続 羽根をなくした妖精 �X
(47)
カナカナカナカナ・・・・・・・蜩の鳴き声が、木々の枝をすり抜ける風に
流されて行く。線を引くように、大きな銀ヤンマが視界に飛び込み、そして、
飛び出していった。大地震など夢であったかのような、穏やかな夏の夕暮れ時
の景色。微かだが、水の流れる音もする・・・
「助かったんだから、もっとうれしそうな顔をしたら?」
ムラサキが、調理人見習いに声をかけた。
「・・・・」
ずぶぬれの身体は、夏の日差しに、あっという間に乾いていた。擦り傷、
打ち身で、体中が痛かったが・・・
「それがあなたのプライドだったの?」
「・・・・」
「どうでもいいじゃないの、そんなこと。助けてもらったって思いたくない
なら、利用したとでも思えばいいことでしょ?」
地下水流は冷たく、時を経るに従い体温を奪われ、その為に体が思うように
動かず、ムラサキと見習いの若者は、まさに溺れる寸前だった。真っ暗な中、
渦巻きうねり、急に落下することもある水流を、泳ぐことなど不可能なこと。
ムラサキは自分の判断が間違っていたと悟り、死を覚悟した、そのとき・・・
やわらかな肉体が、ムラサキに体当たりしてきた。激しい地下の激流に、
仰向けに漂うのはトロールのご婦人、トモロだった。ムラサキは、トモロに
思わずしがみついていた。そして、
「聞こえる?! わたしの声が聞こえるなら、いいかい、わたしの声の方に
泳いでおいで! ここよ! こんな冷たい水の中ではいつまでも泳げない!
真っ暗だし、流れは急だし! ねえ! 聞こえたら、こっちにおいで!」
抜き手で水をかく音が、近づいてきた。
「ここ! こっちだよ! おーい!」
ばしゃばしゃという水をかく音が消えた。トモロの存在に気付いたらしい。
「この人につかまらせてもらいな!」
喘ぐ声、水を吐き出す音から、若者は立ち泳ぎをしているらしい・・・
「どうしたの!」
水を飲んだらしく、ニングルの若者は激しく咳き込んだ。
「早くつかまりな!」
若者は、不承不承トモロにつかまった。トロールの婦人の豊かな胸に、抱き
付くようにしがみついた見習いは、冷たい水の中、徐々に伝わってくる温もり
に、我にもあらず泣き出したようだった。ムラサキの耳に、すすり泣きの声が
聞こえてきた。
「目が覚めたようだね」
頭痛でもするのだろう、眉間にしわを寄せ、こじ開けるように自分の目を
むりやり開けたトモロは、覗き込む二人の影を何とか確認した。無理矢理、
笑ってみせた口許に、二本欠けた白い歯が覗いた。
「あなた達が助けてくれたんだね。ありがとう。感謝の言葉もないよ」
木の葉に乗せた水滴を、トモロの口に運んであげたムラサキが、
「ひどい外傷もないし、ただの二日酔いだと思います」
「ムラサキさんだったね、お礼を言うよ。やり残したことがあって、死んでも
死にきれないところだったんだよ」
ムラサキは大きく肯き、
「分かってます。スミレ様をお救いできるのは、あなたしかいないと・・・」
「ところで、そちらの方もわたしを助けてくれたんだろ?ありがとうね」
「いえ・・・その・・・」
若い調理人見習いは、言葉が見つからない様子。ムラサキが割って入った。
「トモロさん、あなたが目覚めるまで、立ち去らないようにわたしが引き
留めたんです。命の恩人に、お礼の一言も言えずにどうするんだってね」
「まったくその通りだよ。ありがとう、何度でもお礼を言うよ。それに、」
「違うんです」
「え?」
トモロは、痛む頭をかばうように、ゆっくりと半身を起こした。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げた若者は、清々しい笑みを残して、立ち去っていった。その
若者の背中に、ムラサキが声を掛けた。
「頑張りな! 前に立って歩けるニングルになれるようにね」
振り向いた料理人見習いは、振り向いて、頷いてみせると、走り去り、下草
の中に消えていった。見送ったムラサキが、トモロに向き直り、
「私も、改めてお礼を言います」
昏睡状態だったトモロには、地下水流での記憶がない。お礼を言われる
筋合いなど知る由もなかったわけだ。ムラサキは、地下水流での出来事を、
やや恥ずかしげに語って聞かせた。
「ただ眠りこけていた私が役に立ったって訳かい。無駄肉だとばかり思って
いたんだが、こんな脂肪でも、思いも寄らないところで役立つもんだねえ」
そう言うや、トモロは豪快に笑い転げた。笑いが収まるのを待って、
ムラサキが、調理人見習の話をはじめた。
「この世の中には、虐げるヤツと虐げられるヤツがいるだけだって
言いましてね、あの若者が・・・」
「ほおうっ」
「自分は虐げる側で、私も、トモロ様も虐げられる奴だと・・・」
「確かにあの場面ではそうだったねえ。そうかい、それが、彼には全てだった
って訳なんだ」
「はい。虐げられる、そんな惨めな奴らに助けられた自分は、それ以下に
なってしまった」
「でも、さっきの若者は、けっこう明るかったじゃないかい」
「はい、一から出直すそうです・・・虐げる者として・・・」
トモロはまた大笑いした。
「それもまたいいさね。ねえ?!」
「はい。でも、こんな事を言っていました。トモロ様のあの時の温かさは、
忘れないって」
「救ったものが救われた。救われたものが救った。酔っぱらって眠り
こけていた、あたしの知らない間に、そんな良い話があったとは・・・」
トモロの笑い声が、夕闇迫る空に吸い込まれていった。藍色の天幕に、
茜に燃える雲が、二筋三筋流れていた。
(48)
「すげー上玉なんだ、見てみてくれ」
とある宿屋の玄関先。半開きのドアから、宿屋のおやじに話しかけた
ゴブリン鬼は、担いでいた麻袋を乱暴に逆さに振った。中から、男物の
シャツを着た妖精が転がりでてきた。
「確かに良い玉だ。ん?なんだいその首輪は?」
中年ぶとりのニングルは、妖精の首に付けられた赤い首輪に目を留めた。
「なんだいそのマークは? え? あ! いらないよ。帰っておくれ!」
「どうしてでさ、その首輪が何だって・・・」
宿屋のおやじは厳しい顔で、
「紫陽花館の商品じゃねえか。どっからかっさらってきたか知らねえけど、
紫陽花館には逆らえねえ。いいから帰ってくれ!」
「紫陽花館は、先の大地震で、ぶっ壊れちまったんだ」
いいすがろうとするゴブリン鬼を、追い出すように入り口のドアに手をかけ
ながら、宿屋のおやじの声は厳しかった。
「知ってるよ。それでも紫陽花館は紫陽花館さ」
玄関のドアが、大きな音を立てて閉められた。
「畜生!まただ! 何でその首輪は取れねえんだ!」
ゴブリン鬼に蹴られ、ヴィジョンは宿屋の玄関先の階段を転げ落ちた。
「この首輪は、疫病神だ!こんちくしょう!」
ゴブリン鬼は首輪に指をこじ入れ、乱暴に振り回し、投げ捨てるように、
放り投げた。土まみれになって転がったヴィジョンは、咳き込みながらも、
なんとか立膝の姿勢をとった。
「それが紫陽花館で覚えてきたことか! 何をされても、しおらしい振りを
しやがって! 紫陽花館ナンバーワンの商品におなりあそばされて・・・」
ヴィジョンの右頬に当たった平手打ちで、軽々と体が宙に飛び上がった。
失神状態の羽根のない妖精に、怒髪天を衝く勢いのゴブリンは、唾を吐き、
「何で、そこまでして生きさらばえる!」
腰を蹴り上げた。二転三転とヴィジョンが地面を転げ回った。口の中からか、
内臓からか、ヴィジョンの口から血が滴っている。一つ二つと咳き込んだ。
「買ってもらえねえなら、その日その日、客を取って稼いでもらうしか、
方法がねえな・・・」
ゴブリン鬼は、ヴィジョンをつまみ上げるように軽々と持ち上げると、
麻袋の中に放り込んだ。
「柔肌に飢えていそうな闇のニングルがいる、西の岩山にでも向かうか」
独り言を言いながら、ゴブリン鬼は、宿屋のある大きな樫の木を後にした。
(49)
大往生と言っていいだろう。もちろんおばばの姿はない。そこにあるのは、
土と見まごうばかりの横たわった朽ち果てた赤松の大木であった。
そして、様々な小枝が捧げられていた。見過ごしてしまいそうだけれど
カエデ、スギ、カツラ、ナラ、カバ、ケヤキ、サクラ、タケ、シャクナゲ、
ツツジ、コブシ・・・数え切れないほどの種類の小枝が、それぞれの妖精に
よって赤松に捧げられたものであった。
「一気に朽ち果ててしまったね」
「これが?」
「おばばの木だったんだ」
トモロがムラサキに話していた、そのとき。
「おかしらー」
「おかしらー」
太ったチビのトロールとやせたのっぽのトロールが、駆け寄ってきた。
厳しい顔で、トモロが挨拶もせずに叫んだ。
「リアルは?!」
二人のトロールは、跪いて両手を地面についた。
「申し訳ねえ!」
「逃げられました・・・」
「馬鹿野郎だね、おまえ達は!」
大きな声で怒鳴りつけてはいたが、ムラサキは、トモロの目が笑っている
のを見て取った。
「そんなことだろうとは思っていたがね。手を上げな。こちらはね、ムラサキ
さんと言って、ヴィジョンのお世話係だった人だ。こいつらは・・・」
「存じ上げております。紫陽花館にいらっしゃったときに一度だけお会いして
おりますし、スミレ・・・いや、ヴィジョン様から話はよく伺っておりました
から」
「そうご丁寧に、存じ上げられちゃったらお恥ずかしいかぎりで・・・」
トールがファットの頭を叩いた。
「ふざけてる場合じゃねえんだよ。ご覧の通り、がさつもんです。当然だが、
今は紫陽花館の客でもねえ。だから、もっと、ぶっちゃけた話し方にして
もらえませんか?」
「ごめんなさい、分かりました」
「さてと、挨拶はそれくらいでいいだろう」
トモロは思案顔で腕を組む。トールとファットも目を閉じて腕を組んだ。
「おまえ達は考えなくたっていいんだよ!どうせ役に立ちゃしないんだから」
「そうだ思い出した!」
トールが手を叩く。ほとんど同時に、トールの頭をトモロが叩く。
「冗談はおよし!」
「おかしら、冗談なんかじゃねえ。おばばの遺言だ」
「なに?」
「おばばが息を引き取るとき、言い残したこと・・・」
「そんな大事なこと、なんで早く言わないんだね、まったく」
「西の岩山の北の麓、荒れ地の中に一つだけ泉が湧いている、そこに住む
ニンフに会いに行け・・・って」
「そのニンフが何だって?」
「わからねえ・・・」
「荒れ地って言ったって、昔行ったことがあるが、広いんだ。その、いったい
どの辺なんだい」
「わからねえ・・・」
「一角獣の謎を解く鍵かい?」
「わからねえ・・・」
「馬鹿野郎!」
アブラゼミとミンミンゼミの大合唱が、一瞬止んだような気がした。
背の高いトールの身長が縮んで見えた。
「だって、おかしら。こっちが何を聞こうも、それだけ言って、おばばは
おっ死んじまったんだから・・・」
「そうかい。そうだったのかい・・・。そうとなると、・・・ううーん。
なんだねえ、・・・それじゃ、ヴィジョンとリアルの消息を探りながら、
そのニンフを尋ねるしか方法はないみたいだね。それで、いいかい、スミレ
さん」
「お供してもよろしいんですか?」
「もちろんさ、ヴィジョンの役に立っておくれ。こちらからお願いするよ」
「ありがとうございます」
「さて、長旅になるよ。トール、ファット、旅の準備をしておくれ!」
夏至を過ぎ、日中の長さは短くはなっても、暑さの盛りはこれからだった。
(50)
目が馴染むほどに、それは真っ暗闇ではなく、どこまでも黒に近い紫色の
ように思われた。ただ、そんな空間に、自分が一体どうなっているのか
ヴィジョンには理解できなかった。漂っている・・・浮いている・・・落下
している・・・暗闇の中、体を支えているものが何もない・・・風も感じられ
なかった。
無性に寂しかった。意味もなく悲しかった。紫色の暗闇の中の自分の体が、
ものすごい速さで、縮んでゆくような思いに捕らわれていた。全身という
自覚が、ほんの指先のような感覚に集約され、集約してしまった全身の自覚が
また、ほんの指先の感覚に集約され、それが、限りなく繰り返される感じ。
ふと、瓶の蓋を開けてしまったばかりに、みるみる縮んで、死んでしまった
小人の妖精が思い起こされた。自分はこのまま、死んでゆくところなの
だろうか。小人の妖精は、閉じこめられていたのではなかったのだ。瓶の中が
小人の妖精の世界だったのだ。自分の世界を他人に押しつけてしまった
ばかりに・・・ヴィジョンも、本来居るべき世界から飛び出してきてしまった
ような、居てはいけない世界に飛び込んでしまったような・・・
恐怖のあまり、叫び声を上げそうになったとき、暗闇の奥から声が聞こえて
きた。甲高い声・・・
「死ぬことが怖いかい? お前は、暗い暗い地下牢の中で、死のうとしても
死ねなかったんだよな」
ヴィジョンは喋ろうにも、口が動かない。恐怖に体はこわばったまま。
「体は、お前の意志とは裏腹に生きようとしていた。だから、そんな体に
対して、素直に生きることにした。与えられるものは、それが例え苦痛でも、
受け入れてきた。もし、その時のお前のままだったら、逆に死ぬことすらも、
素直に受け入れられたかも知れない。だが、今は違う。なぜだか分かるか?
何が変わったか分かるか? お前は、自分の命を賭けて、与えようとしている
んだ。だが、そんなことは忘れるんだ! それは、幻影だ! それじゃ、
お前の魂は輝かない!・・・」
分からない。死ぬことが怖い。何が変わったの? 分からない。教えて!
魂が輝くって何? 金縛りを解き放すように両腕を差し出したら、声が出た。
「教えて!」
そして、目が覚めた。
「起きるんだ!よく寝る奴だな。寝てるか泣いてるかのどっちかだ・・・」
慌てて立膝の姿勢をとったヴィジョンを蹴り倒したゴブリンは、
「何を教えて欲しいんだ。お前はお前でしかねえ。今日は今日。明日なんか
ねえんだ。今日の次の今日。その次ぎも今日。今日も今日の続き。何も変わら
ねえ。客をとって金をもらう。それだけだ! そうだ、いいこと教えてやる!
余計なことを考えるな! いいか! 考えるな!この俺が、その邪念を追い
出してやる!」
柳の枝を鞭代わりにして、振り下ろした。
「ありがとうございます」
ヴィジョンは体に付いた土を払い、直立の姿勢から、深々と頭を下げた。
「ちょうどいい、そのまま動くな!」
ゴブリン鬼は、頭を下げるヴィジョンの横に回り、男物の長いシャツを
たくし上げ、白く輝くお尻を、鞭の的とした。
「踏ん張れるようにもう少し足を広げな! そのほうが、眺めもいいしな。
手は頭の後ろで組むんだ! 足は曲げるな! 背筋は伸ばしたまま!」
「はい」
ヴィジョンは唇を噛んで、痛みを耐えた。
「ありがとうございます」
鞭の音と風の音が遊んでいるように聞こえた・・・
「何も考えません・・・」
『痛みすらも受け入れてきた今までの自分。でも、今は違う・・・』
「ありがとうございます、余計なことは考えません」
『何かが変わった・・・』
「痛っ、ありがとうございます」
ゴブリンは鼻で笑いながら、鞭を振るい続けた。
「お前の体に、生意気な魔物が取り憑いているのかも知れねえから、俺が、
そいつを叩き出してやる!」
「ありがとうございます。お願いします」
火照るお尻を、涼しい風が優しく撫でていった。流れゆく風を目で追うと、
どことは言えないけれど、秋色が滲みはじめて見えた。柳の枝が、物憂げに
大きく風になびき、細長い柳の病葉(わくらば)が一枚、錐もみしながら舞い
落ちてきた。