五 、 佐 伯 家 の 人 び と
田丸五郎は、そのとき敬至郎の眼に、かすかな光が宿ったのを見逃さなかった。
「まあ、流行りの言い方をすれば、立山開山のルーツということになりましょうか」
何か別のことを言いたかったのだろうが、敬至郎は、すぐ視線を戻すと、さりげなく
話を続けた。
「その後、有頼は麓の芦倉という所に一寺を建立して、慈興上人としてまつられることに
なるのですが、いわばシェルパの元祖とでも申しますか、それ以来、芦倉の佐伯一族は、
『ちゆうご』とか『立山ポッカ』と呼ばれて、立山にはなくてはならない案内人の役割りを
果たしてきたのです」
あとでわかったことだが、この『芦倉』こそ、日本でも唯一のシェルパ村であった。
そこに住む佐伯姓の人々は、古くは立山登拝の先達として、また明治以後、多くの犠牲者を
出しながらも、人跡未踏の北アルプスの山々を駆けめぐり、近代登山史の第一ページを
ひらいた、稀有の山男たちだったのである。
その足跡は、黒部から遠く飛騨の高山にまでおよぶ。
今でこそ、ケーブルカーや観光バスが、登山者を何なく山頂に近い室堂まではこんでいるが、
ほんのニ○年前までは、立山に登拝するには芦倉から『ちゆうご』を先達として入る
しかなかったのである。富山県中新川郡立山町芦倉寺は、その伝統をついで、部落の
大半を佐伯姓で占め、日本唯一のシェルパ村として今日に至っているのだった。
そして昭和三十ー年、ダムの建設がはじまり秘境に轟然と最初のハッパが鳴り響くと、
室堂側から一ノ越の険をこえて『立山ボヅカ』の大群によるダムサイトヘの膨大な基礎資材の
荷揚げが開始された。その時の言語に絶する彼らの苦闘は、いまなお黒部ダム建設の
裏面史として語り伝えられている。
「今では、遠い伝説の人になっていますが、有頼といっても所詮は同じ血を引いたシェルパで
あったことに変わりありません」
実在の人物であったとすれば、これだけの山をひらいた佐伯有頼というのは、おそらく
稀代の登山家だったのであろう。これが白鷹伝説の原型だろう、と田丸五郎は思った。
「わかりました。で、こちらが御本家ということは、つまり、有頼の直系の・・・」
「いや、それは…」
チラリと敬至郎が真智子を見た。それをしおに女が立ち上がったので、田丸五郎はあわてて
声をかけた。
「あ、ちょっと・・・」
「はい…?」
次の言葉を待っている女に、思いきって言った。
「真智子さん、でしたね?」
「はい」
「あなたは、奈良がお好きですか・・・?」
「えゝ」
「何故です?」
真智子は唐突な質問にも表情を崩さず、しばらく考えていたが、
「とても落ちついていて、何となく心のふるさとのような感じがいたします」
それだけで、話は途切れてしまった。
ごく平凡で無難な答えだったような気がする。一方通行の暗号は、やはり一方通行のままで
終わってしまったのだった。
真智子が行ってしまうと、敬至郎は、何となくホッとした顔になった。
「じつは先程からお話しようと思っていたのですが、私共の家の事情について…」
「あゝそうでした」
「私も養子だもので、本当のところは良くわからないのですが・・・」
「ちょっと…、いま私もと仰言いましたね?」
「はあ、亡くなった義父も、その上の祖父も養子でした」
これは、意外な事実だった。
祖父といえば、あの老婆の亡父にあたるのだろうが、それから殺された佐伯興平、
敬至郎と、三代も養子が続いているのには、何かわけがありそうな気がする。
「男の子は産まれなかったんでしょうか」
「いえ、たまたま女が先に産まれてしまったんです。何人でも子供か出来れば、次は男
ということにもなるのでしょうが…」
「それは、どういう意味で・・・?」
敬至郎は、古びた襖絵のほうを振りかえった。そして、少し声をおとした。
養子として、家の者にはあまり聞かれたくない、だがこれだけはどうしても話しておきたいと
いった様子が見えるのである。
「佐伯の家には、昔から子供は一人しか産んではならないという、厳格な定めがあって・・・、
まあ、不文律のようなものですが、たとえ生まれた子供が女だったとしても、跡継ぎは、
一人だけしか許されないのです」
「わからないな。そんなことをして、もしも子供さんに万一のことでもあったら・・・」
「万一子供に不慮のことがあったら、また、もう一人だけつくる。ですから、家を継ぐ
ものは出来るだけ若いうちに結婚させられます。現に家内は…、真理子という名前ですが、
十五才で私を養子にとって、十六才のとき、浩市郎を産んでいます」
「そんな、おかしいですよ・・・」
田丸瓦郎は、笑いながら言った。
「だって奥さんには、ちゃんと妹さんがいるじゃありませんか?」
「あれは、双生児なんです」
「なんですって…!」
「いくら不文律でも、まさか、一方を殺してしまうわけにもゆかなかつたのでしょう・・・」
敬至郎は、身体を前に倒すようにして、陰気な笑顔を見せた。
「二十六年も前の話で、このあたりは私も想像するほかはないのですが、母親がひどい
難産だったそうで、あの姉妹を産むとまもなく、死んでしまったといいます。私にとっては
義母にあたる筈の女性ですが、彼女はその時、まだやっと十七才で・・・」
「すると、御姉妹はお祖母さんの手で育てられたわけですね」
「そうです。あの隠居が、当時まだ四〇才くらいだったかと思いますが、娘に先立たれ
たことで、もう必死だったのでしょう。不文律のとうり、もし一人にしぼってしまえば、
万一のとき、あとが続かないという不安もあったのかもしれません…」
「ちょっと、待ってください・・・」
田丸五郎は、思わず右手をあげた。
「子供を一人しかつくってはいけないとすると、それでは、真智子さんの結婚は?」
「出来ません。結婚はおろか、男との関係は一切・・・」
「冗談じゃない。一体何の権利があって…!」
だが敬至郎は、それをさえぎるような仕草で、唇を曲げた。
「私だって、同じですよ。種付け馬みたいなもので、真理子に浩市郎を産ませてしまえぱ、
もう用済みなんです。私たち、ニ人とも飼い殺しですよ。真智子だって、真理子と浩市郎が
死なないがぎりは・・・」
いつのまにか、敬至郎の右手が小刻みにふるえている。
「これ以上は、私にも言えないのです。ただ私の立場もすこしはわかっていただけるのでは
ないかと、こうしてお話しているのですが・・・」
その時、廊下の外にカサカサと木の枝か落ち葉を踏みしたくような、かすかな音が聞こえたので、
敬至郎は急に口をつぐんだ。
見ると、生い繁った樹々の間を、古ぼけた半纏のようなものを着た老人が、背中を向けて
遠ざかつて行くところだった。
「誰です?」
「富蔵・・・」
見送る敬至郎の眼に、恐怖と怒りの入り混じったかげがあった。
「何かわけがあって、この家にいるんですか?」
「わかりません」
ヒステリックな感情をこめて、敬至郎は言った。
「私なんか、実際には何も知らされてないんです。本当のことを知っているのは、隠居と
家内と、浩市郎だけだ・・・」
大きく肯いてみせながら、田丸五郎は、冷静にこの男の変化を観察していた。新しい当主
としての鷹揚さが消え、疎外されたものの欝憤が吹き出している。
わずか十才の子供が、父親も知らない秘密を教えられているとは、ちょっと考えられ
なかったが、佐伯興平の殺された動機が、この異常な家族関係の奥に内蔵されていると
いうのは、十分にあり得ることだ。しかし、それだけではまだ納得しきれない部分も多い
のである。第一、敬至郎の話だけですべてを判断するわけにもゆかないだろう。
肝心の浩市郎にまだ会っていない故もあったが、田丸五郎は、先刻から真智子が一度
お茶を持って来ただけで、この家の主婦らしい女性が現われないことが、気にかゝっていた。
真理子という、双生児の姉である。
「奥さまは?」
敬至郎の気持ちが平静に戻るのを侍って、さりげなく開いた。
「今日はお留守ですか?」
「いや、先ほど先生がお見えになる少し前に戻ってきたようです」
「ぜひ、お会いして参りたいのですが。それと浩市郎君にも・・・」
「はあ、そうしていただけると有り難いのですが…」
敬至郎は、何となく疲れたような表情を見せた。
「奥さまは、お身体の工合でもいけないのですか?」
「いえ、そんなわけでは…。わかりました、ではお見せしましょう」
言い方が奇妙だったので、田丸五郎は何だか人形でも見せられるような気がした。
「よろしくお願いします」
敬至郎は、それにうながされたようなかたちで、片手で身体を支えながら立ち上がると、
奥の襖を開けた。さっき、貞智子が出入りした襖である。
「こちらへ、どうぞ・・・」
後にしたがってゆくと、その向こうは暗くて長い廊下になっていて、玄関を開けた時と
同じ、むっとする匂いがこもっていた。長い年月の間に、柱や壁に染みついてしまって、
家全体が幻覚的な香りを放つのである。
廊下は、玄関から台所まで、各部屋に行く通路の役目を果たしているようであった。
内廊下で、陽がほとんど入らないために暗い。左右を見ると、部屋数はすくなくとも十二・三部屋は
ありそうに思えた。
その突き当たり、メインルームにあたる位置に、ずっしりとした、土蔵のような扉が
はめこまれている。
年代を経て、自然に底光りしている扉の要所に、重厚な金具が、盛り上がった鉄の鋲で
打ちつけてあった。田丸五郎は、はじめ、これは座敷牢ではないかと思った。
だが、べつに鍵がかゝっているわけでもなく、敬至郎が両手をかけて引くと、全体が
音もなく動いて、十センチほどの隙間ができた。
「家内です・・・」
うながされて顔を寄せてみると、内部は暗黒に近いうす明りである。
「・・・・・・・・・?」
例の匂いは、ここから流れ出してくるのだった。
家の中だというのに、正面にチロチロと赤い炎が燃えていて、ボンヤリと周囲の有様を
てらし出している。炎が動くので、全体に物の怪のような影が、ゆらめいている感じだ。
眼をこらすと、中央の一段高くなったところに、僅かに動いている人の姿があった。
背を向けているので顔はわからないが、巫女か、坊主の袈裟に似た衣装を着ている。
頭を垂れ、時おり肩と腕のあたりが動くほかは、何か一心に祈念をこらしている様子で端座
していた。
正面に祭壇らしいものがあったが、何か祭られているのか不明である。
炎が揺れるたびに、神秘的な呪術を見るような陰影があたりに拡散していた。祭壇と言えば、
この部屋全体が、精巧に組上げられた一個の祭壇なのである。
田丸五郎は、息をつめてこのさまを凝視していた。
部屋の中におどろおどろした巨大な精神力のようなものが棲みついている。かたちこそ
ないが。たしかに何かが生きているように思えた。
「な、何か祭られているのですか?」
そういってから、田丸五郎は突然背筋を突き上げてくる恐怖に、のけぞるようにして
後ろを向いた。
「佐伯有頼公が、いらっしやるのです」
胸元で、それは低くすき遣るような、子供の声であった。
いつのまに来たのか、まぎれもなく奈良で出会ったあの少年が、立ってじっとこちらを
見つめている。 田丸五郎は、思わず大声をあげそうになった。少年と視線が合っている間、
それはごく短い時間だったが、まるで真空のなかにいるような気がした。
「浩市郎です・・・」
父親の敬至郎が、とりなすように言った。