S M 闘病記



四、史上最強の痛み止め


それから改めて、俺は『心臓血管研究所』に入院することになった。

名目では付属病院となっているが、実態は同じものである。

改めてというのは、身辺整理やら親戚知人への連絡など、いろいろと準備を整えて

という病院側の配慮だが、俺としては死ぬ気など毛頭ないから身辺整理のやりようが

ない。ほとんど半病人のていたらくで一週間ほど過ごしてしまったが、その間は便所で

イキムのはもちろん、クシャミをするのにも今にも心臓が止まるんじゃないかと気を使った。

美加からは一度様子伺いの電話があったが、いや別にたいしたことはないと誤魔化して

逢うのは断ってしまった。

そしていよいよ再入院となると、気持ちもホッと落ち着いて安心するから妙なものである。

病棟は六階の大部屋で、前に入院していた患者がまだ残っていてよう来たよう来たと

歓迎してくれた。

それから、毎朝の検温・採決・心電図という恒例の検査が始まった。そして今回はMRI

という新兵器が登場する。

人間の身体が80%も水でできていることを利用して強力な磁場をかけ、傾いた

水素原子に電波を当ててその屈折で精密な画像を得ることができる。撮影したのは

脳内の血管だが、まるで大木の根を逆向きにしたような形で脳みその内部が

あからさまになった。

「脳幹の右側の動脈が25パーセントほど細くなっていますが、この程度なら手術は

可能でしょう。ただし・・・」

と担当した技師は重々しい口調で言った。

「この血管は首の骨の中を通っているので、手術ができない場所ですから、これ以上

詰まらせないように十分に注意してください」

「詰まるとどうなるんですか」

「脳卒中で、一巻の終わりですな」

そんなことになってたまるものか・・・、ここで言われたことは、ボロボロになっているのは

心臓の血管だけではない。全身の動脈に硬化が起こっているのだから、いつ倒れても

不思議ではありませんよ、という脅しとも親切ともつかない忠告であった。

原因はタバコだ・・・

とっさにそう思って、俺は眼をつぶった。半年ほど前、身体に変調を感じるように

なって、俺はタバコをきっぱりとやめていたが、16才から吸い始めて一日に60本、

これまでに煙にした量は優に100万本を超えている。無事だったのが幸運としか

言いようがないのだった。

そしていよいよ手術の前日、俺は執刀医である外科部長から、手術の概要の説明を

受けた。

「先ず脚から静脈を二本ばかり取って・・・」

と、外科部長はいとも簡単に言ったのである。

「動脈の太いところから潰れた血管の先にバイパスをつけます。どの辺に

したら良いか、今考えているところなんだが・・・」

「先っぽのほうは大丈夫なんですか、そこから先がまた詰まっているなんて

ことには・・・?」

「血管が活きていれば問題ないでしよう。それから三本目のバイパスだが、

ちょうど肺の裏側の上のほうに要らない動脈がある」

「へえぇ」

「それでなければ胃袋の奥にももう一本あるんだが、どっちにするか・・・」

「人間の身体って、そんなに無駄な血管があるんですか?」

「いや動かしても生命に別状はないという意味です」

部長の説明によると、バイパスに使う血管は静脈よりも動脈のほうが当然の

ことながら効率も保存性も格段に良い。ただし胃袋の血管を使うと将来胃の手術が

必要となったとき手術不能となる恐れがあるというのだ。

「静脈を使うと、何年くらい持つんですかね」

「まぁ、通常10年は大丈夫ですがね」

俺は頭の中で素早く計算してみた。

あと10年、保ったとすれば80才を超える。生きていたとしてもインターネットで

遊ぶことももう出来ないだろう。その間に胃癌にならないという保証は

どこにもないのだ。

「胃袋は結構です」

俺は即座に言った。

「静脈を二本使ってください。10年も生きられればそれで天寿だ」

「ははぁ、そうですかねぇ」

外科部長は簡単に納得してくれたが、次に話してくれたことは俺を狂喜させるのに

十分な情報であった。

「最近は医者の技術も進歩しましてねぇ」

と、外科部長はかなり慎重な口調で言った。

「心臓を動かしたまま、手術することが出来るようになってきたんですが、

そっちの方法でやってみますか?」

「えッ、先生、といわれますと・・・?」

これまで俺の知っている心臓手術は、人工心肺という大掛かりな器械があって、

血液を一度それに流し心臓を止めて、つまり”死”の状態を作ってメスを入れる。

それでなければ常時大量の血液が溢れている心臓という臓器にに手を加える

ことは不可能であるという常識であった。そのためには患者の肉体を一時的な

冷凍状態にして体内の活性を抑えてから手術しなければならない。

俺は今から三十年前に自分の父親が胃癌の切除をしたとき、手術室から

冷たく冷え切った身体で戻ってきたときのことを、今でもマザマザと覚えている。

それが、最近の医学では、心臓の脈動をそのままにバイパスの手術が

可能だというのだ。これは耳を疑いたくなるような朗報である。

この方法で何人の患者を手がけたのか知らんが、俺はこの鋭い眼をした

外科部長が神様に見えた。

「もちろん、万一のために輸血は十分に用意しますが」

と外科部長は言ったが、こうなったら後はもう現代医学の進歩と執刀医の

神の手にすがるよりほかに何の方法もなかった。俺は無条件で手術承諾書に

印鑑を押して、すべてをお任せすると頭を下げた。

ベッドに戻ってホッとしているところに、見慣れない看護婦が手にファイルを抱えて

やってきた。

「山岸さん、ですね?」

「そうだ」

「明日の手術のご説明に参りました」

説明なら、今聞いてきたよと言おうと思ったが、看護婦が美人なので俺は黙って

ニヤッと笑っただけである。

「明日なんですけど、六時に起床しましたらトイレに行っていただきたいのです」

と、こちらは説明というより、段取りの打ち合わせであった。

「出るかなぁ、そんなに早く」

「無理なようだったら浣腸しますから・・・」

「あ、いいよ。大丈夫だよ。出るだろう」

「それからこの手術着に着替えておいてください」

「わかった、カテーテルのときに着たやつだな」

「山岸さん、夜はよく眠れるほうですか?」

「いやぁ、典型的な夜型人間だからね」

「だったら、お薬をさし上げましょうか」

「何だ、それは」

「精神安定剤ですけど、よかったら・・・」

手術が怖くて眠れないほど肝っ玉は小さくないが、睡眠薬でぐっすり眠るのも

よい方法である。寝不足で手術を受けるのも身体の為にはよくないだろう。

俺は薬をもらうことにして、横目で彼女が胸につけている名札を読むと、

「佐藤」とあった。

「明日の朝、トイレを済ませたらもうひとつお薬が出ますので、それを飲んで

手術室に入っていただきます。後は係りの看護婦がお世話しますから」

「手術室はどこだ?」

「七階です」

病院のビルは八階建てで、俺のいる六階と五階が病棟、それ以下は検査室や

研究室、一階は外来用の設備になっている。六階より上には上がったことが

ないので、七階の手術室がどんなところなのか大変に興味があった。

おそらく無菌室になっていて、患者が覗きに行っても濫りに見せてくれるような

場所ではあるまいと思って、見学を申し込むのは遠慮しておいた。

あと何点か、佐藤看護婦がこまごまとした注意を言い残して出てゆくと、今度は

入れ違いに、看護婦とは違った白衣を着た女性が現れた。佐藤さんより少し

年かさだが、これがまた飛び切りつきの美形なのである。美人美人と書くから、

お前の眼の錯覚だと言われそうな気もするが、本当にこの「心臓血管研究所」の

看護婦たちは、その後何回も通ったが粒がそろっている。いくら場所が六本木に

あるからと言っても、やはり意識して美人の看護婦を集めたとしか思えないフシが

あった。

「私、明日の麻酔を担当いたします岡田と申しますが・・・」

言われたことは、佐藤看護婦の説明とほとんど同じである。彼女としては、

明日の手術を受けるのがどんな患者なのか、確認しておく必要があったのだろう。

こうして執刀医から麻酔医、看護婦にいたるまで全員が説明責任を果たす、

たいした病院である。

「先生、麻酔が効きすぎて危険な状態になるというようなことはないんでしょうね」

あまりに美人なので、こんな女に人間を麻酔にかけて眠らせるるなんて大胆なことが

できるのかな、と不安というより多少甘えた気持ちもあって、俺は聞いてみた。

「それきり眠ったままこの世に戻れなくなってしまったらどうしよう」

「そんなことはありません。私がつききりで、手術が終わるまで注意しておりますから」

「はぁ、それならば嬉しいな」

覚悟はしているといっても、俺もやはりどこか不安なのである。愚問だとは知りながら、

ついまた口を開いた。

「でもさ、もし反対に麻酔が効かなくて、手術の途中で痛くなるとか・・・」

すると、麻酔女史は患者が熱を出すほど艶っぽい視線で、婉然と笑いながら

言ったのである。

「ご心配なく・・・、私が使っております麻酔薬は、史上最強の痛み止めですから」

俺は、いっぺんに納得してしまった。そして麻酔女史が去ってからも、しばらくは

ボーッとして彼女の面影を追慕していた。

だいたい麻酔医というのは、手術があれば必ず立ち会わなければならない職業で

あろう。だと言っても、手術がなければ暇だし、麻酔科医院というのは聞いたことが

ないから、おそらくあちこちの病院と契約して予定が入ればその患者の麻酔担当医

となる。

きっと岡田先生なんか、引っ張りだこなんだろうな・・・

そんなことを考えているうちに、先刻のまされた精神安定剤が効いてきたのか、

俺はスヤスヤと幼児のようにあどけない眠りについた。

さぁ、そして翌朝である。

病院の朝は6時起床、昨日の段取りのとおりトイレに行くと、不思議なほど気持ちよく

ウンコが出た。まぁこれで浣腸だけは免れたと病棟に戻ってみると、家族が全員

集まって心配そうな顔をしている。それに介添えの看護婦、主治医の若い医師が

揃って、ベッドの横にはストレッチャー(移動寝台)が来ていた。

「これに乗るのかい」

「はい、その前に着替えをしてください」

家族の前でパジャマを脱ぎ、パンツまで取ると、剃毛したばかりでチョボチョボしか

毛の生えていない下腹部がむき出しになる。

「みんな、さがっておれ。多勢いると邪魔で仕様がない」

介添えの看護婦と二人になって、無毛のちんぼを突き出すように手術着に着替え

させてもらった。

これも打ち合わせにあったことだが、看護婦から渡された鎮静剤だと言う錠剤を

ポンと口の中に放り込んで、俺はストレッチャーの上に横になった。

段取りは実に手際よく、ストレッチャーは看護婦に押されてエレベーターの前で

とまる。

まもなくエレベーターが来て、そして6階から7階まで・・・、

それはごく僅かの短い時間だったが、俺にはエレベーターを出た記憶がまったく

無いのだ。

鎮静剤と称するあの錠剤の作用で、完全に意識を失っていたらしい。これすべて、

美人麻酔医の岡田先生の仕業だった。

すなわち、史上最強の痛み止めへのスタートである。








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