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    十七、夜の第三京浜

 浴槽の水を頭からぶっかけられて浴室から出ると、美果は首に鎖を巻かれて

玄関の階段の下にうずくまった。

 もう深夜である。外には秋の終りの木枯しが吹き荒れていた。

毛布をかぶっていないとガタガタと身体が震える。ゲブッと異様な匂いのする

ゲップがこみ上げてきた。

 二階には、夫の茂之とアルバイト女王様のエルが眠っている。のびのびと

発育したエルの肢体は、きっと温かいだろう。

 本当の主役は、あの人ではないか…、とも思うのだが、夫が何を仕組んで

いるのか見当もつかない。

絞り出すように性欲を使い果たして、美果はいつの間にか泥のように眠っていた。

「おい、出かけるぞ」

 えッ…、眼をあけると哲彦が昼間来たときの姿で立っていた。

「ど、どこへ?」

 不安におびえた顔を上げる。

「どこへ行くんですか…」

「帰るんだ、一緒に連れてってやるよ」

「エエッ」

 美果は息をのんだ。帰ると言えばもちろん哲彦の家なのであろう。これまで

ポケットベルの番号しか教えられていなかった哲彦の謎が解けるのである。

「早く、支度しろ!」

 支度と言われても何しろ素っ裸である。美果はオロオロと腰を浮かした。

「な、何か着るものを…」

「うるせえな。欲しいのはお前の身体なんだぜ」

「は、はい」

「そのままで良い、寒いから毛布をかぶって来い」

 とっさに頭が回転しない。美果は反射的に二階を見上げた。

「心配ねえよ、旦那は承知の上だ」

 哲彦が冷酷な笑いを浮かべた。

「それとも、ずっとここにいるか…?」

「いえ、行きます…ッ」

 それで、心が決まった。いまさら何を考えても無駄なのである。

 茂之の妻でありながら、哲彦の女としてしか生きてゆけないマゾの本能が

美果を衝き上げていた。

「行きますから…。わ、わたし、どうすれば良いの」

 美果は、すがりつくように言った。

「お願い、連れていって…!」

「だったら、初めからすなおに言えば良いんだ」

 哲彦が頭から汚れた毛布をかぶせた。この恰好で外に出ろと言う

意思表示である。

 鍵をあけると、颯っと冷たい風が吹き込んできた。

 表の道には哲彦の車が停まっている。ここから約30メートル、外はもう

寝静まっているようであった。

 九十九里の海岸から戻ったときとは逆の方向に、美果は毛布を

かぶったまま走った。毛布が風に煽られて、夜目にも白い腰と脚が、まるで

妖精が駆けているように見えた。誰が見ていようがいまいが、それはただ

後の幸運を祈るしかなかった。

 クラウンの助手席に転がり込むと、わずか数秒夜風にあたっただけなのに、

美果は全身が震えていた。

 ヒーターを一杯にきかせて白のクラウンが走り出す。暖房はすぐにきいて、

車内が暖かくなった。もう夜の12時をまわっていたが、逗子の町は

意外に車の流れが多い。対向車のライトに照らされる度に、美果は身をすくめて

毛布を胸に抱えた。

 これきり、逗子の家には帰れないのではないか…。

 美果は、ふとそう思った。

 下着一枚持たずに蒸発してしまうのである。離婚したわけでもないし、

夫の公認だから不貞とも言えない。それでいて、普通の常識では

考えられない異常な行動であった。美果は、茂之との5年間の生活が

まるで幻のように消えてゆくように思えた。

 まもなく、横浜新道に入る。

「毛布を取れ」

 巻きつけていた毛布を剥がすと哲彦が後部座席にほうった。文字通り、

一糸まとわぬ裸である。こうなると美果はかえって度胸がすわった。

 うつむいて車の流れに身を任せていると、まるで深い滝壺の底に

押し流されて行くような気がする。美果はもう引き返すことのできない急流に

巻き込まれていた。

 哲彦がどんなところに住んで、どんな生活をしているのか、すべてが

謎であった。もしかしたら、自分と同じように丸裸にされた女たちが、

何匹も家畜のように飼われているのかも知れない。ずっと前、SM小説で

読んだ場面が頭に浮かんだ。そのときはおとぎ話だと思ったものだが、

今では奇妙な現実性を帯びて迫ってくる。

 美果は、自分が本当に家畜になったような気がした。

 そのとき、突然車がスピードを緩めた。

 眼を上げると、青と赤の光を一列に並べたゲートが正面に

立ちはだかっている。ギョッとして、美果は身体を伏せた。

 第三京浜、東京料金所…、

 白のクラウンは、徐行して何のためらいもなくその一つにすべり込んでいった。

哲彦が運転席側の窓を開ける。美果は背中を丸めて、出来るだけ姿勢を

低くして車がゲートを通り過ぎるのを待った。料金の徴収係が気がついたか

どうかは定かではない。とにかく、車は再び猛烈な勢いで走りはじめた。

「シートを汚すんじゃねえぞ。おまんこの下に紙を敷いておけ」

「はい…」

 思わず、頬が熱くなった。確かに先刻から新しい分泌が滲み出している。

 身体を起こして、ダストボックスにあったハンドティッシュから23枚抜いて

クッションにひろげた。

 気がつくと、窓のすぐ横で12トントラックの大きな車輪が回っていた。

ただ回っているだけのように見えるのは、スピードがほとんど同じためである。

 アッ…!

 トラックの運転席は、乗用車よりはるかに位置が高い。見下ろせば、

こちらの車内は足の先まで丸見えになるのだった。

「どうした?」

 哲彦が、前を向いたまま言った。意識してトラックと並行して走っている

としか思えない。美果は凝然となった。

「疲れてるんだろう。シートを倒して横になっていろ」

「はい…」

 言われる通りレバーを押すと背もたれがガクッと後ろに倒れた。まともに

腰掛けていられない。美果は車のドアに貼りつくように背中を向けて

横になった。

「ちゃんと上を向けっ」

 手を延ばして、哲彦が車内灯を点けた。

「毛を剃ってるんだ。見られたってわかりゃしねえよ」

 もし気づかれたとしても、犬を乗せているくらいにしか思わないだろう、

と哲彦は言った。

 そんな筈はない…。3車線の第三京浜国道を疾走するクラウンの車内は、

夜の闇に浮き上がるように明るいのである。

 仰向けになって窓の外を見ると、並走しているトラックの運転席に、

鉢巻きをした若い男の顔がはっきりと映っていた。

「もっと脚をひらけ!」

 片手でハンドルを操作しながら、哲彦の指がクリトリスを摘んだ。


「クウゥ…ッ」

「なんだ、やっぱり濡れてるじゃねえか」

 コリコリと指先を動かす。さっきはどうしてもイクことが出来なかった

クリトリスに、また痺れるような感覚が戻っていた。

「自分で触ってみな。向こうの運ちゃんに、なかまで良く見せてやれ」

 ハンドルに手を戻して、哲彦はスピードを少し上げた。トラックは相変わらず

ピタリと並んでついてくる。明らかに気がついている証拠である。

 いったい、これは何なんだ…。

 トラックの運転手はそう思ったに違いない。

 すぐ横を走っている車の中で、白い動物がうごめいている。もちろん

犬などではなかった。陰毛と髪の毛は失っているが、滑らかな乳房を

持った正真正銘の女ある。

 裸だ…、とわかったとき、彼はきっと眼を見張ったことだろう。

 女は股を広げている。べつに嫌がっている様子でもなかった。ときどき

アベックがいちゃつきながら走っているのを追い越すことはあったが、

こんなのは初めてである。高速道路ではあり得ない光景であった。

 ただし、運ちゃんが鞭の条痕にまで気がついたかどうか…。

 わずか20分足らずの出来ごとであった。クラウンが突然猛スピードで

走りはじめた。時速百30キロ、みるみるうちにトラックは後方に置き去りに

されてゆく。あっという間に高速道路をおりると東京であった。

 車は世田谷区を過ぎ、新宿区に入った。夜の東京の町を、美果は

シートに仰向けになったまま人形のように揺られながら走った。

「降りろ…」

 窓の外にきらびやかなネオンが見えた。新宿歌舞伎町、歓楽街の

ド真ん中である。



    十八、麻  耶


 ビルとビルとが背中合わせに重なりあった裏道に、車がやっと2台置ける

駐車のスペースがあった。

 ビルの表側にはバーだのスナックだの、何とかパブといった電気看板が

びっしりと並んでいる。いわゆる雑居ビルである。

 駐車スペースの横に頑丈な鉄扉の出入口があった。従業員専用というより、

このビルを管理するための裏口であろう。

 毛布を座席に置いたまま車から出ると、哲彦に背中を押されて美果は

鉄扉の中に入った。

 まったく人の気配はなかった。表側の華やかさにくらべて埃まみれの

狭い階段を地下に降りる。配電盤や得体の知れないパイプ類が張りめぐらされた

一角を通って、また鉄の扉を開けると倉庫のような部屋があった。

 哲彦が電灯をつけると、ガランとした20帖ほどのワンルームである。

「まあ、座れ」

 ひとつしかない椅子に哲彦が腰をかけると、自然、美果は直接床に

膝を折るかたちになった。

 床には絨毯が敷いてある。最近、整備と清掃をさせたらしく、びっくりするほどの

不潔感はないが、部屋中に地下室の機械油の匂いがこもっていた。

 SMの小説に描かれていた華やかな情景とは、あまりにもかけ離れた

現実である。

「当分ここに置いてやる。のんびりと暮らしていれば良い」

 美果の気持ちにはお構いなしに、哲彦はそれが当然のように言った。

「腹がへったら、乙女座の麻耶を呼んでめしを運んで貰え」

 電話は、扉の近くの壁にあった。教えられた番号は内線である。

 美果にとっては、何から何まで当惑することばかりだった。ここは哲彦の

自宅ではない。そうかと言って事務所とも違っている。

 素っ裸で逗子の家からここまで来られたことさえ奇跡なのに、この部屋で

いったいどうやって暮らせというのか…。

 着のみ着のままという言葉があるが、それどころではなかった。

「あ、あの…」

 ようやく、美果はおびえた声を出した。

「いつも、来てくださるんですか…?」

「わからねえな。今度はいつになるか…」

 哲彦に突き放されると、美果は今にも泣き出しそうな顔になった。

「わ、わたし、一人では…、とても…」

「淋しがることはねえだろう。家畜小屋にしては上等だぜ」

「そんなんじゃないんです…」

 心細さと不安とで、思わず哲彦の足に縋ろうとした。

「馬鹿っ」

 靴で乳房を蹴り上げられて、美果は跳ね返るように絨毯に尻餅をついた。

「お願いッ、そばにいて…」

「てめえ、まだ修業が足りねえぞ」

「ヒッ、ひとりにしないで…ッ」

「誰が一人にすると言ったっ」

 二の腕を掴んで引き起こす。

「マゾの女は、決まった男を持つ資格なんかねえんだ」

「はッはい…」

「これからは、どんな男にも文句を言わずに抱かれるんだ。それが仕事だぜ」

「えぇッ」

 喘ぎながら、美果は哲彦を凝視した。

「わ、わたし、売られるんですか…?」

「家畜のおまんこを誰に売っても遠慮はあるめえ」

 哲彦は、平然と言った。

「許してくださいッ。わ、わたしそんなこと無理ですッ」

「どうなるか、やってみなけりゃわからねえだろうがっ」

「ヒェェッ…」

「わからなければ、身体に教えてやる」

 哲彦が、ズボンからベルトを抜いた。

「立ち上がって、両手を上にあげろ!」

「ハハ、ハイ…」

 惨めにバンザイすると、ここだけは剃るのを禁止されているワキ毛が

べっとりと脂汗に濡れていた。

 バシィッ…、

 鞭の音が、狭いコンクリートの壁に反響して何倍にも聞こえる。よろめいた

腰のあたりに猛烈な一撃が炸裂した。

「グッ、グェッ」

 ベルトの鞭が、蛇のようにウエストに巻きつく。膝から崩れ落ちそうに

なるのを、哲彦が横なぐりの鞭を入れた。

 反転して乳房を上に向ける。乳首が千切れるような衝撃に、一瞬呼吸が

止まった。つづいてもう一発、モロにみぞおちに来た。

「ウウッ…ムッ」

 ゆっくりと身体を一回転させると、美果は椅子の背にしがみつくような

かたちで、哲彦の足もとに横転した。

 意識が戻ったときには、部屋にはもう誰もいなかったのである。

 朦朧とした視線であたりを見まわすと、鉄の扉の横に毛布が

小さな塊になっていた。哲彦が車から出して投げ込んでいったのであろう。

 昨夜から排泄していないので、激しい尿意があった。絶望的な顔で、

美果はノロノロと身体を起こした。

 よろめきながらトイレを探す。突き当たりのドアを開けると、洋式の便器が

ついた小型のユニットバスになっていた。

 便器にしゃがむ間もなく小便が出たが、吹き出し口の周辺がヒリヒリと痛む。

粘膜の腫れがまだ治っていないのである。

 排尿を終って、美果はアッと思った。

 紙がどこにも見当たらないのだ。気がつくと、便座が新しい洗滌式に

なっていた。救われたような気持ちで陰裂を洗って、ついでにビデをかけた。

傷ついた肉唇にビデの温湯が心地快かった。

 トイレのドアに並んで、小さな洗い場がついていた。これなら簡単な

炊事くらいはできそうである。

 洗い場で顔を洗おうとして、美果はまたアッと思った。

 石鹸もタオルも、ベッドから歯ブラシに至るまで、必要な生活用品の一切が

入っていないのである。食べるものはおろか、食器などもスプーンひとつ

落ちていなかった。

 この部屋は檻というより、コンクリートの大きな箱であった。

 ビル全体が空調されているので寒くはないが、毛布を引き寄せると、

逗子の玄関でやっていたように身体をくるんで、美果は眼をつぶった。

 哲彦がいつ戻ってくるのか、まるで見当がつかない。それまでは、

ひたすら待ち続けるより他にすべがないのだ。

 一昨日の夜から、眠ろうとしても眠れない残酷な責めの連続であった。

体力を使い果たして、美果は泥のような眠りに落ちた。

 眼を覚ましたのが何時なのか、朝か夜かもわからない。地下室の

箱の中では時間を知る方法もなかった。

 たったひとつの財産になった毛布をたたんで、美果はユニットバスの

シャワーを浴びた。全身に鞭の痕が残っていたが、床を裸で転げまわった

汚れを落とすと、少しは落ち着いた気分になった。

 すると、次に襲ってきたのは猛烈な空腹である。ほとんど絶食状態が

続いて今日で4日目になる。

 腹がへったら、乙女座の麻耶を呼べ…、と言った哲彦の声がよみがえってきた。

 麻耶…?

 乙女座というのは店の名前であろう。教えられた電話は内線番号だから

このビルのどこかにあるのだろうが、美果はもちろん知るよしもなかった。

 そこに、麻耶という女がいる…。

 その名前だけが、現在の美果と外部をつなぐ接触点であった。

 話をすることができれば、哲彦の情報も少しはわかるかもしれない…。

 勇気を出して、美果は鉄扉の横にある電話をとった。

「ハイ、乙女座でございます」

 受話器の向こうから、澄んだ女の声が返ってきた。

「あッ、あのう…」

「乙女座でございますが…」

 こちらのことをどう説明したら良いのか、美果は口ごもりながら言った。

「麻耶さん…、でしようか…?」

「はい」

「アノ…、わたしアノ。て、哲彦さんに紹介していただいて…」

「あ…」

 声は、すぐ思い当たったように言った。

「美果サマ…?」

「ハ、ハイ」

 何故か、急に顔が赤くなった。声の調子では、相手は美果のことを

十分に知っているらしいのである。

「お待ちくださいませ。いま、お食事をお持ちいたしますから…」

 美果が何か言おうとすると、電話は向こうから切れた。

 話し方に水商売の雰囲気はあるが、キチッと躾けられた丁寧な

もの言いである。それは好意というより、やはり哲彦に命じられているからであろう。

 全裸で閉じ込められた姿を見られることはたまらなかったが、今は頼るしかない。

 鞭の痕を見て、麻耶はどう思うのだろう…。考えると、やはり気おくれが先にたった。


<つづく><もどる>