく献身的に
旦那に仕えている。
この部屋に遊びにいって、私は二人から話を聞いたことがある。
「俺、本当は弱いんですよ。普通にやったら5分も持たないですから…。
あれはこいつが自然にやりはじめたんで、考えたって出来るこっちゃないですよ。
でもこいつが可哀相だから、早く金を貯めて店でも持ちたいと思うんだけど…」
「私は良いんです。お客さんに喜んでもらえれば、こっちも張り合いが
ありますから…」
二人は顔を見合わせて笑った。明日はまた予約が三軒入っていると言う。
貧しいが人間の愛とはこんなものかと考えさせられるほど、ほのぼのと
温かいカップルであった。
三、日本一のポン引き
浅草といえば、もう一人忘れることのできない大先輩がいる。
吉村平吉氏…。早稲田大学卒業、その頃すでに何冊かの詩集や随筆を
出版していたが、それだけで食える筈もなく、雑業をなりわいとして浅草の
底辺に住み、気ままな生活を送っているという。知る人ぞ知る、平さんの愛称で
当時浅草で日本一のポン引きと呼ばれた人物である。
私が知己を得たのは、かれこれ30年以上も前のことだ。ブロマイドで有名な
マルベル堂の近くの喫茶店に現れた平さんは、お釜帽にヨレヨレの作業服を着て、
何の変哲もないフツーのおじさんであった。
この人が…、と若かった私はいささか緊張もしたが、平さんは年の差など
一向にお構いなしに気さくな話を聞かせてくれた。
永井荷風をはじめとして浅草を愛した文人の数は多いが、それらはみな
文士と言う肩書きを持った上でのことで、平さんのように、根っからの土着の
浅草人種だったわけではない。それだけに、話には溜め息が出るような
ナマの人間の匂いがあった。
アル中の父親を養うため売春婦として働いていた娘が、脳梗塞で倒れた
親父にもう一度女を味わせてやりたいと言って、裸で添い寝していた話。
勃起することができない60センチの巨大男根を持った黒人兵の話。
道具が通常膝の下まで垂れていてまさに無用の長物なのだが、同情した
日本人のストリッパーと結婚して、故郷のアラバマ州に帰ることになった。
夫婦でナイトクラブのショーに出るのだと言う。
68才の老売春婦と13才の幼い娼婦の話。
当時、二人とも現役で立派に客を取っていたというから、女のセックス年令は
ゆうに半世紀を超える。穴と竿では基本的に耐用年数が違うんでしよう、
と平さんは笑っていた。
そのころ、爆発的に急成長していたテレビのディレクターやタレントと称する
俄か造りの芸能人たちは、つてを求めてよく平さんのお世話になったものだ。
だが平さんは、決してこうした連中を快く思っていたわけではなかった。
いっぱしの文化人面をしていても、裏の顔は汚いもんですよ…、
と平さんは軽蔑しているようであった。このあたりの内情を実名で暴露されたら、
戦後第一期の好景気に沸いたテレビ界や文壇の凄まじい相姦図が
描かれていたに相違ない。だが平さんは絶対にそれを口外することはなかった。
いま、当時の浅草を知る人はほとんどいない。
数年前、思いがけなくあるテレビ局のワイドショーが吉村平吉氏の訃報を
伝えていた。
ディレクターが何故テレビに出したのかわからないが、そのとき彼に与えられた
肩書きは、浅草を愛した最後の放浪詩人…。
平さんは、やはり日本一のポン引きであった。