七、カ メ ノ ケ 先 生




 エレペーターの横から短い階段を降りると、そこがバスターミナルになっている。昨日と

同じように、太平洋を丸木橋で渡ってきた観光客や、登山姿の若者たちでざわついていた。

 ここで起っている事件のことなど、何も知らずに通り過ぎて行く彼らが、ひどく無縁な

ものに見えた。田丸五郎は、わずか一日の間に、まったく別の世界に立っている自分を感じた。

 昨日たしかめておいたので、迷わず弥陀が原までの切符を買った。

 高原の総称は弥陀が原だが、地名としては、室堂からすこし下がったあたりが天狗平、

その下が弥陀が原ということになる。

 バスは、昨日と同じように、車窓の右手に餓鬼の田ん圃を見おろし、やがて弥陀が原旅荘

の前で停った。

 弥陀が原荘というのは、こじんまりとした山小屋風のホテルで、降りたのは田丸五郎が

ひとりだけであった。

 彼は、弥陀が旅荘の裏手にまわってみた。

 土地の者らしい男が二人、ジュースの空きカンを小型トラックの荷台に積み上げている。

 「餓鬼の田ん圃に出るには、どう行ったら良いでしょうね」

 「餓鬼田ですか?」

 地元では、こう呼ぶらしい。荷台の上にいた年かさの男が、空きカンの山に片足をかけて、

腰をのばしながら言った。

 「この先を真っすぐに行けばえゝ、道がつながっているから…」

 のびあがってみたが、背の低い高山植物の群落が眼のとどく限りひろがっているばかりで、

どこに道があるのか、とてもバスの上から見おろした時のようなわけにはゆかない。

 「おじさん・・・」

 二・三歩あるきかけたが、すぐに引き返すと、トラックの男にむかって声をかけた。

 「実は、今月の十三日に、このあたりで人が殺されていたと聞いてきたんですがね。

知りませんか?」

 「あゝ・・・」

 車の下で空きカンの篭を持ち上げようとしていた若いほうが、手を休めた。

 「警察の方で?」

 「いや…」

 こういう場合、下手にかくしだてするとかえってまずい。相手は、生まれながらの土他っ子

である。

 「ある人にたのまれましてね・・・」

 ポケットに手を突っこんだまま、できるだけ気さくに言った。

 「殺された興平さんという方の家族に関係あることで、東京から来ているんですが、現場を、

ぜひ一度見ておきたいと思って…」

 「本家の・・・?」

 男たちは、顔を見合わせている。まだ田丸五郎が知らない何かの事情が、彼らの間には

あるようであった。

 「私は探偵ですから、警察とは全然違うんです。決してご迷惑はおかけしません」

 「探偵さんですか? テレビにも出ているのかね…?」

 年かさの男が興味を持ったらしい。積み荷の上にガサッと腰をおろしながら言った。

 現実とテレビの探偵を、奇妙に混同しているのがおかしくて、田丸五郎はかえって真剣な

顔になった。

 「いや、まだそれほど有名じゃないんで…。でも、そのうちにきっとテレビにも出るように

なるから、力を貸して下さいよ」

 男は、しばらく迷っている様子だったが、あたりをちょっと見廻してから、身体をのり

出すようにして言った。

 「人が殺されたってことは、たしかにありましたよ。でも本当のところ、俺たちゃあ

よくは知らん。芦倉だもんで・・・」

 「あしくら…?」

 「はあ、同じ佐伯でも、俺たちゃあ芦倉の佐伯ですから…」

 「あ、ではシェルパ村の?」

 昨日の山男たちの話をすぐ思い出した。

 肌の裏側まで陽に灼けているのではないかと思われるほど黒く、眼が鋭くてしわが深い。

背が高く、ニ人とも筋肉だけでできているようなたくましさがあった。顔だちが似ている

ところを見ると、親子なのだろうか…。

 「おじさんたちも、苗字はやっぱり佐伯さんというの?」

 「そうだよ」

 「このあたりには、そういう姓が多いのかな」

 「立山の佐伯はもうほとんどいなくなったが、芦倉は、三分の一が佐伯ですよ」

 「ほう…」

 「おれが守作で、せがれが守安だ。代々、守の字をもらっているんで…」

 黒部ダムが完成し、やがてアルベンルートも開通すると、立山ポッカはまたそれぞれの

職業に散っていったが、付近の山小屋に食料品や燃料を輸送したり、登山者の残したゴミを

回収する仕事も、そのひとつだったのである。弥陀が原荘の裏は回収品の集荷所であり、

彼らの仕事場にもなっているようであった。

 「ぜひお願いしますよ。何しろはじめてのところだもんで、困ってるんです」

 田丸五郎は、ポケットから一万円札を出した。

 「いらないよ」

 ちょうど、仕事にも倦いていたところだったのだろう。守作はぶっきらぼうに言って、

ボンと車の荷台から降りた。こんな時にも、生まれながらのシェルパの血が、どこかで

彼らを動かすのかもしれい。

 「そのかわり、俺たちが先生を案内したということは、まぁ、内緒にしておいて下さいよ」

 息子をうながすと、守作はそう言って先にたった。

 道は、ところどころに沼のような湿地があって、歩くとジクジクと水がしみ出してきた。

そこに板を渡してローブを張っただけの簡単なもので、ときどき名も知らぬ高山植物の

白い花が、足もとにボツンと咲いていたりする。

 板の幅がせまいので、一列に歩くしかなかった。田丸五郎は、板の上をぎこちなく

踏みしめながら、守作の背中に声をかけた。

 「芦倉の人たちと、本家の佐伯とは、どう違うんですか?」

 「はぁ、それは…」

 歩きながら、守作の話を要約すると、およそこうであった。

 佐伯という姓には二流あって、昔から立山と芦倉に別れ、代々、世を継いできた。べつに

争っているわけではないのだが、長い間のならわしで、両佐伯は縁組みから祭事まで、

お互いにまったく関わり合うことがなかった。それが、いつの頃からか立山の佐伯は、

次第に散り散りになって、今ではごくわずかしか残っていない。殺された佐伯興平は、

その立山の佐伯本家の当主だったのである。

 だが俺たちは芦倉の者だから、興平が殺された理由や、その間の事情については何も

知らないし、また知ろうとも思わない…、というのだ。

 「先生、ここだよ」

 立ち止まったところは、これまで通り過ぎてきたのと同じ小さな沼地のほとりだった。

これがバスの上から見ると、キラキラとガラスの破片のように光るのである。

 弥陀が原荘のうらから、ちょうど二〇分であった。

 「安、話してみろ」

 守作がぶりかえって言った。

 「えっ、では守安さんは、事件の現場を見ているのかい?」

 「うむ、あの日はちょうど俺が休みで、せがれがひとりで仕事をしていたんで、そのかわり、

話の下手なところは勘弁してやってドさい」

 「有り難い・・・、ぜひお願いします」

 「はあ、俺、あの日はいつものように、あそこでカンカンを積んでいると、仏さんが

出たと言うんで、警察の人に呼ばれて手伝ったです」

 守安は、多少どもりながら言った。

 「来てみると、仏さんはこう背中を向けて、頭から水ん中に突っ込んでいたです。両手を

広げて、蛙みたいにプカプカしていました」

 「服装は? 何か特徴のようなものには気がつきませんでしたか・・・?」

 「悪いけど、はっきり覚えてないです。たしか上着みたいなもん着ていたと思いますけど、

汚れていて、あんまり良いものでもなかったようだし、警察では、死んでから二・三日は

経っているだろうと言ってました」

 「そりゃあ、あてにやならんで…」

 守作が、横で首を振った。

 「あん時にや、このあたりにも雪がまだいっぱいあったんで、そん中に埋めておきゃあ、

ひと月でも平気ですからね」

 これは、経験が言わせるのであろう。山の遭難者が、翌年まるで生きているような姿で、

雪の中から発見されることがあるという話は、間いたことがある。

 「なるほど、じゃ現場に何か落ちていたものでもなかったかしら? たとえば、犯人が

使ったものとか・・・」

 「さあ、何もなかったと思いますが…、あ、そうだ…」

 守安は、すぐ足もとにある、小さな水たまりのような池塘を指しながら言った。

 「そこに紙切れが一枚、浮いてたんです。たしか、何とか先生って書いてあったんだけど、

えゝと、何だっけな…」

 しきりに時をひねるのだが、思い出せないらしい。田丸五郎は質問を変えた。

 「履き物は、どうなっていました?」

 「あゝ、靴ははいていませんでした。仏さんを引きあげるとき、こうやって足首にロップを

巻きつけてやったんで、それは間違いないです」

 「髪の毛や髭は、のびていなかった?」

 もし興平が監禁されていたのだとすればかなりのびている筈であった。

 「気色悪くて、そこまではよう見らんかったです。何しろ顔なんかもうふやけてしまって、

ふた眼とは見られんかった…。あっ、そうそう、さっきの何とか先生というのは、カメノケ先生です!」

 「カメノケ…?」

 「はあ、動物の亀に、毛という字が書いてあったんで・・・」

 つまり、亀毛先生である…。

 鼻毛とか胸毛というのならわかるが、カメノケでは、この際どうにも引っかかりようが

なかった。

 それよりも、さっきから腑に落ちないことがある。

 「被害者が靴をはいていなかったとすると、犯人は、どうやって死体をここまで運んだ

んですかね」

 田丸五郎は、ひとりごとのように言った。

 カメノケはさておき、それは、ここまで歩いてくる途中でも、不思議に思っていたこと

であった。

 「巾はもちろん通れないし、いくら餓死死体だといっても、大の男をおんぶして板の道

をニ○分も歩くのは不可能でしょう」

 「そうね、ふつうの人じゃちょっと・・・」

 すると、シェルパか・・・?

 立山を中心にして、このあたりには、一ノ越、内蔵之助山荘、剣御前小屋、大日小屋と

周囲の山々をめぐって点々と山小屋が散在している。こうした山小屋に物資を運搬する

職業的な強力たちが、数多くいる筈であった。彼らだったら、死体のひとつやふたつは

らくらくと運び込めるかもしれない。

 「ここにくる道は、ほかにないんですか? 枝道のようなものは・・・」

 「いや、弥陀が原荘のうら手から入るしかないです。自然遊歩道としてきめられている

んで、もしほかを通ってくれば、足跡が残ってすぐにわかりますから…」

 「それでは、反対側のほうから来るというのは?」

 「このまま行くと、道は不動の滝を左にみて、獅子ケ鼻岩から、ずっと上の天狗平に

抜けます。でも途中に一ノ谷という難所やもっと大きな池塘なんかがあって、俺たちでもたっぷり

一時間以上の道のりでしょう」

 結局、犯人は何かの方法で、いまの道を通って死体をここまで運んできたと考えるほかに

ないようであった。

 「でもあそこはバスも停るし、わりと人の眼につきやすいでしょう。そんな変わったことを

すれば、すぐにわかるんじゃないかな」

 「それはそうですが・・・」

 言いかけて、守安がふと真顔になった。

 「これ、やっぱり余計なことかもしれないですが、仏さんのことでなくても構まわんで

 すか?」

 「何でも、回ってください」

 「こんなこと、俺が言ったなんて、黙っていてほしいのですが、本当にまずいですから・・・」

 「わかった。絶対に名前は出しませんよ」

 「俺、あそこで仕事をしているとき、本家の若旦那を二・三回見かけたことがあるんです。

ちょうど仏さんが出る一週間ばかり前のことで、べつに変わった様子もなかったですが、

珍しいことなんでおぼえています」

 「若旦那というと、敬至郎さん?」

 「安、お前も会ったかい?」

 守作が、妙な顔になった。

 「俺も、ニ度ばかり見たことがある。そんときゃあ弥陀が原荘に来たもんとばっかり

思っていたが…」

 興平の死体が発見される前に、敬至郎がこの付近に姿を見せていたという。事実なら

無視できない情報である。

 そのときの様子を、もっと詳しく聞きたいと思ったのだが、守作は、何故か急に首をすくめた。

 「戻ろうか、俺たちもまだ仕事が残っているで…」

 案内はしたものの、事件にはこれ以上巻き込まれたくない。守作の態度には、そういった

気持ちが頑固に現われていた。芦倉の人々にとっては、立山の佐伯本家にさわること自体が、

昔からのタブーなのであろう。

 二週間も前のことで、この場所に今更あたらしい発見があろうとも思えなかった。

とにかく、現場を確認できたというだけでも、満足しなければなるまい。

 三人は、また一列にならんで、もとの道を引きかえすことになった。

 屈強な男二人にはさまれたかたちで、田丸五郎は、つくづく靴底のパヅトを置いてきて

しまったことを後悔したのだったが、そんなことも言っていられないほど、道は細く、

危なかった。

 こんなところを、死体を背負って二〇分も歩くというのは、よほどの度胸と体力のある

人間でなければやれないだろう。ようやく板の道が終わって、足が大池を踏みしめたとき、

田丸五郎は、ほっとして肩の力を抜いた。

 すぐそこのバス停のあたりで、土他の者らしい数人の人影が動いている。

 何となく、たゞならぬ気配を感じたのだろう。守作が足を早めた。それぞれ顔見知りらしく、

二言三言、土地の言葉で話をすると、こちらを向いた。

 「何か、あったんですか?」

 「先生、また仏さんが出た」

 「えっ、どこに…?」

 「称名の滝見台だ」

 「だれが…、まさかまた…」

 「立山の本家のご隠居さんだと・・・!」


 

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