八、 仮 名 乞 児 の 死


 

 結局、ふたりが三階の部屋に戻ってきたのは、夜も十時を過ぎた頃であった。

 さゆりは、不服そうな顔をしていた。自分の部屋がないことが頭にきているらしい。

 「バスにはいれよ」

 「いやよ」

 「じゃ僕は、外の大浴場に行ってくる。その間に入れよ」

 さゆりは黙っていたが、田丸五郎は、さっさとタオルを持って外に出た。

 団体用のかなり広い大浴場が、ニ階にとってある。他に客はなかった。豊富な湯の中に

トップリと身体をひたすと、ようやく解放されたくつろぎがよみがえってきた。

 心の片隅には、さゆりとの夜に、ちょっぴり期待感がないわけではなかった。だが、

明日からの展開を考えると、何としてもタイミングが悪るすぎる。残念ながら、今夜は

どうしょうもあるまい。清麿の501号室には、ソファもダブルペッドもあったが、まあ敬遠

させていただくことにしよう…。

 田丸五郎はタップリと時間をかけて浴室を出ると、戻るにはまだ早すぎるような気がして、

すぐ横の娯楽室に入った。

 ピンポン台がひとつと、隅のほうにゲームマシーンなどが置いてある。

 温泉場のホテルと違って、十時をすぎれば宿泊客も明日にそなえて早々に眠りについて

しまうのであろう。内部はガランとしていた。白いエプロンをした中年の掃除婦が床に

モップをかけ、灰皿にたまった吸殻などを集めている。

 田丸五郎は、椅子に腰をおろしてぼんやりとそれを見ていた。

 ホテルの部屋は、宿泊者の専用スペースである。たとえ一晩でも、カードにサインして

鍵を受け取れば、それは個人の住宅と同じ意味を持つ。支配人といえども、よほど非常の

事態が発生しないかぎり、みだりに立ち入ることは出来ないのである。

 しかし、掃除人だけは例外ではないか・・・。

 一泊の客であれば、部屋が空いた後、次の利用者がチェックインするまでの間に準備を

整えるから問題はないが、滞在客の場合には、たいてい午前中に掃除がはじまる。相互の

信頼による必要行為だから、室内に入ることはもちろん公認である。

 「おばさん、大変だねえ」

 田丸五郎は、気軽に声をかけた。

 「ちょっと聞きたいんだけど、昨日、僕の部屋を掃除してくれたのは、おばさんじゃ

なかった?」

 女は吸殻入れを取り替える手を止めて、こちらを向いた。

 「何階ですか?」

 「三階の、331号だ」

 「さあ、私じゃありませんね。かねさんじゃなかったかしら・・・?」

 それから、少し不安そうな色をうかべて聞き返してきた。

 「何か、あったんですか?」

 「いや、ただきれいにして貰ったんで、もしおばさんだったら、お礼を言っておきたい

と思って・・・」

 「いゝんですよ、そんなこと…」

 朋輩のことでも気を良くしたと見えて、女は笑いながら言った。

 「かねさんは、よくやる人だからね。それに昨日は、彼氏が来ていたようだったから…」

 「ほう、彼氏がいるの?」

 「そうよ。それがね、お客さん・・・」

 女は、妙に濡れた眼で笑った。

 「こヽの人でないとわからないでしょうけど、御本家さまの若旦那・・・」

 「佐伯の…?」

 「知っているんですか? お客さん…」

 警戒して、女は急に笑いを清した。口をすべらせてしまったことを後悔したらしい。

 「駄目よ。私から聞いたなんて、誰にも言わないで下さいね。証拠なんかないんだから・・・」

 そそくさと、吸殻入れのほうに戻ってしまった。それ以上は、何を聞いても話しそうにない。

 だが、これで十分であった。

 かねという女がこのホテルで働いている。そこに、敬至郎がかよっているのだ。本人同志は、

もちろん秘密のつもりなのだろうが、朋輩たちの眼はごまかしようもない。

 電話では家内にお会い下さったそうでなどと言っていながら、本当は敬至郎自身、昨日は

こゝにきていたのではないか。もしかしたら、真理子との話も、どこかの隅からじっと

見ていたかも知れない。あの気弱そうな養子タイプの男が、一番のしたたか者に思えた。

 部屋に入ってきたのは真理子ではなく、おそらく敬至郎であろう。あるいはかねのほう

から誘いこんだのか、こんな山の中で、人知れず情事を楽しむにはまたとない方法であった。

 その後で、かねは室内をととのえ、ペッドの下の靴パットまできちんと揃えて外に出た。

 姑が殺されているというのに、こちらの楽屋覗きと束の間の情事と、一石二鳥の離れわざを

やってのけ、知らん顔をしている敬至郎という男の面の皮をひん剥いてやりたい気持だ。

 湯上がりのほてりも、すっかりさめてしまった。

 331号に戻ると、さゆりはパジャマの上に真っ赤なアノラックを着て、鏡の前に腰かけていた。

 「ネグリジェを着ないの?」

 「そんなもの、持っていません」

 ソファでもあればと思うが、シングルルームなのでそれもなかった。結局、さゆりをなだめて

ベッドから毛布をはがし、互い違いに寝ることで折り合いがついた。

 せまいベッドの端に、アノラックを枕にして横になっている。胸元までのびたさゆりの

脚を抱きかゝえてみたい衝動を、何となくこらえながら、田丸五郎は、今ごろはロイヤル

ルームの幌つきダブルペッドで、のうのうとしている和気野清磨をうらんだ。

 それでも、ようやくうとうととしかけたときであった。もう眠ってしまったと思っていた

さゆりが、つぶやくような小さな声で言った。

 「先生…、いじわるネ」

 ハッと思ったのと、そのまゝズルズルと睡りに引き込まれていったのが同時である。

 夢を見ていた…。

 たしか、真智子の夢であったと思う。

 いつのまにか妊娠していて、真智子は子供を産んだ。それが、仮名乞児である。

 髪がぼうぼうとして、頭だけが馬鹿に大きい。肌が浅黒く、脂ぎって大人だか子供だか

わからないような顔をしていた。これがあの物静かな真智子から生まれた子供なのだろうか・・・。

 仮名乞児は、佐伯浩市郎を殺そうとしている。執念深く、逃げても逃げても追ってきて、

浩市郎をとり食らおうとする。それを真智子がじっと見守っているのだった。

 夢だ、夢だ…、と自分に言い聞かせているとき、耳もとで甲高い声が聞こえた。

 「先生、早く起きて下さい。ねぇ、はやく!」

 「いや、まだ・・・」

 「駄目よ。大変なんです。仮名乞児が…!」

 どん、と叩かれたところが、ちょうど寝返りをうって仰向きになったばかりの腹の上である。

 「なに!」

 田丸五郎はそう言ったきり、半分開きかけた眼を吊り上げてしまった。

 「か、仮名乞児が、どうした・・・?」

 「捨てられているんですって! この下の地獄谷というところで・・・」

 「なんだと?」

 田丸五郎は、横ざまにベッドからすべり落ちると、あわてゝ眼をこすった。

 まだ、夢と現実が混乱している。ニ・三度頭を振ると、いつ起きたのか、さゆりはジーパンに

セーターを着て、もうすっかり身仕度をとゝのえていた。

 「私、早く眼が覚めてしまったので外に出てみたんです。そうしたら人が騒いでいて、

地獄谷の熱湯の池に仮名乞児という名前をつけた子供が、浮かんでいるんですって」

 「くそ・・・!」

 とたんに、何とも言いようのない挫折感が、全身を走りまわった。

 昨日一日中、なすこともなく弘法大師の幻にとりつかれていたことを悔やんだ。が、

あとのまつりである。

 「死体は?」

 「いま、取りに行っています。一人では持てないらしくて…、とっても大きい人形ですって!」

 「何だと、人形…?」

 おうむ返しに言って、田丸五郎は、眼を宙に据えた。それでは、佐伯浩市郎本人が殺された

のではないのか…。

 「冗談も良い加減にしてくれ、人形なら人形と・・・」

 「あら、私そう言わなかったかしら…」

 「びっくりさせるじやないか。やれやれ、大仏さまの御利益もこれでお終いかと思った…」

 しかし内心の緊張は、むしろ増している。浩市郎の身に万一のことがあれば、次にくるものは

依頼者からの無言の制裁であろう。それが現実とならなかったことは良かった。

 だが事の重大さには、少しも変わりないのだ。人形であろうとなかろうと、そこに犯人の

意志と行為があったのである。

 眼はすっかり醒めてしまった。洋服を着る暇もなく、田丸五郎はダイヤルをまわした。

 もう起きていたのか、受話器のむこうにすぐ清麿の声が聞こえた。

 「早いじやないか、もっとゆっくり寝ていれば良いのに…」

 「貧乏性でしてね、そうもしていられなくなってしまったんで・・・」

 目顔で、さゆりを近くに呼びながら言った。

 「いよいよ始まりましたよ。お待ちかね、仮名乞児の惨劇でさぁ」

 清麿は黙っている。さすがに冗談はかえってこなかった。

 「発見されたのが今朝早くですから、昨夜のうちにやられたんでしょう。なんと、釜ゆ

でにされていたと言うんですがね」

 「場所は?」

 「この先の地獄谷です。え?と、発見者は・・・」

 「近くの山荘に泊まっていた学生さんです」

 さゆりが、小声で言った。

 「まぁ、そんなわけでして、仮名乞児ともあろうものがぶざまな姿をさらしたもんでさ」

 「本人が殺されたわけではあるまい…」

 ポツンと、清麿が言った。

 「もし、仮名乞児が出たのだとしたら、そいつは人形か何かではないのか?」

 受話器を持ったまま、田丸五郎は、しばらく返す言葉がなかった。何故それがわかるの

だろう…。

 「その通りです。しかし犯人は、どういうつもりで・・・」

 「まぁ、デモンストレーションの一種だろうよ」

 清麿は笑ったようであった。それからまた、針を刺すような厳しい調子に戻って言った。

 「仮名乞児は、即、佐伯真魚だ。そう簡単にくたばってたまるものか!」

 そのとき田丸五郎の脳裏には、昨夜501号室から見えた懐中電灯のあかりが、チラチラと

明滅していた。






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