九、真 智 子 を 追 う
文字どうり叩き起こされた感じで、手あたり次第に着られるものを身につけて外に出ると、
早朝の山の空気は、耳に痛いほど冷たかった。
ちょうどホテルの若い者が二人で人形を運び上げてきたところで、集まっているのは
ほとんど従業員である。 ゆきずりのお客さまには縁のない話だが、これまでのいきさつから、
彼らには、これが一連の殺人事件に関連していることが理解できるのだった。
人形は、腹話術師が使うようなかなり大型のもので、小学生の服を着ていた。その胸の
名札のところに、マジックでたしかに仮名乞児と書かれている。
熱湯に漬かっていたので、顔の塗料が溶けてドロドロになっていて、人形とは言え、
凄惨な形相をしていた。それを棒のまん中にく、りつけ、両端を担いで運び上げたらしい。
「誰だよ。こんなものを放っぽって行きゃがったのは・・・!」
若者の一人が、腹立たしそうに言った。
「早く、塵芥焼場に持って行って焼いてしまえ!」
旅行者が、こんな酔狂ないたずらをする筈がなかった。朝早く地獄谷まで往復させられた
欝憤もあったが、若者には、それよりも身内のような土地の人間のなかに、こんな悪さを
する奴がいたということが我慢ならないのだろう。
「どこにあったの?」
「無間ですよ」
若者は、まだ棒にくくられたまこになっている人形を、憎々しげに見下ろしながら言った。
「あそこはとくに酸が強いんで、うっかりはまれば、こっちまで地獄行きですからね」
「無間地獄か…」
そこに仮名乞児を投げ込んだ犯人の凄まじい憎悪が、溶けた人形の全身にからみついている…。
「ねぇ、かねちゃん、警察に届けなくても良いのかしら…?」
オヤー、とそちらを見ると、昨夜の掃除のおばさんが、寒そうに肩をすくめている。
声をかけられたほうは、まだ三〇才前の内気そうな娘だった。チリチリの垢抜けないパーマを
かけている。
「わかんないわ」
「さあな、人形じゃあ届けたって仕様があんめぇ。ほっとけほっとけ…」
若者が、こともなげに言った。
名前から中年女を想像していたのだったが、敬至郎が追っかけていたのはあの娘か…。
神経質な文学青年タイプの敬至郎には、およそ似つかわしくない組み合わせである。
もともとあの男には支離滅裂なところがあるのだったが、いくら女に飢えていると言っても、
その上真智子にまで色眼を使いやがって…。
「おい・・・!」
急に歩き出しながら、田丸五郎はさゆりを呼んだ。
「部屋に戻ろう。すぐに出掛けるから、留守をたのむよ」
「どこへですか? 先生、急に・・・」
「まだ、七時前だろう?」
「六時半です」
「よし、十分に間に合う」
田丸五郎はいっそう足を早めた。
・・・・・・今だ!
心の中で、動物的な感覚がそうささやくのである。
昨日から機会をうかがっていたのだったが、それは意外に早く来た。今なら、真智子は
核心を告げるであろう。いや、そうさせなければならない。あの三人のなかで、とにかく
まともな話の出来そうなのは、真智子だけなのである。
二人きりになれる唯一の手段は、浩市郎を学校に送りとどけたあとの車の前に、立ちふさがる
ことであった。この時間だったら、八時までに麓の立山の町に着くことは、十分に出来るのである。
仮名乞児の名前が現われた以上、事件は、次第に中心点に近ずきつつあると見なければなるまい。
だが、警察にはまだ届けられていない、佐伯家にも、電話した者はいない筈であった。
もしこれを知れば、真智子にもどんな思惑が絡まないとも限らないのだ。浩市郎を送ったあと、
真智子が家に戻る前に押えることが、この場合どうしても必要な条件である。
大急ぎで服装をととのえ、鏡に向かっていると、うしろから、さゆりが恨めしそうに言った。
「立山に来てまでお留守番なのね」
「すまん、そのかわり弘法大師の大ロマンでも、たっぷりと語り合っていてくれたまえ」
さゆりは何を思ったのか、自分から電話をまわして、501号室につないだ。
短く肯きながら、何ごとか受け答えしている様子だったが、受話器を置くと、トレンチコートの
襟をなおしている田丸五郎の肩ごしに声をかけた。
「和気野先生から御伝言です」
「何か言ってた?」
「殺されたのは、人形だけじゃないから気をつけろって…」
「そりゃそうさ、餓鬼の田ん圃も称名の滝の婆さんも・・・」
「違うの・・・!」
さゆりは、強い調子になって言った。
「それとは別に、まだ殺されている人がいるんですって!」
「何イ…?」
もう一度、数えなおしてみたが、それだけである。
「誰のことを言ってるんだい。まさか、あの姉妹に何かあったと言うんじゃないだろうな?」
「さあ、それが事件の始まりなんだと仰言っていました」
さゆりも、詳しいところまでは聞かされていないらしい。
電話をかけなおして確かめている時間もないので、田丸五郎は、走るようにして
バスターミナルに向かった。今頃になって、他に殺された人間かいるなどと、和気野清麿は
ときどき訳のわからないことを言い出すから困る。
だが何となく気にかかるので、バスに乗ってから、もう一度これまでの経過を辿ってみた。
佐伯興平が行方不明になったのが四月の半ばで、死体の発見が五月十三日であった。
二十二日には高野山で追善供養が営まれ、その時、真智子は浩市郎を連れて東大寺の真言院に
姿を見せている。
翌日、大石良雄と称する人物から東京の事務所に電話がかゝった。
あとを追うようにして現金書留がとゞき、立山に到着したのは、結局、二十七日の昼である。
その晩、佐伯てうは、あっというまに称名の滝で宙吊りになってしまった。
さらに一日おいて、二十九日の夜から今朝にかけて、明らかに浩市郎を摸したと思われる
仮名乞児の人形が出た。これは最終的な殺人予告とも受け取れるのである。
犯人のまわす事件の車軸は、次第にそのテンポを早めている。いまこそ、“奈良の女”が
何かを語るべきときであろう。
ケーブルカーで美女平から立山の駅におり、学校を聞くとすぐに判った。
時間には、まだ多少の余裕がある。校門の前に立つと、がらにもなく、胸が高鳴っていた。
田丸五郎は、なるべく人眼につかないように、すこし離れた道のかげに身体を寄せた。
うまく真智子が現われてくれれば良いが…。
この場合、一種の賭けであった。浩市郎を送る役目は、敬至郎と交代でやっているという
話で、今日が敬至郎の番にあたっていればそれまでである。
子供たちが、どこからともなくぽつりぽつりと集まってきて、校門をくぐってゆく。
青塗りの乗用車が駅のほうから近ずいてきて、校門のすこし手前で停ったのは、それから
十五分くらいたってからであった。運転席に女の白い顔が見えた。降りたのは、学童服
に黄色い袋を提げた浩市郎である。
他の予供たちよりも、服装や持ち物がきちっと整っている。毎朝のことで習慣になって
いるのか、浩市郎は後ろのドアから降りると、そのまゝ振り返ろうともしないで、まっすぐに
校庭を横切って行った。
それを見送ったあと、女がサイドブレーキを戻そうとして、身体の向きを変えたときで
あった。突然、ボンネットの上に片肘を乗せるような恰好で、トレンチコートに黒眼鏡の
男の顔がのぞいた。
真智子がさっと表情を変えたところを、男は開いている窓の縁に片手の指をかけながら
言った。
「真智子さん!」
田丸五郎は、黒眼鏡をとった。昨夜、清麿のところから何となく借りてきたのである。
「お話があります、しばらく御一緒させてくれませんか?」
「せんだっての方ですね?」
「そうです、御迷惑はかけません。浩市郎君やあなたのことについて、ぜひ・・・」
「私のことでしたら、ご心配いただかなくても結構です」
「いや、ご家族全体のことです。とくに浩市郎君の・・・」
「浩市郎に? 何かあったのですか…」
「今朝、地獄谷で浩市郎君の人形が殺されていました」
「人形…?」
真智子は、冷たく笑った。
「人形でも、殺されるなんて言うのでしょうか。それが、どうして浩市郎だと仰言るの
ですか?」
「胸に、仮名乞児という名札をつけていたんです」
「仮名乞児が、浩市郎ですか・・・?」
ひとり言のように、真智子は言った。それから、すばやくあたりを見まわす。
子供たちが四五人、もの珍しそうに立ち止まって車を見守っている。人眼にたつことを
極端に嫌う様子で、真智子はギヤを入れた。
「待って下さい!」
田丸五郎は、片腕を車の中に突っ込むようにして言った。
「話を開いていただけないと、警察にも連絡しなければなりません。そうすればますます
うるさいことになってきます。それに・・・」
真智子の顔色が変わらないのを見て、とっさに、清麿が言っていたという言葉が口をついて出た。
「この事件では、まだ他に殺された者がいるでしょう。ねぇ、どうなんですか?」
これが、意外なほど効果があったのである。
「どうして、それを・・・」
「いや、それはまぁ一種の勘というか…、とにかく乗せて下さい」
真智子は黙って腕をのばすと、助手席のドアロックをはずした。
「有り難う!」
急発進されないように、田丸五郎は身体を車にすりつけながら、ボンネヅトの前をまわっ
て反対側のドアを開けた。
車はすぐに走り出して、方向を変えずに、そのまま麓の道に向かった。しばらく、二人
とも無言である。真智子の胸の中にも、何かの葛藤が渦巻いているに連いなかった。
田丸五郎は、話をどこから切り出してゆこうかと迷った。
仮名乞児の人形が出たことは、真智子にとってそれはどのショックではなかったようだ。
予期していたことなのか、それとも、実際に浩市郎の身に危害が加えられたわけではない
ので、ピンとこないのであろうか。むしろ、これまでの被害者のほかにまだ殺された者が
いると言ったときのほうが、よほど大きな動揺を与えたようである。
いったいどういう意昧なのか、清麿からもう少し詳しい内容を確かめてくればよかった
と思うが、いまのところ全く見当もつかない。
「奈良に行かれましたね」
やはり、それが一番先に聞いてみたいことであった。
「お父さまの追善供養の日に、たしか法事が終わってからだったと思うのですが・・・」
「はい」
慎重に車を走らせながら、真智子は少し顔色を和らげて答えた。
「あの日は、私どもみんなで高野山に参りました。法事が済みましたのはおひる過ぎだったと
思いますが、浩市郎が呼ばれておりましたので、私、つきそって行ったのです」
「呼ばれて、と言いますと…」
田丸五郎は、最初の石を投げた。
「相手は、東大寺の大関良祐という方ではありませんか?」
「御存知だったのですか?」
真智子は意外そうな声を出した。あの時のことは、全然印象に残っていないらしい。
それが、あなたとの最初の出会いだったのですよ…。心の中でそうつぶやいてみたが、
声にはならなかった。
この車にも、微かにあの家と同じ匂いがこもっている。真智子のとなりにいると、それが
何故か馥郁とした香気のように薫るのである。ふと幻想の世界に引き込まれそうに
なるのを抑えるのに、かなりの理性が要った。
「大関良祐という方は、真言院の住職さんですか?」
「はい、ほかにもいろいろな役をなさっているようですが、よく存じません」
「お話は、どんな…?」
「浩市郎の身に万一のことが起きないようにと、それだけをくれぐれも仰言っていました」
「しかし、浩市郎君はどうして東大寺なんかに…」
真智子は黙っている。それはもう御存知の筈ですわ、と言いたげだった。
田丸五郎は、肯いてみせた。だが、これまでの考えかたは少し修正しなければならない
ようだ。
つまり、浩市郎の保護を訴えたのは真智子ではないかと思っていたのだったが、いまの
話では、真言院にそれを通報した者がまだ別にいるらしいのである。真智子は、むしろ
呼びつけられて、厳重に注意を受けた側であろう。あの時のかぼそい後姿が、痛々しく眼の
うらにうつった。
道は、ゆるい下り坂になり、車は樹齢千年を超えそうな杉の巨木の間に入った。その
一本一本が、ずっしりと大地にめりこんでいるような大きさである。中央に古い石鳥居が現れ、
巨木の杜は、このやしろ全体を護りかためるように覆いかぶさっているのだった。
「凄いなあ」
田丸五郎は思わず嘆声をあげた。
「何というところですか?」
「芦倉寺です」
「こゝが…?」
あのシェルパ村だったのか…、と眼を開けなおすような気持でもう一度窓の外を見た。
杜を抜けると、道の両端にさびれた宿場のような家並みがならんでいる。
「さき程、石の鳥居がありましたでしょう?」
「はあ」
「あれが雄山神社で、本殿は立山の山頂にあります。慈興上人は、あそこにまつられて
いるのですわ」
「神社にですか・・・?」
田丸五郎は、妙な顔になった。
芦倉寺という地名にあるのは、お寺ではなく神社だったのか…、それに慈興上人というと、
坊主が神社にまつられているとはこれいかに…。
その気持を察したのか、真智子ははじめて淡い笑顔を見せた。
「雄山神社は、平安時代の末に出来たと言われていますが、神社の少し上のほうに、もっと
古い姥堂(おんばどう)というのがあって、昔からそのほうが芦倉の信仰の中心とされてきました」
「姥堂と言うと、いったい何がまつられているんですか?」
「さぁ、新川の神というだけで、詳しいことはよくわかりません。女の神様ですわ」
「女の・・・?」
女人禁制の霊山とされてきた立山に、女をまつる祠があったのである。田丸五郎は、
しばらく無言で前方を凝視していた。
佐伯真魚に虚空蔵求聞持法を授け、自らその血脈を宿したという女とは…、実際には
神がかりになった巫女か、女修験者のようなものだったのであろうが、それは芦倉の姥堂に
結びつかないだろうか。
芦倉は平安の昔から、立山登拝の登山道の入口である。真魚少年がもし立山を見たとすれば、
やはりこのあたりからだった筈だ。
慈興上人が佐伯有若の一族によって雄山神社に祀られたものであれば、それよりも古い
新川の神とだけ言う姥さまとは、いったい誰で、いつからここにあったのだろう。
その女こそ、一人の天才を弘法大師として歴史の流れのなかに送り出す、無限の精神的
空間を胎内にはらんでいたという『一沙門』の実体ではないだろうか。
いかん・・・・・・!
俺もいつの間にか、大分いかれてしまったようだな、と田丸五郎はあわてこ気持を立て
直した。とにかく今は、そんなことを考えている場合ではないのだ。
「実は、さっきお話しかけたことの続きですがね」
暴投を覚悟で、田丸五郎は第二の石を投げた。