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わくら葉の妖精たちよ
バックが重いです、しばらくお待ちください。


後 編

九、三十二年目の再会



湯川いづみグループの声の洗礼を受けて、強烈な刷り込み効果で人生を変えた

のは、中川洋子や丘しのぶだけではなかった。オペラ座にいる42人のギャルたちの

ほかにも、多勢の男や女が、それぞれの影響を受けたのである。

ひとつひとつについて語っていたのでは際限がないので、目立った例だけをかい摘んで

書き留めておくことにしよう。

「近江ちか子」と「谷美子」は、まだ高校生だった。やっと毛の生えそろった年代である。

二人ともテレコは持っていないと言うし、親が五月蝿くて自分の家で録音することが

出来ない。こちらもスタジオが満員で空いた時間がないので、仕方なくそのころ

引っ越したばかりの自宅を使ってテープを録ることにした。

子供が学校に行っている間に、雨戸を閉め部屋を暗くしてテレコをセットする。

ちか子はオナニーも初めてらしく、どうやってよいのか判らないというので

手取り足取りのオナニー講習である。セリフも口移しで、おまんこを触りながら

言わせた。少しでも気持ちが良くなるように自分でクリトリスを揉ませて、快感が

上がったところでセリフにかかる。いつもの3倍くらい手間取るので、焦れったく

なってハメてしまったのだが、ようやく終ったときにはこっちもヘトヘトになった。

谷美子というのは反対に開放的な娘で、彼氏がいるんだけど一緒にテープを

録っても良いかと聞いてきた。

「オナニーは出来ないんですけど、彼氏とヤッているところならいいです」

と言うのだ。

それも面白かろうとOKを出してやると、二人で仲良くやってきて、恥ずかしがる

様子もなく開けっ放しの部屋でカラムのである。近ごろの娘は、破廉恥という言葉を

知らない。時代も変ったのだなと、俺の部屋を手軽なラブホと勘違いしてイチャついて

いる少年少女を眺めながら、俺はつくづくと感じたものだ。

「瀬川あみ」、これは例外的に特別な女だ。身長は160そこそこだが、体重105キロ、

スーパーヘビー級で、こういうのは医学的には肥満と言わず肥胖と呼ぶのだそうだ。

名古屋の鉄工場のお嬢さんで、育ちは良いのだがもちろん恋人は出来ない。

こうなると普通のダイエットでは駄目で、湘南にある断食道場にひと月の泊り込みで

来ていたのだが、こんな肉体でも発情するときは同じである。俺の電話の催眠術に

引っかかって、どうしても逢って虐めて欲しいと言うことになった。

車で待ち合わせの場所まで行ってみると、道の角にあるポストの蔭に隠れるように

立っていた。幅があるので、ポストの後ろから全身丸見えである。

とにかく車に積んで、神奈川方面に走る。助手席に溢れるばかりのボリュームと

太った女独特の体臭が強いのには閉口した。

横浜を過ぎたところでバイパスを降りて、ネオンを目当てに近くのドライブインに

入ったのだが、愛情もクソもないただの好奇心だから、俺はヤリたいように虐待の

限りをつくして遊びに徹した。三段腹どころか、おまんこの下まで垂れ下がっている

下腹の肉を蹴り上げて

「早く寝ろっ」

と強制する。ヨタヨタと倒れるように尻餅をつかせて股を広げたのだが、おまんこは

思ったより平べったくて小さくて、小陰唇が肥大しているということもなかった。

ただし腹の肉が分厚いので、そのまま上に乗ったのではハメることができない。

苦しがるのを無理やり横にして、足を肩に担いで強引に入れた。油断していると、

脂肪の塊のような太腿の肉に圧されて、ちんぼが抜けてしまう。

こんなに手荒く遊んでも、相手になってくれる男がいないせいか、あみはどこまでも

従順であった。この女の唯一の取柄は、料理が上手かったことだ。ひと月の間

道場を抜け出しては俺の家に来て、寿司やらシチューやら、和洋中華に関係なく

料理を作って子供たちに食わせてくれたが、腕前は一種の天才であった。

肥胖さえなければ、良いところのお嬢様で何不足なく暮らせた筈なのに、さすがに

俺も電話には使わなかったが、テープだけはとった。それでもあみは俺を慕って、

一年ほどの間に何回も名古屋から出てきては虐待されることを望んだ。女の心理の

難しい部分なのだが、あみは肥胖というコンプレックスに勝る屈辱を与えられる

ことで、彼女なりの僅かな慰めを見出していたのであろう。

そのほか、極め付きの淫乱「戸川よう子」、オナニー娘「山里コユキ」、スカトロが

大好きな「矢島陽子」など、数え上げればキリがない。その心理的な裏づけに

ついては、折を見て『けもの道・淫ら道』でも触れておきたいと思う。

こうして二年足らずの間に、会員の数は延べ3000人を超え、在籍した女も200人を

上回るほどになった。テレホンセックスという奇妙な風俗があることにマスコミが

嗅ぎつけたのは、ようやくその頃である。

始めに探りを入れてきたのは女性週刊誌、当時発行部数100万といわれた

「女性自身」だった。男の記者が来て根掘り葉掘り聞いて

いったが、発売された本誌を見ると、何と4ページ立ての

特ダネ扱いである。これには俺もビックリした。

続いてライバル誌の「週刊女性」が駆けつけてきた。

負けじとデカい扱いで、見出しにテレホンセックス、

湯川いづみグループの特大活字が躍っていた。

さぁ、こうなると有名無名の風俗雑誌、エロ雑誌、

遅ればせながら男性週刊誌が後を追う。

そして遂にはテレビ局の猛烈な取材攻勢が始まった

のである。

読者の中には記憶されている方も多いと思うが、

そのころ日本テレビでやっていた「11PM」を頂点に、

各テレビ局が競ってお色気がらみの夜の風俗番組を放映していた。

ちょうど、最近のワイドショーみたいなものである。「女の60分」、「ミッドナイトショー」

「金曜スペシャル」といった特集番組が、一斉に湯川いづみのテレホンセックスを

紹介する。テレビ局にも競争があるから、女が電話をしている現場を撮影させろとか、

リポーターに体験させてほしいとか、

なかでも一番多かったのは湯川いづみ

への出演依頼である。

これには俺も断るのに一苦労だった。

日テレの11PMにはやむなく替え玉を

出したが、そのときのキャスター藤本儀一の

紹介にいわく

「何しろ、まだ誰も会ったことがない。湯川いづみさんには今日初めてヴェールを脱いで

いただくわけで…」

だが、あのとき出演したのは一条ユリ、つまり身代わりであった。藤本センセーには

申し訳ないことをしたが、実物を出すわけには行かなかったのである。

そして遂にはいづみグループ創設者ということで、とうとう俺まで何とか言う番組に

引っ張り出されて耳から来る性感覚について語らされることになった。対談の相手は

岡村喬という当時有名だったテノール歌手であったと記憶する。

取材に来るリポーターには、岡田真澄や稲川淳二など、けっこう豪華なメンバーがいて、

湯川いづみの名前は日本中に知れ渡ったと言っても過言ではなかった。

広告料にすれば何千万の価値があったか知れないだろうが、実はその反面、

テレビ取材は大変なマイナスの部分を内蔵していたのである。

それまでヒッソリと世間の目をかいくぐって増殖してきたテレホンセックスの情報が

一挙に解禁されると、必ずと言ってよいほどこれを真似する業者が現れる。

俺はこれだけの女を集めて電話でオナニーすることを仕込める奴はプロにもいないと

タカをくくっていたのだが、彼らが考えた作戦は、反対に料金を取って店に男を呼んで、

外部からかかってくる女からの電話をゲットさせるという方法であった。

これがテレホンクラブ、いわゆるテレクラの始まりである。

そのときグループでは、新しくスタジオを2チャンネル増設し、事務所のベッドは

テープ吹き込みと俺の専用施設に衣替えしていたから、合計4チャンネル、女の数は

60人ほどであった。

テレビの取材に対しては、新しい性風俗の出現、美女の花園、耳からの快楽放送

といったテーマで紹介させていたから、快感ギャル集団として「声のタカラヅカ」

などと書いた雑誌まであった。

ところが実際には、出勤表によって女のスケジュールは自由にコントロールできる。

交代制だから女同士が顔をあわせるチャンスはほとんどないと言って良い。俺は

思うがままに好みの女を事務所に呼び、新鮮な肉体を翻弄することができたので

ある。それは、どんなポルノ小説でも書けないような、凄まじい肉欲的なシステム

なのであった。

ときとして、俺が遊んだ女が同じスタジオで、仲良くチャンネルを分け合って

テレホンセックスしているという珍現象が起こったりした。当人同士は互いに

そのことに気がついていないのである。

だが所詮、電話というアイテムは女のものであった。

初期の段階では、女が電話に慣れていないために着信の数が少なくて、サクラを

使ったり、料金だけ払い損のアブレた客が出てモメたりして、業者もかなり苦労した

ようだが、 顔が見えなくて、自分が誰かを知られる心配もない、こんな便利な武器が

あれば、女は何だってやるさ。

テレクラはみるみるうちに企業化して、このために電話の早取り器まで発売される

というブームになった。

こうして、湯川いづみグループはようやく衰退期を迎えることになったのである。

テレクラに押されたと言うより、マスコミをあれだけ騒がせるほどのピークに達すれば、

あとは徐々に勢いを失ってゆくのが自然の法則であろう。

だが俺は、女をスタジオに閉じ込めるシステムをやめる気は全くなかった。

それぞれのチャンネルには固定したファンがついていたし、何よりも俺自身に、

熱狂的な女のファンが現れるようになったのである。

丘しのぶがテープに恋をしたように、相手の見えない受話器に向かって発情する。

直接のセックスでは男が射精してしまえばだいたいそれで終りだろうが、際限もなく

十回二十回、いや百回以上もイキ続けるTELSEXは女の性欲の根底を魅了した。

その記録を、留守電の録音機能を使って採録したのがオペラ座の「調教現場録音」

である。

TELSEXの魅力を徹底的に刷り込まれた女が登場するのはこれからだが、その前に、

俺の身辺にちょっとした事件があった。

先ずそのことから、書き留めておくことにしよう。

たまたま、俺が自宅に戻っていたある日の夕方のことである。

リリリ・・・、と電話のベルが鳴った。習慣的に受話器を上げてみると、聞きなれない女の声で

「もしもし、山岸様でいらっしゃいますか?」

「そうですが、あんた誰?」

「アッ、あぁ良かった、わたしです。覚えていらっしゃいませんか」

「うぅん?」

頭の中に、過去の女の顔がくるくると回った。ごく短い時間だったが、記憶の矢印は

ある女の顔しか指さないのである。

「おい、おまえ、好子か・・・?」

「はい、好子です。康二さん、お懐かしゅう御座います」

「どうして、ここが判ったんだ。えぇっ」

俺にはその方が不思議だった。もう三十年以上前、「ユカナイデオネガイ」という

電報を握りつぶして九州に行った。それ以来逢っていないが忘れたこともない。

俺にとっては初めての女、青島好子である。

「妹さんのお宅を探して、そちらで教えていただきました。ご迷惑ではありませんか?」

「迷惑なんかじゃないよ。それよりも、おまえは元気だったか」

「はい、有難う御座います。お蔭さまで・・・」

「結婚しているんだろ」

「えぇでも、こんど東京に行く用事が出来ましたので、お逢いできないかと・・・」

「いいね、懐かしいな。何時東京に来るんだ」

「逢っていただけるなら、なるべく早く・・・」

お互いに、心が弾んでいた。

三十年ぶりに逢う女は、あれ以来、俺のことを想い続けていたに相違ない。

若気の至りで、ずいぶん過酷な責めを強要したり、無理難題を吹っかけて泣かせた

ものだが、マゾとして、今日まで忘れずに俺を慕っていたのだとすると、どんな姿で

俺の前に現れるのか・・・。三十年という時間をかけた愛欲のドラマは、そう簡単に

誰でも体験出来るものではなかろう。

約束をしたのはそれから一週間後の午後、JRの高円寺駅に車で迎えに行くから

待っていろということであった。ここなら車を駐車させることが出来るのである。

時間通りに車を駅前のターミナルに停め、駅の構内に入ってみると、切符売り場の

横に、人待ち顔に立っている小柄な女の姿が見えた。迷わず俺はその女の傍に

寄った。

「好子か・・・」

「あぁあッ、康二さん!」

それは地味な茶色の和服に身を包んだ、如何にも人生の経験を積んだといった

雰囲気の中年女である。東京の女に比べて肌の色が濃い。だが丸い目元や顔の

輪郭は、間違いなく三十年前の青島好子だった。

「元気か、ちっとも変らねぇな」

「いえわたし、とうとう五十才になりました」

恥ずかしそうに、好子は俯いたまま言った。それが再会して最初の挨拶であった。

そうか五十才か・・・

思えば好子は俺よりもひとつ年下なのである。

「いま、どこに住んでいるんだ」

「藤枝に、小さな家を建てて・・・」

「旦那は、何をしている人なんだ」

「静岡の放送局に勤めているんです。事務員ですけど・・・」

「ほう、そりゃ良かったな」

車を走らせながら、俺はどこに行こうかと考えていた。見栄っ張りな俺にしてみれば、

久しぶりに逢った女にみすぼらしいところは見せたくなかった。

「東京に、なんの用だい」

「息子が大学に入るものですから、それで・・・」

「男の子だな、子供は一人か?」

「はい」

やっぱり、ホテルにしよう・・・

俺は好子を郊外のドライブインに連れ込むのを止めた。

新宿まで戻って、京王プラザの最上階で夕食をとる。窓から見える夜景は、壮麗な

東京という大都会の繁栄を象徴していた。三十二年前、ここにこの建物があったら、

見える景色は一望の焼け野原だった筈である。

「よく生きてきたな、あの頃のことを思い出すよ」

「ほんと、長かったわァ」

感極まったように、好子が声を詰まらせて言った。






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