仮面の痴欲




一、 淫らな手


来た…!

一瞬、八千代は身を縮めて身体中の筋肉を硬直させた。

中央線、三鷹から新宿までの朝の快速電車である。

何故…? どうして…? 私なんかを…!

頭の中が痺れたようになって、振り向くことが出来ない。

それが若い男であることは判っているのだが、それだけに

いっそう自由が利かないのだった。

ただの痴漢と言ってしまえばそれまでのことだが、八千代は

今年六十一才である。第一もう痴漢に狙われる年令ではなかった。

それが、ここ一週間ばかりの間に三回、触ってくるのはたしかに

同じ男なのである。

はじめは、若いOLと間違えられているのかと思った。

声を上げて婆さんだと思われるのが恥ずかしくて黙って

いたのだったが、服装や髪型から見ても年を間違える筈はない。

えッ、どうして…?

この人は、こちらの年令を承知で仕掛けてくるのだと

気がついたとたん、背筋にゾッと異様な戦慄が走った。

だがそれは決してただの嫌悪感だけではなかったのである。

八千代が夫に死別したのは四十五才のときだが、夫とのセックスは

三十代の半ばで終っていた。結婚して間もなくイクことも知ったし、

子供は出来なかったが人並みな性生活だったと思う。

夫が病弱でセックスから遠ざかってからも、時折さびしくて

刺激が欲しいと思うこともあったが、まぁこんなものかと諦めていた。

そのまま何時の間にか六十の坂を越えていたというのが現実である。

女の情念とか、性欲と言った感覚からは程遠い日常だったが、

いわば至極平凡で無気力な半生だったのかも知れない。

それが、あの日突然痴漢に遭遇したときのときめきはいったい

何だったのか、それから二度、今日で三度目である。

男の手が、後ろから太腿の内側と尻の肉をまさぐっていた。

女が拒否反応を示さないので、動きはかなり大胆になっているようだ。

混雑はすし詰めと言うほどでもないが、強引に身体を圧しつけてくる。

首筋の後ろを生暖かい男の息が舐めるように這うのを感じて、

八千代は立っている膝頭の力が抜けるような気がした。

「オバさん、オバさん…、ねぇ頼むよ」

耳元で、かすれたような男の声。ギョッとして息を呑む隙もなかった。

通勤用の手提げバックを持った手を掴まれ、グイと下に引かれる。

「オレ好きなんだ、オバさんが…」

指先が、明らかにそれと判る膨張した肉の塊に触れたとき、

八千代は短く小刻みに息を引いた。それが身体の震えになって

そのまま男に伝わる。

「あ、ありがとう、すいません」

電車の揺れに合わせて、男がグリグリと下半身を寄せる。

とたんにビクンと全体が脈を打ったように感じて、八千代は

無意識にその肉塊を掴んだ。

「オ、オバさん…」

そのとき、電車が急にスピードを落としはじめた。

新宿のひとつ手前の停車駅、中野である。

「ア……ッ」

男が引き止める隙はなかった。ドアが開くと同時に夢中で

電車の外に出て、八千代は後をも見ずにホームを走った。

ほんの数秒だが八千代にとっては反射的に取った必死の行動である。

男が追いかけて来る様子もなく、電車はそのまま発車してしまった。

だが八千代が本当に悩み悶えはじめたのはそれからである。

あの人は、あのまま目的地まで行ったのだろうか…?

ズボンから出していたものを誰にも気づかれずに仕舞えただろうか…?

きっと、怒っているに違いない…

だからもう、あの人は私のところには来ないだろう…

奇妙な妄想が、次から次へと浮かんでは消える。

それ以上に意外だったのは、それまで考えたこともなかった

セックスの衝動が突き上げて来るようになったことだ。

一瞬握らされたグリグリした肉の感触が忘れられない。

二十年も前に忘れていた夫の感覚とは別のナマナマしさであった。

久しぶりで、八千代は悶々と独り寝のベッドで寝返りを打った。

知らぬ間に、手がパジャマの紐をくぐってパンティの横から両脚の

合わせ目をさぐる。

濡れている…!

ネットリとした分泌に触れて、八千代は思わずギュゥッと股の筋肉を絞めた。



二、恍惚の噴流


あのときの痴漢は、不思議にパッタリと現れなくなった。八千代の取った

態度で脈がないと諦めたのか、他の若い娘に乗り換えてしまったのか、

それから一週間、同じ電車に乗っても何事も起らなかった。

仕事場は御茶ノ水にある商事会社の経理事務員だが、年令が年令だけに

いつ辞めても可笑しくはない。

長年勤めた会社だから経理として裏の事情にも通じていて、

会社のほうで辞めさせてくれないだけなのである。

一日の仕事を終って三鷹のマンションに戻ると、八千代はほっと溜息をついて、

鏡の前で無造作に上着を脱いだ。

このマンションも、数年前自分で手に入れたもので、保険も年金も満期に

近づいているし、老後の心配はない境涯になってはいるのだが、振り返って

みれば何の感動もときめきもなく過ぎてしまった一生である。

女として、恋の噂ひとつなく還暦を迎えてしまったことが果たして

幸せだったのだろうか、八千代はふと涙ぐみたいような気持ちになった。

まだそんなに垂れて萎んではいないわ…

上着を脱ぎ、ブラジャーを外すと、八千代は鏡の前に立って自分で乳房を

持ち上げてみた。誰も入ってくる気遣いのない女独りのマンションである。

肌は白いほうだ。首筋から肩にかけて、流石に隠しようのない年令が

刻まれていたが、乳房の形はそれほど衰えているとは思えなかった。

それでも三十代の脂ぎっていた頃の肌と比べたら、肉体の老いは

確実に進行しているのであろう。

あの人は、この身体を女として認めてくれた…

「好きなんだよ、オバさん」

と耳元に吹き込まれた声が蘇ってくる。

すると不思議に、八千代は胸を締め付けられるような切ない気分に

なるのだった。

もう一度あの人に逢ってみたい…

自分でも理解できない気持ちがつのってくるのを、どうすることも出来ない。

恋と呼ぶにはあまりにも性欲的で獣じみた欲望であろう。

三十代、四十代の中年期にはそれほど悩まされなかった性欲が、

初老の今になって執り憑かれたように盛んになるとは、いったい

何故だろう。もうひとつ溜息をついて、八千代は着ているものを

手早く脱ぎ捨てた。

下半身は見たくなかった。腰の幅や陰毛の広がり具合、腹の肉の弛み

など、娘時代とは明らかに異なった体型になっている。鏡の前を離れて、

八千代はすぐ横にあるバスルームのドアを開けた。

普通より長くて浅い洋式のバスタブに、シャワーがついた明るい

オーダーメイドの浴室は、如何にも独身女性の住まいといった設計である。

のびのびと脚を伸ばすと、八千代は手元にあるシャワーのコックを

一杯に開けた。激しい水流が、いっぺんに天井近くまで噴き上がる。

それを調節して、噴流が乳首の真上に当たるように持ちかえると、

ウットリと八千代は目を閉じた。一種の按摩効果があるのか、

やがて快い刺激が全身に広がる。

八千代は少しずつシャワーの向きを変えて、腋から首、臍の周り、

太腿へと移動させていった。しばらくして、やはりこれしかないと

心を決めたようにシャワーを全開にする。

再び激しい水流がY字型の中央に向かって噴き出して、陰毛に当たって

無数の泡飛沫を上げた。ゆっくりと脚を広げて、Yの字からWの字を作る。

眉を寄せ、唇を歪めて、腰を少し浮かすと、八千代はシャワーの噴出し口を

開いた粘膜の中心に当てた。

「ウ、ウゥ…」

微かな呻き声が唇の端から漏れた。腹筋が痙攣するのか、ヒク、ヒク、と

バスタブの中で全身が撥ねる。

「ウゥム、クックッ」

指を使ってクリトリスを刺激するオナニーの方法を八千代はやったことが

なかった。

自分で自分の性器を弄ぶことには昔から何故か罪悪感があった。

シャワーを使うやり方は、最近になって工夫した、というより、どうすることも

出来なくて、たまたま実行して病みつきになったオナニーの方法である。

バイブレーターの経験もないが、快感はこの方がはるかに強い。

機械的な刺激ではなく、柔らかい泉のような自然の感覚が際限もなく

湧きあがってくる。何十回となく絶頂を迎えたあげく、最後には魂が抜けた

ような状態になるが、その疲労と言うか、何もかも無くなってしまった

ような虚脱感が八千代を虜にしていた。

「ウグッ、クゥゥ…ッ」

八千代は、五回目の絶頂を迎えた。



三、遅過ぎた目覚め


その日、シャワーの快感に身を任せて、八千代は這うようにベッドに

戻った。止めようと思っても、身体の芯から搾り出されるように快感が

溢れ出る。

シャワーが手から落ちても気がつかなくなるくらいイキ続けてようやく

収まるのだった。明日は休みだから良いが、もう何もしたくない。

夢も見ないで寝てしまうことが出来るだろう。ベッドにうつ伏せになって、

意識が朦朧となりかけた時であった。枕もとにある電話のベルが

けたたましく鳴った。

「ハイ、モシモゥシ…」

八千代が腕を伸ばして、半分寝ぼけたようなバァさん声で電話口に言った。

「どなたァ」

「オ、オバさん、…だよね」

一瞬、何が起ったのか良く判らなかった。咽喉が引き攣って次の言葉が

出てこないのである。

「オバさん、ゴメン。ストーカーみたいなことして、勘弁して下さい」

「あ、あ、あんた…」

「オバさんの跡つけて、ここが判った。電話はNTTで調べた。今、下にいるんだ」

「………」

「頼みます、中に入れて下さい。オレ、本当にオバさんが好きなんだ。

嘘じゃないです」

「………」

「行っても良い?ねぇ、お願いします」

ガチャン!皆まで聞かずに八千代は電話を切った。心臓が痛いくらいに

動悸を打っている。

もちろんドアを開ける気はなかった。だがそれと正反対の気持が

心のどこかで暴れまわっていた。

あの人が来た、本当に来た!

出来れば冷静に迎えてこんなことをしては駄目だと意見くらいは

してやりたかったが、それは年上の女の幻想である。

八千代は、こんなとき腰が抜けるほどオナニーしてしまったことを

後悔した。しかもまだ全裸である。

ピンポーンピンポーン

そのとき玄関のチャイムが続けて2回鳴った。

しばらく間をおいてまた2回、またしばらく間をおいて…。

放っておけば一晩中鳴り続けているだろう。八千代は棒立ちになった。

そうかと言って警察を呼ぶ勇気はなかった。

「オレ、本当にオバさんが好きなんだ」

という電話の声を、八千代は無理やり

自分自身に受け入れていた。好きだと言われたときの女の弱さ、生理的な

陶酔は八千代にとって初めての経験である。服を着る余裕がないので、

とりあえず全裸にガウンを羽織ると、八千代は何かに操られるように

震える手でドアの鍵を外した。

「オバさん…」

立っていたのは、まだ少年といったほうが良い。高校を出たばかりの

十代である。

「あっ、有難うございます」

身体を内側に入れると、少年は後ろ手にドアに鍵を掛けながらペコリと

頭を下げた。その奇妙に物慣れた動作と礼儀正しい態度がかえって

無気味だった。

「な、何をしに来たの。あ、あなた…」

「お願いします。オレ、絶対に悪いことはしません。だ、だから…」

「ど、どうするつもりなんですか、私なんかを…」

「いや別に…、ただオレ、オバさんくらいの年の女の人が好きで、

た、たまらないんだ」

気圧されて、よろめくように後ずさりする八千代の二の腕を、少年が

意外に強い力で掴んだ。

「お、お願いします、オバさんが好きなんです。か、可愛がって下さい」

「ヒッ、ヒェェ…ェッ」

自然に咽喉が鳴った。夢中で振りほどいて後向きに逃げる。

だが逃げられる先は当然のことだがベッドルームである。

両手で防ごうとしたところを少年の体当たりを食らって、八千代は

思いきりズシンとベッドに尻餅をついた。

慌ててガウンの前を合わせようとしたが、少年の動作のほうが遥かに

機敏だった。ガツンと重い衝撃が来て、八千代が股を広げたまま仰け反る。

その上に覆い被さるように、少年の顔が露出した腹部に密着して

頬ずりしていた。

「オバさんッ、嬉しいよ、嬉しいよゥ」

「アッアッ、フゥゥ…ッ」

両手で少年の頭を抱えて、八千代は思いきり脚を広げた。

犯されているのか、受け入れているのかの区別さえ定かではなかった。

やがて下腹部にこすり付けるようなかたちで陰毛を越え、少年の舌が

萎縮している筈のクリトリスに触れたとき、八千代の快感が地雷を

踏んだように爆発した。





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