羽根をなくした妖精 �U


                             篠原歩美



                 (8)  


ヴィジョンは、持ち上げられた麻袋から床に転がり落ちた。 

屈強そうなニングルが二人、ヴィジョンを見下ろしていた。何もない

殺風景な部屋だが、手間暇かけて作られ、使い込まれた重みが

感じられる内装だった。

「名前はなんていう?!」 

二人だと思っていたニングルの後ろに、もう一人、歳をとったせむしのニングルが、

声をかけてきた。

妖精(フェアリー)とは別種の元々羽根を持たない森の精を、ニングルと呼ぶ。

妖精は身長10前後だが、ニングルは一回り大きくて、15位ある。

「名前をいえ!」 

ヴィジョンを見下ろしていたニングルの一人が、篠竹でできた鞭を振るった。

「滅多にお目にかかれない品だ、傷は付けるな。」 

せむし男が、たしなめた。 

とがった耳を持ち、目尻のつり上がった意地悪そうな顔をしている。

ヴィジョンが、初めてニングルをみた印象だった。普段、フェアリーと

ニングルが出会うことはない。フェアリーは人里近くの林に住むのに対して、

ニングルは人里離れた原生林といったように棲み分けができているからなのだ。

「素直に心を開いてくれるのなら、ここは決して居心地の悪い所ではない。」 

見た目とは違い、せむし男の声は穏やかだった。

「名前は?」

「ヴィジョン」 

相変わらず、二人のニングルはヴィジョンを睨んでいる。すぐにでも

動き出せるように構えている気迫が、緊張感とともにヴィジョンにまで

伝わってくる。

「ヴィジョン、立ち上がりなさい。」 

言われるまま、ヴィジョンは、ゆっくりと立ち上がった。

「よろしい。では、身につけている物を全て取りなさい。」 

ヴィジョンはうつむいた。

「まず、命令されたら返事をする。いいね。」 

ヴィジョンはうつむいたまま。

「身につけている物を全て取りなさい。」 

いきなり、篠竹の鞭が二本、張りつめた空気を切り裂いた。

一本は右の太股にヒットした。一本は左の二の腕にヒットした。 

ヴィジョンは、うつむいたまま、痛みに耐えた。微動だにせず、

声も出さなかった。

篠竹の鞭が、もう二度三度と、服に覆われていないむき出しの肌にヒットした。

「止めろ、もういい。」 

二人のニングルは、元の位置に戻って身構えた。二人の間を縫うように

せむしのニングルが、ヴィジョンの前にでてきた。

「素直に心を開いてくれるのなら、ここは決して居心地の悪い所ではない。

しかし、その頑なな心を開くように、我々が手伝うとなれば、そうはいかない。」 

うつむいたままのヴィジョンの顔を上げさせようと、せむしのニングルが、

ヴィジョンのあごをつまんで上げようとした。と、身体をこわばらせ、

頑として顔を上げようとしないヴィジョンの顔に、せむし男の平手が炸裂した。

老人とは思えない力で、ヴィジョンは、二三歩よろめいて、倒れてしまった。

「地下牢へ連れていけ。」 

せむしのニングルは、早々と背を向けて部屋を出てゆくところだった。

もはや、ヴィジョンには興味がないとでも言いたげに・・・





               (9)  



食料庫を兼ねた地下庫に連れていかれた。その地下庫の奥まったところに

さらにその地下へと口を開けた穴があった。ヴィジョンはその穴の中に

入れられた。何の説明もなく、いきなり分厚い板でその穴はふさがれた。 

ようやく横になれるだけの広さ、自分の身長の二倍はありそうな高さ。

そして、自分の手がようやく判別できる位の暗闇。ベットも布団もない。

机も椅子もない。床も壁も冷たい岩肌。

「死ぬことばかり考えていたから、どうやら生きたまま墓に入れられたようだ。」 

自分の独り言に、ヴィジョンは苦笑いした。

「本意じゃないけど、このまま餓死するわけだ。」 

ヴィジョンの独り言が聞こえたかのように、天井の板戸が一瞬開いて閉じた。

そして、床に乾いた音。手で探ってみると、それは一切れのパンだった。

ヴィジョンは拾い上げることもなく、その一切れのパンをある決意を持って

踏みにじった。

「死んでやる。」 

冷たい岩肌の壁に幾度となく頭を打ち付けてみた。額から流れ落ちる

血潮と涙がヴィジョンの顔を濡らしたが、意識が次第に遠のき

死に至るというはかない望みは叶えられなかった。

「まあいい、いずれは死ぬんだ。」 

ヴィジョンは、今、波のように打ち寄せる生理的欲求に、驚くとともに、

憤りすら覚えた。忘れていた。

「どうして、穏やかに死なせてくれないんだ!!!」 

我慢しきれるものでないことは、自分が一番よく知っていた。惨めだった。

悲しかった。情けなかった。ヴィジョンは、部屋の隅で、スカートをたくし上げて

腰を割った。あっという間に、悪臭が穴の中に充満した。 

汚物から一番離れている対角の部屋の隅に、くずおれたヴィジョンは、

自虐的にただただ自分の身体を呪った。そして、この世に生まれ落ちた

ことを呪った。

「絶対に死んでやる。もう、美しく死にたいなんて、そんな贅沢な死に方

なんて望まない。どうせ汚らわしいこの身体だ。」 

軽い空腹とのどの渇きを覚えた。しかし、いつになったら、この身体は、

生きることをやめてくれるのだろうか。心臓は血液を全身に送り出すべく

働き続け、消化器は栄養と水分を求めそして排泄し、肺は・・・

「そうだ、餓死を待つことなんかなかったんだ、呼吸を止めれば死ねる。」 

この愚かな思いつきは、大変な体力を消耗し、目眩をヴィジョンに

与えるだけだった。軽い貧血状態で、意識が霞んだ、そのとき、天井の板戸が

跳ね上げられ、大量の水が降ってきた。この穴の上に池があって、

その池の底が抜けたと思えるほどの水の量と勢いだった。 

ヴィジョンは、逃げる場所もなく頭からしこたま水をかけられ、

ゴーという音と共に穴の中を洗い流して、水は地面に消えていった。





                 (10)  



いつの間にか、眠ってしまったようだった。朝なのか昼なのか、

全く分からない。時間からもすっかり隔絶された空間。ここに入れられてから、

どれくらい経ったのかも分からない。しっかりと意識できる今日があるから、

はっきりした昨日がよみがえり、鮮明な明日が思い描けるというもの。

ここには、つかみ所のない曖昧な今日しかなく、だから、思い出せる

昨日もなければ、希望を託す明日もなかった。 

ほとんどが暗闇で、聞こえてくる音もない。知覚できるのは冷たい岩肌と、

忌まわしい捨て去りたい自分の身体だけ。 

その自分の身体に、何気なく、ほんの気まぐれとして、そっと触れてみた。

腕、肩、胸、お腹、腰、足、自分の身体・・・次第に、理解できない感情が、

ヴィジョンの胸を締め付けた。温かい・・・

「ああああ。」 

溜息とも、うめき声ともつかぬ、悲痛な乾いた声だった。 と、いきなり、

天井の板戸が一瞬開いてまた閉じた。そして、床に乾いた音。

きっと、前と同じだ。ヴィジョンは、足でパンを探り当てると、力無く踏みしめた。

空腹は、限界を超えていたというのに・・・

「死にたい、今すぐにでも死にたい、でも、わたしに残されているのは、

餓死しかないのだろうか。こうして、我慢していれば、いつかは死ねる

のだろうか。いやいや、そんな弱音を吐いていちゃいけない。

なんとしてでも、死ななくちゃならないんだ。ニングルの言いなりに

なんかなるものか。捕らわれ、売られた奴隷かもしれないが、心は

奴隷じゃない。ニングルの投げてよこしたパンなど、口にできるか!」 

そう言いながら、踏みつけた足の下のパンの感触から、逃げられないでいた。 

飢えも耐え難かったが、それよりも、ヴィジョンを苦しめ始めたのは、

渇きだった。何度も何度も生唾を飲み込みながら、気がつくと、清冽な

冷たい泉に、顔ごと浸けて、のどを鳴らす自分を想像しているのだった。

我に返ると、更なる苦痛が待っていることを知っていながら、喉元を過ぎて

行く冷たい水の感覚を、想像せずにはいられなかったのだ。

「この苦しみの向こうに安らぎがある、そう信じるから我慢もできる。

しかし、いつまで、どこまで我慢を続けなければならないんだ。

ここから出られさえすれば、逃げ出すことさえできれば・・・」 

ヴィジョンが天を仰いだ、その時、前と同じように、大量の水が落ちてきた。

ヴィジョンは自分のしていることを理解することなく、口を開け、

流れ落ちる水を貪り飲んでいた。





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どれだけの周期で繰り返されるかは計りかねたが、パンに限らず、

少量の食べ物が、投げ込まれ、そのしばらく後に、大量の水が

降り注がれる。 

ヴィジョンは、この繰り返しを認識すると、我にも無く、投げ込まれる

食べ物を待つようになった。それと気づく度に、自分を戒め、死への決意を

新たにするのだが、それでも、唾液を止めることはできなかった。 

何度、涙の中で、投げ込まれた食べ物を、排水口の中に見送ったことか。

空腹からくる体力の衰えは、ヴィジョンも自覚するところではあったが、

それにも増して、心の衰弱が進んでいることには、気付かぬようだった。 

心の命ずるところにあからさまに反発する身体とは対照的に、身体に

抵抗された心は、寄る辺を失いその弱さを露呈し始めていた。

そんな中、もうろうとする意識の中で、とうとう、今もっとも忌み嫌う

ニングルが投げ込む食べ物を、手にとってしまった。まとまりのつかない

考えのまま、ぼんやりと手の中の食べ物を、見ていた。美味しそうな

香りが、鼻腔を刺激し、捨て置かれた思考がすこしづつ戻ってきた。

「心は間違いなく死を望んでいるというのに・・・心が滅んでしまえと


願ってやまない身体は、生きることをやめようとしない。自分の意志で、

心臓を止められないように、生きようとする身体を、心は止められないのか。」 

ニングルに服従するつもりはないが、もう一度、この身体と付き合って

いこうかとヴィジョンは思い始めた。 

身体は、ただただ正直にその生きるという使命を果たそうとした

だけかもしれない。心は、ありのままでいたいと願いながら、

身体に後れをとり、身体に従いながらも、我と我が身に言い訳を

繰り返していた。 

以前に、自分の身体に触れて、味わった、理解できない感情とは、

もしかしたら、己が肉体に対する愛おしさだったのかもしれない。 

極限状態に追い込まれ、理想、理論、理念、規律、規範、常識、等々、

あらゆる精神活動が阻害されたとき、残されたものは原始的な

身体の叫び声だったのかもしれない。その叫び声を、幻聴のように

聞いたのだ。今、それは、意志となって心に満ちた。

「とりあえずは、生きてみよう。わたしを殺すつもりなら、こんなことは

しない。いつかは、ここから連れ出されるはずだ。」 

この瞬間から、ヴィジョンの生きる努力が始まった。 

投げ入れられる食べ物はすべて食べる。運動も狭い空間の中で

始めた。水が注がれるであろう少し前に排泄を済ませ、滝のように

流れ落ちる水で、汚物を流し、身体を清め、水分を補給する。 

ヴィジョンの頭の中は、この穴から出られるであろうその時まで、

生きること、それしかなかった。いや、ヴィジョンは怖かったのかも

しれない。自分が受け入れたこの境遇について、深く考えることを

恐れたのだ。惨めで、恥ずかしい家畜同然の生活。生きることだけに

専念し、一切の思念を排除する事で、プライドをなんとか保とうとしたのだ。

しかし、それは、惨めで、恥ずかしい家畜としての生活を受け入れた身体が、

心をも飼い慣らそうとする第一歩に過ぎないことに、ヴィジョンは気づいて

いないだけかもしれなかった。 単調な時間だけが、同じく繰り返し、

何の進展もない繰り返しの中で、浪費されていった。

そんな中で、一つだけ 気になることが・・・生き物の気配が、いっさい

感じられないのだ。食べ物が投げ入れられ、水が流し込まれると

いうのに、姿も見えなければ、足音すら聞こえないのだ。注意して、

神経を集中してもみたが、ニングルどころかほかの生き物、動物は

おろか、植物すら感じられないのだった。ヴィジョンに与えられた世界は、

岩肌の床と壁、定期的に投げ込まれる食べ物と水。それだけだった。

生まれて以来、ヴィジョンを大きく包み込んでくれていた大自然。

太陽の光、風、草や木の輝くざわめき、鳥の声、舞い踊る虫たち、

咲き乱れる花、妖精の仲間たち。ニングルは、ヴィジョンから

あらゆるものを取り上げてしまったのだった。

季節、そう、時間までも。残されたものは、自分の身体だけ。

これには、大きな意図が、隠されているに違いなかった。 

その大きな意図に、ヴィジョンが気づき、苦しみ始めるように

なるのは、かなり後のことだった。

時間が巡り、月が巡り、季節が巡り・・・ 果たしてそれが生活と

呼べるかは別問題として、この単調な生活の繰り返しは、

終わりを知らないようだった。ヴィジョンの心の中に、出口の

見えない、この飼い殺しの拷問への恐怖心が芽生え始めた。

この穴から出た後のことを、あれこれと思い巡らしていたが、

いつまでも解放されることのない重苦しいこの閉塞感は、それをも

阻害し、大きな不安を招き入れてきた。いくら、生きることだけに

専念しても無駄だった。 

恐怖と不安に心が蝕まれ始めると、心は逃げ場を求めて

さまよいだす。安全な所、柔らかな所、暖かな所、ほんのり

明るい所、優しい所。この冷たい岩肌の穴蔵に、そんなところを

求めること自体間違いなのに・・・それでも、求めずには

いられない心は、苦しさを伴って代わりになる物を求めようとする。

何もない穴蔵の中に・・・何でもいい、とにかくこことは別の、心が

逃げ込めるところなら・・・ ニングルが計り巡らした大きな意図とは、

ヴィジョンを限界まで孤立させること。何十日が過ぎたか、

何カ月が過ぎたか、ニングルの意図通りに、ヴィジョンは孤独という

重病にかかってしまった。

・・・一人ではいられない・・・





               (12)  



叫んでいた。食べ物が投げ入れられる瞬間。水が注がれている間中。

「姿を見せろ、顔を見せてくれ!そこに居るんだろ!話をしてくれ、

声を聞かせてくれるだけでもいい!!」 

家畜のように、ただ、食べて、飲んで、排泄して、眠って・・・極限にまで、

不要なものをそげ落とし、最後に残された心と体が、最後に求めたもの・・・

「もう、許してくれ。ここから出してさえもらえたら、何でもするから、

お願いだ!」 

叫び初めて、何十日かが過ぎた。 

石畳の倉庫を歩く足音が聞こえてきた。ヴィジョンにとって、

その音だけで、至福の喜びに浸れるくらいだった。

”自分以外にも、生きているものが居た。” 

分厚い板戸が跳ね上げられて、微かな光が漏れてきた。

「上がってきなさい。」 

忘れもしない、あの時のせむしのニングルの声だった。待ちわびた

心の友からの声のように、心地よく耳に響いて鳴りやまなかった。 

自分でも信じられないくらいに、喜びに打ち震えながら、下ろされた

階段を、ゆっくり登り、薄暗い地下庫に這い出てきた。思わず、

せむしのニングルの前にひれ伏し、ヴィジョンは、なんと、その足に

恭しくキスをした、・・・心から。

「よろしい。よくできた。この穴の中に入った者は、大抵、心が

壊れてしまう。まあ、それはそれで利用価値はあるのだが、

お前は、絶妙のバランスで生まれ変わってくれたようだ。

私としてもうれしいよ。」 

せむし男が手を叩いた。別のニングルが、ヴィジョンの後ろに

回り込み、目隠しをした。

「怖がることはない。あまりにも長い間、暗闇にいたお前の目は、

わずかな光にも傷つくほどに敏感になっているはずだ。その目隠しは、

そんなお前の目を守るためだけのものだ。それから、お前に

世話役を付ける。」

「ムラサキといいます。」 

ヴィジョンのすぐ後ろで声がした。目隠しをしてくれたニングルだろう。女だ。

「素直に心を開いてくれるのなら、ここは決して居心地の悪い所ではない。」 

せむし男の声は、やわらかく、耳をくすぐるように心地よかった。

「お前の名前は・・・」 

ヴィジョンは伸び上がり、聞かれたことに答えようと口を開きかけた。

が、その口は、せむしのニングルの手でふさがれた。

「そう、お前の名前はスミレがいいだろう。生まれ変わったのだよ。

ムラサキや、いいね、この子はスミレだ。そのように仕上げてくれ。」

「はい、分かりました、ご主人様。」 

ご主人様と呼ばれたせむしの老人は、ムラサキが頭を上げる頃には、

背を向けて歩き出していた。

「さあ、行きましょう。」 

ムラサキという女のニングルに促されて、ヴィジョンは立ち上がった。

その時、微かに、でも確かに、栗の花の匂いを感じた。

あれから、もう一年・・・



               
(つづく)