立 山 の 章
一、発 端
「何だって、餓鬼の田ん圃?」
額からにじみ出してくる汗を拭きながら、田丸五郎は妙な顔をした。
なにしろ、20平方米ほどのスペースに机がふたつ、ワープロや複写機が置いてある台と
書類棚、それにロッカーと冷蔵庫といったせまいオフィスである。
昨夜おそく東京について、今日はもう朝から二・三個所まわるところがあった。
途中から留守番の桜井さゆりに電話を入れて、例の事件についてのメモを頼んでおいた
のだったが、結局、神田の事務所に戻ってきたのは二時すぎになってしまった。
「随分とまた、変わった地名なんだな」
「ほんと…」
桜件さゆりは相槌をうちながら、立ったまま持っていたノートをひろげた。
白のブラウスにあまり短くないジーンズのスカート、それほど太っているわけではないが、
全体に丸い感じの健康そうな娘である。
「新聞を三つとも読んでみたんですけど、内容は、どれも似たりよったりなんです」
さゆりは、細かい字で書きうつしたノートを、ハキハキとよく通る声で読みはしめた。
「十三日ひる頃、富山県立山の山頂に近い弥陀が原高原の通称“餓鬼の田ん圃“に、
変死体があることを高原バスのガイドさんが発見して立山署に連絡した。死体は富山県中新川郡
立山町××の会社重役 佐伯興平さん58才で、ひと月ほど前から行方不明となり家族から
捜索願いが出されていたことがわかった。解剖の結果、佐伯さんはほとんど餓死に近い状態で
死んでいることが判明、警察では食物を与えられずに長期間監禁されたあげく殺されたものと
断定し殺人事件として捜査をはじめた。なお会社や家族に対して身の代金の要求などは
なかったもようである・:」
「犯人はまだ検挙らないのかい?」
「それからあとの新聞をずっと調べてみたんですけど、記事はこれだけです」
地元の新聞だったら、もう少し詳しい内容を伝えているのだろうが、全国版の社会面では
仕方あるまい。次から次へと、新しい事件が多すぎるのである。わずか十日前の事件だったが、
彼自身、その時はとても落ち着いて読んでいる余猶などなかった。かろうじてこの名前だけが、
記憶に残っていたのだった。
「ずいぶん、いやな殺されかたをしたものだな」
田丸五郎は、つぶやくように言った。いまどきこんな殺人方法が残っていたのか、ピストルや
爆弾や、次々に起こる異常な殺人事件がむしろ日常茶飯事になってしまって、これは、ひどく残忍で
計画的な印象を受けるのである。
「餓鬼の田ん圃に餓死死体か・:」
犯人は、はじめからそのことを計算してかかったのだろうか。よほどの自信と、執念が
なければ出来ないことだ。
「先生、この事件を調べるんですか?」
さゆりがノートを閉じながら言った。
ひるまは田丸探偵事務所でアルバイトしながら、F大学の二部に通っている。勤めてから
一年半ばかりになるのだった。はじめはオドオドした女の子だったが、最近では、いっばしの
助手として電話番以上の役割りも果たしてくれるようになっている。
「うん、まあ…」
田丸五郎は、言葉をにごした。
奈良であったことは、何となく話たくなかった。それに、さゆりがわざわざノートまで
とってくれたのには、ちょっぴり後ろめたさのような気持ちも感じる。
「どうなるか、まだわからないんだがね」
さゆりが、また何か言いかけたとき、けたたましく電話のベルが鳴った。
「ハイ、田丸探偵事務所です」
このへんの呼吸は、よく慣れてくれたものだ。田丸五郎は、やれやれといった感じで、
さめかけたお茶に手をのばそうとした。
「先生・・・」
送話口を手でおさえながら、さゆりが早口の低い声で言った。
「午前中に一度かかってきたんですけど、それと同じ人なの。先生と直接お話しになり
たいそうです」
「いいよ。かしてくれ・・・」
田丸五郎は、やっとひと口飲んだ茶碗をまた机の上に戻した。
「モシモシ・・・」
「あ、先生でんな?」
むこうから聞こえてきたのは、かなり年配らしい、関西なまりの太い男の声であった。
「どうも失礼しました。実は、先生にどうしても御相談いただきたいことがおまして、
朝からお電話しておりましたんやが・・・」
「それはどうも、このところ、ちょっといそがしかったもので・・・」
「結構でんな」
「で、お話しというのは?」
「それが、こちらもまことに厄介なお願いでして、先生にお手数かけることになります
のやが・・・」
「構いません。どうぞご遠慮なく」
こういうかたちで事件を依頼されることは、これまでにも数多くあった。彼は習慣的に、
録音ボタンを押しながら答えた。電話器に連動していて、通話中の話がそのまま録音出来る
装置である。
「お願いというのはつまり、さる高貴なお方の身のまわりを、安全に、いや絶対に間違いの
起こらぬよう、お謹りしてほしいしいうことやが…」
「はあ、つまりボディガードですか?」
冗談じやない…、田丸五郎は受話器を持ったまま机に頬杖をついた。
「残念ですが、今お話したとうり、このところいろいろと仕事が重なっていまして…」
「それはよく解っております。まあ、つききりというわけにも行きまへんやろが…」
声は、そこでちょっと口ごもったあと、思いきったように続けた。
「ごく内輪のことやが、実は、いまそのお方の生命が狙われておる」
「誰にですか?」
「相手は、まだよくはわからんのやが、なんとか一日も早く手をうっていただきたい。
お願い出来まへんやろか」
「しかし、相手もわからないことには…」
「だから、困ってますのや。事件はもう始まっておる」
「その、御本人のお名前は?」
声は、また一呼吸おいてから、重々しく笞えた。
「佐伯浩市郎といって、十才にならはる」
「佐伯?」
思わず、背筋がのびた。
「で、場所というか、お住まいは・・・?」
「富山県、中新川郡立山町××…」
声は、まさしく同じ地名を告げたのである。
「犯人がわかればそれだけでも良い。とにかく、ほかのことにはあまり立ち入らないように
してほしいのや。職務上の秘密とか言いますやろ」
「モシモシ、もう少し詳しく…」
「詳しいことは、現地に行っていただければわかりますやろ。ただし・・・」
その声は、もう一度念を押すように言った。
「そこでどんなことがわかったとしても、秘密は固く守っていただきたい。それでないと
あきまへんのや。お骨折りいただけますやろな?」
「良いでしょう。あなたのお名前を仰言って下さい」
「申し訳けないが、こちらの名前は言えまへん。この話は、もちろん本当のことや、
かわりに費用はなんぼでも送りますよって、それなら構いまへんやろ?」
黙っていると、ガチャリと先方から電話が切れた。
「おい、このテープすぐに巻き戻してくれ・・・」
声は老人だが、迫力があった。丁寧なもの言いをしているようで、有無を言わせない
強引さである。
「いたずらでしょうか?」
緊張して、全身を耳にしていたさゆりが言った。
「私には、そうは思えないけど…、言葉の調子からすると、関西でしょう?」
内容ははっきりしているのだったが、やはり、電話にも微妙な距離感は残るのである。言葉の
なまりだけでなく、電話の主が、実際にかなり遠方からかけていることは、間違いないよう
であった。
「・・・・・・・・・」
田丸五郎は黙って鞄を引き寄せると、パチンと止め金をはずした。中身は昨夜戻ってきた
ときのままで、時刻表や整理してないメモの切れはしなどが、乱雑にかさなり合っている。
田丸五郎はその中から北日本新聞を出して、デスクにひろげた。反対側から、さゆりが
身体を乗り出してくる。
「これだよ」
記事の一番下を、指先でトントンと叩いてみせた。
「あら…!」
電話の前に、彼が早くも事件をキヤヅチしていたらしいことを知って、さゆりは、驚きと
尊敬のまなざしを向けた。ちょっと照れくさかったが、田丸五郎は鷹揚に足を組んだ。
「どうだ、ひとつ乗ってみるかね?」
「もちろんでしょう…!」
窓を見ると、ここにも五月の小さな青い空があった。
……立山か、どんなところだろうな。
田丸五郎は、ぼんやりとそんなことを考えている。どこかで、「奈良の女」の後ろ姿が
重なっていた。
私立探偵と言っても、町のごろつきと大して変わらない連中が多いなかで、田丸五郎は、
彼らとは全く異質の一匹狼であった。身長が標準より足りないことを気にしすぎるという
欠点を除けば、素質も行動力も、まず抜群と言って良い。大学を中途でとび出してプロの
道に入ってから、警察でも手を焼いたいくつかの難事件を解決している。まだ若いが、
すでにかなりの信用と、知名度を得ているのだった。
だが・・・・・・。
天才、和気野清麿と組んで、彼が本当の活動を開始するのは、まだ、これから先の話だった
のである。 I
それから二日ほどたって、神田の田丸探偵事務所に、まとめて五通のぶあつい現金書留の
封筒がとどいた。
「先生、いくらかしら?」
たちまち、桜井さゆりの眼に、ありありと好奇心が浮かんだ。
消印は奈良で、差し出し人の名は
「奈良市雑司町一番地 大石 良雄」と達筆でしたためられている。
「開けてみな…」
さゆりが、いそがしく封を切った。中身は真新しい一万円札で三十枚あて、合計百五十万円
である。為替や小切手をさけて、何か何でも現金を送りつけてきたところに、この人物の
なみなみならぬ意志が示されているようであった。
「すごい・・・!」
「なるほど、金に糸目はつけないというわけか・・・、だがこんな根性は気に喰わんな」
まだあっけにとられているさゆりに、ニヤリとウインクして言った。
「こっちもプロだ。よし、引き受けてやろう。悪いけどまたしばらく留守をたのむよ」
遠い立山の高原でおこった殺人事件は、いつのまにか、田丸五郎を同じレールの上に乗せて
走りはじめているのだった。