続 羽根をなくした妖精 �W

                    








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 もうそろそろ、夜が明ける。一年中で一番昼の長い一日が、今、始まろうという時に・・・。

 ちょうどその時、ここにいる誰もが、ひどい耳鳴りを感じて、うろたえた。

しわの寄った二枚のシーツに包まれてまどろんでいた者も、深々とソファーに

身を沈め冷たい飲み物でほてる身体を冷やしている者も、接待に疲れ硬い

椅子で仮眠をとる者も、さんざんに嬲られ痛めつけられ肌の手入れをしている

者も、不快な耳鳴りに襲われ、やり場のない怒りを堪えて、辺りを見回した。

目に入る誰もが、耳を押さえ、顔をしかめて、辺りをうかがっていた。そして

この世から、あらゆる音が消え去ってしまいそうな錯覚の中・・・

 耳鳴りは五秒も続かなかったと思う。不気味な耳鳴りは、微かな偏頭痛を

残して、頭の中に吸い込まれるように消えていった。と、間髪を入れず、

コーっと、地鳴りが押し寄せてきた。ゴーっと、遠くから、うねりながら、

怒濤のように、徐々にその音量を上げ、ゴォーっと、その凄さに驚き慌てる

妖精たちをよそに、地鳴りは、ゴワォーっと、益々大きくなってゆく。

 激しさを増す地響きは、テーブルの上の飲み残しのグラスを震わせ、天井

からサラサラと細かい砂を落とした。

 誰もが、これはとんでもないことが起こる、と思った瞬間、ドンっと下から

突き上げる初めの衝撃が、紫陽花館を襲った。その一発の衝撃で、柱から梁が

外れ、天井が傾き、一部の壁が倒れ始まった。同時に、持ち上げられた大地が

ドスンっと元の位置に叩き付けられたような二度目の衝撃で、地面が傾き、

割れ、柱はことごとく倒れ、壁は崩れ、天井が落ちてきた。

 紫陽花館のスタッフ、招待客も、一瞬にして床に投げ出されてしまった。

逃げまどう妖精たちの叫び声も、地下宮殿の崩れ落ちる轟音にかき消されて

しまう。

 最初ほどの衝撃はないが、第二波、第三波と、横揺れが襲ってきた。

かろうじて持ちこたえていた柱も、一本また一本と倒れ、壁も砂のように崩れ

落ち、泥水混じりの土砂が流れ込んでくる部屋もあった。

 やがて・・・抜け落ち、ぽっかりと口を開けた天窓から、舞い上がる埃を

きらきらと輝かせて、朝日が射し込み始めた。どうやら揺れは収まっていた。



 大広間の中央、噴水の晒しの刑場。むき出しの性器を突き出すゴブリン鬼の

木像は、台座ごと横向きに崩れ、倒れていた。下卑た笑いのゴブリン鬼は、

激しい揺れにも関わらず、鎖を握って直立していた。首輪をつけられた

ヴィジョンは、おかげで宙吊り状態となり、肩から抜け落ちたゴブリンの

木製の腕が、なおも宙吊りのヴィジョンの手を握りしめていた。

 二人のニングルを引き連れ、地下より現れたせむしのニングルは、動揺の

色は見えるものの、集まってきた紫陽花館のスタッフに、

「脱出口を確保しろ! 負傷者を救助しろ! 客、スタッフ、商品、奴隷の

差別はするな! 自力で脱出出来ない者を優先させるのだ!」

指示を受けたスタッフは、四方に散っていった。

 せむしの老人は、一人、瓦礫を乗り越え、大広間の中央、壊れた刑場に踏み

込み、木像のゴブリン鬼が握る鎖から、裸の妖精を解放した。

「こんな事になるとは思ってもいなかったのでな。その赤い首輪は、二度と

はずせんのだ。許せ。だが、今のお前にはお守りくらいの役には立つかも

知れない。付き合ってやれ」

 自由になったヴィジョンは、そのまま無表情のマスターにしがみつき、

老人の太股を挟み込むようにして、股間を擦りつけようとした。老人は、

妖精をむりやり引き離し、後ろ向きにさせて、腰に抱きつき、屈むように

背中を押した。自分の足首をつかむほどに身体を折り、股を割って恥部を

曝したヴィジョンは、老人を迎え入れた。せむしのニングルは、がれきに

片足をのせて踏ん張ると、激しくピストン運動を開始した。

 淫らな喘ぎ声をあげ続けるヴィジョンの表情の中に、少しずつ、安堵の色が

浮かび、三度目の絶頂を迎えたとき、涙が、一粒、二粒と、埃にまみれた床に

落ちた。涙でできた黒いシミをじっと見つめていたヴィジョンは、お腹の

底から絞り出すように・・・

「おばばが死んだ・・・」

 ヴィジョンのひしゃげたような声に、はや、身繕いを終えたせむしの

ニングルは、哀悼の意を示すように目を閉じ、うつむいたまま、

「そうか・・・あれは、おばばの死を悼む、大地の慟哭だったのか・・・」

 その時、明らかにヴィジョンの声ではない声が、紛れもなくヴィジョンの

口から・・・

「欲望を食い物にする紫陽花館への天誅!」

金属的な鋭い高音で、耳鳴りのような声。

 驚いて見つめた、そのマスターの眼に映ったのは、これまで見たこともない

ような怒りの形相の、紫色の目をしたヴィジョンだった。

「スミレ!!!」

 せむしの老人に肩を揺すられ、ようやく正気に戻ったヴィジョンは、力無く

頽れそうな身体を、そのまま老人に預けた。せむしのニングルは、羽根のない

妖精を包み込むようにやさしく抱きしめた。

 老人は、誰に言う訳でもなく、苦笑いを浮かべて一人ごちした。

「誰が言わせたか知らんが、それでも、紫陽花館は無くならん。私が再興

しなくても、誰かがやるだろう。それは、欲望を食い物にする輩が、跡を

絶たずに現れるからではない。誰もが抑えきれずに抱えている、その欲望が、

みんなの心にある限り、紫陽花館は求められる。だから、無くならんのだよ。

私だって、胸を張って言える仕事だとは思っていない。必要悪と言う奴だと

思う」

 老人は、瓦礫の散乱するただの洞窟と化した地下宮殿を眺めながら、自分の

シャツを脱いで、ヴィジョンに掛けてやった。回りの喧噪から取り残された

ように、不思議と穏やかな時間が、ここには流れていた。

 もうろうとしているヴィジョンの頭の中に、やわらかな声が通り過ぎて

いった。

「誰一人知る者はいなくなったが、私は調理場の犬の子供として生を受けた。

それが今はマスターと呼ばれている。それだけで、私の人生がどんなもので

あったか想像できるだろう。軟らかさよりも先に、硬さを覚えた。心地よさ

よりも先に、苦痛を覚えた。喜びよりも先に、我慢を覚えた・・・

「何でもした。何でも利用した。目の前の障害は、手段を選ばず取り除いた。

しかし、それでも逆らわなかったものが一つだけある。欲望だよ・・・

「自分だけの欲望じゃない。お客様の欲望、お前のような商品の欲望にも、

私は、逆らわないように気を配ってきたのだ・・・」

 階下へと降りてゆく入り口から白い煙が、そして、後を追うように黒い煙が

うねるように溢れだし、抜け落ちた天窓に吸い込まれてゆくのが見てとれた。

「揺れは収まったようだが、ここは安全とはいえん。早く逃げるんだ」

「え?」

「逃げるんだよ」

「わたしの犯した罪は?」

「紫陽花館と共に消えた・・・」

「・・・?」

「償う必要が無くなったと言うことだ・・・そうか・・・お前はリアルとか

いう若者の罪まで背負っておったのだったな・・・」

 リアルの名前を聞いて、我に返ったヴィジョンは、

「・・・一角獣の角・・・そう、一角獣の角は?」

「紫陽花館との縁は切れても、それが残っていたか・・・」

「一角獣の角は?」

 崩れ落ちた地下へでも飛び込みかねないヴィジョンの手首を、マスターは

素早くつかんだ。

「待ちなさい! 一角獣の角はどこを探してもない! なぜならば、一角獣の

角はすでにお前の元にあるからだ。どうやら、お前は、一角獣の角に選ばれた

ようだ・・・」

「それは?どういうこと?」

「詳しいことはわたしにも分からん。もしかしたら、お前自身に大変な

危険が迫っているかも知れない。ここから西に向かって見える岩山の北の麓、

そこに、荒れ地の中に隠れるように泉がある。そこに住むニンフなら、

一角獣の角の謎を解いてくれると思う。急ぎ、そこを目指すがいい!」

 ヴィジョンの背中を押したせむしのニングルは、身軽に瓦礫の山を越えて

あっと言う間に消えていってしまった。





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 地鳴りに共鳴して唸り出す鍋や釜の類が全て、突き上げるような揺れで

いっぺんに宙に舞った。煮えたぎる汁物が飛び散り、かまどからは火が噴き

上がり、料理人達の叫び声が・・・天井、梁、柱の石材、木材から、小物の

食器、調理器具、食材と、厨房の床は、ゴミ箱の底となった。そんなゴミ箱の

底に、調理人達の叫び声が呑み込まれていった・・・

 木製の調理台、棚から火が回り、燃料用の薪、調理用の油に燃え広がった。

調理場の天井は黒煙で見えなくなり、崩れた入り口が、雷雲のような煙を

呑み込んでいる。

「しっかりしてください!」

 調理場の犬が、太ったトロールのおばさんの頬を叩いている。

「立てますか?歩けますか?」

 意識はあるが、トモロは泥酔状態だった。見回すと、煙の流れに逆らって

崩れ傾いた入り口から、コック見習いが飛び込んできた。どうやら、この

調理場に取り残されたのは、死に損ないのトロールと、調理場の犬のニングル

そして、若い見習のニングルだけ・・・

「手伝って!」

「誰に言ってるんだ!犬の分際で、俺に命令か?」

「手伝いなさい!」

 あまりの迫力に、見習いがたじろいだ。

「紫陽花館はこわれたんです!夢は終わったんです!」

 見習いは立ちすくんだまま・・・

「死ぬか生きるかって時に、ふざけないで!」

 見習いはムラサキの側にかがみ込んだ。

「この方の手を引っ張って!」

「どうすんだ」

「助けるのよ!」

「助けるって・・・壁が崩れていて、そこの階段は使えない、こんな重い

デブと一緒じゃ、助かる俺だって危なくなっちまう」

「階段の他に逃げ口は?」

 暗く沈んだ若い調理人の表情が、ぱっと明るくなった。

「そう!そうだよ!この下の地下庫から、地上に通じる出口があったはずだ!

それだよ!何で気付かなかったんだ!」

「そこに行きましょう!」

「じゃあな!」

 見習い調理人は既に走り出していた。

「ねえ!手伝ってって!」

「だから、そのデブは無理だって。非常用の通路だ。一人で通るのがやっと

なのに・・・なんならお前も俺の後をついてこいよ・・・」

 調理人見習いの後ろ姿を見送ったムラサキは、倒れた棚や、調理台を

片付け始めた。



 いつの間にか、見習いの若者が、厨房に戻ってきていた。

「何してんだよ、そんなおばさんをかまっていたら、お前まで死んじまう

じゃねえかよ!」

「何でもどってきたのさ?!」

「ご挨拶だな・・・一足遅かったんだ・・・泥水が流れ込んできた・・・」

「それじゃ、手を貸してくれるかい?」

「なんで?何でそんなおばさんにこだわるんだよ!」

「生きているから・・・」

「殺される運命の屑だったんだぜ!」

「紫陽花館にとっては屑だったかも知れないけど、この人は、屑なんかじゃ

ない・・・」

 いままでのなげやりな表情に戻った若者は、うつむいたまま、

「世の中は、虐げるヤツと、虐げられるヤツがいるだけだ。お前も、そこの

デブも、虐げられるヤツだ」

「あんたはどうなのよ!?」

 ムラサキは冷たい視線を、立ちすくむ若者に向けた。

「私は、前を歩くか、後ろを歩くかの違いくらいだと思うけど・・・」

 ムラサキの表情は、どこか、穏やかだった。

「・・・」

「話をしている時間がないわ。もしかしたら、私も助かる。この人も助かる。

あんたが手伝ってくれるのならね・・・」

「なんだよそれって・・・」

「何もしないで死ぬのを待つなんてできないのよ」

「どうやって?!」

「説明は後!この方の手を引いて!」

「・・・」

「手伝うのかい?!手伝わないのかい!?」

 若者とニングルのおばさんは、トロールの巨体を手を引いて、床を引き

ずっていった。

 ムラサキは、調理場の隅に設えられた床の扉を開けた。主に生ゴミを投げ

入れるための床に穿たれた穴である。

「お前、まさか?」

「そうよ、そのまさかよ!」

「だってここは・・・」

「上にゆく階段も塞がれた。他の非常口も使えない。調理場は火事。わずかな

可能性でも、試すしかないのよ。何もしないで、ここで死ぬよりはいいで

しょ? さあ! この方をこの中に!」

 若い見習の顔に、笑顔がまたもどった。

「でかい生ゴミだな・・・」

「いいわ、この期に及んで、そのジョーク、気に入ったわ! さあ! ぐっと

押し込んで!」

 トモロは、泥酔のまま闇の水流へと落ちていった。

「大丈夫なんだろうな・・・」

「知らないわよ、でも、水の流れる音がするってことはね、どこかに向かって

流れているってことでしょ? 手伝ってくれてありがとう。じゃ、お先にね」





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『一角獣の角はすでにお前の元にあるからだ。どうやら、お前は、一角獣の

角に選ばれたようだ・・・』

「どういう意味?・・・一角獣の角に選ばれたって? 薬のように、そう、

鹿の角の粉末のように、リアルに飲ませれば、リアルの壊れた心が治るものと

思っていたのに・・・」

「西に向かって見える岩山の北の麓? それって、どれくらい遠いのだろう?

荒れ地の中の泉、そこに住むニンフ? 優しい人ならいいけど・・・」

『お前自身に大変な危険が迫っているかも知れない』

「一角獣の角のせいで、死んじゃうかも知れないってこと?」



 男物のシャツを羽織り、赤い首輪をつけたヴィジョンは、裸足のまま、

かがみ込むようにして、足下に注意を払いながら、歩いていた。

 折れて倒れた石柱の根元に、それは転がっていた。埃にまみれてはいた

けれども、朝日を受けてわずかにそれはキラッと光った。

 一抱えもありそうな透明のガラス瓶の中に、子どもの妖精よりもまだ一回り

小さい小人のフェアリーが閉じこめられていた。体は小さいが既に大人の女の

体型をしている。ヴィジョンの姿を見て、その裸の妖精は瓶のすみに硬く

うずくまり、震えはじめた。どのような辛い目にあったのだろう。どのような

恥ずかしい思いをしたのだろう。怯えきった白い身体は、哀れなほど痩せ

こけていた。珍しい生き物として瓶の中に閉じこめ、観賞用として好奇の

眼差しに晒されていたのだろうか。瓶の中には、小人のフェアリーの他に、

十二本足の蜘蛛のような小さな生き物が蠢いていた。

「どうしてこんなところに?」

 ヴィジョンは瓶の中をのぞき込んだ。恐怖なのか恥辱なのか、小人の

フェアリーは一層身を堅くして、目に涙を浮かべ震えている。

「逃がしてあげようか?ねえ?そこから出たいんでしょ?」

 ヴィジョンは瓶のキャップに手をかけた。フェアリーはその様子を見上げ、

驚愕の表情を示した。首を振っている。

「大丈夫だよ、逃がしてあげるだけだから。傷つけたり、痛い目に遭わせたり

しないから、安心して、ね。可哀想に・・・今まで、どんな嫌なことを

させられていたか・・・大丈夫、わたしは違うから・・・」

 ヴィジョンは何のためらいもなく、何の疑いもなく、何の悪気もなく、

小人の妖精を逃がそうと、瓶のキャップを開けてしまった。

 しかし、逃げ出したのは、蜘蛛のような十二本足の不気味な生き物だけ

だった。そして、残された小人の妖精は、みるみる青ざめ、ただでさえ痩せて

いた体はさらにやせ細り、目の前で、あっと言う間に、干からびていった。

 何が起こったのか理解できずに、ヴィジョンはミイラになった小人の妖精を

見つめるばかり。

 やがて、小人の妖精の死をようやく理解したヴィジョンは、泣き崩れた。

「え? 何で? わたしが殺してしまったの?」

「可哀想なことをしたな。その小人は、閉じこめられていたんじゃねえ。

そいつは、デリアッハ・トーラといって、逃げ出した蜘蛛の妖怪と一緒に、

瓶の中でしか生きられない妖精だったんだ」

 羽根のない妖精を見下ろしているのは、大きな麻袋を手にしているゴブリン

鬼だった。赤黒い顔のゴブリンは、醜い笑みを浮かべながら、

「久しぶりだな・・・」




               (つづく) (愛読者サロン)