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    二十九、乙女座の客たち

 東京までの3時間は短かった。

 座席にうつむいたまま、美果は昨夜からの出来事を考え続けていた。

 別れのときに見た女王様の涙が、眼の裏にこびりついて離れなかった。

一晩かぎりの出会いなのに、何故か心が締めつけられるように辛いのである。

 今からでも、戻ってみたい…。

 はま子も同じ気持ちだったに違いない。それは変態と変態が互いに呼びあう

遺伝子次元の本能的な衝動であった。

 ダブダブの革ジャンで隠してはいたが、手首にはロープの痕が、クッキリと

青痣になって残っている。

 昨夜飲まされた排泄物が、血液と一緒に身体のすみずみまで循環している

ような気がした。腎臓の機能が極度に活性化するためであろう。小便より

ずっと薄くて、僅かに塩辛い味がする液体であった。

 もうひとつ、はま子には気にかかる謎があった。

「さすが、哲彦の仕込みや…」

 三吉はオーナーと呼んでいたが、はま子はあのとき、平然と哲彦の名を

呼び捨てにしたのである。恋人かただの情婦かと聞かれて、美果は返事を

することができなかった。

 女王様は、哲彦といったいどういう関係なのだろう…?

 何もかも気持ちの整理がつかないうちに、列車は東京に着いた。

新宿に降りると、歌舞伎町にはもうネオンがつきはじめている。

 ジャンバーに顔を埋めて、美果は足早やにあのビルの倉庫部屋を目指した。

 逗子の家から素っ裸で連れ出されたあと大阪に行くことを命じられるまで、

ここが哲彦から与えられた唯一の居住空間である。ビルの裏側にまわると、

美果はふと我が家に戻ってきたような錯覚を感じた。

「あ……」

 手をかけて引いてみたが、裏口の鉄の扉はピクリとも動かなかった。あたり前の

ことだが、鍵がなければ開かないのである。

 どうしよう…

途方に暮れて、美果はしばらくその前にただずんでいた。だがいつまで待っても、

こんなところに哲彦が迎えにきてくれる筈はなかった。

 そうかといって、何処に行けば良いというあてもないのだ。

 そうだ、麻耶さん…!

 突き放されたような不安の中で、美果はようやく一本の糸をみつけた。

 大阪から帰ったことを知らせるには乙女座の麻耶と連絡を取るより他に

あるまい。直接訪ねて良いものかどうかわからないが、あの店は、

間違いなく同じビルの中にある。

 表通りに戻ると、美果はあらためてビルの壁面にかかった電気看板の

列を見上げた。

 あれだ…!

 全体にそれほど新しくない8階建てのビルで、1階は焼き肉屋だが、

あとはパブだスナックだといった色とりどりの看板が並んでいる。紺地に

銀色のしゃれた文字で、乙女座はその7階にあった。

 美果は瞬きもせず、感情のない光の標識を見つめた。

 どんな店なのか、麻耶は本当にそこで働いているのだろうか…。

 急にまた不安になって、意味もなく気持が揺れる。

 7階までエレベーターで昇らなければならないことにも抵抗があった。

乙女座は、これまで手が届かなかった未知の領域である。そこに何があるのか、

地下の倉庫部屋に麻耶が毎日食事を運んでくれたこと以外にはなにひとつ

判っていない。

 だが、いつまでも外に立っているわけにはいかなかった。

 美果は、思いきってエレベーターのボタンを押した。

 小さな箱が、そのまま淫神の胎内に吸い込まれて行くような気がする。

微かに重力の変化を感じてドアが開いたとき、美果は全身がこわばるほど

緊張していた。

 7階のフロアは明るかったが、正面に豪華な木彫りのドアがあって、

用のない客の出入りを拒絶している。『乙女座』という看板はあったが、

これではフリーの客はとても入れないだろう。扉に手をかけるのにも、

かなりの勇気がいった。

 おそるおそるドアを押すと、ドアは意外と簡単に開いた。すぐ横に

クロークがあって、麻耶が着ていたのと同じエナメルのコスチュームをつけた

女の子が振り返った。

「あの、わたし…」

 革ジャンにすり切れたジーンズ、イガ栗頭の闖入者が女だとわかると、

びっくりして眼を丸くしたまま黙っている。

「こ、こちらに、麻耶さんという方がいらっしゃらないでしようか…」

「麻耶…、でございますか?」

 アッと女の子の顔に思い当たる表情が浮かんだ。

「ちょっと、お待ちくださいませ」

 クロークを出て、あわてて奥に駆け込む。

「あのどうぞ、こちらへ…」

 すぐに戻ってきたが、応対は大切な客を迎えるような丁重さに変わっていた。

「いえわたし、ここで…」

「どうぞ奥のほうに、お席を用意いたしますから」

「で、でも、こんな恰好で…」

「いいんです。あの、お召し物をお預かりいたしましようか…?」

 ジャンバーの下は、薄汚れた白いセーター一枚である。

 ようやくクロークに預けるのを断って、美果は顔を伏せたまま女の子の

後について店の中に入った。

 案内されたのは熱帯樹のツリーの横で、丸いテーブルをはさんで

分厚い椅子が向かい合っている。オズオズと腰を下ろすと、クッションに

身体が沈むような気がした。

「お飲みものは、ブランデーをお持ちいたしましようか?」

「いえあの、いいんです」

「ではコーヒーか何か…」

「すいません、じゃ…」

 女の子が引き下がったあと、ほっとしてあたりを見まわす。

 それほど広くはないが、雰囲気はちょっとしたホテルのサロンバーである。

 奥のほうにボトルを並べたカウンターがあったが、いかにも夜の店と

いったケバケバしい照明もなく、喧かましい音楽も聞こえなかった。

 クッションのきいたソフアのスペースは広く取ってあったし、どちらかと言えば

談話室といった感じである。

 正面にカラオケを唄うにしては立派なステージがあって、これが乙女座

なのであろう。背景に星座をかたどった豆電球が光っていた。

 客はもう何組か入っていたが、男ばかりのグループもあったし、女が

混ざっているところもあった。その視線が一斉にこちらを向いているような

気がして、美果はますます身体が固くなった。

 従業員は、クローク兼用のレヂとフロアに一人づつ、バニーガールに似た

同じエナメルの衣装をつけているが、ホステスはおいてなかった。

客はそれぞれ勝手に飲みものを注文して、顔を突き合わせて

しゃべりあっている。

「お待たせいたしました」

「麻耶さんは…?」

「今ちょっと…、すぐにまいりますから」

 久し振りのコーヒーの味は、生き返るほど美味しかった。じっと息を

ひそめて、美果は麻耶が現れるのを待った。

 後ろの席の話し声がヒソヒソと聞こえる。男三人に女一人のグループで、

内容は良くわからなかったが、ときどき「奴隷」とか「調教」といった

単語が耳に入った。

 SM雑誌などでヤタラに出てくる変態用語である。明らかに、彼らは

その方面のマニヤたちであった。聞くともなく話を聞いているうちに、

美果はおぼろげながら哲彦の実像を理解することができた。

 乙女座は、マニヤのための社交場であり、情報交換の場所なのである。

哲彦はこの店の経営者というより、ハイクラスの変態クラブの主宰者で、

それがオーナーと呼ばれている理由なのであろう。

 これなら、夫の茂之がメンバーであったとしても不思議ではない。

「エッ、銀の鈴が…?」

 後ろの席の女が突然甲高い声を出した。

「しィ…ッ」

 ギョッとして、美果は身を縮めた。

 銀の鈴…、それは2年ほど前、美果があるSM雑誌に投稿した

告白手記のペンネームである。

 何故、こんなところで…?

 信じられないことだが、マニヤの一人がイガ栗頭の異様な女が『銀の鈴』で

あることを察知したらしい…。

 しばらくして男が一人立ち上がって少し離れた別のグループの席に行った。

身体でこちらを指しながら何か話しかけている。

 飲みかけのコーヒーカップが、カチカチと鳴った。男がうなずいて、

ゆっくりと美果のほうに近づいてくる。

「失礼ですが、あなた…」

 男は、美果の顔を覗きこむように腰をかがめた。

「もしかしたら、銀の鈴…。とお呼びしてもかまいませんか?」

 呆然と、美果は男の顔を見上げた。



    三〇、SM問答

 
なぜ、なぜなの…?

 哲彦が、客の前でそんなことを喋る筈はなかった。

 あの告白を書いたとき、『銀の鈴』つまり滝沢美果は、肩まである

豊かな髪とハート型の隠毛を持った若い人妻であった。日ごと夜ごと

異常な妄想に取り憑かれて、被虐の願望に飢えた淫美な女だったのである。

 革ジャンにイガ栗頭のみすぼらしい女が、なぜ銀の鈴ということになるのか…。

「違いますか、ねえそうでしよう?」

 男はもう一度念を押すように言った。

 返事をすることができず、美果は黙って視線を伏せた。

 これでは認めたのも同じである。男はすかさず空いている隣りの椅子に

腰を下ろして、すり寄せるように顔を近づけてきた。

「初めてお会いしました。いや光栄だなあ」

「………」

「お名前は前から伺っていましたがね。ここで実物にお目にかかれるなんて…」

「………」

「なにしろ銀の鈴といえば、我々にとってまぼろしの存在ですから」

 美果はまた、激しい戸惑いを感じた。

 マニヤたちの間で、この種の情報には尾鰭がついて、噂が噂を呼んで

広がって行く。

 銀の鈴という名前の特異な性欲を持った女の存在はこのサロンで恰好の

話題になったのかもしれない。もし本人の消息を知っているものがいたとしたら、

彼らにとってそれは一種のステータスなのである。

 だが2年前の投稿に、それほどの反響があったのだろうか…。

「やっぱり、銀の鈴だったでしよう?」

 最初に気がついた男が、正面のソフアに座りながら言った。

「間違いないと思ったんだ。銀の鈴は最近髪の毛まで落とされていると

聞いたもんで…」

「エ…ッ」

 美果は息をのんだ。

 髪の毛を剃り落とされて、まだ一ケ月も経っていない。どうして、それが

彼らの耳に入っているのか…。

「ド、どなたがそんなことを…?」

「まあ良いじゃありませんか、私たち、こういうことに関しては特に敏感ですから」

 男は、得意そうに言った。

「実を言うと、これはある会員からの確実な情報でしてね」

 アッ…、

 張本人は、紛れもなく夫の茂之である。

 任地の香港に発つ前に、乙女座に立ち寄って逗子の家での出来事を

残らず話していったのであろう。

 それどころか、銀の鈴の噂を流し続けて、まぼろしの女に仕立て上げたのも

茂之の演出だったに違いない。

 美果には、それ以外考えられなかった。

 心の動揺を隠して、美果はできるだけ平静に言った。

「あ、それじゃ滝沢さんでしよう?」

「ほう、やっぱりそうだったんですか…」

 滝沢は美果自身の姓なのである。とたんに男は軽い嫉妬の表情を浮かべた。

「羨ましいな。滝沢さんとはどういうご関係で…?」

「いえ別に、どうということではありませんけど…」

 美果は、自分でも不思議なほど乾いた声で言った。

「ときどきお付合いしていただいているものですから、良い方ですわ」

 妻であることを隠して、銀の鈴が生まれながらの変態性欲者であることを

熱っぽく語っている夫の顔が眼に浮かんだ。

「プレイとか、なさらなかったんですか」

「だって、あの方マゾですから。わたしとはタイプが違いますけど…」

 意味もなく笑いがこみ上げてきた。大阪の三吉夫婦も異常だったが、

自分たちのほうがよほど変態である。

「失礼いたします」

 後ろからスッと白い腕が伸びて、美果の前に新しい水割りのグラスが置かれた。

「あら…!」

視線が合うと、麻耶の鳶色の眼が微かに笑った。

(おかえりなさい…)

 それだけで、美果はホッと安心することができた。ふたりの関係は誰にも

知られないほうが良い。

 いつの間にか、まわりに七八人の会員たちが集まっていた。銀の鈴が

乙女座に現れたということは、彼らにとってちょっとした事件なのである。

思わぬ成り行きに当惑しながら、美果は席を立つことができなくなってしまった。

 茂之が播いた種も十分に効果があった。

 苛酷な鞭の下でイキ続ける特異な体質と強度のマゾヒズムは、何と言っても

男たちの好奇心をかき立てる。

 会員たちにとり囲まれて、美果は嫌おうなしに話題の中心になった。

「髪の毛を剃ったのは誰なんです?」

 それが、最初の質問であった。

「おまんこは剃ったことあるけど、僕もそこまでは出来なかったな」

「カンニンしてください、それだけは…」

「ほう、専属の恋人がいるんですか」

「チ、違うんです」

 あたりに、陽炎のような情欲のオーラがたち込めていた。

「鞭は、痛くないの?」

 後ろの席にいた女が身を乗り出す。

「私って縛られるのは好きだけど、でも鞭は怖くて…」

「わたしも怖いんです」

 美果はビクッと肩をすくめた。

「でも、我慢しているうちにわからなくなって、あとは…」

 やっぱりねえ…、と女は不思議な生き物を見るような眼をした。

「鞭だけでもイクって本当ですか」

「はい」

 ふと、眩暈のような快感を感じた。変態者たちに囲まれて、取り調べを

受けるように性欲を暴かれているのがたまらないのだ。

「凄いんだな、一度プレイしていただけませんかねえ」

「いえでも、いつもそうなると言うわけではありませんから…」

「ふうむ、マゾの性感てそんなもんかねえ」

 医者だと名乗った初老の男が、感心したように言った。

「自然にイッちゃうの? どんな状態になるの?」

「解らないんです。自分でもどうなっているのか…」

 すり切れたGパンの下で、クリトリスが激しく頭を持ち上げている。

「ただ、あの、今でも…」

「えっ、今でもイッているのかい」

 医者は信じられないような顔になった。

「違うと思いますけど、わ、わたし…、どうしてでしよう」

 シィン…、と一同が美果を見つめた。

「ちょっと!」

 すぐ横にいた男が、いきなり腕を掴んだ。

「何です? これは…」

 革ジャンバーの袖口から、青黒いロープの無惨な傷痕が覗いている。

手首を握られたまま、美果はじっとうつむいていた。

「プレイの跡だねえ。いままで縛られていたんですか?」

「は、はい…」

「ずいぶん酷くやられてるわ、何だか怖いみたい…」

 女がタメ息をつくように言った。

「この人、もしかしたら身体中痣だらけじゃないの?」

 ビクン…!

 突然下半身がはずんで、柔らかいクッションが揺れた。

 好奇と淫靡な視線に曝されて、美果は二度三度、電気ショックを

与えられたように筋肉を痙攣させた。

「イッとるのか…?」

 医者が、さぐるような声で聞いた。

「い、いえ。た、ただ身体が…」

 それは夫の茂之が、会員たちに話したのより更に進んだ真性マゾの過激な

性感反応である。

「凄げえなあ、人間じゃねえな」

 誰かが、急におどけた声を出した。

 だが笑ったものは一人もいなかった。全員が美果を凝視していた。

 ヒクッ…、ヒクッ…、

 たしかに、乙女座の会員たちに比べれば、美果の性感は将棋のプロと

アマくらいの違いはあったかも知れない。

「あの、お電話でございます」

 ハッとわれに返ると、エナメルのコスチュームをつけた麻耶が絨毯に

片膝をついて会釈していた。

「あッ、はい…」

 あわてて立ち上がると、痛いほど膨らんだクリトリスのまわりに、奥から

ジュクジュクと淫汁が滲み出してくる。

「ほう、誰かと待ち合わせでしたか」

「大丈夫かね。そんなに興奮していて…」

 男たちの嫉妬と羨望の視線を遮るように、麻耶が背後から小声の早口で言った。

「オーナーがお待ちなんです。ご案内しますから…」

「麻耶さん…!」

 よろめいて、美果はとっさに麻耶のしなやかな指を握った。



<つづく><もどる>