この日の顛末を聞き終ったとき、和気野清麿は、遂にひとことも言わなかった。

 はじめから予期していたようにも見えたし、反対に、深い敗北感に閉じ込められている

ようにも思えた。たゞ、苦悩の色だけが相変らず濃くにじんでいる。

 このへんの感覚が、田丸五郎にはどうも理解出来ないのだった。

 あるいは、清麿が闘っていたのは、弘法大師とか佐伯有頼といった特定のものに対して

ではなくて、彼らによってもたらされ、日本の風土に拡散し浸透していった膨大な精神的

部分…、宗教という巨大な怪物に対してではなかったのだろうか。だがそれは、生命の

名に於いて無限であり、過去に生まれ未来に死んでゆく人々の数とともに、文字通り五十六億

七千万年続いても尽きることがないのだ。

 立山の事件は、清麿の眼から見れば、微塵と降りつもる風雪のなかで、たまたま起った

雪崩れのようなものであったのかも知れない・・・。

 あれから、すでにニケ月が経過していた。

 いくつかの事件もあったが、あの夜のことは、どうしても頭から抜けなかった。一瞬に

散ってしまった浩市郎や真理子が、可哀想でならない。田丸五郎は、この間じゅう、ずっと

考え続けていた。

 あの事件で、いったい俺は何の役割りを果たしたのだろう・・・?

 電話の時点では、大関良祐は、たしかに捜査の眼を外部に向けさせるためのおとりに

使おうとしたのだ。清麿の弘法大師犯人説のために、目論見は完全な失敗に終わった。だが、

どうにも後味の悪い結末である。

 何か、もっと大きなものに利用されていたような気がする・・・。

 弘法大師は一千年も前に、すべてを計算しつくしていたというが、俺もその計算の中に

入っていた一人ではないのか。自分では第三者のつもりたったが、あの事件に触れたこと

自体が、達い過去からの宿縁だったのではないだろうか…。

 そしてまた、三ケ月あまりが過ぎた。暦はいつか十一月も半ば近くになっている。

 さゆりが、期末試験の準備がおくれているとかで、その日は珍しく事務所を休んだ。

夕方近くなって、誰もいない神田の事務所に戻ると、田丸五郎は、郵便受けの箱に、一通の

葉書が投げ込まれているのを見つけた。とり出してみると、やゝ細めの美しい文字で、

文面は至極簡単なものであった。

   『お礼を申しあげることもできず、何もかもおくれてしまいましたことをお許し下さい。

   明日から三日間、都合でホテルに参ります。間に合えばと思い、急ぎしたゝめました。

   たゞこれのみにて失礼いたします。

                                    かしこ』

 名前はなく、消印は奈良であった。が、これで十分である。

 あれきり不本意な別れになってしまったのだが、真智子は退院して、大関良祐のもとに

いたのだ。監視というより監禁にちかい状態だったのだろう。それが本人でなければならない

何かの用件で立山に行く。葉書が、奈良を発つ直前に投函されたものであることは明かであった。

 日付けでは、今日が二日目にあたる。すぐ飛び出しても、夜行になって室堂に着くのは

どうしても明日の昼ころであった。

 よし、賭けてみよう…!

 田丸五郎は、葉書をポケットに入れると、そのまゝ肌寒い風の吹くおもての道に出た。

 乗り物が変わるたびに、時間は容赦なく消えていった。

 ようやく黒部湖に着き、渇水期で放水をやめ静まりかえったダムの堰堤をわたった。

仰げば、雄峰はすでに眼前である。もどかしい気持が、一層つのった。

 雲の動きが早く、このあたりでも時折ガスが巻いて、そのたびに、冷たいみぞれのような

ものが頬を刺した。アルベンルートが閉じる日も近いのである。

 バスが室堂に入ったのは、この前と同じ十一時三○分前後たった。すぐフロントで聞くと、

真智子は三〇分ばかり前にチェックアウトしたかりだという。田丸五郎は、唇を噛んだ。

 このまゝ富山方面に追っても、真智子は一定の間隔をおいて、アルペンルートという

べルトコンペアの上を達ざかって行くだけであろう。それは、事件そのものが、田丸五郎の

領域から消え去ってゆくことであった。

 「あの・・・」

 そのとき、フロントのとなりで伝票を整理していた女事務員が、ふと顔を上げた。

 「そのお客様でしたら、さきほどラウンジのほうにお入りになりましたけど、もしかしたら、

まだいらっしやるかも…」

 「そうか、有難う!」

 すぐにフロントをはなれ、祈るような気持でラウンジのドアを押す。

 ずっと奥の、ちょうど真理子と話をしたことのある隅の席に、うつむいた女の硬い横顔が

あった。

 「真智子さん・・・!」

 近寄って声をかけると、真智子は、不思議そうに顔を上げた。

 「先生・・・」

 「いや、あわてましたよ。でも間に合って良かった」

 「申しわけございません。急に決まったものですから・・・」

 「あの時の怪我は?」

 「おかげさまで、もう大丈夫です」

 「そうか、安心しました」

 田丸五郎は、向かい合って腰をおろした。

 小型のスーツケースがひとつ、その上に黒のコートか乗っている。真智子は出発ぎりぎり

まで、こゝで侍つつもりたったのだろう。

  「・・・・・・・・・」

 何となく胸がつまって、しばらく言葉が出てこないのである。田丸五郎は、だまって

真智子を見つめていた。

 裾の長いグリーンの絹のドレスに、ボレロ風の上着、胸もとから大胆な縞模様が斜めに

流れている。ブローチは真珠だったが、指にあの晩のものとは違う重厚なダイヤのリングが

輝いていた。

 まぶたがくっきりと彩られて、思いがけなく鮮かな化粧である。六ケ月たらずの間に、

真智子は確かにある変貌を遂げているようであった。

 チラリと、真智子が左手の時計に視線を落とした。

 「時間がないのですか?」

 「はい、もうそろそろ…」

 「構いません。これから富山にでも奈良にでもご一緒しますから」

 真智子は、首を振った。

 「こゝで、お別れさせて下さい」

 「どうして・・・!」

 「先生には、最後に一言だけお話しておきたかったのです。それだけで、私・・・」

 「最後だなんて、そんなことは・・・」

 「いゝえ」

 真智子はもう一度首を振った。そして、また少し間をおいてから言った。

 「わたくし、結婚します」

 「本当ですか!」

 「はい」

 「誰と?」

 「倉田、と申しますが…」

 「倉田・・・? 富蔵ですか?」

 「はい」

 身体中から、潮が引いて行くようなひと一瞬であった。

 「それは、大関良祐の…?」

 「いゝえ、わたくしの意志です」

 真智子は、すべてを決めている・・・。というより、一切の準備はもう出来上がっている

のであろう。無理に笑おうとしたが、口もとが引き吊っただけであった。

 「富蔵は、いま、どうしています?」

 「やはり起訴されました。でも、それほど重い判決にはならないと思います」

 死体遺棄、証拠隠滅、偽証・・・。殺人の共犯者でない以上、みな付随的な罪名である。

 田丸五郎は、心の中にザックリと大きな割れ目が出来たような気がした。

 「さっき、最後に僕に言っておきたいことと仰言ったのは、何です?」

 「先生、先生はあの晩わたくしに、虚空蔵求聞持法は破れたのだと仰言いましたね」

 「言ったかも知れません」

 「それを、訂正していたゞきたかったのです」

 「それだけを・・・?」

 「はい」

 突然、清麿の顔が浮かんだ。

 真智子はまた左手の時計を見た。そして、スーツケースを引き寄せながら言った。

 「これで、二度とお眼にかゝることは出来ないと思います。本当に、有難うございました。

先生と芦倉の道を御一緒したときのことは、忘れませんわ」

 「真智子さん、待ってドさい!」

 「失礼いたします」

 立ち上がると、真智子は深く頭を下げた。何を言って良いのかわからなかった。田丸五郎は、

たゞ呆然としていた。

 背を向けて、カウンターのほうに去って行く真智子の後姿に眼をうつしたとき、田丸五郎は、

眼の前に突然濃い霧がかゝったような気がした。

 女の右肩が、歩くたびわずかに傾くのである。

 真智子なのか、それとも、あれは真理子なのか…!

 あっと思う間もなく、後姿はレジの向こう側に消えてしまった。田丸五郎は、しかし

立ち上がることが出来なかった。

 あの夜の負傷は、たしかに重症の右足骨折であったことは事実である。だがそれは人間

の眼にそう見えただけのことで、あの瞬間、まさしく空海の魔術は現じられたのではない

だろうか・・・。生命の次元に起こる、玄妙な宿縁の不思議と言っても良い。

 それから二〇分くらい経って、田丸五郎はようやくラウンジを出た。

 半年の間に、立山の様相も一変していた。

 あの頃はまだ残雪も多く、色とりどりの高山植物が可憐だった。いま室堂の台地に立って

みると、眼の下の弥陀が原は、一望に燃えあがるほどの紅葉である。見わたすかぎり、

全山に錦の衣を着て、壮麗な大自然の最終楽章をうたいあげているようであった。

 だが、それも間もなくであろう。眼をかえすと、立山の山頂は雲足も早く、すでに陰欝な

冬の訪れを告げていた。吹いてくる風は、雪を含んでぞっとするほど冷たい。

 虚空蔵求聞持法は、やはり、破れたのではなかった・・・。

 真智子が富蔵と結婚して、第二の浩市郎を産めば、血脈は厳として存続するのだ。富蔵

によって地獄谷に投げ込まれた仮名乞児は、結局ただの人形に逆戻りすることになる。

 ガスが吹き上げてきて、たちまち陽の光を失った室堂の台地に、田丸五郎は寒さを忘れて

ただずんでいた。もう、真智子を追う気持はなかった。

 「あなたは、おそろしい方だわ」

 芦倉を車で走ったとき、真智子は、同じことを三回も言ったのである。本当は、和気野清麿に

こそ与えられるべき言葉だった。

 そうか、そうだったのか…。

 田丸五郎は、そのときはじめて事件の究極に触れたような気がしたのだった。

 二十六年前に、滝子の手によって傷つけられた真理子の脚は、そのまゝ母親の意志であった。

すくなくとも、真智子にはそう思えたであろう。

 母は、真理子をこそ殺そうとしたのに…。

 ごく単純な結論である。だがそれは、父興平に阻まれ、十五年にわたる幼い姉妹の地獄の

葛藤がはじまる。そして祖母てうが意外にも姉の真理子を血脈の継承者と定め、高野山が

それを承認したとき、真智子は、魂の底から復讐の妖鬼と化したことであろう。

 母を殺し、今日までの苛酷な運命の因をつくった興平、滝子の意志を知りながら、あえて

姉の真理子に血脈を継がせようとしたてう、安逸の中で快楽をむさぼろうとする敬至郎…。

真智子には、そのだれもが生きていることを許せなかった。

 計画は、浩市郎がうまれると、一〇年かゝって練りあげられたのであろう。真智子は、

少年を生きている凶器として使おうとしたのだ。浩市郎が、それにふさわしい年齢に成長するまで、

ひたすらに耐えた。

 だがどうやって、浩市郎の動きをそこまで仕組むことが出来たのだろう。

 あの、車の中だ・・・!

 通学の送り迎えの途上で、真智子は慎重に、周到に、当の浩市郎も気付かない注意深さで、

少しづつ計画を植え付けていったのに違いない…。

 祭壇の下の石室に興平をおびき入れ、てうの手で梯子をはずさせることは、ごく自然の

成行きだったろう。怨念に狂った老婆の醜い姿を見せつけておいて、これに制裁を加える

ことを指示する。浩市郎には、むしろ正義感さえあったのではないだろうか。

 敬至郎を誘惑することは、もっと簡単であった。姉さえいなくなれば、結婚して自由に

なると言ったかどうか、蛭牙公子になりたくないという恐怖もあったのだろう。俗物は、

富蔵の留守を狙って真理子をおそった。それを見すまして、浩市郎を放つ…。後頭部を乱

打したあとで、少年は母を守ることの出来た誇りに胸を張ったことであろう。

 仮説ではあったが、すべてが、おそるべき必然性を持った想定である。

 ところが、綿密に描かれた絵曼荼羅のような殺人計画にも、ただ一個所どうにもならない

難関があったように思う。

 真理子を、自殺させることであった。

 どれほど巧妙な手段を用いようと、真理子が被害者となれば、眼は一斉に真智子に注がれる

ことは当然である。しかも、浩市郎はもう凶器として使えないのだ。これだけは、どうしても

自殺に追い込まなければならない。それには、絶対的な動機を与えてやることが必要であった。

 それが、俺の役目だったのだ…!

 東京の私立探偵が、犯人は真理子だと断定したとき、はじめて、この計画は完成するのだ。

それは真理子にとって、まさに死えの宣告であったろう。

 田丸五郎は、これまで第三者だと決めて疑う余地もなかった自分自身が、いつの間にか、

否応なしに加害者の立場に立たされていたことを感じて愕然となった。

 芦倉を走っているとき、真智子はこれまでただの脇役だと思っていた私立探偵が、意外に

鋭利な眼で真相に迫っていることを知った。

 「あなたは、恐ろしい方だわ」

 それは真智子にとって、事件の終幕に登場する名優に贈る歓喜の拍手だったかも知れない。

 ガスがはれ、にぶい陽射しが冷えきった頬をぬくめた。再び、眼の下に豪快な弥陀が原の

綾錦がひろがる。

 そのとき田丸五郎は、あの夜真智子に伝えることの出来なかった伝言があったことを

思い出したのである。

 「真智子に、気をつけて帰るようお伝え下さい」

 真理子には、自殺する気持など毛頭なかったのだ・・・!

 そう言えば、真智子が唐突にあの家にダイナマイトがあることをほのめかしてから、

あまりにもタイミングよく、それは爆発したのだ。あのとき真智子は、先に席を立って別の

ところにいた。家じゅうにたちこめる香気は、火薬のくすぶる匂いを消すのに十分な効果を

発揮したであろう。

 実際には、傷ついた浩市郎をかかえて、真理子はそれでもなお、必死に生き続けようと

したのではないか・・・?

 真智子が、平然として高価な姉の指輪をはめてきた目的も、実はまったく別のところに

あったのだろう。真相は、まだその奥にもうひとつ、深い謎を秘めていたのだった。

 また、濃いガスがあたりを覆った。

 すべての色彩がなくなり、霧のむこうに、先刻の真智子の巨大な後姿が忽然として浮かび

上がった。広漠たる弥陀が原の台地を、一歩一歩踏みしめるようにして遠ざかって行く。

 あとに、和気野清麿の謎のような言葉だけがこだましていた。

 「ハゝゝ、そうか、そうだったな。一沙門は女だった・・・」

 これまでになく激しい雪が、横ざまに吹きつけてきた。

 そのとき、田丸五郎は、立山が音もなく崩れはじめたように感じたのである。数百万トンの

岩塊が、積み上げたダンボールの箱を倒すように崩れ去ってゆく。田丸五郎は、いま、

地獄谷で見たのと同じ、風化した荒野にただ一人立っているのだった。

 雪は、微塵の生命となって舞いつづけている。

 「犯人は、弘法大師だ…」

 田丸五郎は、誰にともなく言った。







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