七、 謎 の 十 三 年





 「立山の賦だ…」

 ボーイを呼んで、ほとんど手をつけていないテーブルを片づけさせてから、清麿は言った。

 「十八才から三十一才まで、空白の十三年間を埋める鍵は、ここにしかない…」

 田丸五郎は、またちょっと疑い深そうな眼をした。

 「佐伯真魚が、一門の与望をになって都にのぼる二年ほど前に、家持はすでにこの世を

去っていた。だがこの歌は残っていたろう。どうだね、さゆり君」

 「えゝ、大伴家持と言えば、佐伯家にとっては宗家にあたる人ですし、叔父の阿刀の大足や

今毛人なんかも、きっとこの歌を伝えたと思います」

 「真魚少年も、無関心ではいられなかったに違いない。胸を躍らせて、ぜひ行ってみたい

ものだと思っただろう。羨しぶるがね、という言葉のなかには、うらやましがるだろう

という意味のほかに、憧れに似た詠嘆の感情がこめられている。これは少年の気持ちをおゝいに

かきたてたことだろうよ」

 「すると、この十三年の間、空海は立山にこもっていたというんですか?」

 「そうではない」

 清麿は眼を閉じ、ふところの中でパイプをまさぐりながら、しばらく考えていたが、やがて

自分の言葉をたしかめるように、ゆっくりと言った。

 「真魚が立山に行ったのは、おそらく十六才から十八才くらいの頃だ。その時はすぐに

都に戻っているがね」

 「へゝゝ、まるで見てきたみたいですな」

 「謎の十三年間でわかっていることはただひとつ、この間に三教指帰(さんごうしいき)が

書かれたという
ことだけだが…」

 さゆりが一心にノートをとっているのを見やりながら、清麿は話を進めた。

 「ところが、この三教指帰がどこで潜かれたものか、まったく不明なのだ。その中で、空海自身が

モデ
ルとなって登場する仮名乞児に、『三八ノ春秋ヲ経タリ』と言わせているところをみると、

どうやら二十四才のとき完成したものであるらしい。つまり、三教指帰を読めば、二十四才までの

足跡は仮名乞児を通しておぼろげながら知ることが出来るわけだ」

 「ではそこに、立山に登ったとでも・・・?」

 「残念ながら、違う。仮名乞児は『二九にシテ親市に遊聴ス』、槐市(かいし)とは、大学のこと

だよ。つまり十八才の時、大学に入ったと言うのだ。これはまったく史実と符合しているわけだが、

問題は、すぐその後に続けて『ココニー沙門アリ 虚空蔵求聞持法ヲ呈示ス』とあることだ」

 「いよいよ出てきましたね」

 半身を乗り出すようにして、田丸五郎は嬉しそうな声を出した。

 「その虚空蔵求聞持法というやつの正体は、いったい何です。そろそろ教えてくれたって

良いでしょう…?」

 「ガッカリするだろうがね」

 清麿は、ニヤニヤと笑いながら言った。

 「現代風に訳せば、虚空蔵式記憶力増進法とでも言うかな。密教のなかでもごく初歩的な、

ダラニというまじないのようなものだよ」

 「なあんだ、おまじないですかぇ」

 「これまでの説では、空海は大学に入った直後、ひとりの僧から虚空蔵求聞持法という

ものを授かり、それが動機となって学問所を去り、山奥に入って密教の修業をしたのでは

ないかということになっているのだが…、たしかにそれを裏づけるように、仮名乞児は

『阿国大滝山ニノボリヨジ 土州室戸崎二勧念ス』とも言っているのだ。しかし、これは

おかしいと思わないかね?」

 清麿の眼が、突如として炯々たる光を帯びた。

 「どうして? 四国の人間だから、阿波や室戸崎に行ったのはごく自然じやありませんか・・・」

 「では聞くが、空海ほどの人物が、名もない行きずりの坊主から、虚空蔵求聞持法などという

まじないを授かって有り難がったり、そのために突然人生の進路を変えてしまったりすることが

あるだろうか?」

 「ふうむ」

 「四国の山奥で修業するのは良いが、当時、官学を中途で投げ出すなどゝいうことは、

朝廷に対する侮辱も甚だしい。何しろ国家が威信をかけて、官吏を養成する機関なのだからね。

下手をすれば追手を向けられかねないほどの重大事だ。一族の手前、おめおめと生れ故郷に

帰れる筈もない。同じ四国でも、讃岐ではなく阿波や土佐の山奥に行ったのは、むしろ暫らく

身をかくしていたのだと考えたほうが、はるかに妥当ではないか」

 「それはまぁ、そうとも言えるでしょうが・・・」

 「もっと決定的なことは、十八才から二十四才までの間に空海が身につけた知識は、とても

四国の山の中にこもっていて出来る勉強ではないのだ。たとえば、三教指帰は四六弁麗体といって、

一字一句が六朝風の絢爛たる文章で中国の古典を踏まえて書かれているから、よほどの教養が

ないと歯がたゝないくらい難解なものだ」

 「そんなガリ勉は、立山に行ったって無理でしょうな」

 「まぁ、焦るなよ。空海は、虚空蔵求聞持法を授かると一時身をかくし、再び都に戻って、

実は東大寺あたりにかくまわれて学問に全塊をかたむけていた、というのが真相では

ないかな。だがもっと重要なことは、それを授けたという一沙門なのだが・・・」

 「そうそう、そんなくだらないまじないのために、空海はどうして一生を変えるほどのショックを

受けにやならなかったんですかね?」

「・・・・・・恋だ」 

 清麿は、悠然として言った。

 「あのね、清麿せんせい。そいつはどこから仕入れてきたお伽話で・・・?」

 「さゆり君・・・」

 「はい」

  突然声がかゝったので、びっくりして顔を上げると、そこに切りつけるような清麿の問いがとんだ。

 「沙門という言葉の意味は・・・!」

 「お、お坊さんのことです」

 「というと、頭から男だと決めてしまいがちだが・・・」

 清麿は、すぐに顔色を和らげて言った。

 「これが大きな盲点なのだよ。沙門とは、男でも女でもない、もとは梵語で善をすヽめる人と

いった程度の意味だ。空海は、自分の師ともいうべき人物に、何故、漠然と沙門という言葉しか

使わなかったか、生涯にこれだけの影響を与えたものの名前も場所も示さず、その後も一度も

登場させようとしなかったのか、いまでも謎とされているのだが、一沙門を女とすれば、

すべてが氷解するのだ」

 「それでは、空海は女のために、大学まで捨てちまったというんですか!」

 「大学を去ったことについては、それほど大袈裟に考える必要もなかろう。もともと空海の

スケールからすれば、大学を出て官吏になるなど問題ではなかった。出身が佐伯の傍流では、

どう頑張ってみたところで従五位まで、うっかり頭角でも現わそうものなら、かえって藤原一門に

にらまれて、生命も危ないといった時代だ。なぁ、そうだろうさゆり君・・・」

 「そのとうりだと思います」

 「佐伯真魚は都にのぼるとまもなく、家持の賦にひかれて立山に行ったのだろう。そこで、

ある女との運命的な出会いがあった…」

 「つまり、恋人ができたんですね」

 「恋、という表現も実は適当ではないが、さゆり君のために、今はそういうことにして

おこう。ふたりにとって、虚空蔵求聞持法はいわば符牒のようなものだったのだろうが、

彼は、そこから恐るべきヒントを掴んだのだ」

 「ヒント・・・?」

 「弥勒菩薩とならんで、自分自身が宇宙の造物主となるためのヒントさ」

 「ちょっとオーバーじやないかなぁ」

 「いや、弘法大師は呪術者ではないかという説は現在でもあるくらいだ。実はそれ以上に

おどろくべき魔術の天才なのだよ」

 田丸五郎は黙ってしまった。違うとも、そうだとも言いきることは出来ないのである。

 「佐伯真魚にとっては、大学など合格してみせればそれで良かった。さっさと大学を

とび出し、暫らく四国に逃れてほとぼりをさますと、ふたたび都に舞い戻って、あとは徹底的に

三教指帰の執筆に心血を注いでいたのではないか。これこそ空海が後世に残した魔術のタネ

だったのだからね。二十四才でそれを完成させると、彼はすぐ立山にこもった」

 「女のところに、ですか?」

 「うむ、そこに予言を現実のものとするべき、血脈があったからさ・・・」

 「子供かい!」

 「事実、それ以後の空海について、歴史は完全に沈黙してしまうのだよ。ただひとつ、

幻の白鷹伝説を除いて・・・」

 「まだ、イメージが合いませんな」

 さゆりが感動して、清麿を見つめているのを横眼でにらみつけると、田丸五郎は、わざと

表情をころして言った。

 「三教指帰などという、四六弁麗体だかの名文を書きこなした文学青年と、神さまが

住んでいそうな三千メートルの山を征服した山男とが、同一人物というのではね」

 「ところがだ、日本書紀の景行紀に、『佐伯部ノ祖ナリ』として次のような記述がある。

『冬ハ穴に宿(ね) 夏ハ巣に棲ム 山ニ登ルコト飛ブトリノゴトク 草ヲ走ルコト逃ゲル

獣ノゴトシ』 つまり讃岐の佐伯氏は、もともと野生的な山岳住民であったわけだ。空海は、

類い稀れな頭脳的天才であったが、
同時に野獣のような自然児としての肉体と素質に

恵まれていたこと
は間違いない。それでなくては、当時僻遠の蛮地だった四国の室戸崎や、

大滝山にだって
登れなかった筈だろう」

 清麿は、さすがに疲労している様子だった。伝説と文献と人間の心理を足場に、これだけの

推理の堰堤を構築するため、昨夜から精根をつくしているのだ。

 レストランの内部には、もう他に客の姿もなかった。ボーイがひとりだけ、遠くに立って

じっとこちらを見つめている。

 「空海について、話さなければならないことは、まだまだこんなものではない。しかし、

今日はこゝまでにしょう」

 ゆるんだ帯をなおしながら清麿は言った。

 「どうだね、ふたりともちょっと俺の部屋を覗いてみないか。いつまでもここに陣どって

いるわけにもいかんだろう」

 田丸五郎は、手を上げてボーイを呼んだ。

 部屋は、五階である。

 エレペーターを出ると、長い廊下を歩いて突きあたりに501号とあった。

 「ここだよ・・・」

 ドアを開けると、田丸五郎はとたんにまた呆れ返ったような声をあげた。

 「和気野先生、あんた、ゆうべはこの部屋にひとりで寝たんですかい!」

 内部は豪華な革張りの三点セットを置いた応接サロンで、ぶあつい絨毯が敷いてある。

奥は三部屋に分かれ、清潔なクリーム色で統一されたダイニングルームと更衣室、

そして窓際の一番大きな部屋には、幌つきのダブルベヅドが据えられていた。このホテル

は最高の、ロイヤルルームであろう。

 サロンのテーブルの上に、小さなスーツケースと黒い色眼鏡がポツンと乗っているだけで、

何ともひろびろとした感じである。

 「だって、この部屋しか空いてなかったんだから仕様がないだろう。そのかわり、眺めは良いぞ」

 ソファに身をしづめて、清麿はとぼけた声をだした。

 「さゆり君、悪いけど俺のトランクの中にインスタントラーメンが入っているのだが、こしらえて

くれないかな…」

 カーテンを開くと、正面に立山の全貌を見上げる位置で、昼間はさぞ雄大な眺めであろう。

だが今は、ただくろぐろとした影がうつっているだけであった。

 月もなく、一点の灯火も見えない。透明な闇が、どこまでもひろがっている。昨夜と違って

不思議なほど静かな夜であった。

 「・・・・・・・・・」 

 田丸五郎は、ぼんやりと外を見ていた。

 もし、清麿の言うことが真実であったとすれば、この立山のどこかにひとりの女がいた

ことになる。

 おそらくは、名もない土着の巫女のような者だったのであろう。都からやってきた天才少年

佐伯真魚とのロマンスは、あまりにも遠い夢物語のように思えた。

 彼に虚空蔵求聞持法を授け、十三年という年月を経て、遂に弘法大師という偉大な実在

として完成させる。そして、自らはその血脈を産みおとした女とは、いったい何だったの

だろう・・・。 

 田九五郎には、それが巨人な精神的空間であったように思われてならない。この闇の奥に、

科学では到達することの出来ない無限の時空世界が、たしかに存在しているのではないだろうか。

だが、肝心の事件はいったいどこに行ってしまったのだろう。チラリとそんな不安が心をかすめた。

弘法大師もいヽが、現実の殺人事件は、今もなおぽもなく進行しつゝあるのではないか…。

 ふりむくと、清麿は眠ってしまったように、ソファにもたれて上向きに眼を閉じている。

弘法大師が犯人とは、いったい何を言おうとしているのだろう。

 和気野清麿は、あるいは、空海という人間そのものに挑戦しているのかもしれない。頭の中に、

これまでとはまったく違った空海像が描かれているらしいことは確かである。

 弘法大師は、果たして虚像なのか・…

 奇妙ないらだちを感じながら、田丸五郎は、また窓の外に視線を戻した。

 ・・・・・・・おや。

 もう一度眼をこらして、闇を見つめた。窓の左下の、ずっと向こうのほうで小さな灯が動いた

のである。

 そのあたりには、室堂平がひろがっている筈であった。見当では、どうやら地獄谷に降りる

段々の近くだ。

 周囲に光というものがないので、今度ははっきりとわかった。

 チラチラと見えかくれして、わずかに揺れながら、灯は移動している。懐中電灯のような

ものを持った人間が、かなりのスピードで歩いているらしいことは察しがついた。

 ……今頃、地獄谷から戻ってくる登山者がいるのだろうか?

 無意識に時計を見ると、九時ちょっとすぎている。

 あの速さでは、夜道にも馴れた地元の人だったかもしれない。灯は坂道を登りきったのか、

やがてプツッと消えたまゝ見えなくなってしまった。

 ひとりだったのか、あるいは複数なのかもさだかではなかった。田丸五郎は、急にいやな

胸さわぎのようなものを感じた。

 「先生、ラーメン出来ましたけど・・・」

 そのとき、背後で屈託のないさゆりの声が聞こえた。

 田丸五郎は、さりげなく、カーテンを引いた。





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