二、 魑 魅 魍 魎



 部屋は、三階の331号室である。もどるとすぐ、田丸五郎は東京に電話をいれた。

 「何か、変ったことはなかったかい?」

 「また来ているんですよ、先生。大仏様からのお金・・・!」

 「へぇ、ありがたい御利益だな。いくらだ?」

 「今度も百五〇万みたい。いいんですか、受け取ってしまっても…?」

 「むこうが勝手に送ってきたんだから、構わんだろう。ところで、さゆりちゃんヒマかい?

 「一日中何んにもすることがないんですもの…、どうしょうもないわ」

「学校は?」

「ちょうどテストが終ったところだから、何ていうことないの」

「どうだ。懐ろもあったかいことだし、思い切って立山まであそびにくるか・・・?」

「えっ、先生、行っても良いんですか、いつ?」

「今からすぐ…、それから東京を出る時にね、弘法大師のことが書いてある本があったら、

二・三冊さがして買ってきてくれないかな」

「あの、大仏様のじゃないの?」

「いや、弘法大師だ。ちょっとおかしなことになってね。さゆりちゃんの知識も借りたい

んだが・・・」

 「どういうことか解りませんけど、責任重大ね」

 さゆりは弾んで、張り合いのありそうな声を出した。

 「すぐ発つけど、そのほかに何か用件はありませんか?」

 「うん、悪いけど、ついでに僕のマンションに寄って、上着とかズボンとか、適当に持っ

てきてくれると助かる」

 「先生、そんなに長く立山にいるの?」

 「まだわからんがね、出来るだけ早く解決したいと…、あれ?」

 「えっ何ですか、モシモシ…」

 田丸五郎は、受話器を耳から離した。

 部屋の中に、微かな匂いがただよっている…。

 「いやべつに、何でもない・・・」

 あとの話もそうそうに電話を切ると、田丸五郎は、部屋中を走りまわった。

 匂いは一定の場所からではなく、部屋の空気全体に、ちょうど香水の残り香のように

微かにただよっているのだった。甘いような、幻覚の世界に人間を引きずりこんでしまう

不思議な芳香である。

 真理子がここに来たのだ…。

 背筋に、悪寒のようなものが走った。

 窓は閉まっている。ボストンバックを見たが、中身をかきまわされたような形跡はなかった。

バスルームや衣裳戸棚にも、とくに変った様子は見えない。

 要するに、黙って入ってきて、ぐるりと部屋の中を見まわし、そのまま出て行ってしまった

という情況である。何となく、狐につままれたような感じだった。あるいは、昨日の香りが

自分の洋服にでも移っていて、それが匂うのではないか・・・?

 あぁ、そうだった…。

 思い出して、ベッドの下を覗いてみた。今朝、部屋を出る時、靴底のパットをはずして

放り込んでおいたのである。

 パットはあった。放り込んでおいた筈のパットが、どこかの家にお客様にでも行ったように、

キチンとそろえて並べられている。

 みるまに、全身にカーッと血がのぼった。怒りと恥かしさとで、田丸五郎はたちまち

真っ赤になった。

 このことが原因であったかどうか、その夜は完全に眠れなくなってしまったのである。

 午後五時を過ぎて高原バスが終わると、立山は、突如として三千メートルの自然の厳しさを

取り戻すのであった。昼間から、雲の多い一日だったが、夕刻を過ぎる頃から、ホテルの

外には轟々と風がうなりはじめた。こうなると、鉄筋五階建てのビルも、ただ身を

すくめるようにして高原の凹地にへばりついているしかない。

 和気野清麿からは、五階に部屋を取ったと一度だけ電話があったが、その後、何の連絡

もなかった。

 今ごろは、窓をうつ風の音で、さぞかしいらいらしているだろう、と自分のことは棚に

あげて、田丸五郎は展転とベッドに反側していた。

 鍵があれば、ドアを開けることは簡単である。だがその鍵は、フロントが確実に預かって

いる筈であった。フロントはときどき交代するから、うまくやれば、だましてでも鍵を

受け取ることは出来るかも知れない。そうなると、ホテル側のミスは重大である。

 だからと言って、いきなり興奮してフロントに怒鳴り込むことは疑問だった。

 ホテルの内部に、あの女の意のままに動く人間がいたとすれば、承知で鍵を渡したと

いうケースも十分にあり得るのである。はっきりとした被害がない以上、とぼけられてしまえば

喧嘩にならないのだった。いづれにしても、靴底のパットの位置をめぐってホテルと論争することは、

とても耐えられなかった。

 この件については、もう少し様子をみるしかあるまい…。それよりも、ぞっとしたのは、

今まで気にもかけていなかったこのホテルが、事件に関係があるのではないかという疑問

である。すくなくとも、この小さな出来ごとは、自分の行動をどこかでじっと監視している

眼があったことを物語っていた。

 真理子という女の行動にも、不可解なところがあった。昨日のパンタクールと云い、

今日の黒い喪服姿と云い、旅行者とは全く違ったかたちで自由自在に出入りしている。

このホテルとはよほど親しくて、利用することも多いのだろう。

 それは殺された佐伯興平が、このホテルを経営する立山観光の株をかなり持っていたと

いうことからも裏付けられるようだ。個人としては、おそらく筆頭株主だったのではない

だろうか。

 興平という人物は無気力で、経営的な意欲や手腕などほとんどなかったらしい。大株主の権利を

真理子が代行していたと考えても良さそうであった。

 窓の外に、風はますます激しさを増している。

 東京のビルの谷間を、あちこちにぶつかりながら吹いてくる風とは、およそボリュームが

違うのである。

 膨大な空気の塊りが、虚空から斜めに落下してきて、巨人の胸元に激突する。大地は足を

踏みならしてよろめき、それでもなお傲然と肩をいからせて立ち続けようとするのだった

このホテルだけが安穏に灯をともし、暖房をきかせていることが、まるで嘘みたいな感じだ。

 腕時計を見ると、まだやっと八時半になったばかりである。田丸五郎は、また寝返りを

うった。

 山全体が胴震いしているような、地鳴りに似た音を聞いていると、自分が太古さながらの

深い闇のなかに溶けこんでゆくような気がする。

 そのとき、ふと思いがけないことを考えついたのである。

 興平は、ひょっとすると、このホテルのどこかに監禁されていたのではないだろうか…。

いくら無気力だったとはいっても、大の男いっぴき、餓死させるまで閉じ込めておくというのは、

そう簡単に出来ることではあるまい。穴ぐらか、周囲をコンクリートで固めた牢獄のような

部屋でなければ不可能なのである。

 山ふところに囲まれた佐伯の家は、立地条件としては絶好であったが、あゝいった襖だ

らけの家では、ちょっと無理であろう。場所を選ぶとしたら、むしろ、ホテルむろどうこそ

ふさわしいのではないか…。その意味でも、真理子がこのホテルに関係がありそうなことは

無視できないと思った。

 興平は富山方面に行くと言って、あの家を出た。だが、それをな証している資料は何も

ないのである。行方不明になったのが四月の半ばで、開通直前のアルペンルートには、雪

がまだ多く残っていたであろうが、何かの方法で室堂に来ることも可能ではないだろうか

 突然、風の皆が興平の絶叫に聞こえた。

 助けてくれぇ、ここを出してくれぇ・・・、とわめく声が、幾重にもこだまして響くのである。

そして、ときおり混ざる空気を引き裂くような鋭い音は、佐伯てうの悲鳴だった。

それでなくても鬼気迫るあの老婆が、断崖から三〇メートルも落下して、ガウンと宙吊りに

なった時の形相はどんなだったろうか…。考えただけでも、そくそくと恐怖が身に迫ってくる。

 しかし、こゝには大切な手がかりがあった。

 興平の場合にはまるで見当もつかないのだったが、前の日にてうに会っていたことで、

それは限定することが出来た。つまり、犯人はあの夜、確実に動いたのである。

 まさかすぐ翌日、気まぐれな連中が通りかかるとは思わなかったのだろうが、これは

犯人にとって、ほぞを噛むような誤算だったのではないか・・・?

 バスからでは、滝見台の下に死体がぶら下っているなどということは、誰にもわからない

のだ。犯人は、すくなくとも一週間くらいは死体をそのまゝにしておきたかったのではないか。

そうすれば、足どりはまたぼやけてしまう。

 風の音がひときわ激しく、カーテンの向うの二重窓を叩いた時であった。ギクッとする

ほどのけたたましさで、枕元の電話のベルが鳴った。

 「モシモシ、田丸先生でございますね?」

 聞こえてきたのは、早口で圧し殺したような、かすれた男の声であった。

 「私、あの、昨日お会いいたしました佐伯の・・・」

 「これは…、敬至郎さんですね?」

 田丸五郎は、すぐに半身を起こした。

 「はい、ちょっと取り込んでおりますもので、途中で電話を切るようなことがあると思いますが、

その時はお許しドさい」

 「構いません。今日は御隠居様が、また、何と申しあげて良いか。私もすぐにお伺いしようと

思ったのですか・・・」

 「まったく、ご心配ばかりおかけいたします。実はそのことで、今日家内にお会いドさった

そうで・・・」

 「あ、そうだ。どうも失礼しました。勝手にお名前を使ったりして・・・」

 「いえそれは良ろしいんですが、家内は先生に、何を申しあげたのでしょうか?」

 「今日の事件について?」

 「はい」

 そう言われてみると、事件の直後だったというのに、真理子はそのことにはほとんど

触れなかったのである。まさか、良いところで邪魔が入ってしまってとも言えなかった。

 「家内が、どんなことを申しあげたかは存じませんが・・・」

 敬至郎は、いっそう電話に口を押しつけた様子で言った。

 「これは、先生だけに…、私からお電話さしあげたことも、黙っていてほしいのです。

もちろん家内にも・・・」

 「わかりました。お約束は必ず守りますから、どうぞ仰言って下さい」

 「じつは…」

 そこでまた声が切れた。おそらく、周囲を気にして誰もいないことをたしかめた時間だった

のだろう。

 「実は昨晩、隠居があゝいう不始末になりましたのは、決して誰かに殺されたというわけでは

ないので・・・」

 「殺されたのではない?」

 一瞬、あっけにとられた。あれは、夢を見ていたとでもいうのか。

 「ですが、現実に私はあの場所に行って…」

 「いや、そういう意味ではないので、つまり、隠居は自殺なのです」

 「へええ?」

 「私がこう申しあげても、信じていただけないでしょうが・・・」

 「しかし、あの高いところから、どうやって三〇メートルも・・・」

 「違うんです・・・!」

 受話器の向う側で、敬至郎の荒い息使いが聞こえた。

 「今は時間かおりません。そのことで、ぜひもう一度、内密にお会いしたいのです。

いけませんか」

 「もちろん結構ですが、場所は?」

 「機会を見て、またお電話します。それまでは警察にも、他殺ということにしておいて

 ほしいのです。でないと…、あっ」

 「ちょっと待って’・」

 敬至郎が電話を切りそうな気配を見せたので、あわて、声をかけた。

 「自殺という証拠があるんですか」

 「私も立ち会っていました」

 「何ですって、モシモシ・・・」

 「家内が来ます。では…」

 受話器を持ったまま、田丸五郎は、ドシンとベッドに全身を倒した。

 ……何だ。この電話は・・・。

 まったく、信じられる話ではなかった。敬至郎立ち会いのもとに、あの老婆は、深い

潅本の茂みを縫って、オーバーハングの絶壁に三〇メートルもぶら下ったというのか。しかも、

どうしょうもなく腹が立つのは、敬至郎がこれを他殺にしておいてほしいと訴えて

いることであった。

 他殺を自殺に見せかけようとするのだったらわかる。だが本当に自殺なのであれば、何故、

それを他殺だと言うのか。警察こそ、いい面の皮だ。

 敬至郎は、またどうして自分だけにそのことを教えようとしたのたろう。あるいは、

はじめから事件を混乱させるための手段にすぎないのではないか…。

 風は、小刻みに吹きつのっていた。

 それがまるで、立山の異気から生じた妖怪どもの洪笑のように聞こえる。

 田丸五郎はベッドから起き上ると、カーテンを細めに開けて、二重窓の外をうかがって

みた。

 外は、暗黒である…。何だか、興平とてうがその闇のなかにいるような気がした。殺された

ことは事実なのだが、それはただ彼らが生と死と棲み家を移しただけのことで、実体は、

少しも変わってはいないのではないか。

 彼らには、まるで納得づくで殺されたと思えるようなふしさえあったのである。

 窓の外に、いきなりゲラゲラと笑いながら、二人が顔を覗かせるのではないかという幻覚に

とりつかれて、田丸五郎はあわててカーテンを引いた。

 悪城の壁のほとりに棲む佐伯一族こそ、この山に巣食う魑魅魍魎の首魁なのではないか・・・。







つづく もどる