羽根をなくした妖精 �Y


                                    篠原歩美





                  (27)

月の光が、さらさらと音を立てて降り注いでいるようだった。

新しく見つけた泉で、ヴィジョンが、沐浴を始めた。

「いいかい、見張りをするんだからね。覗くんじゃないよ。」

「言われなくたって、おかしらを覗くわけがねえ・・・」

「口の減らない奴だよ、あたしの次にはヴィジョンだからね、

これじゃ、あたしがおまえ達を見張るようだねえ、まったく。」

「俺達は?」

「あたしが最初、女だから次がヴィジョン、おまえ達?・・洗いたいなら

その後勝手にやりな。」  

月の光を浴びて、白いヴィジョンの肌がいっそう白く闇ににじんで

見えた。傍らのマツヨイグサの黄色い花が、裸体のヴィジョンを

幻想的に演出しているようだった。

「見るなって言うから、見たくなっちまうんだ。俺が悪いんじゃねえ、

月夜のせいだ。」 

髪を洗おうと身を屈めたために、ヴィジョンの丸いお尻がつんと

上を向いた。

「たまらねえなあ。」 

トールの細い身体は、今にも前にのめりそう。 

その時、白いヴィジョンの身体が消えたように思われた。黒い影が

ヴィジョンに、覆い被さったのだ。ヴィジョンの後ろに音もなく忍び寄った

黒い影は、右手で口を押さえ、左手で腰を抱き上げ、泉のほとりに

押し倒し、口で口を塞ぎ、左手であらわな胸を押さえつけ、

右手でしなやかな左足を抱え上げ・・・あっという間の出来事だった。

「やばい。」 

動き出そうとしたトールの肩を、トモロのがっしりした手が押さえつけていた。

「静かに!」

「だって、ヴィジョンが・・・」

「分かっている。でも、今下手に動いたら逃げられる。」

「逃げられる?ヴィジョンを助けないと・・・」

「よーく見てみな。ヴィジョンは喜んでるよ・・・」

「え?」 

覆い被さっている黒い影の首に、ヴィジョンの白い腕が絡んでいた。

「リアルだよ。」

「え?まさか?てっきり紫陽花館の連中に捕まったのかと・・・」

「あたしもそう思っていたよ。でも、あれはリアルだよ。捕まらなかったのか、

逃げ出したか、どっちにしても、ヴィジョンを犯してるのはリアルだよ。」

「どうしたらいい、おかしら。」

「いいかい、音を立てないようにファットの所に行きな。いい気分で

居眠りこいてるファットを音を立てないように起こして、チャンスを待つんだ。」

「チャンス?」

「女のあたしから言えるかい?!」

「ああ、ひくひくっていって、びゅびゅっとなって、ぐてええとなる時か。」

「その腰つきは止めな!くれぐれも気付かれないように、音を立てない

ように、いいね。」 

青白い月光に晒された白い肉体が、闇に紛れそうな浅黒い肉体に呼応して、

波打っている。いつもなら、品のない蛙の声までも、恋の歌を輪唱して

いるように聞こえてきた。





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「ごめんよ、せっかくのお楽しみを邪魔しちゃってさ。」

「おかしら、からかわないで下さい。」

「だってさ、その、幸せそうな顔ったらないんだから。あ、はははははは。」

「やだ、恥ずかしい、それに、ずうっと見てたんでしょ?」

「見られると余計に燃えるって、紫陽花館では覚えてこなかったのかい?」

「おかしらったら!でも、ほんとに見てたんですか?」

「仕方ないじゃないか。それともなにかい、リアルを逃がしても

よかったってかい。」

「おかしらの意地悪・・・でも、リアルは?」

「トールとファットが見張ってるよ。」

「リアルに怪我は?」

「失礼な!あたしがそんなドジを踏むとでも・・・」

「ごめんなさい。」

「まあいいさ。」

「リアルはこれから?」

「どうしたらいいだろうねえ。」

「おかしら・・・」

「そう、急ぎなさんな。リアルを紫陽花館から助け出すことばかり

考えていたものだからねえ・・・」

「リアルの壊れた心って、いったい・・・」

「知性はあるが理性がない、現在はあるが過去と未来がない・・・」

「ムラサキも言っていましたが、どういうことなんですか?」

「自分にとって害になるか役に立つかの判断は出来る。同じように、

自分にとって気持ちがいいことか苦痛かの判断もできる。

でも、たった一つ、自分にとっての判断しか持たないのさ。

食べたいから食べる、寝たいから寝る、犯したいから犯す、

殴りたいから殴る。その時相手はどう思う、その時仲間は

どう考えるというのがないんだよ。そして、リアルには

今しかないんだ、今何がしたいか、それだけなんだよ。

これまで、こんな事をしてきたという自信、誇りがない。

これから、こんな事をしたいという希望、夢がない。

それがリアルさ。」

「かわいそう・・・治せないの?」

「そうだね、いろいろと教えてはみたんだけど、リアルの壊れた心は

治らなかった。周りのみんなも大変だが、本人が一番つらいのかも

しれないね。時折、悲しそうな目をしてるのは、そのせいだと思うんだよ。」

「おばば、そうよ、おばばなら何か知っているかもしれない。おばばなら

リアルを治してくれるかもしれない。おばばは何でも知ってるんだ。

いろんな薬や、いろんな魔法。あ、まだあの赤松枯れてないと

いいんだけど・・・急ごう。」

「そうだね、そこに行ってみようか。」





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以前に床びっしりと敷き詰められていた光苔は、黒く枯れていた。

「おばば、おばば。」

「その声は、ええと、」

「ヴィジョンだよ。椿の精のヴィジョンだよ。」

「そうそう、ヴィジョンだ、ヴィジョン、心配していたんじゃ。

生きていたんじゃの。よかった、よかった。それで、それで、

お前は、問題なく女になれたのか。」

「ええ。」


「なんでもっと早く訪ねてくれなかったんじゃ?まあいい、まあいいさ、

いろんな事情があったんじゃろうよ。こうしてきてくれたんだからね、

それで良しとするよ。」

「ごめんなさい。」

「美人になった顔が見たいんじゃが、あいにくともう目が見えなくてね・・・

おや、連れがいるのかい?」

「挨拶が遅れました、トモロです。」

「これはこれは、おまえがヴィジョンを連れてきてくれたんじゃな。

おまえなら、もしかしたら、いい知らせを持ってきてくれると

思っていたが、まさか・・・」

「遅くなりました。ことのほか、手間取ったもんだから。」

「おかしら、おばばを知ってたんですか?」

「おばばとのつき合いは、おまえさんなんかよりずっと古いのさ。」

「遠くへ行けないわたしの代わりに、目となり耳となってくれていたんじゃよ。」

「おばばはあたしの知恵袋って訳さ。ところで、早速だけどね、

一角獣の角が欲しいんだが、どこへ行けば手に入るんだい?」

「一角獣の角って、お前、ヴィジョンが心の病に?」

「いいや、ヴィジョンに必要なのは他にあるんだが・・・」

「それじゃ、だれが?」


「リアル・・・」

「おや・・・リアルも探し当てたとは・・・」

「知性はあるが理性がない。現在はあるが過去と未来がない・・・」

「まさしくその心の病には一角獣の角が必要じゃが・・・

リアルがそんな病に・・・」

「どこに行けば・・・」

「・・・」

「おばば!!!」

「・・・」


「おばば、悪い知らせか?」

「どこにもない。」

「そんな。」 

トモロは天を仰いだ。ヴィジョンにいたってはその場にくずおれてしまった。

「もし・・・」

「なんだね、おばば。」

「もし、この世に最後の一本が残ってるとすれば、紫陽花館。」

「やはり、よりによって、一番もめているところとは・・・しかも、

出来る範囲で探りを入れたのに見つからなかったところなのに・・・

一角獣の角以外に、リアルの心の病を治せる魔法は?」

「ない。」

「紫陽花館以外に、一角獣の角があるところは?どんな遠くでもいいから。」

「ない。」

「おばば。」

「紫陽花館にすら、あるかどうか・・・」






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ヴィジョンの頭の中は、混沌としたまま・・・トモロ・・・紫陽花館で

出逢った時は、好色で下品なおばさんでしかなかったのに・・・

自分をさらってくれる優秀な泥棒に、いいえ、盗賊というのは

表向きかもしれない、だって、おばばの為に・・・もしかしたら

全て計画的に、リアルとわたしを救い出すために・・・

「ヴィジョン、どこへ行くんだい?!」

「考え事を・・・」

「そうだね。いろんな事がいっぺんに起こりすぎた。好きにしな。

トール!トール!!リアルは?」

「薬で眠ってるよ。ファットが見張ってる。」

「それじゃ、トール、ヴィジョンにつき合いな。」

「はいはい。」

「べったりくっついてたら気持ち悪くて考え事の邪魔だ、遠くから

見守るだけでいい。」

「はいはい。」

「ありがとうございます。」

「ここまで来れば大丈夫だと思うが、用心に越したことはないからね。」 

ヴィジョンは、赤松の老木が見える程良いところの、カタバミの

群生する草原に仰向けに寝ころんだ。

「あっ。」 

カタバミの種がはぜて、ヴィジョンの顔に当たったのだった。

『こんな小さな草も、一生懸命生きている。』 

まぶしいのを我慢して薄目をあけると、濃い青空の中、ゆっくりと、

白い雲が形を変えながら流れていた。

『今の自分に出来ること・・・トモロを信じて、待つこと?』 

ヴィジョンのすぐそばに、セキレイが舞い降りてきた。

そして、忙しい忙しい・・・あれをして、次にこれをして・・・

そんなことを言いながら、ちょんちょんとしっぽを三四回上下に振って、

慌ただしく飛んでいってしまった。

『リアルがわたしを変えてくれる。リアルを変えてあげられるのは?』 

充電するかのようにネジバナの先にしばし羽を休めていた

ムギワラトンボが、風を切るような勢いですっといなくなった。

ネジバナの揺れだけが残った。

『どんな明日が来るのか不安に耐え、せめて今の自分だけは

守ろうと身構え、素直に従順にただひたすら待ち、どんな明日で

あろうと受け入れる。それでいいの?明日を信じていない。

明日を諦めている。これでいいの?』 

刺すような夏の日射しをそのまま音にしたような蝉時雨が、

ヴィジョンに降り注がれていた。四年七年あるいは十七年と

地中で過ごし、今この一瞬に生を燃え尽くさんとするように、

その鳴き声は輝いていた。

『空っぽな心が、何かを求め始めた・・・リアルを助けたい・・・

身体が求めるからじゃなく、愛する者のために生きたいという心が

求めるもの・・・」





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「戻ってきた日からのお勤めも大変だろうがな・・・我慢してくれ。

今日のお客様はここも初めてだが、このようなお遊びも初めてと言う・・・

あしらいかた次第では、常連様になるお客様だ。今日はわたしが

介添えとして付き添うから、言われた通りに従いなさい。」

「はい。」 


以前は感じなかったが、老人の優しさがあふれていた。

「気短なわたしも、お前のお陰で、少しばかり、待つと言うことを

覚えさせてもらったようだ。感謝するよ。」 

せむしのニングルが、立膝で控えるヴィジョンの髪を指でもてあそびながら、

小声でつぶやいた。

「お客様がみえた。よろしく頼むよ。」 

老人のニングルは、ことのほか機嫌が良かった。

「ようこそいらっしゃいました。前菜代わりにこちらを用意させて

いただきました。」 

マスターは、お客様と呼ばれるニングルに、篠竹の鞭を手渡した。

「スミレ!四つん這いになって、お尻を高くあげなさい。

そう、お客様に向けて。」 

しばらく間があった。「どうぞ、思いのままに。」

「あ!」 

紳士風のニングルが、鋭く篠竹の鞭を振るった。わずかその一振りで、

みるみる白いヴィジョンのお尻に、痛々しい赤いミミズ腫れが

浮き上がっていった。

「痛っ!!」

「お客様、お上手でいらっしゃいます。これでは、わたくしが

介添えする必要などないほどで・・・」

「うう!」 

低くおさえたヴィジョンの悲鳴が、おさえたが為に余計痛々しく

ヒイラギの部屋に響いた。

「うっ。いっ。」

「盗賊のトロールから逃げ出したはいいが、行くところがなく

ここにもどってきたと言ったが、正直に言ったらどうだ。」 

せむしの老人は、ヴィジョンの髪をきつくつかみ、小声で囁いた。

「お前の身体は、このヒイラギの部屋から逃げ出せなくなって

いるんだよ。この身体で覚えた快感が忘れられないって、

正直に言ってごらん。」 

恥ずかしげにうつむこうとするヴィジョンをむりやり上向かせ、

「うれしいか?」

「はい、感じるのです・・・」 

ヴィジョンの声は、甘く融けるように、紫陽花館のマスターを満足させた。

「お客様、これを奴隷のお尻の穴に、差し入れてください。」 

お客様と呼ばれたニングルに、せむしのニングルがエノコログサ

いわゆるネコジャラシを何本か手渡した。

「しっぽをつけた四つん這いの奴隷を、鞭で追い立てるのも一興かと存じます。」 

せむしの老人は、ヴィジョンの顔をのぞき込んだ。老人は楽しそうに

微笑んでいた。

「わたしを信じていればいいのだよ・・・」 

ヴィジョンはにっこりと微笑んで見せた、老人の言葉に同意するかのように。

でも、心の中でつぶやいた、

『わたしが信じるのは、あなたじゃなく、明日です。』 

ヴィジョンは、目に見えない羽根を手に入れた・・・ 

ここからは確かめようもなかったが、サルスベリの紅い花は、

今を盛りと咲いているはずであった。



               (おわり)


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