境内にある於岩稲荷の由来


四谷・於岩稲荷田宮神社



播州赤穂の浪人、民谷伊右衛門は長い間の浪人暮らしに毎日鬱々として楽しまなかった。

妻のお岩はもうそろそろ臨月に近い、貧しいながらも必死になって夫に仕えるのも産まれて

くる子供の幸せを思えばこそ。



だが伊右衛門は、仕官の口を世話してくれるという伊藤喜兵衛の役宅に入り浸り、それも

その筈、士官の世話をしてやる見返りに可愛い孫娘のお梅を娶わせてやろうという喜兵衛

の言いなりである。



苦みばしったいい男の伊右衛門に、ぞっこんベタ惚れのお梅の願いとなれば、何をおいても

聞き届けてやりたいというのが喜兵衛の本心である。それにはどうしても邪魔になるのが

伊右衛門の女房、しかも妊娠中のお岩の存在であった。

「伊右衛門どの、ほれ、いつもの薬だ」

「うむ」

受け取る伊右衛門と喜兵衛の妖しい目配せ、もちろん伊右衛門はその薬がなんであるかも

知っている。



女房のお岩が、唯一夫からの愛のあかしだと信じて毎日飲まされている血の道の薬、

これこそ孫娘可愛さにお岩を亡き者にしようとする喜兵衛の悪企みであった。だが、悪事は

露見しやすいものだ。日ごろから伊右衛門の行状を苦々しく思い、娘の身を案ずるお岩の

実父四谷左門が、まずおかしいと気がついた。



今日も身重の妻を置いて、どこへともなく出かけてゆこうとする伊右衛門を呼び止めて、

どこに行くのかと問い詰める。

「お岩は凶か明日にも身二つになろうという大事なときじゃ。傍にいてやってくださらぬか」

「いや、ちと用件がござるによって、岩のことはよろしくお頼み申す」

「いったいその用件とは何じゃ。それにその派手な身なりは、ただ事とも思えぬが」

「ハハハ、いや別に仔細はござらぬ」

「伊右衛門どの、そなたもしや、岩の他におなごでも出来たのと違うのか」

「さぁ、それは…」

「よう考えてくだされ伊右衛門どの、そなたにはわが娘の岩と産まれてくる子供が…」

「わかった、もう良い。わかり申した」



その夜、お岩は産気づく。七転八倒の苦しみの中で、手伝ったのは出入の按摩宅悦ただ

ひとり。伊右衛門も頼りにしている父の左門も、どうしたわけか姿を見せなかった。その時、

左門はすでに伊右衛門の手にかかって刃のもとに斬り捨てられていたことは知る由もなく。



次の夜も、また次の夜も伊右衛門は家に戻ってこなかった。旦那様はいったいどうなさった

のやら、私の乳が出ないので、あかごが泣いて五月蝿いからお戻りにならないに違いない。

ああ申し訳ない、と悲しくわが身に言い聞かせて、伊右衛門の薬を押し頂くお岩である。



そこにひょっこり、現れたのが按摩の宅悦、出ぬ乳をあかごの口に含ませているお岩の胸

に、無態にも襲いかかる。

「なっ何をなさいますっ。わたくしが夫ある身と知りながら、許しませぬぞ」

産後の肥立ちも悪い病中とはいえ、お岩も武家の娘、枕もとの懐刀を抜いて宅悦を一撃、

按摩はたちまち腰を抜かした。



「まっ待ってくださいまし。これにはいろいろと訳が…」

「なに、訳があると?」

「へいへい、奥様はこれまでまったくご存じなかったことでございます」

そこで宅悦が吐いたのが、夫伊右衛門と喜兵衛が仕組んだお梅との婚礼の計画である。



アァしかたがない…。今日までお慕い申し上げていたものを、そこまで私を疎まれるとは、

無念じゃ残念じゃ、この子の行く末も思いやられる…。

おおそうだ、これからそのお梅とやらの家にいって、旦那様にお会いして…。

ある決心を胸に秘め、取り乱してはならぬ、ここは女の身だしなみと、お岩が懐から取り出し

た櫛を髪の毛に当てて手洗いの水を鏡に梳る。



怖々と覗き見ていた宅悦が、その時ぎゃあっと恐怖の叫び声をあげた。

ハッとして水に映ったわが影に目を凝らせば、櫛に絡んでズルズルと抜け落ちた髪の毛の

多さ。眼の周りが不気味に腫れ上がって、ふた眼と見られぬ形相である。

「うぅぅぅぅむっ、こ、これは…、恨めしや伊右衛門どの」



そこにころあいを計って、宅悦とお岩の不義密通は如何なったかと伊右衛門が戻ってきた。

「な、なんだ岩、そのつらはっ」

「うぇぇぇ、だっ旦那様ァ、伊右衛門どの…」

「寄るなっ、ええい、近寄るなというに」

「恨めしゅうございますぞぇぇ」

「うっ、うるさいっ」

縋るお岩を、抱いた子供もろともグサリひと突き、。 さらに伊右衛門は、その時現れたお岩の

実父四谷左門の亡霊にまで切りつけ、なぎ払う。 自分を裏切り、毒を盛り、我が子と共に刺し

殺した男が、実父を殺した下手人でもあった事を知り、底知れぬ恨みを抱いて息絶えるお岩…。





以上が、東海道四谷怪談の発端部分である。



按摩の宅悦を使って屍体を川の土手まで運ばせた伊右衛門は、宅悦の口から悪事が露見する

のを恐れその場で切り殺してしまう。その頃の不義者成敗のしきたりにしたがって二人の屍体を

戸板の表に宅悦、裏にお岩と打ち付けて形を作ると、これで良かろうと川の中流に押し流す。



そしていよいよお梅との祝言の初夜、寝床に寄り添ってきた花嫁はと見れば、世にも凄まじい

怨念の権化となったお岩の顔。夢中で斬りつけると、血潮を吹いて転がったのは紛れもなく新妻

お梅の首である。何事かと飛んできた喜兵衛の顔が、伊右衛門には手にかけたお岩の実父

左門に見えた。初夜の床に二つの生首が並んでじっと伊右衛門を睨みつけている。



お岩と宅悦は何とか処分できたが、これはもう逃れるすべがない。追われるように先刻の川っ

淵まで来てみると、突然水面に泡が立って、流した筈の戸板が跳ね上がり、打ち付けられた

お岩の怨念に満ちた眼が呪う。

「恨めしや…、伊右衛門どの」

戸板を返すとここには按摩の宅悦が、まだ死にきれぬ目を見開いて蠢いていた。これが舞台に

かかると有名な戸板返しの仕掛けとなる。そのほか、仏壇返し、提灯抜けなど二重三重の

仕掛けが工夫されて、観客を恐怖のドン底に突き落とす。




南爾前来妙法経(みなみにくりきのむしぼし) 二代歌川豊国 


戸板返し 歌川国芳 
隠亡堀の場 三代目歌川豊国





蛇山庵室 歌川国芳
提灯から出たお岩が、伊右衛門に子どもを抱かせるところ。
夢の場 一養亭芳滝
お岩の幽霊に悩まされ、伊右衛門は病気になる。
美しい女性がお岩の死霊に変わる夢を見て苦しむ。
いずれも国立歴史民俗博物館 ・蔵







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