四、山 峡 の 家





 ……ところが、それからが大変だったのである。

 ここまで何の努力もなしに来られたことのほうがむしろ不思議なのだが、地元のバスを

一時間以上侍って、桂台で降りると、舗装された道路はとたんにゴツゴツの岩道に変わり、

革底のタウンシューズにとっては、最悪の条件となった。轍のあとはあったが、おそらく、

車を動かすことの出来る限界であろう。

 歩くたびに、足のうらに鋭い岩の感触が伝わってきた。まだ新しい上、かかとの下に

背丈を高く見せるためのパットを入れているので、爪先がジンジンとしびれるほど痛い。

これには参った。

 称名川に沿って、道はだらだらの下り坂だが、それだけに、いっそう足もとが危ない。

かなり遠くに、西瓜をバリッと割ったような凄まじい岩肌が、垂直に露出していた。これが

悪城の壁であろう。

 左側は急勾配の原生林で、午後もさかりだというのに、早くも夜気のような湿り気が

たちこめている。何だか天狗か山姥にでも会いに行くような気分で、とてもじゃないが高貴な

お方のお住まいになっていそうなところではなかった。

 たっぷりと三〇分以上かゝって、ようやく悪城の壁を正面に見るあたりまで来ると、道は

山側に大きく迂回していた。そこからは、急に険しい登り坂になって先に続いているの

だったが、気がつくと、ここまで一緒についてきた轍の跡が、道をはずれて森の奥のほう

にむかって消えている。あたりは山裾がすこしさがって、小さな入江のような凹地を形成

していた。それだけに、樹の蔭がいっそう深く見えるのである。

・・・・・・ここだ! 

 田丸五郎は、迷わず轍の跡を追った。すると、五〇メートルほどで古い門にぶつかる。

 表札がまっ黒になって、ほとんど読めないくらいの文字で、『佐伯』とだけ出ていた。

 何という形式かわからないが、両側の門柱にあたる部分は、それぞれ四本の太い丸太で

ガッシリと組み合わされていた。間には腰板が張られ、上部は木格子になっていて、なかに

仁王様でも置けば似合いそうな感じだ。

 庇はそれほど高くないが、下を通るとき、思わず首をすくめるほどの重量感があった。

乗っている五の一枚一枚が苔むして、その上に落ち葉がつもり、一メートルを越える雑草や

潅木のようなものが生い茂っている。

 門扉はひらかれたままで、その厚みは並みの家の柱ほどもあった。

 二・三○メートル奥の大木の蔭に、玄関らしいものが見え、ボンヤリと灯が洩れているのが

異様な感じだ。これはもう、屋敷というよりも寺院に近い。

 玄関の重々しい格子戸を開けるにも、かなりの勇気がいった。この家からの直接の依頼では

ないだけに、そのへんも微妙なのである。

 なかに入ると、胸の奥にしみこんでくるような荘重な香りがこもっている。悪い匂いでは

ないが、何故か人間を地の底に引きずり込むような、幻覚的な香りだ。田丸五郎は、一瞬、

息をつめた。

 気がつくと、式台のところに板木のようなものがあって、小槌が下がっていた。それを

二・三回叩くと、よく響く音がして何となく手応えがあった。しばらくそのままでいると、

やがて微かに空気の揺れる気配がして、右側の襖があいた。

 老婆である…。

 客が誰なのかほとんど見ようともせず、まるで空中に浮いているようなゆっくりとした

動作で、式台に両手をついた。

 「どちら様・・・?」

 言葉を用意していなかったのと、異様な老婆の雰囲気に、田丸五郎はたじたじとなった。

 頭のどこかで、パチパチと小さな火花が散っている。

 「実は、東京から参りましたが、その、こちらの御主人、えぇと、佐伯敬至郎さんに

お目にかかりたいのですが・・・」

 口をついて出たのは、北日本新聞の死亡広告に喪主としてのっていた男の名前だった。

それ以外、ちょっとこの場で使えそうな名前がなかったのである。

 「敬至郎でございますか」

 老婆は、ゆっくりと顔をあげて、田丸五郎を見た。

 「・・・・・・・・・」

 その底ぴかりするような眼の色といったら、和気野清麿の視線もいやだが、この老婆には、

鋭さとか気迫といったものとは別の、何か狂気めいた執念が凝縮しているような怖さがあった。

 面長で眼が凹み、肌は老人特有の浅黒さがなく、蒼白に近い。年齢は七〇才くらいに

見えるが、その年になるまで、よほどの精神的な圧迫に耐えてきたのか、あるいは、それ以上に

何か一途に思いつめて生き続けてきたのか、身のこなしばかりでなく、魂まで宙に浮いている

ような印象を受けるのである。

 「お友だちでございますね」

 老婆は、つぶやくように言った。

 「はぁ・・・、まあ・・・」

 「お待ちくださいませ」


 老婆は深く頭を下げると、また宙に浮くような動作で奥に消えた。

 まさか、一日中香を焚きこめているわけではないのだろうが、匂いは、この家の古さに

一層幻想的な雰囲気を加えているようであった。

 玄関は土間で、それがまるで漆黒のタイルを敷きつめたように黒光りしている。見まわすと、

正面に衝立はなく、その代わり長押の上に厚昧がI〇センチはありそうな板額が、

どっしりと掛けられていた。

 太々とした墨の文字が、板の色と見分けがつかないくらい古くなっている。眼をこらすと

『仮名乞児』と読めた。

 ・・・仮名のこじき?

 掛けてある場所と文字の立派さにくらべて、何となくちぐはぐな感じがする。いったい、

どういう意昧なのだろう。

 式台の横の板木にも字が書いてあったが、このほうは、まるで呪文のようなもので、読み方すら

解らなかった。

 一生懸命、板木とにらめっこしているところに、また奥の襖が開いて、痩せて神経質そうな

男が出てきた。一瞬、不審そうな顔を見せたが、男はすぐ丁重な物腰で膝を析った。

 「敬至郎でございます」

 年令は自分よりすこし上であろう。陽に灼けて黒く見えるが、華奢な骨づくりで、どこか

文学青年のような、ひよわな印象を受ける。

 度胸をきめて、簡単に来意を告げると、敬至郎はしばらくうつ向いていたが、やがて、

 頷いて顔をあげた。

 「わかりました。何ともお恥ずかしいことになってしまって・・・、とにかく、お上り下さい」

 分厚い感触の廊下を通って、奥まった部屋に入る。部屋は三方が襖仕立てで、床の聞がなく、

もう一方は案内されてきた廊下をへだてて、庭とも山の中ともつかない深い樹々の梢に面していた。

 十二畳ほどの広さだったが、柱も鴨居も格子造りの天井も、やわな都会風の建築にくらべて、

たっぷり三倍はありそうな材木がガッチリと組み合わされている。よほど古い家なのだろうが、

まだ微動だもしていないのである。

 襖には、極彩色の風景が描かれ、時代とともに黒ずんで、ところどころに剥落が見える。

それがかえって全体の重さを増しているのだった。

 天井は六〇センチ位の正方形に区切られ、そのひとつひとつに、朱と金泥で花鳥や仏像

に似た人物が描かれていた。図柄はもうすっかり傷んでいて、しろうとの眼には判然としない。

 「いつ頃、建てられたのでしょう」

 田丸五郎は、半分ため息のような声を出した。

 「よくはわかりませんが、百七・八〇年前でしょう。この襖などは、もっと古いものだと

聞いていますが…、たしか狩野尚信、探幽の弟です」

 「ははあ…」

 それがいつ頃の人物なのか、見当もつかない。彼は、話題を戻した。

 「実は、誰からということは申しあげられないのですが、そこはまあ、お察しいただく

として…」

 こちらにも全部わかっているわけではないので、このへんの言いまわしは、かなり曖昧である。

 「はあ…」

 「今回、佐伯興平氏が亡くなられた事件と、浩市郎君のことについて…」

 「そうですか、よろしくお願いします」

 敬至郎は、沈痛な面持ちで言った。なるべくなら、第三者には介入されたくないのだろうが、

事ここに至っては仕方がない、といった感じである。

 「浩市郎君は、御長男ですか?」

 「そうです。一人息子で・・・」

 「ほかに、ご家族は?」

 「先ほどの隠居と、家内と妹と、それだけです」

 「使用人は?」

 「以前は手伝いにくる者も多勢いたのですが、今では、富蔵という年寄りが一人だけ

残っております」

 「住み込みですか?」

 「まあ、そんなもので…」

 家族五人と使用人一人、それに殺された興平を加えると七人が、この不思議な香気の

たちこめる家で暮らしていたことになる。

 「浩市郎君の学校は、たいへんでしょう」

 「はあ、何しろ山の中だもので、学校は麓の駅の近くですが、私か家内の妹が交代に

車で送っております」

 話をしてみると、敬至郎には、あの老婆のような異常さはないようであった。むしろ、

こちらに助けを求めているような気配さえ感じられる。

 その時、おもての道の方で、かすかに車のエンジンの音が聞こえた。浩市郎が学校から

帰って来たのかもしれない。

 「御心労のあとで、申しわけありませんが、これだけは是非うかがっておきたいもので

すから…、決して他にもらすようなことはありません」

 「よろしくお願いします」

 敬至郎が、頭を下げた。田丸五郎は、ゆっくりと腰を落ち着けるつもりで本題に入った。

 「今回のことで、何かお心当たりは?」

 「それが、全くございません」

 「興平氏の姿が見えなくなったのは、いつからです?」

 「四月のはじめのことで、富山のほうに行くと言って出たまま、行方がわからなくなって

しまったのです」

 「捜索願いは、お出しになったのでしょうね?」

 「まさかとは思ったのですが、消息を絶って三日ほどしてからお願いしてきました」

 四月のはじめというと、このあたりは、まだ雪で覆われている。アルペンルートも間通

していないのである。

 だが桂台から立山の町に下りる道は、その頃でも地元の人たちが利用するために除雪

されているのだという。佐伯興平はその道を通って、立山の駅から富山方面に出て行ったと

いうのだった。

 「その途中で行方不明になったとして、事故でない以上、興平氏はそれから一週間近くも

監禁されていたことになるのですが、脅迫状とか、身の代金の要求などはなかったのですね?」

 「それは、ありません」

 「すると、何故そうなったのかという理由も、全然わからないのですか?」

 敬至郎は、視線をそらした。何かを訴えたいのだが、踏んぎりがつかないといった様子

である。興平の失踪の理由は、事業や金銭上の問題ではなく、奥にもっと複雑な事情が

伏せられているような気がする。まして、雪にとじこめられた季節であれば、原因はこの

家の内部にあるのではなかろうか・・・、チラリと、そんな考えが頭をかすめた。

 「これは立ち入ったことなので、お尋ねしにくいのですが…」

 田丸五郎は、矛先を変えた。

 「興平氏が亡くなったあとの、遺産の関係は・・・?」

 敬至郎はしばらくうつ向いていたが、やがて、神経質そうな顔を上げた。

 「一応、私が相続することになります」

 「お一人で、ですか?」

 「はあ」

 眉に、深いたてじわが寄っている。

 「額として評価すれば、相当なものでしょうが。例えばこの家にしても、山林にしても…、

しかしこれはあくまで帳簿上のことで、私としては実際に財産の処分はおろか、木一本だって

伐ることは出来ないのですから」

 「と言うと…?」

 「私、もともと養子でしてね」

 敬至郎は、陰のある笑いをうかべた。

 「何しろ占い家でして、そうやって代々の当主が受け次いで来たものを、私も同じような

立場で継がされるだけのことで…」

 「ははあ、なるほど・・・」

 その意味は、田丸五郎にも納得することが出来た。

 「すると、次は自動的に浩市郎君へ、ということになるわけですな」

 「まあ、そういうことです」

 財産の詳細はわからないが、相当な額にのぼることは想像できる。田丸五郎は、ちょっと

首をかしげた。

 もし、その浩市郎に万一のことがあったとしたら、どうなるのだろう。財産は宙に浮いて

しまうわけだが、誰か、正当な相続者をたてることが出来るのだろうか。

 「立山の佐伯と中しますのは…」

 しばらく黙っていると、今度は敬至郎のほうから口をひらいた。

 「有頼の末裔と伝えられております。詳しいところは、もっと良く調べてみないと

わかりませんが・・・」

 「有頼…?」

 「そうです、佐伯有頼と中しますそうで…」

 「・・・・・・・・・」

 恥ずかしながら、歴史上の人物として、名前が浮かんでこないのである。

 「御存知ないでしょうが・・・」

 敬至郎は、助け船を出すように笑った。

 「これは、一種の伝説ですが、平安時代に出来ました『伊呂波字類抄』という占い辞書

のなかに、『越中守佐伯有頼宿禰 仲春の頃鷹猟の為雪の立山に登の間…』と言った文章が

出てまいりまして…」

 「あ、ではあの・:」

 田丸五郎は、その時、やっとバスガイドの名調子を思い出したのである。

 「白鷹伝説の・:?」

 「はい、左様です。この話は大宝年間、つまり西暦七〇〇年頃のこととなっていますが、

じっさいには有り得ないことで・・・」

 と、敬至郎は自分から伝説を否定してしまった。西暦七〇〇年といえば、今から千二百年

以上も前のことで、話の真偽を真面目に議論するほうがおかしいのだろう。

 「ところが、いろいろと調べてみますと、有頼はともかく、父の有若は実在の人物なのです」

 何を語ろうとするのか、敬至郎は、それでもなお白鷹伝説にこだわっているようであった。

 「文献でもあるんですか?」

 田丸五郎は、仕方なく相槌をうった。どうも、歴史の話は苦手なのである。

 「はい、有若については、京都の随心院という寺に、『越中守従五位下佐伯宿禰有若』と

彼自身の署名のある延喜五年の公文潜がのこっていまして、越中守といえば富山県の国司

ですから、これは間違いありません」

 「延喜五年というと…?」

 「西暦では、九〇五年になります」

 「それにしても、ずいぶん古い話ですな」

 「えぇ、この有若に有頼という息子があったかどうかはどうかは疑問なのですが、もし事実

だったとすれば、これは・・・」

 敬至郎が、低い声で何か言おうとしたとき、スーツと、奥の襖が開いた。

 ……あの老婆か?

 何となくそんな気がして、振り向いた視線が凍りついたようになった。

 そこに、室堂のホテルで見た時とはうって変って、地味なワンピースを着た。奈良の女が

が立っている。

 二・三度、眼をパチパチさせて、田丸五郎は次に首を振った。

 ……たしかに彼女だった。間違える筈はない。

 女は伏し眼がちに、ほとんどこちらを見ようとしない。音もなく近よって、盆にのせた

茶と、このあたりの銘菓らしいのをニ人の前に置いた。

 うなじが病的なほど細く、透きとうるように見えた。胸や腰に、女らしい丸みはほとんど

感じられない。それでいて、どうしても女でなければならない鮮烈な個性があった。

 一点を凝視したように動かない瞳が、はじめに見た老婆の眼と共通していた。狂的な、

とまでは言えないだろうが、やはり、何か尺度を超えた抑圧の世界に身をおいている人の

ような気がする。

 敬至郎は茶碗に手をのばすと、廊下ごしに繁る樹の枝を凝っと見つめながら言った。

 「家内の妹です。真智子と言います」


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