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わくら葉の妖精たちよ
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四、世に出た処女作


毎日お殿様のような生活が続いたのだが、俺はたちまち飽きてしまった。

ここには新宿の闇市で女狩りに精を出していたときのような緊迫感はカケラもなかった。

佑子は一日中編み物の生徒にかかり切りだし、このころから妊娠の兆候が見えて、

セックスにも積極的でなかった。昼間やってくる生徒に手を出すわけにもいかんし、

町でひとつしかない映画館で痴漢などすれば、即座に町中の評判なるだろう。

こうなったら、大口の美代子のところに行くしかないな・・・

婚礼の前から、俺は心に決めていた。

あそこなら、姉と妹の肉体は二人ともいただいているし、姉の美代子が淫乱で

変態に近い性欲の持ち主であることもわかっている。九州に来た目的も、ひとつには

鳥飼姉妹と再会するためだったのである。

「おい、大口に支店を出そう」

「えッでも、大口まで、通うのに2時間はかかるし・・・」

「心配するな、大口は俺がやる」

「旦那さまが・・・?」

佑子は、眼を丸くしていた。

だいたい、そのころの編み物教室というのは、編み方を教えるというより編み機を

売ることが利益のもとであった。戦後の復興が始まると、まずこういった軽工業が

伸び始め、次々と新型の機械を開発する。ちょうどパソコンの初期のブームが

そうだったように、客は少しでも新しいほうに飛びつくのである。佑子が東京に

来ていたのもそのためで、日進月歩する機械を仕入れて行かないと編み物教室は

成り立たないのだった。

月謝も大事だが、当時の女たちは機械の操作さえ教えてやればセーターなど

誰にでも編める。最近のように衣料品は店で買うものという習慣がないから、

セーターの編み方くらい女学校でも教えていたのだと思う。

新型の機械を売れば、五割近くが利益だった。これを大口に持っていって鳥飼姉妹に

宣伝させればかなりの台数は出るだろう。俺にとっては一石二鳥の資金稼ぎである。

嫌応なしに佑子を承知させると、俺はさっそく大口の美代子に連絡を取った。

九州に来ていることをそれまで教えてなかったので、躍り上がらんばかりに喜んだ

美代子は、すぐにでも迎えに来そうな勢いである。

そうなっては困るので、父親に報告すると、大学を途中でやめて、新日窒の工場では

働きそうもない婿が娘の仕事を手伝うというので、大いに喜んで現ナマで100万円

くれた。今なら軽く家一軒買える金額である。その金で編み機の卸もととも話をつけ、

俺は水光社で買ったカメラ一台肩にかけて山野線に乗った。

山野線というのは、当時まだ旧式の蒸気機関車で、水俣を出るとすぐシュッポ、

シュッポと喘ぎながら山道を登る。途中にループ線という日本で二箇所しかない

渦巻き型の線路を辿り、山の中の無人駅を四つか五つ行くと終点の大口である。

朝夕の通勤時と昼に一・二本、一日に五往復くらいしかない超赤字路線で、真っ先に

合理化の波をかぶり廃線になってしまった。それもまぁ当然だが、俺が通ったころを

思い出すとあのループ線の風景は懐かしいものだ。

大口に着くと俺はすぐ美代子に会って、駅前のメイン通りに一軒の家を借りた。

水俣ほど大きくはないが、十二畳に八畳二間、それに四畳半の納戸つき、台所は

土間という田舎造りのしもた家である。短期間だったが、ここが俺の九州での

活動の拠点になった。

もっていった編み物機械を見せると、美代子はわァーと歓声を上げたが、編み機なら

私も持っているという。

「どんな機械だ、見せてみろ」

それから実家に案内されたが、駅前からバスに乗って15分、バス停の前といっても

あたりに家は三軒だけ、あとは見渡す限りの西瓜畑である。遠くにポツポツと家は

見えるが、このバス停まで歩いてくるくらいなら町まで歩いても同じじゃないかと

思うほど遠かった。

出してきた編み機を見ると、一番古い通し矢式という旧式のやつで、針の部分が

ところどころ錆びついている。

「こんなもん、いつ買ったんだ」

「三年位前だったかしら・・・」

「これじゃ駄目だ、良いセーターは編めねぇよ。俺のは最新型のアート式だぜ」

「えぇ、でもねぇ」

田舎者だが、美代子は流石に若い女だった。しげじげと新型の機械を見比べながら、

呟くように言った。

「機械は良いんだけど、編み物は今では安いのがお店でいくらでも買えますもの」

あるいはこれが、佑子の父親と美代子の時代を見る目の違いだったのかも知れない。

確かに編み機はどんなに性能が良くなったとしても、所詮手作業である。

工場で大量に生産されたセーターが店に並ぶようになれば、わざわざ機械を買ってまで

教室に習いに来る非効率なことはしなくなる。俺には、この業界がケシ飛んでしまう日も

そう遠くない将来のように思えた。

「まぁよかろう、とにかく持ってきた機械は売り切ることだ。女を集めろ」

「はい」

美代子と妹の美枝子が奔走して、大口の新教室に集まった女は十二人、売れた機械は

四台である。100万円の資金をもらって3万円の機械が四台売れただけでは

話にならないが、どうにか面目だけは立ったというものだ。

それから一週間ほどたって、俺はこの家で親しくなった娘たちを呼んでパーティを

開くことにした。集まったのは鳥飼美代子、美枝子の姉妹、それに女学校の後輩

だという東妙子、奥節子の四人である。酒も料理もそれぞれが持ち寄りの宴会で

あった。

一年半会わない間に、妹の美枝子はすっかり成長していて、彼氏だという鹿児島の

銀行に勤めている男を同伴していた。生真面目一本の青年で、いくら飲ませても

乱れず、九時過ぎたころには美枝子を連れて引き下がっていった。残ったのは、

はじめからその気満々の美代子と、男知りたさ怖いもの見たさの妙子と節子である。

酒が入っているからポーズは大胆で、俺がおまんこの匂いが嗅げるほど美代子の

股ぐらに顔を突っ込んで横になっていると、妙子が足元ににじり寄ってきて脚をさする。

節子はまだ初心らしく、美代子の後ろに寄り添って、恥ずかしそうにその情景を眺めて

いるといった感じである。

「な、そろそろ寝もはんか」

いい加減飲み疲れて、美代子が気だるげな調子で言った。

「こん家には夜具がなかけん、ゴロ寝やっと」

彼女たちはほとんど不自由なく標準語を話すが、時おり鹿児島訛りが出る。本格的に

鹿児島弁でやられたら意味が通じないのも事実である。

雰囲気は和気藹々として、四人は横になった。部屋の真ん中に敷布団と掛け布団を

並べて敷き、それぞれ足を真ん中に寄せ合うように十の字になってゴロ寝である。

左隣に美代子、右隣が妙子、反対側が奥節子・・・。

この前の経験で判ったことだが、女二人を左右に並べて寝ると、互いの体温が熱くて

とても眠れたものではない。(062「女王様第一号」) それで工夫したのだったが、

寝るとすぐ爪先でお互いの探りあいである。

一番積極的だったのは東妙子だった。美代子が俺と関係あることを知っていながら、

私にもやってと足を絡めてくる。この場合、ハメるとすれば左隣が指定席だが、

反対側から寄り添ってきて、足だけでなく手がゴソゴソと腰の周りに伸びてくる。

こいつは面白い女だ・・・

カリカリと痩せて背が高く、女らしいふくらみの少ない体型である。そっと

片目をあけて妙子を見ると、妙子はすぐに気がついて、異様な妖気が漂った顔で

ニイッと笑った。

この野郎、興奮しきっているな・・・

それが面白くて、俺はわざと美代子に手を伸ばす。美代子はもとより承知の上で、

いつの間にかズロースを脱いだ右脚を大きく俺の腹の上に乗せてきた。

「おい、猿股、脱がせろ」

「うぅむ、はぁッ」

美代子が膝の下までズリ下ろして、ちんぼを握った。

「節っちゃん、脱がしてくれ。これじゃ何にも出来ねぇ」

布団をかけてないので、何をやっているかは丸見えである。妙子が上半身起こして

しがみついてきた。ペロペロと俺の乳首を甞める。

女二人の奪い合いになって、足で猿股を脱いで蹴飛ばすと、爪先が節子の胸に

当ったのか、女がギャッと小さな悲鳴を上げた。

詳しく書いていればキリがない。その夜はいつものように美代子の中に入れ、

女がイク寸前になって無情に引き抜いて妙子に入れた。

「ウア、ワァァッ・・・」

美代子は奇声を上げたが、これがずっと後まで、美代子が門田奈子になってからも

続いた発情の訓練法であった。

「お前、写真を撮れ」

言い捨てて、妙子を引き寄せると、胸を甞めてベタベタになった顔を隠すように

抱きついてきた。こっちはガンガンに勃起しきっているから、構わず下に組み敷いて

グシュッと突き刺す。

「アフ、アフゥゥ・・・!」

驚いたことには、中身はドロドロである。最初の一撃は濡れ過ぎてガバガバという

感じで、おまんこに刺している感じがしなかった。舌打ちするような気持ちで振り返ると、

寝巻きの前をはだけたまま、奥節子がペタンと尻餅をついたような格好になっている。

「節っちゃん、タオル持ってきてくれ」

節子が這うようにして差し出すタオルをひったくって、俺はゴシゴシと妙子の股間を

拭いた。だがこんなに汁気の多い女は見たことがない。拭いても拭いてもブカブカ感は

最後まで取れなかった。こんなことなら、無理にでも節子のほうを戴いたほうが

良かったと思ったのだが後の祭りである。やせて背の高い女の体を逆抱きにしたり、

美代子に突っ込んだちんぼを舐めさせたりして、乱痴気の限りを尽くしたのだが、

何回イカせてやっても妙子の性欲が納まることはなかった。道具は決して名器とは

言えなかったが、性欲だけは並外れて強い女だった。

その夜、美代子が撮影したフィルムは6X6判の2眼レフで12本、140枚に及んだ。

大口では、ここでもうひとつ、特筆しておかなければならないことがある。

それが『奇譚クラブ』との出会いである。

編み物教室の支店を開くというので、駅前の西野書店に挨拶に行ったとき偶然に

見つけた。

内容を読み進むにつれて俺は刮目し、これまで自己流でやってきた変態性欲という

ものの何たるかを、初めて具体的に知ることとなったのである。

当時の『奇ク』の作家たち、森本重雄、仲康弘道、松井籟子、羽村京子、沼正三、

佐土麻造、魔像保・・・。

俺は乾いた土地が水を吸い込むようにこの人たちの文章を読みふけった。

サディズムとは何か、変態とは、虐待とは、女の性欲とは何か・・・。俺には俺なりの

意見もあったが、初めて知る新しい情念の世界だった。

最近でも、SM掲示板などで初めて『奇譚クラブ』に出会ったときの鮮烈な印象を

語る人は多い。だが俺がその人たちと違っていたところは、単なる愛読者として

ノメリ込まずに、俺にも言わせろ、と開き直ったことだ。

そしてある晩のこと、俺は美代子を呼んで横取りの態位で性器を結合させたまま、

コクヨの原稿用紙に向かった。

射精しそうになるまでちんぼを動かして、その勢いで原稿を書く。感覚が鈍くなって

くると、腰を振って穴を絞めるように催促する。女の柔らかい肉の感触が、俺に

書け書けと促すのである。

こうして一晩で書き上げた原稿が、(070「女性腋窩譚」)である。

この作品はさっそく翌月の『奇ク』に掲載され、フン、ザマを見ろ、と俺は得意だった。

続いて奇クには『弓女』『号泣』『私のスクラップノートから』『赤い腋窩の女』と矢継ぎ早に

俺の原稿が載るようになった。ペンネームは佐次浩介・・・。

つまり、『女性腋窩譚』こそ紛れもなく現在の山岸康二の処女作品なのである。

この稚拙で生半可な作品は、臆面もなく「SM小説館」に掲載されているが、なぜ

五十年近くも過去の原稿が蘇ったのかというと、それにはまたちょっとした逸話が

あった。蛇足だがこの機会に書き留めておくことにしよう。

今から四・五年前の話だ。

当時マゾの修業で俺のところに来ていた美砂子、銀の鈴が、根掘り葉掘り聞くので、

何かのついでにこの時代の話もしてやったものだと思う。銀の鈴にしてみれば、

山岸康二という男がどんな過去を辿ってきたのか知りたかったのだろうが、俺は言葉を

濁してあまり語らなかった。そうしたらある日突然電話がかかってきて

「先生のお仕事がわかりました」

という。

何事だと思って聞いてみると、わざわざ神楽坂にある「風俗資料館」まで行って、

発行直後からの奇譚クラブを虱潰しに当たってみたのだという。

「そうしたらありました。佐次浩介というお名前は資料館の作家名鑑にも載って

いますよ」

「へえぇ、本当かよ。今まで知らなかったな」

「それで、先生の作品を全部コピーして持って

きましたから・・・」

「金がかかったろう」

「いいえ、ここまで先生を理解できたことは、私にとっても

誇りですから」

と、銀の鈴は弾んだ声で言った。

「先生が御入用なら、私がワープロ打ってお送り

しますけど・・・」

「そうか、懐かしいな」

それから一時間もしないうちに、銀の鈴得意の早打ちメールで「女性腋窩譚」が

送られてきた。こうして図らずも、俺の初期の作品が手付かずで手元に戻ってきた

わけだが、すべて銀の鈴の功績である。

その時は奇譚クラブだけでなく、他のエロ雑誌にも投稿してみたのだったが、

そっちも何なく採用になって、編集長から是非次回作も期待していますと手紙が

来る始末。そのときになって俺は始めて、九州くんだりまで来て青春を浪費している

自分の愚かさに気づいたのだった。







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