弘 法 の 章
一、秘 呪
「悪いけど、もう少しまともな話をしてもらいたいな」
さすがに、田丸五郎は多少険悪な声を出した。
「わざわざこんな山の上まで、冗談を言いにくることはないでしょう。こっちでは、
人間がまた一人殺されているんだ」
「ほう…」
清麿はほとんど顔色も変えずに言った。
「べつに、冗談を言いにきたつもりはないがね。殺されたのは、誰だ」
「興平の姑で、てうという隠居ですよ。昨日会ったばかりだったんですがね。何だか
気がふれているような、薄気味の悪い婆さんでした」
「これで、二人めだな」
ジャンパーのポケットに両手をつっこんだまま、清麿は、じっと雲に覆われた立山を
見つめている。
「それでも犯人は、やっぱり弘法大師だと言うんですかね?」
田丸五郎は、嫌や味たっぷりに言った。
「そうだ・・・」
「死んだ坊主が、あの世から人を殺しにくるなんて間いたことないね」
「弘法大師は、まだ生きているよ・・・」
そう言って、清麿はみづうみに珠を浮かべたような視線を向けた。
「すこし面倒だが、このことは知っておいたほうが良い。弘法大師、空海の詩や碑文を
集めた性霊巣という本に、有名な言葉がある。『虚空尽キ衆生尽キ涅槃尽キナバ、我が願モ
尽キナン』というのだがね、わかりやすく言うと、永遠にこの宇宙が続く限り、おれは
生きているぞ…、と宣言しているわけだ」
「そらま、結構なことで・・・」
「まぁ聞け…、それから三年たって、空海は、ごく僅かの高弟だけを集めて最後の遺言を
発するわけだが、『兜率天ニ往生シテ弥勒慈尊ノ御前ニ侍ベルペシ』から始まるこの御遺告は、
簡単に言うと、おれはこれから兜率天に上って、弥勒菩薩とともに人間どもの様子をうかがっている。
五十六億七千万年の後、再びよみがえって衆生を済度するであろう。その時、勤めているものは救われ、
不信の者は地獄に堕ちることになる…、という予言とも強迫ともつかない内容を持っているのだ。
空海は、それからわずか六日後に入定するが…。入
「まるっきり、わかりませんな」
「入寂とか入滅というと、ふつう死んでいることを意味するわけだが、入定は生きなが
ら禅定に入る、つまり生きている状態をさすんだ。その後ひろく民衆に伝えられた大師信仰の
根本に、『大師はこの世におわします』とされているのはここのことだよ」
「私や不信心で、とにかく信じられませんね」
田丸五郎は一笑に附そうとした。が、そのときふと気がついたのである。
……五十六億七千万年?
この途方もない数字は、ついさっき聞いたばかりではなかったか。
顔色が変わったのを見て、清麿はゆっくりと続けた。
「弘法大師ほどの人物が、こんな馬鹿げた大ボラを遺言としてのこしておくものだろうか。
仏教には、もともと生命は不滅なりとする法理がある。空海はこの原則を利用して、
鴛くべきスケールの大魔術をやってのけようとしたのではないだろうか…」
「それじゃ、本当に生きかえってくるつもりなんですかぇ?」
「そうさ」
「だけどさ、魔術だったら、タネも仕掛けもあるわけでしょうに・・・」
「そのために、空海はありとあらゆる手段を講じた筈だ。今の御遺告もそうだが、空海が
入定していると言われる高野山の奥の院では、今でもさまざまなかたちで、生きている
弘法大師のための儀式が伝えられている」
「そんなもの、形式にすぎませんよ」
だが田丸五郎は、また、妙な顔になった。
北日本新聞の死亡広告では、佐伯興平の追善供養はたしか高野山で行なわれた筈だが、
そのこととは、べつに聞係ないのだろうな・…
「たしかに、魔術といえば、高野山の行事は観客の眼をくらますための舞台装置にすぎない。
弘法大師が本当に打った手は、実はそのもうひとつ奥にある」
「お話の途中ですがね」
うっかりすると引きこまれそうになるのを、田丸五郎は、手を振ってとめた。
「弘法大師が死のうと生きようと、いっこうにかまわんのですが、とりあえず犯人さがしの
ほうを願いたいですな。今さら昔の坊さんと遊んでいる暇もないんで…」
「まあ、それも良かろう」
他人ごとのように言って、清麿はジャンパーから両手を抜いた。
「とにかく、その後の情報を聞かせてくれたまえ」
「良いですよ」
あちこちのポケットから、メモを掴みだしながら言った。何でも構わずにメモをとって
おくところが、案外、この男を支えているのかもしれない。
「今朝は餓鬼の田ん圃に行って現場を見てきたんですがね、そりゃもうひどいところで、
うまい具合に芦倉のシェルパをつかまえて案内してもらいましたが、あんなところに死体を
捨てるなんて、よほど体力がなければ出来ませんね」
「なるほど・・・」
「なにしろ、もう二週間も前の現場ですから、結局、見ただけということで終りましたが・・・」
「で、第二の殺人というのは・・・?」
「えゝ、ちょうど餓鬼の田ん圃から戻ってきたところに・・・」
称名の滝見台で起った事件については、清麿もかなり興味を持った様子だった。
「なるほど、隠居が滝を拝んでいたという着想は面白いな」
「そうでしょう? あのやり方を見れば、犯人に何か特別の意味があったに違いないんです」
「ほかに、何かそれを裏付けるような情況があったのかね」
「ちょっとひとつだけ、事件に関係があるかどうか、よくはわからないんですがね・・・」
田丸五郎は、メモの中から小さな手帳の切れはしを探して、渡しながら言った。あのとき
一緒にいた女の子が書いてくれたのを、そのまま破いて貰ってきたのである。
「御隠居のふところから、こんなものが出てきたんです。現物は警察で押収していますが、
書いてある文字は同じだったそうで・・・」
チラリと眼をおとすと、清麿は黙ってそれをテーブルの上に置いた。
「忘れていたけど、興平の死体の近くにも紙切れが落ちていたらしいんですがね。案内人の
息子のほうが、運よく死体の引き上げを手伝っていたので、そのときに見たと言っていました」
「そっちには、何と書いてあった?」
「カメノケ先生というらしいんですが、もしかしたら、これは思い違いではないかと・・・」
「良いんだ、それで・・・」
清麿は低い声で言った。
「正しくは、きもう先生と読む。それからこっちは、こむおんじだ」
「はゝあ・・・」
感心はしたものの、意味は依然として不明である。
「実はね、同じようなものをもうひとつ見たことがあるんですよ。佐伯の家の玄関に掲っていた
立派な板額で、え、と、あれは何と読むんだっけな・・・」
「かめいこつじ、だろう’・」
「なあんだ、知っていたんですか・・・?」
田丸五郎は、何となく拍子抜けしたような気持だった。
……亀毛先生(きもうせんせい)
……虚無隠士(こむおんじ)
……仮名乞児(かめいこつじ)
「やっぱり、ひとつのグループになっているという感じですね。こいつらは、いったい
どういう…?」
「弘法の遺跡だ」
「いやだよ、もう…」
「そうとしか言いようがないんだから、仕方なかろう。これは『三教指帰』に出てくる
登場人物の名前なんだ」
「さん、しい、ご…、ですか?」
「さんごうしいき、だよ。空海二十四才の作だと言われる。戯曲形式で書かれた文章
としては、日本で最も古いものだ。内容は、空海の自伝的な予言言と言っても良いがね」
「何です。その自伝的予言というのは・・・?」
「空海は、三教指帰のなかで自分の一生をはっきりと予言したのだ。事実そのとうりに
生きてゆくわけだが、なかでも仮名乞児はドラマの主役…、というより空海そのものとして
描かれている。はじめに言った兜率天云々の話も、三教指帰にちやんと出ている…」
「おかしいじやありませんか、さっき、あれは遺言だと言ったでしょう…?」
「そうさ」
「それが何で、二十四歳なんて若いときの作品なんかに出てくるんです?」
「だから遺言でもあるが、予言書だと言ったろう・・・」
「ちょっと、待ってください・・・!」
そのとき、田丸五郎は思わずオクターブ高い声をあげた。
「すると、立山の佐伯家にこの名前が伝承されているということは…!」
清麿が何を言おうとしているのか、ようやく、おぼろげながら解りかけてきた。たしかに、
玄関の正面に掲げられていた堂々たる文字、あの古さからして、あるいは…、と思わせる
要素は十分にあるのだった。
「なあ、コロタ丸・・・」
また、ジャンパーのポケットに両手を突っこむと、和気野清磨はぼんやりと上を向いた
ま、言った。
「何です」
「ゆうべ、この事件を甘くみるなと言ったな」
「言いましたよ。今だって、そう思っていまさあ」
「あれから、いろいろと考えてみたのだがな。立山の、白鷹伝説だけど・・・」
またひとつ、話が飛躍しそうになったので、田丸五郎はあわてて肘を張った。
「何かわかりましたか、有頼について…」
「その佐伯有頼がだ。もし弘法大師だったらどうする?」
「有頼が弘法大師?」
吹き出しそうになって、あわてて口を押えた。
いつのまにか、清磨の視線がじっと注がれている。こいつにやられると、まるで脳味噌の
中まで見すかされているような気がして、つい気持がすくんでしまうのである。
「そうだ」
「しかしですね。それはいくら何でも、誇大妄想というものでは・・・」
「コロタ丸・・・」
「何だよ」
「い、か、空海の血は、立山の佐伯家にまさに完全なかたちで伝えられている。一人から
一人へ…、絶対に割ってはならないという、それがあの厳重なおきての秘密なんだ」
「空海の血?」
真理子が、五十六億年といったのはこのことなのだろうか…。
「これを知る者は、ごく一部の最高位の法印だけなのだろうが、佐伯家は、高野山から
一千年の間、手厚く保護されてきたに相違ない。血脈は、空海より口伝相承された秘密の
呪法で護持されてきた。さっき俺の横にいた女、あれはおそらく浩市郎の母親だろうが、
あの女の憑かれたような確信を見たか」
「いや、貞理子さんは浩市郎が有頼の化身だと信じているんですよ。弘法大師なんかじや
あない!」
「同じことよ!」
「証拠があるんですか」
「ない・・・」
「あのねえ、清麿せんせい」
「だが今度の事件で、必ず何かが出てくる筈だ。このことが解明されない限り、真実の
犯人を知ることは出来ないだろうよ」
「お気持はよくわかりましたがね。第一こんな山奥に、そんなに高貴なお方の血筋が…、
あれ、ちょっと待って下さいよ・・・」
そうだ。電話の主は浩市郎を名指しで「高貴なお方」と言ったのである。有頼ではなく、
それが弘法大師に対する尊称として使われたのだとすれば・・・。
「す、すると佐伯浩市郎は、弘法大師が仕掛けておいた大魔術のタネだと言うんですか…?」
「そのとうり」
空海は、生きている・・・?
入定と称して、生身を高野山奥の院に滅しながら、血液だけが、まるで尺取り虫のように
肉体から肉体へと生き続けている。
そこまでは良かった。そこまでは、超自然的な宗教的感覚として、認めることも出来よう。
だが、これは殺人事件なのである。
千年の血脈の断絶を狙う者は、とりもなおさず、弘法大師と高野山に挑戦しているの
ではないか…!
佐伯浩市郎が死ねば、弘法は神通力を失い、高野山は、空っぽの奥の院を後生大事に
抱えこんだ廃虚と化してしまうのである。これは大変なことだ…、田丸五郎はようやく、
清麿が言っている意味をのみこむことが出来た。
佐伯有頼イコール浩市郎という、超自然的な次元での論争はともかくとして、すくなくとも、
立山の佐伯家に弘法大師の遺命が伝えられているかどうかを知るのは、この際、きわめて
重大なことなのである。
「わかりました。でもね、弘法大師の口伝相承とかいう、そんな有難いおまじないがあるん
だったら、こっちにもぜひやってほしいものだな」
こうなると、ぐいと開きなおった感じで、田丸五郎は反対にふてぶてしい笑いをうかべた。
「全く、おまじないでもしなけりゃ、こんな馬鹿々々しい手品の幕は開かないでしょうよ。
弘法大師はよっぽど自信があったんでしょうね。いったい、そんなに効きめのあるおまじないなんて
いうものが、本当にあるんですかい?」
「ある」
和気野清磨は、今度ははっきりと頭を縦にふった。
「虚空蔵求聞持法、という秘呪だ」
「こくうぞう…?」
「まあ、この話はあとにしょう」
清磨は、ポケヅトから飴をひと掴み出して、テーブルの上に置くと
「途中、退屈だったんでね。しゃぶりながら来たんだが、うまいよ」
「あとでって、いつ・・・?」
「明日の晩、六時にここで…。それまで、俺ももう少し考えておきたいこともある」
「このホテルに、泊るんですか?」
「いやな顔するなよ」
清磨は、今度はパイプを出してくわえながら言った。
「この山の上では、まさか野宿するわけにもゆかないだろうが・・・」
「しかしねぇ、和気野先生」
「何だ」
「せっかくお別れできたと思ったのに、また、こう早く顔をつきあわせることになろうとは、
どういう因果で・・・?」
「御同様だがね。犯人のほうが頭が良すぎるようなんで、仕方あるまい?」
「じゃ何か、こっちの頭が悪いとでも・・・」
だが、清麿はもう背を向けている。
極端に脚の長い後姿を見せて、瓢々と去ってゆくのを見送りながら、田丸五郎は、不思議な
安堵につつまれるのを感じた。
……やっぱり、煙草のみが煙草をやめられないようなものなのかも知れない。
そう自分に言いきかせて、小さな赤い飴の皮をむいた。