S M 自我像
わくら葉の妖精たちよ



九、俺には才能がない


ロコとの再婚式は、俺が三十三才の春、何とか形を整えて実行することになった。

場所は国鉄千駄ヶ谷駅近くの明治記念館、仲人は西川氏という放送作家の先輩に頼んで、

地味だが華やかな式典であった。

十二年前、たった一人で九州まで頭を下げに来てくれた父親も、今度は晴れがましい顔で

母親同伴で出席してくれた。芸能人の出席はあえて求めなかったが、朝丘雪路、湯川れい子

などから祝電が届いた。

俺もいかにも流行作家らしく、式場の壁に向かって放送用の原稿を書いてプロデューサーに

渡したりして売れているところを見せる。

だが主役はやはり花嫁であった。

晴れて女房となった裕子はこのとき二十四才、式全体がこの女の盛装を見せびらかすための

パフォーマンスである。それでも俺は単純に鼻高々、得意満面であった。

俺にしてみれば、これでいささか親孝行の真似事ができたかのような気がしていたのだが、

後になって、このとき母親が俺に黙って、捨てた娘にいくらかの金を送っていたことを知って

心が痛んだ。いつになっても親は最後まで親なのである。

自力でここまで持ってきたので、挙式する費用だけで精一杯で、新婚旅行に外国に行くなどと

いう芸当は出来なかったが、その代わり西伊豆に二泊三日、そのころTBSのディレクターと

遊びに行って凝りに凝っていた釣り旅行とシャレ込むことになった。

季節はよし、最盛期を迎えた女を従えて、ベタ凪になった西伊豆の海に釣り糸を垂れる快味は

また格別である。観光目当ての遊び釣りだが、不思議とこれが良く釣れて、サクラダイという

美しいピンク色をした鯛が40数尾、それに鮫の子供が一匹かかった。温泉つきの船宿に

持って帰ると、明日の朝魚市場で売れるというので始末を頼んでその日は寝てしまった。

次の日、売り上げはたしか二千何百円かになって、あちこち遊んで東京に戻ってきたときには、

魚を売った分の金しか残っていなかったことを覚えている。

新居は地下鉄の新中野、鍋屋横丁に近い新築の六畳、四畳半のアパートで、ここで朝から

晩まで、ハメては書き、書いてはハメる生活が始まった。書いているのは、もちろん江戸川

乱歩賞応募作品である。

生計を維持するために雑誌やラジオも書かなければならないのだが、そちらは最低限に

止め、まずは受賞作品に絞ろうというのがそのときの気持ちだった。

タイトルは「久留島満の犯罪」、久留島満というエロ作家がいて、彼はある殺人事件の

犯人であることを読者に明示する。ところがある日、久留島満は何者かによって殺害

されてしまうのである。ゴーストとなって幽界に堕ちたエロ作家は、必死になって

自分を殺した犯人を見つけ出そうともがきまわる。つまり、主人公が犯人であり

被害者であり、同時に探偵も兼ねるという、凝りに凝った作品・・・、のつもりだった。

「ごめんください、今晩わ」

その夜もロコを布団代わりにして、ときどき腰を使いながら原稿用紙に向かっていると、

入り口のドアの向こうで女の声がした。

「はぁい、どうぞ」

すぐに声の主が判ったと見えて、ロコが仰向きになったまま声をかける。

「今晩わ、あらま・・・!」

ガタンとドアが開いて、入ってきたのは、アパートの向かいの部屋に住んでいる有沢さんの

奥さんであった。

部屋は二間ブチ抜きで、俺が原稿を書いている姿はモロ見えである。

「どうしたの和子、何か用事・・・?」

「ううん、ちょっとねぇ。こんなもの作ったから、お食事まだだったら食べないかと思って」

「へぇ、何か作ってくれたの? そいつは有り難てぇな」

俺が振り向くと、有沢夫人は照れ臭そうに目尻で笑って、ハイ、と中華風の炒め物を盛った

皿を足元に置いた。こんな光景を目の当たりにしても、さほど狼狽する様子もなく、普段と

態度も変わらなかった。

「有難う、いつも悪いわ」

ロコが下から礼を言うと、

「どういたしまして、それじゃごゆっくり・・・」

有沢夫人はそのまま皿を置いて部屋を出て行ってしまった。

「面白い女だな」

「この前、お友達になったの。良い人よ」

ロコが下からクイクイと腰を廻しながら言った。

「ご主人は梶山さんの取材メンバーで、いま岡山に出張中なんですって」

「梶山さんって、梶山季之のことか?」

「ええ、すごく忙しいらしいわ」

『黒の試走車』、『赤いダイヤ』など、日本で始めて企業小説の分野を開拓した売れっ子

作家である。同時に『現代悪女伝』、『甘美な誘拐』などの女を扱った社会性の強い作品も

あって、俺は好きであった。その取材メンバーの一人が有沢の旦那だというなら、これは

付き合っても損はない。

ちなみに梶山季之は俺より一年前に生まれた人だが、1975年わずか45才で没した。

原因は過労と飲酒、連夜の銀座通い。ご冥福を祈る。

有沢氏とはその後親しくなって、お互いに多忙の中、一緒にゴルフの練習場に通うような

仲になったが、相変わらず出張が多い。女房の和子が、そのたびに部屋に遊びに来る

ようになった。年令はロコと同じでまだ若いのに、どこで仕込まれてきたのか俺がロコと

盛大にツルみあっていても驚いた様子も見せなかった。

平然として、俺の下敷きになったままのロコと世間話を交わしてゆく。ロコはもともと

強度の露出傾向を持っていたが、こんな付き合いができた女は始めてである。

有沢和子とは、時がきたら必ずヤレるな、というのが俺の確信であった。

さて乱歩賞だが、その年も予選通過どまり、候補作にはカスリもしなかった。ロコはこんなに

私の身体を使っておきながら、といった顔をするし、口惜しいがこればかりはどうすることも

できない。

次の年も『白き墓標のごとく』というタイトルで500枚の作品を書いたが、これも駄目であった。

17年前に起こった殺人事件が甦って、完全犯罪が暴かれてゆくといったストーリーだが、

名前が好きだったので、現在では鬼畜図書館の銀の鈴を追悼するページのタイトルとして、

白き墓標のごとく
わずかな痕跡をとどめているに過ぎない。

その間に、有沢夫婦は公団住宅が当たったからといって町田市の団地に引っ越してしまうし、

これだけ集中的に特定の作品に精力を傾注すると、当然のことながら他の仕事にも影響が

出る。青山機関にも往年の面影はなく、ラジオ・テレビの番組も次々に編成が変わって、

新しい放送作家が台頭していた。

そこで遂に、俺は決断せざるを得なかったのである。

やめた。モノカキなんて、俺には才能がない・・・!

たかが乱歩賞という推理小説作家の登竜門ひとつクリアできずに、小説家なんて

聞いて呆れる。自分では流行作家だと思っているうちに、いつの間にか失業者の

仲間入りをしているのがオチだ。

したがって、曲がりなりにもモノカキとしての山岸康二の人生は、ここでいちおう終わりを

告げるのである。

ロコと二度目の結婚をしてから、早くも三年が経過しようとしていた。

創作の筆を折る、芸能界から足を洗う・・・。

俺の決意が固いのを知って、不安と困惑と疑念に引きつっているロコに向かって、俺は

ふてぶてしく笑いを浮かべながら言った。

「心配するな、二・三年もしたら家を建ててやるよ。それまでに子供でも産んどけ」

たしかに、ロコにはそのころ妊娠の徴候があったのである。

それから、俺はこのところしばらく放り出しておいた奈子のアパートに顔を出した。

「まぁ、どうなさったんですか」

「学校へは、ちゃんと行っているか」

「はい、お蔭さまで、もうまもなく卒業です」

早いもので、あれからやがて三年が過ぎ去ろうとしていた。

「そうかい、ちょうど良かった。実はまた、お前の力を借りたいと思ってな」

「えッ、私もう年だし、女王様出来るかしら?」

「変態はもういいよ。女は間に合っている」

「アラ、ちょうど今、学校で面白い女の子が見つかったところなんだけど・・・」

「その話は後で聞こう。いま、金を持っているか」

「最後の月謝を払うお金だけは、何とかありますけど」

「ふん、悪いけど20万ばかり貸せ」

「えぇッ・・・」

奈子にとっては、つてを辿ってマゾの男と女王様を演じてようやく貯めた月謝だったので

あろう。これがなければ、せっかく三年通ったドレメを卒業することが出来ないのである。

一瞬たじろいだが、奈子はアッサリとした口調で言った。

「いいわ、また稼ぐから・・・、お金はいつ要るんですか?」

「まぁいい、要るときになったら言うから、用意だけしておいてくれ」

「はいッ」

それから、俺は新宿の郵便局に行って私書箱を借りた。

新宿郵便局私書箱は今では番号が千何百号まであって、それでも確保することは絶対に

不可能である。俺がそのとき借りた私書箱は76号、思えば夢のような時代だった。

そして次にやったことは、浅草に飛んで台東区役所の横にある『マルベル堂』という

小さな商店で、ブロマイド買い付けの交渉をすることであった。

これは、俺が常盤座で芝居の台本を書いていたころ、浅草の町を歩いて調べておいた

アイデアである。

実はこの『マルベル堂』こそ、その当時スターのブロマイド製作の版権を一手に握って

全国に独占販売している唯一の商社だった。当主が先々代から生粋の浅草っ子で

写真屋を営んでいたのだが、六区華やかなりしころ、浅草の舞台を踏んだ役者や芸人の

写真を撮って売っていたのが商売の始まりである。

年配の読者なら記憶している方もあると思うが、ブロマイドなどという商品は、町外れの

おもちゃ屋か文房具屋のレジの横にセロファンの袋に入れてブラ下がっている、子供が

タマにお小遣いで買ってゆくような売れ足の鈍い商品だったのである。

『マルベル堂』には石田という人の良さそうな専務がいて、俺の話を聞くと二つ返事で

契約に応じてくれた。

さて、これからが問題である。

俺は東亜広告という銀座の中堅どころと思われる広告代理店に電話をかけて営業の

外交を呼んだ。

「ちょっと聞くがな、お前のところは平凡と明星に口座を持っているか」

「さぁ・・・」

「それじゃ平凡出版と、集英社に広告を出したことはあるだろう」

「はぁ、それでしたら」

「それで良い。すぐに社に戻って、平凡と明星の歌本1ページ、スペースを確保しろ」

「はッ、とにかく、やってみます」

これも、年配の人ならすぐ判る。そのころミーハー向けの芸能雑誌といったら、「平凡」か

「明星」しかなかったのである。両誌とも発行部数は100万を超え、読者の争奪には

毎号しのぎを削っていた。本誌ばかりでなく、付録で読者の受けが違う。工夫を凝らした

三・四種類の付録がつき、そのなかでも毎号必ず別冊で、最新流行の新譜から懐かしの

メロディにいたるまで収録した、いわゆる「歌本」がウリになっていた。

その歌本に、1ページの広告スペースを確保する。本誌では広告料が高価くて手が出ない

ことは最初からわかっていた。付録の歌本なら、ページ5万円くらいで出せるのである。

東亜広告の営業がどこをどう走り回ったかは知らないが、オーケーの返事が来たのは

それから一週間ほど経ってからであった。

発注した広告の見出しは、『あこがれのスターセット』・・・。社名は誰でもひと目でわかる

ように、『サイン友の会』とした。

タッタ300円で、憧れのスターセットが手に入る。あなたの好きなスターの名前を3人書いて

送りなさい。大小のブロマイド、ブローチ、サイン入りのスターの肖像を印刷したハンカチなど、

ぜんぶ揃えてすぐ発送します、といった謳い文句である。

あとは雑誌が書店に並ぶまで、およそ二ヶ月、じっとガマンの子であった。

こんな作業に忙殺されている間に、出産のためロコが入院した。パンパンに張って、テカテカと

つやが出た腹を弄んで楽しんだのも束の間である。

そのときまた思いがけないアクシデントの知らせが入った。

「アッアノ、主人が、主人が・・・」

ロコが入院して二日目の午後、突然電話が鳴って、出てみると団地に引っ越していった筈の

有沢和子である。

「どうしたの、有沢さんに何かあったの?」

「岡山の駅で倒れて、救急車で・・・」

「何だと、事故か?」

「いえ、脳出血です」

「元気なのか、容態はどうなんだ」

「そ、それが、返事をしない・・・」

女が急に涙声になった。

「命は何とか、もっているんですけど、ど、どうしたら・・・」

気持ちを落ち着かせて聞いてみると、岡山から急報が入って駆けつけると、本人は

意識不明でほとんど植物状態になっているらしい。幸い有沢氏の実家が四国なので、

東京に運ぶよりは良いと思って、両親に連絡を取り、故郷の病院に移してもらうように

手を打って戻って来たのだが、これから先、どうしたら良いのか混乱して何も出来ないという。

「偉いよ、よく独りで帰ってきた。連れてこなくて良かった」

「そ、そうでしょうか」

「酷なようだが、奥さん独りじゃ何もして上げられないだろ」

「それは、私の力なんかじゃ」

「親元が近かったのが何よりだ。ご両親なら、しっかりと面倒を見てくれるだろう」

「頼りにならない嫁ですから」

「いや、奥さんはこっちの始末をしなけりゃならん仕事がある。良かったら相談に乗って

やるから出てくるか?」

「おッ、お願いします。私独りではとっても怖くて・・・」

縋りつくような声で、有沢夫人が言った。

「今日、これから伺っても宜しいでしょうか。ご迷惑だとは思いますけど・・・」






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