三、 池 獄 め ぐ り
気圧の谷が通りすぎてしまうと、風は嘘のようにやんだ。
立山にきて、三目目の朝である。
夜半すぎまで眠れなかったせいもあって、ペッドから脱け出したのは十時ころであった。
太陽とともに寝起きしている山の上では、人々の動きはもう昼のさかりといった感じだ。
窓の外を見ると、室堂平を散策する家族連れの姿も、昨日よりずっと多い。
佐伯てうの死で、事件は次第に成熟しつつあるように思えた。だが、まなじりを決して
立ち上がろうとするには、まだ何ものかが欠けている。犯人が集団か個人か、あるいは、
まったく思いがけない位置から事件の推移を見まもっているのか、まだ影すらもつかめて
いないのである。浩市郎が狙われていると言っても、もともとこの事件は、暴漢が突如として
あの家を襲い、通り魔のように少年の命を奪い去るといった性質のものではなかった。
計算されつくした犯人の知能が、一定のリズムをもって、刻一刻と真実の目的に向かって
車軸を回転させてゆく、そのリズムにいちはやく自分をのせてしまうことが肝心であろう。
昨夜・・・・・・
あれから田丸五郎は、ひとつの結論を導きだしていた。妹の真智子へのアタックである。
真智子とはほとんど話らしい話も交していない。奈良で会ったことも、彼女はもちろん
まだ気がついていないのだった。
姉の真理子が、あでやかなパンタクールから呪術者のような巫女姿に、そしてダイヤに
飾られた黒い喪服へと、この事件全体にミラーボールのような光を投げかけているのに、
真智子のほうはいつも息をひそめていて、ほとんど動こうとしない。これは、かえって
深い意味のあることのように思えた。
好人物なのだろうが、敬至郎からは何となく支離滅裂な印象をうける。あの男は、本当は
真相など何も知らないのではないか。その点、真智子は三人のなかでも、最も常識的な
性格の持ち主でありそうな気がする。彼女に肉迫することによって、ある程度、佐伯家の
秘密は解明されるのではないかと思えるのだった。
その時と方法をどう選ぶか…。
タイミングを違えれば、真智子もピタリと殼を閉じてしまうであろう。見えない犯人と
切っ先をまじえながら、透明人間の皮を剥ぐ一瞬の気合いをうかがっているような心境で
あった。
午後には、桜井さゆりも駆けつけてくる筈である。助手としては多少ものたりないが、
舞台が舞台だけに、大学の史学科在学中というさゆりの知識は、ある程度の戦力になって
くれるだろうと思った。
それよりも、和気野清麿は、ホテルのどこかでいま何を考えているのか…。
すべてが出そろったとき、いよいよ俺様の出番になるのさ、と田丸五郎は主役にしては
いくらか小柄だったが、それなりに精悍な眼を細めた。
いつまでも部屋に閉じこもって、考えつづけていることは苦手である。田丸五郎は、
もう二度と靴底のパットははずすまいと決めて、スリッパを靴にかえた。
フロントをさけて、鍵を持ったまま階段の下にある売店に行く。さりげなく土産ものを
物色しながら、売店のおばさんに声をかけた。
「立山には、弘法大師の伝説なんてあるんですかね?」
「伝説ですか…?」
いそがしく何かを包みながら、顔だけチラリとあげて、スタンドの片隅をさしながら言った。
「伝説の本なら、そこの絵葉書の横においてあるんですけど・・・」
手にとってみると、ちょっとした手帳くらいの民芸風の装丁で、『立山の昔ばなし』とある。
内容は、ごく単純な絵入りの民話集であった。
目次は、大半が地名のいわれとか、そこにまつわる伝説といったもので、立山開山の
白鷹伝説がその第一話に入っている。
何時の間にか頭の中が清磨のペースになっていることに、いささか腹立たしさを感じながら、
ざっとたどってゆくと、餓鬼の田ん圃や称名の滝のいわれなどもあった。そのなか
に、‘弘法の清水’という話がある。田丸五郎は、いそいでページを繰った。
『昔、弘法大師が立山にこもって修業されていた頃のお話です。広大な弥陀が原は、
行けども行けども飲み水が一滴もなく、さしもの大師さまも渇きにたえきれず、後の世の
立山に登る人々もさぞかし難儀することであろうと、心静かに阿弥陀を念じ持っていた錫杖
を大地にトンとお突きになりました。不思議なことに、今まで渇ききっていた草原から、
こんこんと清水が湧き出てきたのです。いまもなお、白玉の歯にしみとおる湧き水が付近
の谷間にあふれています。このため、このあたり一帯を弘法平と呼ぶようになったと伝え
られています』
と、これだけである。
「こんなものかね?」
「そうですねぇ」
真偽のほどは考える余地もなかった。ただ、この茫漠とした立山に弘法大師の足跡が
伝えられていたことだけはたしかなのである。
「弘法大師の伝説だったら、たしか”獅子が鼻”もそうだったわねぇ」
手があいたらしく、おばさんは近くにいた若い店員に声をかけた。
「その本にものっていると思うけど、弘法大師がお祈りをしたっていう場所があるんですよ」
「どのへんだろう?」
「餓鬼の田ん圃からわかれた道で、一の谷の近くに獅子の頭のかたちをした大きな岩が
あります」
と、若い店員のほうが答えた。
ページをひらくと、なるほど、獅子が鼻の伝説のところに、この岩上で弘法大師が七日七夜の
護摩をたいて、悪鬼調伏の祈願をこめたという話がのっている。
餓鬼の田ん圃の現場を見たとき、芦倉のシェルパが言っていた道筋である。今から行っても、
たっぷり半日は歩かなければならない。この靴では、とても自信がなかった。第一、
こんな出来合いの伝説をたずねて歩きまわってみても、事件とは何のかかわりもないだろう。
「ほかに、どこか近くで、見どころはないかしら・・・」
「こちらにお泊まりですか?」
「うん」
「だったら、地獄谷でしょうね。あそこだけは見ておいて下さいよ」
おばさんは若い店員とうなづき合いながら言った。案内図を見ると、地獄谷まで徒歩で
約五〇分とある。
ゆっくりと時間をかけて行けば、どうということはあるまい。田丸五郎は代金を払うと、
立山の昔ばなしをポケットに突っ込んでその場所をはなれた。
地理学的に言うと、地獄谷は日本最高所にある温泉原湯群である。
室堂平のはずれから、自然の石をならべてこしらえた急な段々を一歩一歩踏みしめる
ようにして降りて行くと、途中からツンと硫黄の匂いが鼻をついた。
どこをどうくぐりぬけてくるのか、猛烈な硫黄の蒸気が吹き上げている穴があったり、
強い酸味の青色の熱湯が泡立っていたり、沸騰した泥土がボコボコと音をたてていたりする。
そのひとつひとつに、無間、阿鼻、等活、焦熱などの地獄の名前がつけられているのだった。
なかには、油屋とか百姓地獄などといったのもある。
この種の地獄だったら、田丸五郎は別府でも登別でも、小さなものなら箱根でも見たことが
あった。だがこれほど規模が大きく、しかも荒涼とした風景に接したのははじめてである。
三千メートルの高山にいながら、そこはまさに地の底であった。
正面に魔像のような立山がくっきりと浮かび、周囲をそれに連なる山々の荒れ果てた素肌が
とり囲んでいる。谷全体が、一面に白骨を敷きつめたような灰白色で覆われ、あちこちの
岩肌から、白や黄や青緑色の蒸気が紛々とたちのぼっていた。
アルペンルートという渡り廊下があるから、さはどの危険も感じないでいられるのだったが、
ひと時代前、この場所に一人で立った者があるとしたら、風化した自然のあまりの物凄さに
身を震わせたに違いない。
さらに、その昔…。
白鷹伝説の主人公、佐伯有頼がもし実在の人物であったとしたら、はじめてこの白骨の
岩床を踏みしめたとき、はたして何を感じたのだろうか。如何に希代の登山家と言っても、
やはり、地獄の存在を信じないではいられなかったのではないだろうか。
田丸五郎は、黄色い噴煙にさらされて、さゝくれだった岩肌のかげに、ふと有頼の亡霊を
見たような気がして、思わず肩をすくめた。
うそ寒いような気持ちで地獄谷を抜けると、雷鳥沢である。
道はそこから大きく迂回して急坂となり、血の池を経て室堂平の反対側にでる。田丸五郎は
途中何人もの若者たちをやりすごしながら、ゆっくりと歩いた。
雷鳥沢から、両手をついて這い上らんばかりの急な坂道を登っているとき、妙な老人に
出会った。これだけの急な坂を、背中にかなり大きな風呂敷包みを背負って、ヒョイヒョイと
まるで弾むような足どりでおりてくる。
こちらは息を切らしながらやっと半分くらいまで来たところだったので、感心して見守って
いると、老人はほとんどスピードを緩めず、さっとその横を通り過ぎて行った。
「・・・・・・?」
そのとき、あの家の匂いをかいだのである。
ぎょっとして振り返ると、老人は、もう十メートル以上先の道を、相変らず一定のスピードで
下っているところだった。声をかける余裕もなかった。ちょっとでもバランスを崩せば、
勢いがあまってそのまま転がり落ちてしまうほどの速度である。身軽なようで、
老人の身のこなしは驚くべき熟練と慎重さに裏づけられているのだった。その姿は、
あっと思うまにはるか下のほうに見えなくなってしまった。
……気のせいだったのだろうか。
服装は、明らかに土他者であった。よほど練達のシェルパなのであろう。
「・・・・・・・・・」
そのとき、ふと思い出したのである。田丸五郎は、危く踏みはずしそうになった足を
あわてて四つん這いになって支えた。
……老人は、富蔵だったのではないか。
佐伯の家に最後まで残ったという忠僕。一度だけ後ろ姿を見ただけであったが、何故か
そんな気がしてならない。
あれが富蔵だったとすれば、突然の風のような出現は、やはり、事件と何かのつながりが
あって…、と考えるのは思いすごしだろうか。
だが、追いかけることはとうてい無理であった。田丸五郎は、また一歩一歩注意しながら
坂道を登りつづけるよりほかになかった。
やっとの思いで坂が終ると、その先は細い尾根のような道になっていて、室堂平のホテルの
裏側につゞく。その途中に、血の池というのがあった。
餓鬼の田ん圃と同じような一種の池塘で、覗くと、たしかに赤味がかってドロリとした
感じの水が溜まっている。
ここまでくれば、後はもう楽な道なので、田丸五郎はポケットから『立山の昔ばなし』
を出して血の池のところをひろげてみた。
由来は、女の一生の経血が巣まって出来たのだという。産死の女性を、寺から経本を
もらい受け、それを投げおさめて供養したとか、子供を産めずに死んだ女が、血の池に送られて
悶え苦しむなどといった話が語られていて、何ともなまなましく、信仰というより魔教的な
感じさえうけるのである。霊山とか聖地とか言っても、立山には何故かそれとはうらはらの、
おどろおどろした怪奇的なムードが漂っている。いったい、それが何に起因しているのか、
見当もつかなかった。
そうそうに昔ばなしの本を閉じると、田丸五郎はホテルヘの道を急いだ。
フロントのところに、派手なアノラックを着た若い女が心細げにたゝずんでいる。それを
横目で見て、まっすぐ部屋に戻ろうとしたときであった。
「あ、田丸様」
フロントが気がついて声をかけたのと、えっ、と女の子が振り向いたのが同時である。
「先はどから、こちらの方がお待ちでございます」
「なんだ、さゆりちゃんか…?」
「先生ひどいわ。何も伝言しておいて下さらないんですもの」
さゆりが泣きそうな声を出した。
「ごめんごめん、ちょっとこのあたりを歩いてきたものだから…、それにしても、ずいぶん
早く着いたじゃないか」
「だって、一番でとんで来たんですもの」
さゆりは、まだうらめしそうな顔をしている。神田の事務所では見たことのないさゆりの
服装が何となくまぶしくて、田丸五郎は顎を撫でた。
「悪かった。とにかく部屋においで」
フロントがそっぽを向いているので、かまわずに階段をのばった。
「先生、困っちゃったわ。予約してないものだから、お部屋がひとつも空いていないん
ですって…」
ふくらんだリュックサックを両手で抱えたまま、さゆりが後ろから鼻にかゝった声を出した。
「ねぇ、何とかして下さる?」
「よしよし、大丈夫だよ。とにかく話は落ちついてからにしよう」
ドアを開けると、内部は別に異常ないようであった。やれやれといった感じで、田丸五郎は
ようやくはいていた靴を脱いだ。