九、和気野清麿 登 場
田丸五郎は、室堂のホテルに戻った。
いま佐伯の本家に駆けつけてみても、おそらく非常線に近い情況だろう。まともな取材
が出来るとは思えなかったし、警察側としても、民間の私立探偵などに安易な介入は許さ
ないであろう。
それよりも、事件をはじめからもう一度考えなおしてみたかったのである。
田丸五郎は、バスの発着所からホテルに入る短い階段を昇ると、フロントには行かずに、
そのまま左に折れて、すぐ横にあるコーヒーラウンジのドアを押した。
内部は誰でも利用することが出来るが、いちおう、ホテル側の設備になっているので、
登山靴に泥をつけた若者たちの姿はなく、かわりに外人やごくわずかの滞在客がくつろいで
いるだけであった。
奥の席をえらんで、コーヒーとジャムだけのトーストをたのんだ。クッションのよくきいた
ソファに身をしずめ、セブンスターをつけた。
窓の外には、立山がまだ厚い雲をかぶっている。頂上は、荒れているのであろう。
周囲は、通称室堂平と呼ばれる溶岩台地で、それでもこれから山に行く者、おりる者の
姿がチラホラと見えた。
室堂平からは、一ノ越山荘を越えて黒部方面へ、おなじく立山山頂への道が続いている。
付近は、雷鳥沢、玉殿岩屋、血の池、地獄谷、みくりが池などといった、初心各向きの
ハイキング地帯である。
立山とは、主峰雄山をはじめ、大汝山、別山を含む巨人な山塊の総称なのであった。
これを通称立山三山と言う。古来、伯耆の大山、加賀の白山とならんで、山岳信仰の聖地
として名高い。
佐伯てうは、如何にもそれにふさわしい死に方をしたのではないか…。
事件は、幾星霜の風雪を経た不動の巨人のふところに抱かれて、これまでの常識とは
まるでかけはなれたスケールの中で展開している。
犯人は果たして、有頼の末裔という佐伯一族断絶の凄惨なドラマを演出しようとして
いるのであろうか…。
コーヒーをひと口すすると、田丸五郎はようやく思考能力が少しづヽよみがえってくる
ような気がした。昨日から、一杯も飲んでいなかったのである。
亀毛先生、虚亡隠士、そして仮名乞児とは、いったい何なのだろう。
名前らしいことはわかるが、おんぼうやカメノケ先生を笑うことは出来なかった。自分
だって、仮名のこじきとしか読めなかったのである。
セブンスターを灰皿に置いて、田丸五郎は持っている立山の地図をひろげた。
道は、とにかくアルペンルートー本しかなかった。あとは、ヘリコプターで飛ぶか、ヤッケと
登山靴で一日がヽりのコースを歩くしかない。たった一本の道を、登山者とすれ違い
ながら、犯人はどうやって餓鬼の田ん圃や称名の滝見台まで死体を運ぶことが出来たのだろう。
考えられる方法は、今のところひとつしかなかった。
特別許可証をもった、地元の物資運搬車である。弥陀が原荘のうらで、空きカンを積ん
でいた車もそうであったが、山麓の立山町から室堂にかけて、こうした車は何台も往復
していた。午後五時をすぎれば、登山バスの運行がなくなるので、夜間作業さえ可能であれば、
考えられる唯一の手段だった。
そのほか、死体の詳細な解剖所見、犯人の遺留品、血痕と血液型、現場検証の結果など、
知らされていないことはあまりにも多い。
だが、これらは警察側に委ねられるべき問題であった。
田丸五郎にとって根本的なことは、佐伯浩市郎は何故生命を狙われているのかという、
動機の点なのである。
犯人は、すくなくとも一人の人間を長期間監禁しておけるだけの、第三者の眼から完全に
隔離され、しかも極めて安定した場所を持っていると見なければなるまい。悪城の壁に
沿って、入り江のような深い山ふところに囲まれた佐伯本家のような場所が、他にもある
のだろうか…。
「・・・・・・・・?」
田丸五郎は、口もとまで持っていったコーヒーカップをとめた。
地図を見ながら、あれこれと考えているうちに、全然べつのことを発見したのである。
地図はありきたりの観光用のもので、国土地理院の五万分の一よりも実用的で使利なので
持ち歩いていたのだったが、称名の滝のすぐ下のところに、たしかに『弘法平』という
地名があった。
……和気野清麿の電報にあったのは、これか?
田丸五郎は、穴のあくほどその地図を見つめた。あわててポケットをさがすと、くしや
くしやになった紙切れがあった。電文には明らかに、コウボ ウノイセキとある。
このあたりに、あるいはそれらしい伝説でもあるのかも知れない。しかし弘法大師の
伝説だったら、日本中いたるところに数えきれないほど存在している。本人が聞いたら、
一生かゝってもまわりきれないとびっくりするくらいであろう。
第一、遺跡と地名とは違うだろう。伝説と遺跡も、やはり違う筈だ。
セブンスターが灰皿の上で短くなっている。地図に眼をくぎづけにしたまま、無意識に
手をのはそうとしたときであった。
「ずいぶん、お勉強ですのね」
田丸五郎は顔をあげて、思わずソファからとび上がりそうになった。
「あ、あなたは…!」
女は黒ビロウドのロングドレスを着ていた。喪服なのだが、これから舞踏会でもはじまる
のではないかと思われるような盛装である。白い長手袋をつけ、軽く曲げた左の腕に、
ふわりと絹のコートがかゝっている。
「真智子さん・・・」
「いいえ」
女は微笑して、首をふった。
「真理子と申します。真智子の姉ですわ」
突然、言語傷害をおこしたように、田丸五郎は絶句してしまった。
容貌は、妹に酷似している。眉がやや薄く、細おもてで、眼に特徴があった。完全な
一卵生双生児である。
これが、怪奇的とも言えるあの部屋の中で、巫女か祈祷師のようにうずくまっていた女
なのだろうか…。
波のような髪が、首筋から肩に美しいコントラストを描いている。驚いたことには、
その首筋からわずかに見える胸の谷間にむかって、ズシリと重そうな、ダイヤモンドの
首飾りが垂れているのだった。
「わたくしも、掛けさせていただいてよろしいかしら?」
「えっ、はあ、どうぞ…」
田丸五郎は、喉仏を二・三度上下させてから、ようやく言った。
女がソファに掛けるとき、昨日あの家でかいだ匂いが、かすかにただよってくるのを感じた。
「さき程から、警察の方が見えていろいろと聞かれました。やっと終わりましたので、
大急ぎで伺ってみたのですわ」
「それはどうも、でもよく私がこのホテルにいることがお判りでしたね」
「いやですわ。先生がご自分で、佐伯の家のものだと仰言ったのではありませんか…」
真理子は、小声で笑った。
「朝、ホテルから連絡がありまして、お部屋のことは、わたくしからも良く申しつけて
おきました」
「ああ、そうでした。申しわけありません。勝手にご主人のお名前を使ったりして・・・」
「いゝえ、お役にたってよろしかったわ」
真理子は、微笑を絶やさなかった。その意味では、極めて好意的なのである。
依頼者が判然としていないだけに、下手をすれば内政干渉ともなりかねない立場だったが、
これでホッとした。
現在の情況から、今後の佐伯家の主導権は、おそらく真理子になるだろう。
さっきから、かじりかけのジャムつきトーストが気になってならない。彼は、そっとテーブルの
隅に押しやりながら言った。
「浩市郎君は、今日は学校ですか?」
「はい。妹が送って行きました。もう戻っている頃と思いますけど…」
ボーイが近づいてきたが、真理子が軽く片手を上げると、丁重に腰をかがめて引き下がって
いった。
「このホテルは、よくお使いになるのですか?」
「えゝ、亡くなった父が、いくらか株を持っていたものですから・・・」
「あ、なるほど・・・」
アルペンルートは、黒部側は関西電力の施設によりかかっているのだが、室堂側は、
そのために設立された立山観光という民間企業の経営である。発足当時、いわば地元の名家
である佐伯興平に、相当な株がわたっていることは十分に想像できた。
「お父様は、このホテルの重役か何かをなさっていたのですか?」
「いいえ、父は、そんな人ではありませんでした」
真理子は、微笑を清した。
「母が、わたくしたち姉妹と生命を引きかえるようにして亡くなったことは、御存知と
思います。そのあと、父はすっかり無気力な人になってしまったそうで、わたくしが
物ごころついた頃には、もう老人のような生活をしていました。会社の社長とか顧問とか、
肩書きはいくつかついていたようですけど、実際には、何もすることがなくて…」
「他人から恨みを買うようなことは、なかったでしょうか?」
「なかったと思います。気持ちのやさしい人でした」
良く言えばお殿様、悪くいえば飼い殺し・・・。
それは現在の敬至郎の立場とも共通している。興平は、もう用済みの人間だったのであろう。
「御隠居様のほうにも、こころあたりは…?」
「祖母はヽ私達を無事に育て上げることで精一杯でした。世間さまとのおつきあいも、
ほとんどしなかったくらいですから・・・」
「もうひとつ、お伺いしたいのですが・・・」
田丸五郎は、ちょっと姿勢をただした。
「佐伯家の不文律というかヽその厳重な決まりは、有頼の頃から続いているのですか?」
「そうです」
「一千年も…? 途中でおかしくなったというようなことは、なかったんですかね」
「ありません、ぜったいに…」
舞踏会の衣裳のように見えるヽ黒の喪服を着た真理子の全身に、いつのまにか、
犯しがたいものがにじみ出ている。
「どうして、何のために・・・?」
「有頼公が、血の中に生き続けていらっしやるからですわ」
これはもう迷信の世界ではないのか…。だが気違いじみた馬鹿らしさのなかに、凄まじい
説得力があった。
浩市郎が佐伯有頼の化身であるかどうかは別として、田丸五郎は、一千年という歴史を
背負ったあの少年が、そら恐ろしいものに思えた。
ちょうどそのとき、はなれた正面のドアがおいて、痩せて背の高いジャンパー姿の男が
入ってくるのが見えた。ポケットに両手を突っ込んだまま、男はゆっくりと、ラウンジの
内部を見まわしている。濃い色眼鏡をかけて、ひどくキザな感じだ。
田丸五郎は、すぐに視線をそらした。
「有頼という人は、そうやって、いつまで生きているつもりなんでしょうね」
「さあ、わたくしにもよくわかりませんけれど・・・」
真理子は何かにとりつかれたような瞳を、宙に泳がせていたが、やがてつぶやくように
言った。
「ほとんど永久に…、一説には、五十六億年とも聞いております」
「五十六億…?」
田丸五郎は、とうとう本当に溜め息を吐いてしまった。
先刻の男が、ゆっくりと近ずいてくる。ほかに客の姿もないところを見ると、どうやらこの
テーブルをめざしている様子だった。
革のジャンパーに細いコールテンのズボン。ふくらはぎの半分まであるブーツをはいて
いるせいか、脚が極端に長く見えた。肩をいからした恰好で、両手は、相変らずジャンパーの
ポケットに突っ込んだまま…。
田丸五郎が妙な顔をしているのに気がついて、真理子もうしろを向いた。
「おい! コロタ丸」
男は、あっけにとられているニ人を見下ろして、黒眼鏡をとった。
「ハヽヽ、俺だよ」
男は無遠慮に、真理子の横のソファにズシンと腰をおろすと、大きく股をひろげた。
「電報はうっておいたが、コロタ丸ひとりではどうにも心もとないんで、今朝の一番で
きてみた。ハヽヽ、案外遠いな」
和気野清麿…。
口では結構なことを言っているが、視線のほんの片隅で真理子をとらえ、針のような
神経で観察しているのだった。
「こんなところに、どうして急に…」
「いやなに、どうせヒマだったものだからね」
「それに何ですね? その恰好はまた・・・」
「変装だよ、ハヽヽ変装。どうだ似合うだろう」
「冗談じやない・・・!」
田丸五郎は、吐き出すように言った。
変装というのは、人の眼につきやすい人間が、眼立たないように姿を変えることだろうが、
これでは、真っ赤なヤッケが驚いて振り返るくらい眼立つのである。その上、せっかく
良いところで…。
「失礼いたしました」
貞理子が、会釈しながら言った。
「それでは、わたくしこれで…」
「あっ、いや、ちょっと待ってドさい…」
だが真理子はもう立ちあがっていた。
その後姿を、ソファから腰を浮かしたまま見送っている田丸五郎の顔に、また新らしい
驚愕の色があった。黒百合のような喪服に身をつつんだ女の肩が、歩くたび、わずかに
傾くのである。
そんな驚きなど知るよしもなく、和気野清麿は、黙って手の甲に顎をのせたまま眼を
閉じている。全身に、さわると切れそうな冷気が張りつめていた。
勝手にしろ…、田丸五郎はソファの背に後頭部をのせると、一緒になって眼をつぶって
しまった。まぶたの裏に、ラベンダーのあざやかなパンタクールがひらめいている。
「なるほど、おかしな山だな」
眼をひらくと、清磨はテーブルに置いたままの観光地図を覗きこんでいるところだった。
「面白いじやないか、大日岳、蓮華山、浄土山、称名川と弥陀が原、地獄谷もある。
仏さんにゆかりのありそうな地名は、さがせばまだまだみつかるかも知れないな」
「いったい、目的は何です?」
田丸五郎は、半分つっかゝるような調子で聞いた。
「まさか、弘法の遺跡を発掘するために、わざわざやってきたわけじやないでしょうな」
「もちろん、それもあるさ」
清麿は、こともなげに言った。
「しかしまあ、一番の理由は、犯人がわかったからだな…」
「またまた、そんな…!」
「本当だよ」
眼の中にもうひとつ眼がついているような、底光りのする視線がじっと見つめている。
田丸五郎は、何となく身がすくむような、漠然とした恐怖を感じた。
「この事件は、もしかすると日本の歴史がひっくりかえるほどの…」
「だ、誰です、犯人は・・・?」
和気野清麿が、自分から駆けつけるようにしてここに現われたというのも、何かよほど
重大なことに気がついたからに違いなかった。とても、見得や外聞で動くような男ではない。
田丸五郎は緊張のあまり、声が少しふるえた。
清磨が、突然ぐいと肩を寄せた。
「おい。コロタ丸」
「うむ・・・?」
清磨は、それから、おもむろにニヤリと笑った。
「犯人は、弘法大師だ」
……もし、もう少し単純な男だったら、田丸五郎は憤激のあまり、コップを床に投げつけて
その場所を立ち去っていたかもしれない。