十、 零 才 の 目 撃 者
「お父様といゝお祖摩様といゝ、今度のような事態になったのは尋常なことではない。
ただの恨みや欲にからんだ殺され方だとは思えないのです。奥に、もっと深い恐ろしい
理由がかくされているに違いありません。あなたは、それを知っている筈だ」
だが、真智子は黙っている。
「浩市郎君のことも気になりますがね、僕はそれ以Lにあなたが、いや真智子さんが
そのことで苦しみ抜いているような気がしてならない。どうか、僕を味方だと信じてくれませんか」
車を運転している真智子の視線が、チラリと横に走った。そのとき、かすかにうなずいた
ように思う。
「一人から一人へ、厳格に伝えられてきたという血脈の話は、佐伯家にとってはもちろん
重大なことなのでしょう。しかし、あなたには何の意味もない、馬鹿らしいことだとは
思いませんか!」
田丸五郎は、助手席から真智子を覗きこむようにして言った。彼女の額にうっすらと
汗のようなものがにじんでいる。
「言ってドさい。この事件は、すべてがこゝから出発しているんだ。まぁ、ほかに
もう一人殺された者があるなどゝいう話は別としてもですよ・・・」
「いいえ、そうなのです」
それまで黙り続けていた真智子が、突然口をひらいた。
「あなたは、怖ろしいかただわ!」
「そんな、僕はただ・・・」
「それが、事件のはじまりなのです…」
一瞬、息をのんだ。真智子は、和気野清麿と同じことを言ったのである。
言葉をかえす間もなく、真智子が急にブレーキを踏んだ。肩が波うっている。
「大丈夫ですか…!」
田丸五郎はあわててその肩を押さえた。うすく、冷たい感じの肩であった。
「交代しましょう、免許証があります」
「すみません」
車の外に出ると、そこは芦倉のはずれだった。
雄山神社の巨杉を前景に、弥陀が原を越えて、こゝから見上げる立山はまだなかば雪を
いただき、神韻渺々として、まさに立山の賦の絶唱を思わせるものがあった。
音のみも、名のみも聞きて、羨(とも)しぶるがね…。
十六才の少年、佐伯真魚も、この立山を仰ぎみたのだろうか。自然に感動する人間の心には、
時代の相違など不必要であろう。立山は、一千年の時を隔てゝ、今もなお活きつづけて
いるのだった。
田丸五郎は、稀有の雄峰にむかって、ひとつふたつと大きく息を吸った。
「車を戻して下さい」
エンジンがかるとすぐに、真智子は言った。
「あまりおそくなってはいけないのです。お話は、帰りながらいたしますから・・・」
「わかりました」
車は、なめらかにもと来た道を走りはじめた。
激しい緊張が去ったのであろう。真智子の軽い貧血は、すぐ回復したようであった。車は
まもなくまた芦倉の家並みに入った。
表はさびれたただずまいだが、現在の立山連峰、剣、猫又、毛勝、黒部の山々は、ほとんど
この芦倉の人々によって維持されていると言っても過言ではない。各地に散在する山小屋の
あるじでもあり、佐伯文蔵、長次郎、宗作、平蔵、源治郎、利雄、覚秀・・・、みな登山史に
残る大シェルパである。
彼らには、山が生命であり、彼ら自身が山なのであった。田丸五郎は、この古くて重い
家々の屋根に、人間と風土との敬虔なまでの結びつきを感じた。
雄山神社の巨杉の間を抜けると、真智子はようやくまたポツリポツリと話をはしめた。
「姉とわたくしが生まれるとき、母が亡くなりましたことは、御存知と思いますけれど
「まだ、お若かったそうですね」
「はい、十七才だったということです。名前は滝子といったのだそうで、私も写真でしか、
母の顔を知らないのです」
「滝子さんというと、あの称名の滝からとったのでしょうか」
「そうだと思います。あの家の近くですから…」
「美人そうな、良い名前だな」
「でも、私のようなものが産まれてしまったばかりに…」
「いやそれは、あなたの責任じやない!」
「いいえ、そのために姉まで犠牲にすることになったのですから」
「真理子さんが、どうかしたのですか?」
「脚を・・・」
真智子は、うつむいたまゝ言った。
脚、と聞いてすぐに思いあたった。やはり生まれつきのものなのだろうか、華麗な真理子
にとって、あの脚は、いわば決定的なハンデなのである。
「産れるとき、何か故障でもあったのでしょうか?」
「難産の原因はそのためだと、父からは聞かされていました」
「それでは、やはり真智子さんの責任ではないようですね」
「私もそう信じていました。でも本当は・・・」
そして、真智子は意外なことを言ったのである。
「あなたがどうしてこのことにお気づきになったのか、私にはわかりません。でも、
怖ろしい方ですのね」
「え、何かです?」
二回も同じことを言われて、田丸五郎は、幾分面映ゆい気持になった。何しろこっちは
ちっとも怖ろしいなどと思っていないのである。
真智子は、じっと横顔を見つめている。あの不思議な光を湛えた視線を、田丸五郎は、
頬に熱いほど感じた。それから、真智子は低いが響きのある声で言った。
「母が、本当は殺されたのだということをですわ」
田丸五郎は危くハンドルを放して、身体ごと真智子のほうに向きなおりそうになった。
「だ、誰にです?」
「父です」
「事件には、ならなかったんですか・・・!」
「お医者様はどうにでもなりましたから、難産だったということにして死亡診断書を
書いてもらえば、誰にもわからなかったのでしょう。私も このことを祖母から聞かされた
ときには、眼の前が真っ暗になったほどです」
真智子は視線をそらして、またもとの沈んだ表情になって言った。
「父の名誉のためにも、誰にもお話出来ないことだったのです。でももう、ニ○年以上
過ぎています。時効だからというわけではありませんけれど、その父も亡くなりました。
そこまでお気づきになっている以上、詳しくお話しておきませんと、かえって良くない
ことになるのではないかと思って…」
「ありがとう、その通りです」
田丸五郎は、ようやく冷静になった。
「ぜひ、聞かせて下さい。真智子さんご自身のためにも・・・」
「母が難産であったことは、確かなのです。弱ってはおりましたけれど、そのために
死ぬようなことはなかったと思います」
「真理子さんの脚は…?」
「生まれた時は、何でもなかったのです。あの頃は確かな病院もなく、かかりつけの産婆さんが
おりましたので、私達は今の生まれたのです。母は若かったのですけれども、気持のとても強い人
だったそうで、産まれたのが双生児だということに、大変な責任を感じていたのです。御存知で
しょうが、昔からのしきたりがあって…」
「わかっています」
「そのことで、有頼公に中しわけ無いと、母はどうしても聞かなかったそうです。少しでも
眼を離すと、自分で、産れた赤ん坊を殺そうとするので…」
「何と言うことを…!」
これはもう、乱心の極み、狂信の果てではないか…。田丸五郎は、わずか十七才の母親に、
そこまでの責任を強いた有頼の亡霊を憎んだ。
佐伯てうから滝子という娘に、邪法の秘呪で祈りこめられた妄執の血は、まさに脈々と
伝わっていたのであろう。
「祖母も父も、随分注意していたらしいのですが・・・」
真智子は、淡々として言った。しかしその赤ん坊こそ、産れだばかりの真智子自身だった
のである…。
「交代で母につきそっていたのでしょうが、ほんのちょっとした隙をみて、母は発作的に
赤ん坊に手をかけようとしました。それをとめようとした父が、とっさに首を締めて
しまったのです。父にしてみれば、もう夢中だったのでしょう。自首しようとするのを
祖母が止めたそうです」
興平の行為を責めることは出来ない、と田丸五郎は思った。滝子は、いつかは必ず実行
したであろう。養子の興平にとっては、血脈のおきてなどより、ふたりの娘が憐れだった
のだ。敬至郎の話にくらべて、これはあまりにもなまなましく、地獄の底を見るような
告白であった。
「それがどんな争いだったのか、姉も私も何ひとつわかっているわけではありません」
感情を抑えることになれた真智子の声も、さすがに途切れがちであった。
「ただ、姉の脚は、このときに傷ついたのだそうです・・・」
狂った一念にとりつかれた滝子の形相と、必死で押えようとする興平。そして真理子の
脚は、そのときに挫かれたものだという事実…。
「その後、父はまるで廃人のように、無気力な人に変わってしまったそうで・・・」
「よくわかります」
その後の佐伯興平が、どんな気持で半生を過ごしたのか、田丸五郎は納得することが出来た。
「そのお話は、お祖母さまから聞かされたのだと仰言いましたね」
「はい」
「いつ頃のことです?」
「十五才のとき、姉の結婚式の前の晩、ふたり呼ばれてはじめて知らされたのです。その時は
激しいショックを受けましたけれど、私が母や姉を犠牲にしたうえ、家のおきてを曲げてまで、
無事に育てられてきたことを思うと、心が決まりました」
その夜、姉の真理子には改めて血脈の使命が告げられ、妹の真智子には、反対に女であることを
棄てるよう宣告されたのであろう。幼い姉妹にとって、それは戦慄的な宿命の分岐点であった。
だが、佐伯てうも死んでしまった。真相を知るものは、今となっては当時零才であった
双生児の姉妹のほかは誰一人いないのである。
まさしく、これが事件のはじまりであろう…。
「車を停めて下さい」
まもなく、学校の近くにさしかゝろうとしている。
「申しわけありません。ここから歩いていただけないでしょうか、人の眼がうるさい
ところですから・・・」
「良いですよ」
そうは言ったものの、まだ未練のようなものが気持のあちこちにわだかまっていた。
「敬至郎さんのことですがね」
サイドブレーキを引きながら、さりげなく聞いた。
「あなたに対して、何か特別な様子でも、お気づきになったことはありませんか?」
「義兄は義兄ですわ。何を考えていようと、私には関係のないことでしょうから…」
本人が聞いたら、とりつくしまもないような言いかたである。田丸五郎は、どこかで、
かさぶたがひとつ剥げおちたような気がした。
「…もう一度、会っていただけますか?」
今度はしばらく間をおいて、小さな答えが返ってきた。
「はい」
田丸五郎は、車を降りた。
そのとき、ふと思いがけないことに気づいたのである。この車にも、道路通行の特別許可証が
ついていたのだ。
胸の奥に、まだあの芳香が余韻を残している。青塗りの乗用車を見送って、田丸五郎は、
ぼんやりとそのことを考えながら歩いた。
車がなくては動けるところではないから、真理子も当然運転免許証は持っているだろう。
あの派手な服装で自由に出没できるのは、そのためである。最初の日に、パンタクールの
後姿を見せたあと、すぐ悪城の壁に戻って巫女になっていたり、次の日、滝見台の事件の
直後にホテルのコーヒーラウンジに現われたりした理由がわかった。これは、見逃せない
ことだったのである。
あの車を使えば、彼らは夜間でもバス専用道路を走りまわることが可能ではないか…。
すこしづゝ考えをまとめながら、ケーブルカーのところまで来たとき、このあたりでは
数少ない赤い公衆電話を見つけた。田丸五郎は、習慣的に足をとめた。
「先生、あのう…」
清麿の501号室につなぐと、どういうわけか、さゆりが出た。
「何んだ、さゆりちゃんか? 僕はこれから警察にちょっと顔を出してから帰る。
いつまでも勝手にうろついているわけにもゆかないだろうから…、そっちには何も
変わったことはなかった?」
「べつにないんですけど、あのう、和気野先生が・・・」
「うん、大先生はどうした・・・?」
「いましがた、ご自宅にお帰りになりました」
「何だって、帰った? この大切なときにか…!」
これには、いささか頭にきた。事件をいったい何だと思っているのだ。
「私もお止めしたんですけど、仮名乞児が出てしまったのならもう用はないって。それ
で、このお部屋には。一週間ぶんの料金が払ってあるから、私に部屋を移って、ゆっくりと
遊んでゆけって仰言るんですけど、先生、ねぇどうしましょう」
「へぇ、結構な話だ。勝手にしろ…!」
田丸五郎は、呆れ返って電話を切った。