「SM」の語源





    一、「SM」の語源

 私が『芸苑社』という名前で変態クラブを始めたのは、昭和20年代の

後半である。

 そのころ、SMという言葉はまだ使われていなかった。

 当時アブノーマル専門誌として人気があった「奇譚クラブ」でも、投稿者の

ペンネームは佐土麻造だの佐次浩介だの、魔像保といった名前がやたらと

目につく。丸木砂土などという人もいて、つまり、SMはあくまでサド・マゾだった

のである。

 このテの雑誌にアブノーマルな体験を書くと必ずと言って良いほど

読者からの反響があった。最近のように情報が氾濫しているわけではないから、

マニヤたちは同志を求めてあちこちに小さなグループをつくろうとする。

 そのなかの一つが芸苑社だった。メンバーは男が大半で、女はたった一人、

名前は見城啓子といった。マゾというより、街でひろって半分強制的に

同棲していた女である。

「おいお前、明日この男のところに行って抱かれてこい」

「ええっ」

 初めてのとき、啓子はたちまち不安そうな顔になった。

「私のこと、倦きたんですか…?」

「そうじゃねえ、女を抱かせなくちゃ会員がもたねえんだ」

「嫌よ。私あなたと…」

「ヤッてきたら可愛がってやるよ。黙って言うとうりにしろ!」

 どうせ、弄んだあとの女だ…。それが金になるというのであれば

一石二鳥である。

 だがこんなやり方がうまく行く筈もなかった。

啓子は三度目にはもうアパートから逃げ出してしまった。 とにかく、大至急

女を確保しなければならない。これが最初にぶつかった問題である。

 どうしたら効率良く女を集めることができるか、思いついたのが新聞に

女性募集の広告を出すことであった。

 だが当時は変態クラブの広告などどこにも載っていない。そのころはまだ

赤線が真っ盛りで、他にセックス産業と呼べるものがなかったのである。

 ただひとつ「毎夕新聞」というエロ専門の夕刊紙があって、広告が載りそう

なのはここだけであった。経済的にも余裕がないので、文面には

いろいろと工夫をこらした。

 奇譚クラブでさえ『耽美なるアブの世界』などと表現していた頃で、

「アブノーマル」や「マゾ・サド」では長すぎるし「変態」は露骨すぎて使えない。

結局、頭文字をとってMSとすることにした。


      MS倶楽部会員モデル募集    芸苑社


 こうして、わずか2行の広告が毎夕新聞に掲載されることになった。

 日本で、はじめてのSMクラブの誕生である。

 実際に載ってみると、MSでは何となく文字のすわりが悪いので、

1ケ月くらい経ってからSMに変えた。

あるいは同時発生的にあちこちで使われるようになったのかもしれないが、

 今では何の不思議もなく使われるようになったSMという言葉が、

活字としてマスコミに登場したのはこれが最初である。



    二、TELSEXの源流


 SMクラブの第一号は芸苑社だが、もうひとつ私が手がけたアイデアで、

その後も一種の社会現象になった性風俗がある。

 いわゆる、テレホンセックス…。

 名前を『湯川いづみグループ』といった。

 ああ、あれかと思い出された古いファンも多いと思う。

 テレホンセックスの原型は、耳から吹き込む卑猥な言葉で、女を催眠術のように

あやつる新しいテクニックである。

「あのゥ、私、働きたいんですけど…」

 深夜、電話のベルが鳴る。受話器を取ると応募らしい女の声が聞こえた。

「それじゃ変態はやったことあるのか」

「少しだけなら…」

 事情を聞くと、交際っていた男に縛られたり、身体に小便をかけられたり

したことがあるのだと言う。

「縛られると感じるのかよ」

「えゝ、まあ」

「初めて犯られたのはいつだ」

「18才のとき…」

「イクことを覚えたのは?」

「忘れたけど、少しあとです」

 電話の向こうで、ときどき声にならない微かな息づかいが聞こえた。

女が発情している証拠である。

「ちょっと、おまんこ出してみな」

「エッ、今ここで…、ですか?」

「あたり前だ。お前、変態なんだろ」

 少し時間をおいて、女は返事の代わりに、すすりあげるようなタメ息を吐いた。

「触ってみろ、濡れてるだろう」

「あッ、ふゥん…」

 突然、声の調子が変わった。あとは、もうこちらの言うなりである。

「ああもうッ、指がベタベタになって…」

「いいから二本突っ込んでみろ」

「うぇぇッ」

「ほら、もっと快感を上げろ!」

「ウムッ、ウムッ」

 ヤリ狂う女の声だけが、不思議にリアルな迫力で伝わってくる。

顔の見えない電話という防波堤があると、女は意外に大胆な本音を

さらけ出すものだ。

「あ、ああッ、いく…ッ」

「指を止めるんじゃねえっ」

「クゥッ、あいくゥ…ッ」

 微妙なタイミングと、熟練した技術が必要だが、いわば、サドとかマゾといった

変態の領域を超えた、新しい淫欲の世界である。

 初期のテレホンセックスは、現在のテレクラとはまったく構造が違っていた。

 こうして集まった女たちは、すべて真性の電話マニヤだった。オナニー過剰で、

体重が38キロから増えなかった中村公子、8時間連続いき続けて失神した

夏目洋子など…。

 そのトップが、湯川いづみである。



    三、湯川いづみの素顔


 日本で最初のテレホンセックス、湯川いづみグループがデビューしたのは、

昭和52年の夏のことであった。

 当初、広告の文面にはセックスという用語が使えなかった。仕方なく

タイトルは「テレホンデート」にしたのだが、週刊誌に小さな広告が掲載されると、

もの凄い勢いで日本中から電話が殺到した。

 スタジオは高円寺の近くにあるマンションを借りていたが、まさかこれほどの

反響があるとは思わないから、電話は1本しか引いていない。あわてて増設

すると今度は電話局のほうがパンクしてしまった。嘘のような本当の話である。

 部屋にはベッドをひとつ置いて、素っ裸のまま電話を取らせる。運良く

つながった相手には、最低2回はイクときの声を聞かせなければならない。

制限時間は10分、受話器を置くと間髪を入れず次のベルが鳴った。

 三・四人相手が変わると、たいていの女はフラフラになってしまう。

「何やってるんだ。早く電話に出ろ」

「ま、待ってください」

「バカ野郎、後がつかえてるんだよ!」

 強引に受話器を持たせておいて、拡げた割れ目に大人のオモチャを

突っ込む。

「アアゥッ」

 反射的にのけ反るのを押さえつけて、ふいごを吹くように抜き挿しすると、

女は受話器を握ったまま白眼を剥いた。

「ヒィィ…、いくゥ」

 身体が言うことをきかなくなると、グニャグニャになった腰を抱えて、

容赦なく実物を入れた。喘ぎながら夢中で電話にしがみつく女の表情は、

まさに性欲の拷問である。

 24時間ぶっ通し、女は2時間で交代するのだが、ひとりでも欠席すると

穴うめで負担は倍になった。こちらも疲れ果てたが、こんな淫虐地獄が

三ケ月以上も続いた。

 新しく専用のスタジオを借りて電話の数も増え、ようやく落ち着きを取り戻すと、

今度はマスコミの取材攻勢が始まった。

 面白いことに、このシステムに最初に気がついたのは女性週刊誌である。

続いてエロマンガや風俗雑誌がとびつき、遅ればせながら男性週刊誌が、

そして最後にテレビ局が一斉に取材にやってきた。

 イレブンPM、女の60分、ミッドナイトショー、金曜スペシャルといった当時の

特集番組が、次々にテレホンセックスの現場を放映する。ネグリジェを着て、

ベッドで股間をまさぐりながら喘ぎ続ける女たちの肢体は、当時の風俗としては

たしかに新鮮な驚きであった。

 そして、これまで絶対に顔を見せることがなかった湯川いづみが

インタビューを受けることになったのは、昭和55年1月である。

 番組はイレブンPM、キャスターは藤本義一氏だったが、その時の紹介の言葉…。

「何しろ、まだ誰も会ったことがない。湯川いづみさんには今日初めて

ヴェールを脱いでいただくわけで…」

 だが、あのとき出演したのは一条ユリ、つまり身代わりであった。

 実を言うと、湯川いづみの正体は現在でもまだ誰も知らない。名前を言えば

アッと驚く有名な女優なのだが…。

 時の流れとは恐ろしいもので、テレホンセックスも今は見るかげもない。

いつの間にかヤラセありサクラありのナンパシステムに変わってしまった。

 さらにダイヤルQが始まると業者が乱立して、結局自分で首を締める結果に

なったのも自業自得であろう。




<完>