羽根をなくした妖精


                           篠原歩美




               (1)  

大きな楢の木の頂きあたりに、冷たい満月が掛かった。

ほぼ天頂の位置。やや青みを帯びた月の光は、凛とした空気を、

更に緊張させていた。池の黒い水は、木々の影に沈んでいたが、

青白い月の光を受けた中ほどの水面は、氷ついたように小波ひとつなかった。 

用意は出来ていた。椿の枝で魔方陣を地面に描き、その中央にビーゾー石と

ペガサスの尻尾を七本、置き、自らも一糸まとわぬ裸体となってその中央に

起立した。 

ヴィジョンは、ゆっくり、深呼吸を繰り返し、胸元で小指だけを隠すように

手を組み、そして、目を閉じた。 

林の中は、冷たい月の光を浴びて、一瞬、完璧に静止した。光も、風も、

時間までも、止まったかに思われた。 

ヴィジョンの朗々たる呪文が、一気にその静寂を切り裂いた。

”われ懇願す! 悪魔と一千の形をもつ月よ! 汝ら来りて池の水をたぎらせ、

昇らせしめ厚き雲を作らんことを! 厚き雲われを熱く包み、一瞬の閃光と

雷鳴によって、わが望み叶えられんことを!” 

一字一句間違えることなく一息に呪文を唱え終えると、ヴィジョンは、声に

ならないようなつぶやき声で、己が願いを繰り返し唱え始めた。 

当人にしてみれば、かなりの時間であったかもしれないが、たかだか、

落ち葉によって出来た波紋が、消えて無くなるくらいの時間。 

切り裂かれた静寂が、ゆっくり動き出した。その気配に気づいたヴィジョンが、

目を開けた。背筋が凍るような光景の幕開けだった。 

それは、自然の摂理を覆すような出来事だった。あっという間に池が霧で覆われ、

突然そこに突風が吹き込んだかと思うと、それが、渦を巻き始め、勢いを増し、

やがて大きな竜巻となって霧を巻き上げ、巻き上げられた霧は、漆黒の闇を作り、

満月もろとも天空を覆い尽くす。

やがて、頭上高く、闇の中に淡い光が生まれたかと思うまもなく、それは、

吸い込まれるように一点に凝縮し、凝縮しきったその瞬間、全てを真っ白に

してしまうような閃光が、そして、大音響・・・・・・

ヴィジョンの覚えているのはここまでだった。





               (2)



「本当にいいんだね。」

「ああ。」

「ああじゃないよ、成功するって保証はなにも無いんだ。このおばばにだって、

もし、失敗したらどうなるかは、解らないんだからね。」 

寿命尽き枯れ始まった赤松の大きな洞の中、光苔を敷き詰めてあるので、

黄昏時でも結構明るい。

「一度は死のうと思ったんだから、怖くは無いよ。」

「もう一度聞くが、柊の精の・・・ほら、」

「リアル」

「そう、リアルとやらにウツツを抜かすだけなら、許さないんだからね。」

「分かってますって。リアルと出合うずっと前からの悩みだったんだから。

真剣です。分かってください。今の自分は本当の自分じゃないんです。

本当の自分に戻りたいだけなんです。嘘の自分で居るよりは、わずかな

希望でも、本当の自分になれる機会に賭けたいんです。失敗しても

悔いはありません。嘘の自分に嫌気が差して、ぼーっと死んだような

毎日の以前を思えば・・・、リアルは、リアルは、ただ、自分を嫌い、

世間を嫌ってた僕に、それじゃ駄目だって気づかせてくれただけで・・・」

「分かった、分かった。」 

老婆は、奥の物入れから、小さな石一個と何かの毛を何本か取り出した。

「ビーゾー石とベガサスの尻尾じゃ。」

「ビーゾー石?」

「雄シカはな、歳をとると、蛇を食べて暮らし、それによって若さを取り戻して

居るのじゃ。しかしな、食べた蛇の毒を体外に排出する為に、牡鹿は

冷たい水の中に鼻面だけを出して潜っていなければならい。すると

蛇の毒は目から滴り出て、冷たい水の中に落ち、凝結してビーゾー石になる。」

「魔法に必要なの?」

「当たり前じゃ、それと、このペガサスの尻尾はな、闇の商人からようやく

手に入れたんじゃが、このペガサスとは、」

「使い方だけを教えてもらいたいんだけど。」

「そうかい、そうかい。分かった。分かったよ。だが、くどいようじゃが、

これから教えるのは、妖精が使ってはならぬ黒魔法じゃ。妖精にとっては

禁断の魔法なのだからな。」





               (3)  



朝露に濡れ、凍りついたように冷たくなった身体を、朝日がやさしく温め始めて、

ようやくヴィジョンは目を覚ました。 

夢の記憶をたどるように、ぼんやりと昨夜のことが、脳裏に浮かんでは消えた。

「あ!」

ヴィジョンは、飛び起きると、自分の姿を隠してくれそうな場所を探した。そして、

近くにそびえる楢の木の陰に飛びこんだ。 

落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせながら、目を閉じ、震える両手を胸に

当てた。そこには今までは無かった、柔らかいふくらみがあった。手のひらでは

収まりきれないふくらみを、ぎゅうっと握り締めると、手のひらの中央に硬くなった

乳首が感じられた。確かめるように、うつむくことなく、右手をゆっくりと股間に

滑らせた。窪んでしまったかと思われるほど、そこはすっきりと何も無かった。

「女になれたんだ。」 

ヴィジョンはくすっと笑って、言い換えた。

「女になれたのね。」 

これまでの、身体全体を押しつぶしてしまいそうな自己嫌悪感から開放されて、

ヴィジョンは空を見上げた。その空に、枝を張り出している桂の丸い若葉が、

そよ風にころころと笑ったように見えた。 

恥ずかしくて下着までは用意できなかったけれど、女物の服は持ってきていた。

タートルネックのニットのノースリーブと同じニットのスカート。色は萌黄色に

統一して、靴は編み上げの深緑色のブーツ。 

昨夜まで着ていた男物の下着はあったが、不思議と付ける気がしなかった。

下着を着けない恥ずかしさより、男物の下着を付けるほうが耐えられなかった。

『ショーツだって、ブラだってすぐ手に入るわよ、女になったんだから。』 

死ぬほど嫌だった男の身体から開放されて、裸でも構わないくらいに

舞い上がっていた。

「あ!おばばに知らせなくちゃ!」 

飛び立とうとしたヴィジョンは、初めて身体の重さを実感した。地面をけった

身体は、風に乗ることなく、地面に帰ってしまった!

「飛べない!」 

背中に手を回すまでも無い。羽ばたこうにも羽ばたく羽根が無いのだ。 

禁断の魔法を使った報い・・・





               (4)  



せっかく男の身体を捨てたのに、妖精でも無くなってしまった。

これでは、ただの小人。

自分は何を望んでこうなってしまったのだろう。本当の自分の姿を求めて

苦しんだ結果が、これとは? 

何が悪かったのだろうか? 誰が悪かったのだろうか?

そもそもの間違いは、男の身体として生まれたこと、そう、そもそもの間違いは、

生まれたこと・・・。 

ヴィジョンは、流れる涙を流れるに任せ、答えの出ない質問を、繰り返し繰り返し

自分に問い掛けていた。何をする気力も無いまま、地べたにへたり込んだまま、

焦点の合わない眼差しを中空に漂わせ・・・死ぬことばかりを考えていたころと

まるで同じように。 

どれほどのあいだ、無意な質問を衰弱した心に浴びせ掛けていただろうか。

ふと、軽い腹痛を覚えた。長い間地面に座り込んでいた為に、冷えたのだろう。

繰り返される自虐的な問いかけの中に、異質な問いかけが紛れ込んだ。

初めから答えを拒否するような、過ぎた過去への問いかけの中に、来る未来への

問いかけ、”これからどうしたらいい・・・?” 涙はとうに枯れ果てていた。

建設的な考えを組立てる冷静さなど、行方知れずのまま・・・このままでは

いけないと思っただけ。 

見上げれば、やさしい光を降り注ぐ春陽は、西に傾き始めていた。

とりあえず、ヴィジョンは立ちあがり、歩き始めた。

『おばばのところへ、行こう。』 

たかだか10cm足らずの身長の妖精では、イヌタデや、スギナ、笹、シダといった

下草をかき分け前へ進むのは、容易なことではない。

失意の底にあるヴィジョンには、はるかに困難を極めたのも、当然だろう。

笹の葉などは、素足のいたるところを容赦なく傷つけた。 

そんなヴィジョンの目の前に道が開けた、獣道である。どんなおろかな妖精でも、

獣道を歩くなどと言った危険を犯すものはいない。ましてや、ヴィジョンは

飛べないばかりでなく、妖精としての魔力までも失った状態なのに・・・ 

深い意味は無かった。歩きやすい、それだけ。何の考えもなく、ヴィジョンは

獣道を歩き出した。目は開いていても、どこにも焦点が合わされていない状態で、

ふらふらと・・・ 無意識に選んだヴィジョンの服装の色、萌黄色、これがどれほど

今まで役立っていたかを、当の本人は知る由も無かった。藪の中にすっかり

溶け込んでおのれの存在を消してくれていた色だったのである。

だが、獣道に出てしまえば、その色は役に立たなくなる。 

それは、一瞬の出来事だった。ヴィジョンは、声も出せぬまま、抵抗することなく、

ばさっという音とともに、暗闇に捕らわれてしまった。





               (5)  



檻の中。ランプの光に照らされて見えるのは、荒削りの石の壁。そして、ゴブリン。

大きな麻袋は、獲物の捕獲と運搬用の道具か。

「気がついたか。」 

檻の中のヴィジョンを覗き込んで、赤黒い醜い顔のゴブリンが臭い息を吐きかけた。

妖精の五倍はあろう身体を屈めながら、

「珍しい生き物だ。」 

ヴィジョンはとっさに、まくれそうなスカートの裾を引き下ろした。

「妖精に手を出したゴブリンがどうなるか、分かってないようだな!」

「威勢のいい姉ちゃんだ、だが、ここには、妖精なんかいねえんだよ。」

「俺はれっきとした妖精だ!」

「違う!もし、妖精なら、羽根はどこにある?!魔法を使って逃げ出してみろよ。」 

ヴィジョンの身体の血液の流れが止まった。一瞬にして、あらゆる気力を失い、

檻の中央にうずくまってしまった。 

ゴブリンは、棒切れを檻に突っ込んで、ヴィジョンを、突つき始めた。

「逃げてみろよ。ほれ、抜け出して、飛んで逃げろよ。」 

ささくれだった棒の先端は、着ている服がニットだけに余計ちくちくと痛かった。

ゴブリンは、獲物の反応を楽しむように、ヴィジョンの脇腹を、突ついてきた。

「痛い!」

「逃げろ、逃げろ。」 

不快な思いを口にすることも無く、ぴくっぴくっと身体をこわらばせて耐える姿が、

余計ゴブリンをそそらせたのかもしれない。両腕で隠しきれない胸を、

脇の下から、棒をこじ入れるようにして突ついてきた。

「嫌か。止めて欲しいか。」 

心は、勝手にしろと、諦めているのに、身体は、無駄な抵抗を止めなかった。

身をよじり、向きを変え・・・

「おもしれえ、おもしれえ、ここはどうだ?」 

踵で隠しきれないお尻を、ゴブリンは檻を回りこんで、執拗に突ついてきた。

その一突きが、ヴィジョンの花芯に命中した。生まれてはじめて感じる痛みも

そうだが、それよりも耐えがたかったのは、燃え上がるような恥ずかしさだった。

「うっ。」

「おまえは商品だ。安心しな。殺さない、傷付けない。だが、逃げようなんて

考えるな。商品だから傷つけないんだ。逃げられちゃ金になんねえ。

金になんねえなら、いらねえから殺す。」

『殺されたって構わない。こんな怪物に、こんな屈辱的なことをされ、我慢している

くらいなら、死んだほうがましだ。』

「明日は、おまえを高い値段で買ってくれる旦那のところに連れていく。いいか、

逃げようなんて考えるな。」





               (6)  



その夜、ヴィジョンは、絶望の淵で夢を見た。  

乾いた枯草色と萌出たばかりの若草色の混ざる南斜面に、さあっと刷毛で

掃いたような空色があらわれた。オオイヌノフグリの花。近づいて探せば、

ツクシやフキノトウも見つかるかもしれない。まだまだ風は、肌を刺すように

冷たいが、春はもう来ていた。 

オオイヌノフグリの花の青が、春の日に照らされて、霞み立つように

浮かび上がる中、うたたねをする柊の精リアルの姿が、そこにあった。 

いっせいに芽吹き出した柳の若葉に隠れ、リアルを盗み見ているのは、

椿の精、ヴィジョンだった。

”春はもう来ていた” 

繊細でやさしいながらも力強い、この春の息吹を、身を以って感じていた・・・

耐えがたい痛みと共に。

「妖精だろう?!もっと自然に生きろよ。ありのままの自分を出せよ。他の連中が

どう思うかじゃなくてさ。ほんとの自分を押し殺してるから、そんな死んだような

目をしてんだよ。」 

いつかそんなことを言われた気がする。 

自由奔放で闊達(かったつ)な振るまいのリアルに憧れていたヴィジョンは、

その想いが恋だと気づいたとき、自分を見失った。ヴィジョンにとってリアルは、

男友達の何者でもなかったのだから。それは、リアルにとっても同じであったに

違いない。男友達として忠告したのだ、

「ありのままの自分を出せよ。」  

ヴィジョンの身体は男。しかし、ヴィジョンの心は、男に恋する女であった。

恋しい男リアルを思い描くときに疼くのは、股間にぶら下がる醜い肉の塊だった。

恋しい男リアルを待ちわびるのは、威嚇するように突き出された肉の塊だった。 

ヴィジョンの地獄は、リアルを恋し始めて凄惨を極めた。

いつも、周りからこう振舞いなさい、こう受け答えたほうがいいという忠告に従い、

自分を矯正してきたのだが、男らしくなろうとすればするほど、そのぎこちなさに、

自己嫌悪の念が募るばかりだった。心は女、でも、身体は男。心は熱く望むのに、

それに答えられない身体。 

一人では生きていけない。皆に認めてもらいたい。リアルにだけでも認めて欲しい。

それで初めて自信を持って生きていける。なのに、認めてもらいたい自分は

女なのに、男の身体では、誰が女と認めてくれよう。これでは、自信を持って

生きていけるはずが無い。ああ、死んだほうがましかもしれない・・・ 

真っ黒い風が、リアルの姿も、霞み立つ青い花も、生きる息吹がほとばしる

若芽も、全てをやさしく包み込む春の日差しをも、一瞬にして消し去った。





               (7)  



荒々しく転がされる感覚に目覚めたときは、例の麻袋の中らしかった。

『どうやって死のうか?飛べないんだから高い木の上から飛び降りたらどうだろうか?

いや、だめだ、風にながされて、とんでもないところに落ちたら、みっともない姿を、

見られてしまう。入水自殺ならどうだろう。あ、沼の底でザリガニに食われるなんて、

ぞっとする、だめだ。毒薬、そう、これだ、でも、どこで死のうか?

ああああああっ、どこで死んでも、死体に群がる虫からは逃げられない!

この忌まわしい身体は、最後まで俺を苦しめるのか!

焼身・・・死んだ後ならいいが、意識のあるうちに、我が身を炎に委ねることなど、

怖くてできない。どうして、生きるっていう現象が、跡形もなく消え失せるのに、

肉体は、後々まで醜くその屍をさらすのだ!』

「おとなしいな。」 

大きな麻袋を背負って歩いているらしいゴブリンが、声をかけた。

麻袋の中、ほとんど逆さまに詰め込まれたヴィジョンは、無言のまま、

歩幅の大きなゴブリンの歩みに合わせて大きく左右に揺れていた。

「怖いか。」 

ヴィジョンは、黙ったまま。どうでもいいことだった。考えることすら面倒だった。

返事をしないことで、例えこのゴブリンが乱暴を働こうが、気にならなかった。

「どこに連れていかれるのか分かんねえんだから、不安だし、怖いだろうな。」 

不安だが、怖くはなかった。何とか逃げ出して、死に場所を探すだけだから、

いざとなったら、手段を選ばなければいいだけだから。

「これから行くところは紫陽花館という地下宮殿だが、嫌なことばかしじゃねえ

はずだ。俺が連れていった奴隷たちの中には、結構、馴染んでる奴もいるんだ。

殺し以外なら、あらゆる快楽を与えてくれるという世界だ。酒、ギャンブル、女、

男、望むものは、必ず提供してくれる。お前はそこで、奴隷として働くんだ。」

『奴隷?』

ヴィジョンの心にその言葉だけが引っかかった。

『ゴブリンに捕らわれて、今、売り飛ばされようとしてるんだから奴隷だったんだ。

自由を奪われ、意志を持たぬ家畜のように扱われるわけだ。そうか、わたしは、

男でもなく、女でもなく、妖精でもなく、奴隷なのか。奴隷、奴隷、奴隷、奴隷。

奴隷としては死にたくないな。何とか逃げ出さなくては。』

「お前は、俺が今まで扱った中では、最高級の玉だ。高く売れるのは

もちろんだが、たぶん、少しは覚悟した方がいいだろうよ。ヒイラギの

部屋行きになるだろうからな。」

『ヒイラギ?!』

ヴィジョンは思わず叫びそうになった。柊の精、リアル?まさか、あのリアルが

そんなところにいるはずがない。ただの部屋の名前、でも・・・

「さああ、ようやく着いたぜ。最後に、一つだけ忠告しておく。これまでに、

生きて紫陽花館を逃げ仰せた奴隷は一人もいないっていうことだ。どんな

境遇でも、生きていれば明日は来るんだ。逃げるな。死んじゃいけない。じゃあな。」 

息の詰まるようなゴブリンの体臭の向こうに、間違いなく強烈な生臭い

栗の花の匂いが漂っていた。



               
(つづく)