八 、称 名 の 滝
少し前 ・・・。
麓の美女平のほうから、高原道路を元気よく登ってくる一組のパーティがあった。
朝早く、富山地方鉄道の終点立山駅からケーブルカーで美女平につき、そこから歩き
はじめたのであろう。
この道は、立山高原パークラインと呼ばれるバス専用道路で、一般車やマイカーの乗り
入れは禁止されている。往復しているのは、すべて専用の登山バスか、特別許可証をもった
地元の物資運搬車ばかりだった。歩くことは構わないのだが、同じ道をわざわざバスに
追い越されながら行く阿呆らしさで、そんな連中はまずいないと言って良い。
だがどういうつもりなのか、彼らはそれをやっているのだった。
男二人と女が一人、装備も軽く、いわば気軽なハイキングを楽しんでいるといった感じ
である。それでも十時前にブナ坂を越えて、滝見台にさしかかった頃には、かなりバテて
きた様子だった。
「おい、こヽらで飯にしよう」
と、リーダーらしい細長い男が言った。
滝見台は、弥陀が原荘と美女平との中間地点くらいにあたる。標高で言うと、およそ
一四〇〇メートルといったところだ。
ニ車線のバス道路が、そこだけ大きくふくらんでいて、条件がよければ一時停車して
滝の眺望を楽しませてくれる。気まぐれな連中のために、ペンチもひとつ置いてあった。
道の突端は赤と白に塗りわけられた低い鉄柵で、その下は、いきなり百メートル以上の
断崖である。
バスの乗客は、そのまま通り過ぎてしまうのでわからないが、覗くと、絶壁には潅木が
繁り、身のすくむほどはるか下のほうに、彼がうねるように高原がひろがっている。
「凄ぇなあ・・・」
握り飯をほヽばりながら、リーダーが言aた。
「ざっと見て、まだ一〇キロはあるぜ」
「一〇キロもこっちから眺めるだけじゃつまらないわね。滝壷の近くまで行けないのか
しら…?」
「あの下は、称名廊下という大難所だ。こっち側からは寄りつけねぇよ。行くんだったら、
美女平までもどって、川のむこうをもう一度歩くしかないんだ」
「うわあ、ガッカリ・・・」
「近くまで行っても、高すぎて、全体はとても見られないっていうがね」
滝壷の音は、まったく聞こえてこないのである。一〇キロも彼方の滝は、まるでスロー
モーションの映像を見ているように、白くて長い水筋を引いて落下している。光線の加減
なのか、それは時として下から上に逆流しているようにさえ見えた。
「おい…」
もう一人の、小肥りで頑丈そうなほうが、変な声を出した。
「何だこれ…。ザイルじゃねえかな」
「ん?」
気がつくと、太い鉄柵の根元に、まだ新しいナイロンザイルがぐるぐると三重に巻きつけ
られている。リーダーが下を覗くと、先端は崖に生い繁った潅木の小枝を縫って、まっ
すぐ突き刺さるようにのびていた。その張り具合から見て、かなりの重さがかゝっている
ような感じである。
「引っ張ってみろ」
と、リーダーが言った。
「重いぜ・・・」
ザックをベンチにおろして滝を眺めていた女が、すぐ力をかした。
二人で一〇メートル近くも引きあげたとき、はるか下のほうで、ガサガサと樹の枝が揺れた。
リーダーが女と交代して、力まかせにたぐり寄せる。足もとに、とぐろを巻いたザイルの
小さな山ができた。
ザワザワと木の葉をかきわけるようにして、かなり大きなものが上がってくる。鉄柵から
身をのり出して崖下を覗きこんでいた女が、突然、のけぞって異様な悲鳴をあげた。
「ぎやッ・・・!」
ザバッと、最後の枝葉をかきわけて出て来たものは、とっさに何だかよくわからなかったが、
とにかく、鬼気迫る人間のかたちをしていた。
田丸五郎が、空きカンを山のように積んだ小型トラックの助手席に便乗して、この場所に
駆けつけたのは、それから一時間ほど後のことだったのである。
すでに現場には縄が張られ、一時停車を止めたバスが素通りしていた。
遺体はすこし前に収容されたあとで、鉄柵の付近には、引き上げた時の痕跡や、死体の
位置を示す白いチョークがなまなましく、ペンチの横に制服の警官が二人と、発見者の
三人組が、まだ興奮がさめない面持ちで残っていた。
「何だ、あんたは…!」
構わずに縄をくぐって近づいて行くと、警官の一人がとたんに硬い表情になった。
「失礼します。いま、弥陀が原荘のところで聞いて来たのですが…」
この場合、笑顔は逆効果である。田丸五郎は、切り口上になって名刺を出した。
「東京の・・・?」
警官は、かえって不審そうな眼をした。
事件が起こると、まるで侍っていたように私立探偵と称する男が現われるといった、
テレビドラマのような筋書きが、実直な土地の警察官には、むしろ不自然だったのである。
おかげで、田丸五郎はもう一度自分がここに来た理由を、はじめから説明しなければ
ならなかった。
「すると、あんたは佐伯の浩市郎さんまで、誰かに狙われていると言うのか」
警官は、鼻の下の髭をピクピクと動かしながら言った。
「断言することは出来ませんが、注意したほうが…」
「で、あんたにそのことを依頼したという人の名前は?」
「わかりません。知っていたとしても言えませんね。職業上の秘密ですから・・・」
「ふぅむ・・・」
何時の間にか、三人の若者たちも、まわりを取りまいている。これは、有利な条件であった。
「ええと、御隠居さんの年は、いくつでしたっけ・・・?」
はじめは、ごくありふれた質問をしてみた。
「佐伯てうさんと言って、六十六才だな」
警官は、案外簡単に教えてくれた。いかにも古めかしい、旧仮名読みの名前である。
昨日、あの家の玄関で見た老婆の、ものに取り付かれたようなしぐさが、すぐに浮かんだ。
それにしても、あっという間の思いがけない出来ごとである。
「まさか、自殺というわけではないんでしょうね?」
「あんた、いくら首くくりといったって、この薮を通り抜けて、三〇メートルもぶら下
がる奴かおるかい・・・」
「ほう、三〇メートルも・・・?」
「ザイルの長さが、タップリとそれだけあったんです・・・」
リーダーの痩せた男が、横から割りこんで言った。
「僕達が引き上げたとき、すごい重さで、大変だったんですから・・・」
「なるほど、そりゃどうも御苦労様」
田丸五郎は、これ幸いと質問の相手を変えた。
「ザイルの結び方は? たとえば、山登りの連中だけが使うような方法とか…」
「いや、そんなことはなかったよなァ」
リーダーは、確かめるように仲間の顔を見まわして
「素人の、コマ結びだったよなァ」
「手首を縛られていたんですって?」
「そうですよ。こうやって、こんなかたちで…、ちょうど拝んでいるみたいに・・・」
リーダーがやって見せたのは、両手首で合掌しているような恰好である。
警官は苦々しい顔で黙っていたが、若者たちにとっては、全身が震え出すほどの刺激だった
のだろう。
ストップがかからないように、さりげなく若者たちを鉄柵の近くまで誘導して、田丸五郎は
質問をつづけた。
「ねぇ、その女の人がさァ、ぶら下っていた時のこと、もう少し詳しく教えてくんないかな」
「女の人なんてもんじゃなかったよな」
若い女を振り返りながら、小肥りのほうが言った。
「ザイルは、首に結んであったの?」
「そうだよ。こう、三重に巻き忖けられて、後はベローンとのびていたんだ。眼なんか、
半分飛び出しそうになっちゃってさ」
「あゝいや・・・ 言わないで…!」
吐き気をおさえて、女は身体を折り曲げ、後ろ向きになってしまった。
「ここから、放り込まれたのかな」
田丸五郎は、鉄柵から乗り出して、下を覗いた。昨日は、バスの中からだったので
見えなかったのである。
「うん・樹の枝が繁っているけど、その下はオーバーハングの絶壁だからね。完全に
宙ぶらりんだ」
絶壁の突端から、一本のザイルに結ばれた人間が、垂直にたれ下がっている。
バスからの発見は困難であった。彼らが気がつかなかったら、佐伯てうの死体は、夕陽を
浴び、ある時は霧に巻かれて、いつまでもそのままであったに違いない。
眼の下に波打つ高原のはるか彼方に、称名の滝が、音もなく白条の飛沫を散らしている。
背景が大きいだけに、それはある種の幻想的な絵画を見るような感じさえうけるのだった。
「滝が見えるのは、ここからだけなんですってね・・・」
田丸五郎は、そのとき、つぶやくように言った。われながら気違いじみた連想が浮かん
だのである。
……老人は、あの滝を拝んでいたのではないだろうか。
佐伯興平と餓鬼の田ん圃、称名の滝と佐伯てう…。
ふたりの死にざまは、犯人がただの衝動的な殺人者ではないことを、まざまざと暗示して
いた。犯人には、何か罪の意識を超絶した確信とテーマがあって、着々とそれを実行して
いるように思える。
次に何かくるのか、犯人のリストがこれだけで終わっている筈はなかった。
田丸五郎が、謎の依頼者から指示されているのは、佐伯浩市郎という少年の生命を保護
することであった。ふたつの殺人事件がその前奏曲であり、浩市郎が、ドラマに終止符を
打つ役割りを負わされているのだとすれば、狙われているのは、必ずしも浩市郎だけに
限らないのではないか…。敬至郎も、真智子、真理子の姉妹も危ないのである。犯人の次の
リストに彼らの名前が書き込まれている可能性は十分にあるのだった。
佐伯てうー興平ー敬至郎ー浩市郎と、まさに四代にわたる一族殺りくの惨劇がおころう
としている。いや、すでに起りつこめるのではないか…、田丸五郎は、次第に胸が息苦しく
なってくるのを感じた。
「あのう…」
うしろのほうでもぞもぞしていた若い女が、そのとき上限使いに声をかけた。
「みんな、わすれているみたいだけど…」
「忘れてるって、何を…?」
リーダーが聞きとがめて、腕ぐみを解いた。
「何だよ。はやく言ってみな」
「だってそうじゃない? 死体を引き上げた時、お婆さんのふところから、変なものが出てき
たんです」
「あゝこれか…、おんぼうの紙だろ?」
「おんぼうじゃないわよ」
「ちょっと、それ、何のことだね?」
今度は、田丸五郎が聞いた。
「こんなちっぽけな紙に、おんぼうって書いてあったんですよ」
「違うったら…!」
女はむきになって、ポケットから手帳を出すと字を書いてみせた。
「へぇ、そうだったかなア」
「私にも何て読むのかわからないけど、とにかく、こう書いてあったんです」
「虚亡隠士」
ふたつめの名前だ…・・・
佐伯興平の死体の近くに浮いていた『亀毛先生』という紙片は、こうなると、確実に
あの死体に与えられた名刺の役割りをしている。この奇妙な名前は、いったい何をあらわして
いるのか…。
そのとき、ふと思い出したのである。
佐伯家の玄関を入ったとき、正面に掲げられていた板額には、肉太の堂々たる筆跡で、
「仮名乞児」とあった。名前の感じからして、こいつもやはり同類ではないのか…。
こいつらはいったい何者だろう。田丸五郎は、頭の中で三匹の怪物がゲラゲラと
笑っているような気がした。
うしろから肩を叩かれて、田丸五郎は、ようやく我にかえった。
「もう良いだろう。それから、あんたも一度、署のほうに顔を出してもらいたいな。まぁ、
お互いに何か役に立つことがあるかも知れん・・・」
制服をつけているので、こわばって見えるが、根は好人物なのであろう。そう言って、
警官は鼻の下の髭をふくらませて笑った。
渡された名刺には、富山県警察本部立山警察署警備係 巡査部長 小見山武松 とあった。