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    三、無残な出発

「有り難うございました」

 玄関まで見送って客の姿が消えたとき、初めて眼尻から涙が落ちた。

そっと指先で拭って台所に戻ると、勝子ともう一人の女がお茶を飲んでいる。

「上手くやれたかい?」

「ええ、良いお客さんでしたから…」

 梨江は、さり気なく言った。

「あんた、えらいわね」

 人なっこい性格のようで、女が横から口を出した。

「ずっと聞こえてたわよ。初めてのお客からアレじゃ良くやったよ。おカァさん、

この人きっと稼ぎますよ」

「そうかい、だと良いんだけどねえ」

 女はあやめであろう。

 ベニヤ仕切りの隣の部屋で、先に客を取っていたのがあやめである。

「牡丹です。よろしくお願いします」

 梨江は顔を紅くして頭を下げた。一部始終を聞かれていたと思うと、

息がつまるほど羞かしかった。

「ごめんなさい。お邪魔だったでしよう」

「いいのいいの。そんなこと気にしてたら何もできやしない」

 あやめはケラケラと笑った。

「早くお道具を洗っておいで、いつお呼びがかかるかわからないんだから…」

「はい」

 勝子に言われて、梨江は風呂場に行った。

 身体の中に、まだ熱っぽいしこりが残っている。洗面器に薄めた消毒液で、

汚れた肉の裂け目をバシャバシャと洗った。コンドームは使っていたが、

指を奥まで入れて、抉るように何回も繰り返した。

 淫売は人間のクズだとあの男は言った。確かにそうかもしれない…。

だがこれは、生きてゆくための死に物狂いの仕事なのである。

 世間の常識で、そう簡単に決めつけられてたまるものか…。

 たった一人の客に抱かれただけなのに、これまでとは全く違った意識の領域に

足を踏み入れている自分を梨江は感じた。

 ただ、家に残してきた香代のことだけが気がかりであった。

 最初の男は何とか耐えることができたが、二人目で、梨江はあっけなく

イカされてしまった。長い間忘れていた感覚はいちど甦るともう止まらなかった。

頭の中は冴えているのに、まるで魔法の壺から蜜が溢れてくるように

肉体だけが反応した。

 三人目はもっと酷かった。梨江がイッたことがわかると、これでもかこれでもかと

責め上げられ、全身が火の玉になった。こうなると快感というより、もう苦痛だった。

 風呂場の洗面器を跨いで、梨江はホッと溜め息をついた。

 まだ、ぼうっと頭の奥に霞みがかかっている。脚を拡げたままでいたので

つけ根の関節が重苦しく痛い。それよりも、周囲の粘膜が充血して、

ジンジンと疼いていた。

 ボンヤリとしゃがんでいると、戸が開いてあやめが入ってきた。

「あァあ、いやな客…」

 自分専用の洗面器で、片手で器用に指を使いながら、あやめは

心配そうに言った。

「あんた。悪いけど、あんなにイカされると身体がもたないよ」

 隠しようもなく、声は隣の部屋に筒抜けなのである。羞かしさに身も縮む

思いで、梨江は事情を告白するよりほかになかった。

「ふうん、ずっとヤッていなかったの?」

「ええ、だから調子がとれないみたいで…」

「だったら、イクだけイッちゃったほうが良い。そうすれば感じなくなるもんよ」

「そうでしようか…?」

「ウチなんか、もうイキたくたってイカないもんね。女は飢えてるくらい

じゃないと駄目なのよ」

 あやめはちょっと淋しそうに笑った。一種の飽和状態になってしまうのだという。

 あやめの言ったとうりになるだとすれば、イクときの苦痛や恥ずかしさを

忍ぶのも当分の間は仕方がない…、と梨江は思った。

「それに、ここがまだ弱いもんだから…」

 あやめはチラッと横目で見たが、毛を剃られていることには

故意に触れなかった。

「あ、ウチ硼酸軟膏をもってる」

 年は梨江よりもずっと下だが、たったそれだけの好意が涙が出るほど

嬉しかった。

 昨日まで、人には見せないものと決めていた女の恥部を、ここでは

常にさらけ出していなければ生きてゆけないのである。

「あやめちゃん、お馴染みさんお泊まりですよゥ」

 そのとき、勝子の甲高い声が聞こえた。

「誰だろ…?」

 あやめが出ていったあと、梨江は丹念に荒れた粘膜に硼酸軟膏を塗った。

 台所に戻ると、ダリヤがよそ行きの服を着て立っていた。昼間、鍋から

すいとんを食べていた女である。

「仕様がないねえ。ま、子が出来たっていうのよりゃ良いけどさ」

 勝子が血のついた脱脂綿を屑籠に放り込みながら言った。

「三日したら帰ってくるんだよ。血なんか少しくらい残っていたって

構わないんだからね」

 ナプキンもタンポンもなかった時代、経血を吸った脱脂綿を見せて

許可を受けると、女は公然と休みが取れた。

「ちょうど良かった…」

 梨江には眼もくれず、ダリヤが勝手口から出ていったあと、勝子は

上眼づかいに薄い唇を曲げた。

「大変だろうけど、今夜からまわしになるわよ。そのほうがお前も

稼げるんだから…」

 部屋が三ツに女が二人…。あやめにはもう泊まりの常連が入っている。

自然、あまった部屋はふたつとも梨江の受け持ちになった。

「泊まりは最低二回はイッて貰うのが決まりなんだからね、

手を抜くんじゃないよ」

「私に、できるでしようか?」

「お前が来るまではあの二人でやっていたんだから、出来ない筈は

ないでしよう」

「でもまだ、馴れてないから…」

「牡丹、そんなことじゃ一人前の娼婦にはなれないんだよ」

 勝子の眼が鋭くなった。梨江が義妹であることなど、とっくに

頭から消えている。

「わがまま言うんじゃない、女郎がまわしを取るのは当り前なんだからね!」

 その夜、梨江は一晩中やもりのように二階の廊下を這いまわった。

 二度三度と部屋を往復させられて、朝十時すぎ、ようやく客を送り出した

ときには心も身体も雑巾のようになっていた。

 結局、昨日の夕方からアッという間に6人の男たちが梨江の体内に

勝手な性欲を吐き出していったことになる。ただれた穴のまわりが

ズキズキと脈を打って、歩くのもガニ股で思うにまかせなかった。

 仕事はまだ今夜の客をとる準備が残っている。眩暈をこらえて、

梨江は三部屋ぶんの枕カバーと敷布を取換え、おしぼりと消毒液を

整えると泥のように眠った。

 勝子は朝一番の電車で家に戻っていたが、配当は夕方の精算が

済んでからでないと渡して貰えない。矢も盾もたまらないほど心配だったが、

とうとう香代の顔を見てやることが出来なくなってしまった。

 どうか無事で、何か食べていてくれますように…。

梨江は祈るような気持で二日目の夜をむかえた。

 遊客は8人…。ダリヤが欠けたぶんだけ忙しかった。前の客が帰ると、

もう次の男が空いているほうの部屋に待っていた。

 挿入されると、火傷の痕をこすられるように痛い。やがて神経が麻痺して、

昨夜と同じ苦痛に似た快感が襲いかかってきた。その度に、梨江は

歯を食いしばって耐えた。

 次の日の午後、梨江は取るものもとりあえず香代が待っている

部屋に向かった。

 受け取った配当は僅か3割の取り分だが、数をこなしているので、

思いがけないほどの金額になった。

 上野の闇市に出て、買ったのは串ダンゴとするめと蒸しパンと…、

とにかく食べるものばかりである。その足で電車に乗って、

油臭い工場の片隅のドアを開けたのは3時を少しまわった頃であった。

「香代…!」

 木箱の机に突っ伏していた香代がハッと顔を上げた。傍らに乾いた丼が

転がっている。

「ごめんネ、お腹空いたろう」

 出来るだけ明るい声で言って、梨江は買ってきたものを木箱の上に置いた。

「お土産、まだたくさんあるからね」

「お母ァちゃん…」

「えっ、どうしたの?」

 不安そうに、香代は宙を見つめている。

「血、血が出た…」

 ドキッと、梨江は胸を衝かれた。

「ど、どら、見せてごらん」

 動こうとしないのを無理に立ち上がらせると、ズロースの真ん中に

赤黒い汚点が広がって、内腿の両側までベッタリと血が貼りついていた。

「香代…っ」

 初潮である…。

 始末するものがないので、学校を休んで蹲っていたのだろう。母親の顔を

見て気が緩んだのか、香代はシクシクと啜り泣きをはじめた。

「お腹は痛くないのかい?」

「うん…」

「みっともない、泣くんじゃないの!」

 口で叱っても、梨江はウキウキしていた。ズロースを取替え、汚れた内腿を

拭いてやる。そのとき気づいたのだが、香代はもう煙るような柔らかい

陰毛を持っていた。そう言えば、いつの間にか乳房も思春期の少女らしく、

なだらかな膨らみを見せている。

「もう子供じゃないんだからね。香代、しっかりしなくちゃ駄目よ」

 二日間部屋をあけたことの言い訳もこれで吹きとんでしまった。

「母ァちゃんは良いから、早く食べな」

 あるだけの食糧を並べて、母と娘の束の間の時間が過ぎていった。

 また店に戻らなければならないことを、どうやって言い出そうか…、

梨江の心が重くなってきたとき、突然、ガタンと音がして扉が開いた。

「何だ。お前まだこんなところにいたのか」

 大造が、バツの悪そうな顔で言った。

「心配して見にきてやったんだ、店に遅れると勝子がうるさいぞ」

「ハイ、すぐに出ます」

 思わず腰を浮かすと、香代はエッと母親を見た。

「また行くの?」

「うん、これから母ァちゃんも働くことにしたから…。お留守番していてね」

 バタンと、大造は乱暴に扉を締めて引き返して行った。

香代は何も言わなかったが、あたりが急に沈んだ空気になった。

「これで何でも買って良いから、脱脂綿がなくなったら薬局に行くのよ」

 持っていた百円札を全部握らせると、梨江は衝動的に娘の肩を抱いた。

 それから三ケ月…、正月も過ぎた。

 梨江の暮らしは、眼に見えて変わっていった。

食糧には不自由しなくなったし、香代に新しい洋服を買ってやることもできた。

 だが部屋に戻れるのは、近頃では一週間に一度か二度である。

 あやめがいつか言っていたように、梨江の身体はその頃から

あまり濡れなくなった。あれほど苦しかったイキやすい体質も、何となく感度が

鈍くなってきたような気がする。セックス過剰の徴候が出はじめたのである。

 その日、外には霧のような冬の雨が舞っていた。

 勝子が用事があると言ってどこかに出掛けて行ったので、梨江は

いつもより早めに店を出た。両手に食料と雑貨品を抱えて、何日ぶりかで

物置部屋の扉を開けた。

 オヤ…。

 三帖一杯に正月に新調したばかりの蒲団が敷かれて、

山型になっている。

「香代、寝ているの?」

 声をかけると、ムクムクと蒲団が動いて、中から赤い顔をした大造が

ゆっくりとこちらを向いた。

「何だお前か…、早かったな」

 梨江は、棒立ちになった。

「香ッ、香代は…」

「おう、ここにいるよ」

 蒲団に中に、チラリとおかっぱの髪が見えた。

「香代…ッ」

 駆け寄ると、両手で蒲団の端を掴んで必死に顔を隠そうとする。

何を考える余猶もなく夢中で裾を捲って、梨江は息をのんだ。

 香代は素っ裸にされていた。縮めた両腿の間で、淡かったかげりの色が

驚くほど濃さを増している。

「い、いつからこんな…ッ」

「まだひと月にはならんじゃろ。出来たての良い身体をしとる」

 着物の前を掻き合せながら大造が言った。

「あ、あなたが姦ったんですか…!」

「人聞きの悪いことを言うもんじゃねえ」

 大造は、こともなげに言った。

「この子がお前と一緒に働きたいと言うんだから仕様がねえ」

「一緒に…?」

「親孝行な娘だ。女郎になっても良いから母親の側にいたいんだと…。

なあ香代、そうだろう?」

「嘘ですッ。この子は何にも知らないんだから…ッ」

「そんなことはねえよ。お前のことは俺からよく話しておいた」

 今日まで隠せるだけ隠してきたのに…、梨江は眼の前が真っ暗になった。

「女が一度は通る道だ。まあ叱らんでおけ」

 無慈悲な力で、大造が香代の足を開いた。

「初めはひどく痛がっていたがよ、今から仕込んでやれば良い女郎になるぞ。

見ろ、もう立派な女だ」

「ひィィィ…ッ」

 その上に覆いかぶさって、梨江は絞り出すような声を上げて慟哭した。



    四、実録・萬古楼余談


 売春防止法の発効は昭和31年である。

 その直前まで、東京小岩の赤線に萬古楼という遊郭が繁盛していた。

経営者は女性で、名前を赤松梨江といった。

 40才を過ぎて年よりも老けて見えたが、この世界には珍しく品の良い、

どちらかと言えば控え目な女だった。

 この萬古楼で、当時、売れっ妓だった女が牡丹である。

 娼婦だから、もちろん誰にでも抱けた。

 評判を聞いて登楼ってみると、まだ20才そこそこで、オモチャにするには

勿体ないような美人だった。

 小柄だが、如何にも性欲をそそる。数え切れないほどの男に抱かれたとは

思えない乳房と、艶の良い三角形の陰毛を持っていた。

 本名、有沢香代…。

 何故か気が合って、滑らかな肉の感触を楽しみながら、私は一晩中、

女の身の上話を聞いた。

 やがて赤線の灯も消える。

 いまわしい戦争の思い出は、遥かに遠くなっていった。




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