五、シェルパ村縁起



 「ほんと? まあ本当・・・?」

 コーヒーラウンジの奥で、白鷹伝説にはじまるこれまでのいきさつを聞くと、さゆりは、

太い毛糸で綱んだベージュ色のセーターを思いきりふくらませて言った。

 「それでは和気野先生は、佐伯有額が弘法大師その人だと仰言るんですか?」

 「そうさ、しかもこの事件の張本人、いや真犯人だとね」

 「すばらしい大ロマンだわ・・・」

 一発でしびれてしまったらしい。声までふるわせているのが、田丸五郎にはちょっぴり

おもしろくなかった。

  「おい。いいかね、これは殺人事件なんだよ」

 眉をしかめて、わざと念を押すように言った。

  「君もそのつもりで考えてくれなければこまる。いまさら、ゲームを楽しんでいる暇は

ないんだ」

 たしかに、事件が弘法大師とは切りはなすことの出来ない何かを内蔵しているという

ところまでは、認めざるを得ない。だからと言って、弘法大師犯人説などを持ち出されたの

では、ますます混乱するばかりなのである。

 窓の外はもうかなり暮れて、人影もなかった。さゆりは相変らず自分の部屋のことが気

になっている様子だったが、話に夢中になっているうちに、とうとう言いそびれて

しまったようだ。

 和気野清麿が、再びこのラウンジに姿を現わしたのは、それからしばらくの後、六時を

すこしまわった頃であった。

 ドアが開いて、清麿が歩み寄ってくるのを見たとき、田丸五郎は、また唖然となった。

 昨日の革ジャンバーにも驚かされたが、今日は着流しというか、浪人スタイルというか、

自宅にいるときのままの和服姿に変わっている。それがふところ手にホテルのスリッパで、

ブラリブラリと近づいてくるのだ。緊張と期待でかしこまっていたさゆりも、眼を丸くしている。

 「ねえ、ちょっと、和気野先生」

 たちまち言いようのない腹立たしさがこみあげてきて、田丸五郎は、いらいらとした調子で言った。

 「すこしは場所がらもわきまえて下さいよ。こヽは立山のてっぺんだよ。何も、急にそんな

恰好をしなくったって・・・」

 「構わんだろう? 急いで来たんで、これだけしか持ってないんだ。なにしろ昨日の

ズボンじやぁ股ずれが出来てしまって、痛くってかなわん」

 となりで、さゆりが一生懸命になって笑いをこらえている。止んぬるかな、と田丸五郎は

黙ってしまった。

 「こっちのお嬢さんは?」

 「東京の事務所で、僕の助手をしてもらっているんですがね。ちょうど良い機会だと思って

呼んでおいたんです。まだ半分は学生で、史学科ですから・・・」

 「桜件さゆりです」

 さゆりが、かたくなって立ち上がろうとした。話はときどき聞かされていたのだったが、

初対面である。

 「いヽよいヽよ、おじぎなんか」

 清麿はふところ手のままで言った。そのあとがいけない。

 「俺もこころ細かったところだ。何しろ、相手がコロタ丸ではな」

 横を向いて、さゆりはしきりに咳ばらいしている。が、本当は笑いころげているのだった。

 「とにかく、今日はもうすこし現実的な話をして下さいよ・・・」

 聞こえないふりをしたつもりだったが、田丸五郎は苦虫を噛みつぶしたような顔になっていた。

 「約東のとうり、こっちは一日棒にふって待っていたんだ」

 「そうかい、そいつは御苦労さん」

  清麿は、ふところから腕といっしょに自慢のパイプを出して口にくわえた。ピカソの

 手造りで、パリの蚤の市で据り出した逸品だというが、まさかそんなものが…、と田丸五郎は

 弘法大師犯人説同様、頭から信用していない。

 「有頼の白鷹伝説だがね」

 そんなことはいっこうにお構いなく、清麿は、ぼんやりと煙の行方を追いながら言った。

 「あれは、一種の二重うつしだ。ひとつはいまから千二・三百年前、つまり西暦七〇〇年

ころの伝説として伝わっている佐伯有頼なのだが、出典は『伊呂波字類抄』で、やはり

伝説の域を出ない。もうひとつは実在の佐伯有頼、このほうは延喜丑年の古文書で父親の

有若が確認されている、つまりその息子というわけだ。わかりやすいようにこれからは西暦

で言うが、延喜五年は西暦九〇五年で、時代はすこし下っているんだ。このふたりの有頼が

ニ重うつしになって出来たのが、白鷹伝説の真相だろうとおもうのだが・・・」

 はじめて電話でこの話を聞いたときには、何の知識もなかった筈だが、清麿の頭の中で、

白鷹伝説はかなり正確に折りたたまれている感じだった。

 「こゝでちょっとおかしなことは、どちらも有頼は有若の子とされているのに、この関係が

もうひとつはっきりとしない。たゞ神から授けられたということになっていて、母親の

名も出てこないのだ」

 いつのまにか真剣になって全身を乗り出していたさゆりが、そのとき、ちょっと

目をうごかしかけた。清麿は、それをチラリと横目で見て

 「たとえ伝説の上の話としても、神から授けられたというのはただごとではない。よほど

身分に違いが出来たか、あるいは、神に近いほどの能力の持ち主であったと解釈するほかに

ないだろうな。これは、どんな伝説やお伽話を例にとっても同じことだ。さゆり君、

どう思うね?」

 「あの、よくわかりませんけど、もしかしたら、有頼は本当は有若の子供じやなかった

のでは・・・?」

 「さすがだ。コロタ丸よりはえらい」

 清麿は肯いて、パイプをくわえたまこ腕をまたふところに入れた。

 「さゆり君、この伝説を弘法大師に結びつけることが出来たのは、そのためなんだよ」

 「へぇ、有頼はもらいっ子ですかね。それが弘法大師だったとでも言うんですかい?」

 不貞くされたところに、清麿はヂロリと視線を据えた。

 「そうだ。佐伯有頼は二人いた。どちらも有頼で、どちらも弘法大師だ」

 「あのね。頼むから、もうすこしわかりやすい話をしておくんなさい」

 「これ以上わかりやすい話があるか。芦倉の佐伯と立山の佐伯との関係も、これではっきり

したと思うが、どうだ?」

 「ちっとも、はっきりしちやいませんな。何で急に、ここで芦倉なんかが出てくるんです?」

 清麿は、苦笑いしながら言った。

 「いいかね。立山の佐伯本家には、昔から子供は一人という厳しいおきてが守られてきた。

それならば、近くの芦倉にあれだけの佐伯姓が残っているのはどういうわけだ?」

 「血脈相承なんて、はじめからインチキだったんでしょうよ」

 「しかも、芦倉の佐伯には、立山の本家に対して一切接触をもたないというタブーがある。

まるで恐れてでもいるかのように、見ざる関かざるといった立場だ。同じ佐伯姓だが

完全に分離している、これは有頼と有若の関係にまで遡って良いのではないか」

 餓鬼の田ん圃で会った、守作と守安の顔がうかんだ。彼らはたしかに佐伯本家に対して

恨みをもっているわけではない。たゞ触れてはならないものとして、子供の頃から言い

きかされてきたのであろう。

 「越中守従五位下佐伯宿禰有若、当時の藤源氏と佐伯氏の勢力からして、この人物は

たまたま京都の中央朝廷から派遣されてきた地方官にすぎない。今で言う単身赴任みたいな

ものだ。九〇五年というと、およそどういう時代だったか知っているかね?」

 「平安朝の中期だと思います」

 さゆりが頬を赤く染めて答えた。

 「たしか醍醐天皇のころで、すこし前には応天門の変や、藤原氏と対立しようとした

菅源道真が太宰府に流される事件があったりして…」

 「そうだ、まさに藤原一門の黄金時代がはじまろうとする…。この頃になると、佐伯氏

など、もうものの数ではなかったのだろう。有若の従五位下という身分の低さからも、十分に

想像がつく。おそらくは、たった一枚の官符で唯々諾々と僻地の長官として赴任させられて

きたに違いない。有若は、そこではじめて、驚くべき血脈を継ぐ佐伯有頼という人物に

出会ったのだよ」

 「有頼のほうは、どこから流されききたんです?」

 「はじめから、立山にいたのさ」

 清麿は、無造作に言った。

 「弘法大師の入定が八三五年だから、有若の赴任を九〇五年前後とすると、それから

およそ七〇年後の話だ。立山に血脈が伝えられるようになって、実在の佐伯有頼は、弘法大師の

孫か曽孫くらいにあたる。これを知った有若は、有頼を弘法大師の化身として畏れ敬った

ことだろう」

 「有若も人がいいね」

 「伝説では父子となっているが、たしかに神から授かった感じだ。年齢も、そのくらい

離れていたのかも知れない。もともと有若と有頼では、名前からしても格が違う」

 「そんなものですかね」

 「有若というのは、牛若丸でも判るように、身分の低い武人につけられる名前だと思うが、

どうかね、さゆり君」

 感動して、さゆりはセーターをいっそうふくらませている。

 「これだけの山をひらくためには、たゞ個人的に登ったというのではなく、どうしても

集団の力が必要だったろう。有若は、自分の一族を芦倉におき、有頼とともに総力をあげて

命がけで山をひらいた。数えきれないほどの仏教にゆかりのある地名は、こうした背景

のなかで名づけられていったのではないだろうか…」

 「ははあ、つまり芦倉に住みついたのは有若の一族で、有頼の血脈とは別系統ということに

なるわけですな」

 「何よりの証拠は、彼らが佐伯有頼を慈興上人としてまつったことだ。この伝統は、

現在にいたるまで佐伯本家に対するタブーとなって引き継がれている。これが、あの白鷹伝説の

真相だろうよ」

 芦倉シェルパの淵源は、まことに奥深いものがあった。名前こそ残さなかったが、一千年以上も

前の立山ボッカたち、守作や守安に思いを馳せると、田丸五郎は悠遠たる気持ちになった。

 だが、さゆりと違って、ここでロマンに酔っているわけにはゆかないのである。

 「有若は、よくこんな山の中に弘法大師の血脈があるなんて信じましたね。いくら迷信

深いといったって、都の人間だったら、空海がとうの昔に高野山で入定したことくらい知って

いたでしょうに…」

 「さゆり君」

 それに構わず、清麿はふところ手をしたまま、さゆりのほうを向いた。

 「君は、荘園制度について知っているかね?」

 ちょっとたよりなさそうな顔をしたが、さゆりは、口頭試問を受けるときのように

かたくなって答えた。

 「その頃の貴族や大きなお寺などの領地で、地方の豪族が身分や地位などを得るために

寄進して出来たのがはじまりだと思います」

 「そう、私有地で、一種の治外法権も認められていた。やがてそこから武士が台頭して

きて、封建制の基礎をつくるわけだが、越中の国にもこうした大荘園がいくつもあった。

いったい、誰さまの領地だったと思う?」

 「わかりません」

 「東大寺だ・・・」

 さゆりは息をのみ、清麿は、パイプの煙を吹いた。

 「田丸先生、東大寺と弘法大師の関係ぐらいは知っているんだろう?」

 「まあね・・・」

 「東大寺の荘園を通して、佐伯本家は高野山に直結していた。有若に対しても、むしろ

東大寺のほうから積極的にバックアヅプしていたと考えても良いと思う。有若が越中守と

なった裏には、そんないきさつがあったのではないか・・・」

 高野山ー東大寺ー佐伯本家という図式自体が、昔から変わっていないのである。清麿は、

言薬をついだ。

 「やがて、平安時代も終わりに近くなると、荘園制度は崩れて、この役目は、いわゆる

高野聖によって引き継がれてゆくことになるのだろうが・・・」

 「何ですか、それは?」

 「正しくは、非事吏と書く。表面上は奥の院あたりの雑役に従事していた半僧半俗の

下級職だが、その実体は、高野山の秘密情報機関だ」

 「へぇ、高野山にも忍者みたいな連中がいたんですか?」

 「彼らは山岳信仰と結びついて、口には真言念仏を唱えながら、実はあらゆる情報の

蒐集と監視の役目を果たしていた。高野山の権威を保ち続けるための諜報部員だ。当然、

彼らの眼は立山の佐伯家にも強く注がれていたろう。それがなければ、いくら何でも独力で

純粋な血脈を維持しつづけることは出来なかったろうからね」

 「しかし、まだ根本的な問題が、ふたつほど残っていますよ」

 急に意地悪そうな眼をして、田丸五郎はニヤニヤと笑った。

 「何だ、俺はさっきから腹がへってしかたがないんだが」

 「第一に、空海がどうして縁もゆかりもない立山にやってきたのかという正当な理由

ですね。だいたい弘法大師の伝説なんて、日本中にころがっているんで、これが立証できない

ことには、いくら有頼が弘法大師だと頑張ってみたところで、所詮、空論にすぎない」

 「なるほど、まだあるのか?」

 「いちばん大切なことなんですがね。いやしくも弘法大師といえば、仏さまに近いような

坊さんでしょう。それが、いったい誰に子供なんかを産ませたんです?」

 「あぁ、そうか…」

 「血脈相承などと言う以上は、自分自身が産ませた子供でなければ意味がない。実は

養子だったなんていう言いわけは通りませんぜ」

 「そのとうりだ…」

 清麿は、ゆっくりとパイプを口から放した。

 「至極、簡単なことなんだがね。まず第一の問題の笞えは『三教指帰』だ。この事件も、

もとをただせばこゝから出発している。虚空蔵求問持法という魔術のタネがひきおこした、

当然の結果なのだよ」

 「それで、二番めの理由は…?」

 「空海は、坊主ではなかったからさ」

 「何ですって? ねえ、ちょっと清麿センセイ…I」

 呆れかえって、夢中で何か言おうとしたのだったが、田丸五郎は、あきらめて肩の力を

抜いてしまった。

 「まあいいや…、とにかく飯を食いに行きましょうよ。なぁさゆり・・・」

 眼くばせして立ち上がりながら、皮肉たっぷりに言った。

 「やれやれ、腹がへると、こっちまで頭がヘンになってきそうだ・・・」






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