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    一、危険な夜


ズキン…と体内に夫の脈動を感じたとき、美果はアワビが縮むように

全身の筋肉を収縮させた。

 続いて身体の深いところから、微かな痙攣のリズムが伝わってくる。

 ああ、イッてくれた…。

フッと気が抜けたように、放心状態になった。危険な作業を終わったあとの

安堵に似た気持である。

手さぐりでティッシュペーパーの箱を引き寄せると、五・六回、手首を動かす。

まだ固さを残している夫の肉塊を包んで、しごくようにコンドームを外すと、

そのままそっと自分の陰裂に当てた。

 呼吸の乱れは、すぐもとに戻った。

 枕もとのスタンドも、蛍光灯の豆電球も消した暗い寝室である。

「もう、一時半よ…」

スタンドの横に置いた枕時計を覗いてつぶやく。文字盤が淡いグリーンの

蛍光を発していたが、それさえも眩しかった。

緩慢な動作で夫が離れると、急に身体が軽くなったような気がして、

美果は上半身を起こした。

そろそろ、秋風が立ち始める季節である。 素肌に直接着ていた寝間着の前を

かき合わせて、ティッシュを挟んだまま美果は部屋の襖を開けた。

 トイレとバスルームは、廊下の突き当たりである。

足音を忍ばせてスイッチを入れると、暗さに馴れた眼に、タイル張りの内部は

まるでシャンデリヤでもつけたように明るく輝いて見えた。

内側から鍵をかけて、まだ糊のついた浴衣の寝間着を脱いで、夫の体臭と一緒に

足もとの籠に入れた。

ティッシュに貼りついたゴム製品をつまんで、なかに溜まっている精液と一緒に

惜し気もなく汚物入れに捨てる。残りを丸めて便器に流すと、美果はようやく

自分を取り戻すことができた。

「あぶなかった…」

ひとつタメ息をついて、美果は鏡のほうを向いた。まさか今夜、夫の茂之が

戻ってこようとは思わなかったのである。

東京で哲彦と別れたのは、もう終電車に近い時間だった。美果は一緒に泊りたいと

すがったのだが、冷たく突き放されて、仕方なく逗子の自宅までタクシーを

とばした。

 玄関のチャイムが鳴ったのは、帰りついてからわずか二十分くらい後のことだ。

「私だ…」

「えッ?」

 まだ化粧も落としていない。

 急いで玄関に出ると、気持ちの動揺をかくして美果はさり気なく言った。

「どうなさったの、いまごろ…」

「本社と緊急の打合せでトンボ返りだ。明日の朝、また早く発つ」

美果の様子にはお構いなしに、土産らしい紙袋を渡すと、ボストンバッグを

置いて、茂之は立ったままあわただしくネクタイを解いた。

いかにも有能な上級サラリーマンといった感じで、年令は42才…。

現在、外資系企業の子会社の香港支局長である。

「メシはいいよ。シャワーだけ浴びるから、すぐに寝かしてくれ」

「忙しいのね…」

 文字通り、すべり込みセーフだった。

夫がバスルームに消えている間に、大急ぎで浴衣に着替えて、美果は布団を

ふたつ並べて敷いた。海外の生活が多いわりには、茂之は和風好みだった。

「疲れているんでしょ。横におなりになったら…?」

「すまんな」

 躊躇なく、スタンドの灯りを消した。

すぐに寝ると言ったが、当然のように隣りから夫の腕が伸びてきたとき、

美果は身体がこわばるほど緊張した。だが拒絶する理由はなにもなかった。

「あ、ゴムはめて…」

「うむ」

 結婚して、もう5年目である。前戯もなくズシリと重い体重がのしかかってきた。

 とたんに、美果は押し殺したように咽喉の奥で啼いた。

「アヒィッ」

「どうした?」

「ナ、何でもない。いい…ッ」

夫とは、およそ一ケ月ぶりの媾合である。 嬌声に紛らわせて、何とか

気づかれずに済んだが、セックスのとき部屋を暗くして寝る習慣がなかったら、

取り返しのつかないことになるところだった。

茂之が機械的に腰を動かすたびに、美果は少しづつズリ上がって、ときどき

ギュッと唇を噛んだ。

 痛い…!

だが、それを口に出すわけにはいかなかった。射精が近づいて、動きが急に

早くなったとき、美果は夫の背中にしがみついて、こぶしを固く握り締めていた。

「いいッ、イッタイィ…ッ」

 自然に筋肉が収縮する。やがて、最初の脈動がきた。

ほっと胸を撫で下ろす思いで夫から離れたのだが、茂之はそのまま寝込んで

しまったようだ。

夫が部屋から出てこないのを確かめると、美果は全裸のままバスルームの

化粧鏡の前に立った。

「………!」

 鏡の中に、何か別の生きものが写っているような気がする…。

乳房の下や、脇腹や臍のあたりに、薄く血の滲んだ条痕が幾重にも

走っていた。太腿には鞭に使ったベルトの形が、そのままミミズ腫れになって

残っている。身体をよじって背中をうつして見ると、傷痕はもう無数といって

よかった。

無意識に乳首をつまむと、首筋のほうまで針を刺すような痛みを感じて、

美果はあわてて指を離した。

 昼間、東京のラブホテルで、六時間以上も責め続けられた痕跡である。

 きれいだわ…。

 まるで凄惨な美獣を眺めるような、奇妙な錯覚に陥る。

 腰のくびれも、ボリュームのある乳房のかたちも美事だった。

細身だが29才の女の肉体は、娘時代の筋肉の固さこそないが、チーズ色の

肌をして、まだどこに出しても恥ずかしくない均整を保っている。

鞭の痕さえなかったら、生えぎわをハート型に剃りこんだ陰毛が、唯一の

人工的な装飾であった。これは、以前から美果が自分で思いついて、

ひそかに楽しんできたおしゃれである。

「………」

鏡の中の美獣に命令して、美果はすこし脚を広げた。腰を突き出すと、

ハート型の陰毛に両手をそえて、おそるおそる土手のふくらみを左右にひらく。

哲彦に身体を調べられたとき、やらされたポーズなのだが、鏡に写して、

美果は今さらのように息をのんだ。

 よくこれで辛抱できたものだと思う。

真っ赤に充血した肉ベラが、三倍くらいに膨らんでタラコを潰したように

垂れ下がっていた。クリトリスがナマナマしくムケて、いびつになっている。 哲彦の

革ベルトが、容赦なく喰いこんだしるしである。

先刻、夫に挿入されたとき、あまりの痛さに悲鳴に近い嬌声を上げたのは、このた

めであった。

「ひどい…」

麻薬に酔ったような視線で、美果は熟柿のように変色した性器を見つめた。

それはまぎれもなく一種の陶酔である。

クリトリスの奥に、ジィンと痺れるような感覚があった。ただれた粘膜の

隙間を縫って淫らな液汁がジクジクと滲み出してくるのがわかるのである。

 美果は美獣の正体が、これほど猥褻なものだとは思わなかった。

「あ……!」

鏡の後ろに哲彦が立っているような気がして、美果は思わず腰を引いた。

ギョッとして振り向いたが、もちろん誰もいない。

 いけない…。

 淫靡な妄想から逃れて、トイレにしゃがむと溜まっていた小便がいっぺんに出た。

噴き出し口のまわりが灼けつくようにシミる。美果はちょっと眉をひそめて、

洗浄器のビデのボタンを押した。

シャワーを浴びて寝室にもどると、茂之はもう正体もなく眠っていた。

かなり大きな鼾が規則正しく上下している。

醒めた気持ちで、夫の横に身体をのばすと美果はボンヤリと見えない天井を

見上げた。

 逢いたい…!

今日一日、思いのたけの責めを受けてきたつもりなのに、もう次の逢う瀬が

待ち遠しかった。

決してただの恋愛感情ではない。浮気とか不倫といった感覚とも違っていた。

それは美果自身が持って生まれたアブノーマルな性欲の仕業なのである。

 股間の肉ベラにまだズキズキと心臓の鼓動が伝わっていた。

 ゆっくりと寝返りを打って、美果は夫の布団に背中を向けた。


    二、まやかしの性

 美果が処女を失ったのは14才、中学2年生のときであった。

近くの高校生で好きだった男の子の家に両親の留守を知らずに遊びにいって、

好奇心と衝動的な欲情で、あっさりと犯られてしまった。何の感動もなく、

思春期の少年に特有の強い体臭と、もの凄く痛かったことだけしか憶えていない。

 二人目の男を知ったのは、それから7年も経って、はたちを過ぎてからのことだ。

べつに男を避けていたわけではないが、恋とか愛といった異性への憧れには、

もともとあまり関心がなかったのである。

それよりも、山の中で突然強盗に襲われたり、牢屋に繋がれて拷問を受けたり

する場面を想像することのほうが、よほど好きであった。ベッドの中で

とりとめもなく妄想に耽っていると、翌朝パンティが冷たくなるほど

濡れていてびっくりすることがある。

オナニーは知っていたが、そのために妄想が途切れてしまうのがいやで、

ほとんどやったことがなかった。

 だから、美果が本当に女になったのは、実際には遅かったほうだ。

少女のときの記憶がまだ残っていて、初めはかなり抵抗したのだが、

結局ねじ伏せられるようなかたちで男と関係をもった。いわば妄想の場面と

よく似た状況で、それがかえって美果を納得させたのかも知れない。

 痛みもあったが、今度は耐えられないほどのものではなかった。

恋人ができると、美果は堰を切ったように貪欲にセックスを求めるように

なった。

ほとんど毎日、彼のアパートに入りびたって、狂ったように互いの性器を

さぐりあう。前の晩からはじまって、翌日、窓の外が暗くなるまでヤリ続けても

平気だった。

 馴れてくると、妄想を現実にしてみたくて美果はいろいろな誘いをかけた。

SMという言葉はもちろん知っていたし、そのころになると、美果は自分が

おそらくマゾヒストであることも自覚していた。

古本屋で「SM……」のタイトルをつけた雑誌を万引きでもするような

気持で買ってきて、美果はよく彼氏にせがんだ。

 だが、どこか違うのである。

タオルで猿ぐつわをして貰ったり、手首を縛って一緒に公園を歩いたりも

してみたが、ただそれだけのものであった。

 どうしよう…、

 ときどき、たまらなく不安になることがある。

彼に抱かれると、イクことは何度でもイクのだが、最後にはいつも

けだるい疲れだけが残った。ハメたままウトウトと眠ってしまうことさえあった。

イクことだけが目的のセックスが、ひどく虚しい。精液をしぼりきって弛緩した

恋人の顔を見つめながら、この男が何の役にも立ってくれないことが悲しかった。

この人とは、すべてをヤリ尽くしてしまったような気がする。いくらやっても、

骨の髄まで満たされた気持になることはできないのではないか…。

彼氏と同時進行で、その後二・三人の男を経験したが、結果は同じである。

男への愛情も次第に醒めていった。

 そんなとき、たまたま持ち上がったのが、茂之との縁談である。

 正確にいえば、会社の上司の友人で、当時茂之は37才だった。

仕事の鬼になって頑張ってきたので、結婚が遅れたのだという。年令が離れて

いるので仲人は気を使っていたが、美果はかえってそのほうが良いと思った。

これまでの男たちと違って大人の風格があったし、経済的に安定している

ことも魅力である。

 だが何よりも、自分の異常な性欲から逃れたというのが秘密の動機だった。

セックスは、もうこの人だけにしよう…。 幸い、これまでの生活は誰にも

知られていない。ひそかに過去を精算する決心をして、美果は24才の春、

滝沢茂之と結婚した。

 それから、もう5年になる。

性生活は、思ったよりずっと淡白だった。 夫は週に一度か二度、無言で

腕を伸ばして美果を引き寄せると、ゆっくりと重い身体を乗せてくる。

「良いオッパイしてるな、可愛いよ…」

 だが茂之には、頭の半分でいつも仕事のことを考えているようなところがあった。

神経を切り替えることができず、生理的に欲望の処理をしているのであろう。

ときとして、男としての要求は三週間以上も間があくことがあった。

それほどしつこい愛撫を加えるでもなく、精液を吐いてしまうと、茂之は

たちまちぐっすりと深い眠りにおちる。

 後始末は、いつも美果の勤めである。

中途半端に解放されると、身体の奥に疼くような情欲の塊りが残った。

それに耐えることが美果の日課だった。

 よそ目には、可憐で貞淑な人妻に見えたであろう。

 だが夫を送り出してしまうと、決まっていつもの妄想がはじまる。

地元では人の眼があるので、わざわざ東京の古本屋まで行って買ってきた

SMの雑誌に読み耽る。縛られた女の写真を見ると、それを自分に置き換えて

一人芝居を演じてみたりした。

真もののサディストというのは、いったいどんな人間なのだろう…。

美果にとって、それは遠い偶像的な憧れであった。

 環境がガラリと変わったのは、今から僅か三ケ月前のことだ。

 夫の茂之に、突然香港支局長の辞令が下りた。もちろん栄転である。

取り敢えず単身赴任でということで、夫はそうそうに香港に飛んだ。

日本に戻ってくるのは、月に一度の本社会議への出席を兼ねたオフだけである。

それまでの生活に、ポコッと大きな空白ができた。毎日、夫のためにすることは

何もないのだ。はじめの一ケ月、美果は退屈のため気が狂いそうになった。

オフの三日間も、結局は何もすることがなかった。これからまたひと月も

逢えなくなるというのに、昨夜も茂之は無神経なほど淡白に、コンドームの

中に精液を吐き出しただけである。

夫がまた香港に発ってしまうと、誰もいなくなった部屋で、美果は、とうとう

眼の前の電話に手をかけた。

 全身に血管が灼き切れるようなセックスの情念が燻っていた。

「ハイ、薔薇の館でございます」

 思いがけなく、よそ行きの女の声が出た。

「ア、あの…」

 先方もちょっと戸惑ったようだ。間を置いて今度はさぐるように言った。

「応募の方ですか?」

「はい」

 しばらく待たされたあと、男の声に変わった。

「Mなの、Sなの?」

「えッ」

「女王様なら余ってるんだけどね」

ぶっきらぼうな応対に二の足を踏んだが、ここで電話を切るわけには

ゆかなかった。

「いえあの…。わたし、縛られてみたいと思って…」

「ほう、マゾかい?」

男はそれから根ほり葉ほりこちらの状況を聞いた。年令や職業やこれまでの

経験など、差支えない範囲で話すと、かなり興味を持ったようだ。

「それじゃすぐに来てごらんなさいよ。とにかく、試してみましようよ」

 言葉使いもずっと丁寧になっている。

 茂之は、まだ空の上であろう。ほとんど罪悪感のようなものはなかった。

 美果は大急ぎで衣装を変えた。

 教えられた薔薇の館というのは、板橋にある普通のマンションにあった。

別に看板がかかっているわけでもなく、呼び出しのチャイムを押すと、

顔を出したのは中年の背の低い男である。

「よく来たね」

 電話と同じ声で、男はいかにも好色そうな笑みを浮かべた。

内部はふた間続きの事務所で、客があったのか、わざと外に出したのか、

女はいなかった。そこでまた美果はくどくどと同じようなことを聞かれた。

「裸になってごらん」

男が立ち上がったとき、緊張で流石に頬がこわばっていた。知らない男の前に

ハート型の陰毛をさらすのは5年ぶりである。

「いい身体していますねえ」

 脂ののった肌を男の指が這いまわって、菱形に幾重にも縄を掛けられた。

やっぱり上手い…、後ろ手にまわした手首をぎゅっと締められたとき、

美果は男の技術に職業的な慣れを感じた。

「どう…?」

作品を眺めるように少し離れて、男が満足そう言った。手に黒い革のバラ鞭を

持っている。

「いくよ、息を止めて…!」

 バシッ…、と音よりも意外に軽い衝撃が背中にきて、美果は眼をつぶった。

「おっと、強すぎたかい?」

「いえ…」

「今度はちょっと痛いからね、悲鳴を上げてみな」

美果は、無防備に縛られてしまったことを後悔した。

所詮これもまた、まやかしのセックスである。



<つづく><もどる>