二、 ぬ え
田丸五郎は、その足でホテルむろどうを発った。
富山に出て、北陸本線の最終急行‘立山3号’に乗ると、京都には次の日の早朝に着く。
この機会に、奈良を廻って行くつもりだった。思いきって東大寺を訪ねてみようと思う。
それでも高野山には十分その日のうちに着ける筈であった。
シートにもたれると、どっと疲れがでてきた。気がついたときには、早くも京都である。
まだ外は暗かった。終夜営業の構内食堂で早すぎる朝食をとり、そのまゝ奈良行きの
一番電車を侍った。
清麿は昨夜のうちに嵯峨野の自宅に戻っている筈であったが、電話をかけてみる気には
なれなかった。すべては、高野山に着いてからのことだ。
電車が大和路を走りはじめるころになっても、空は、はっきりと明るくならない。わづか
十日前に通った道だが、あの時は平凡に見えた景色が、不思議な重苦しさで窓の外を
流れていた。遠くの山なみもおぼろである。
この風景を、大伴家持も今毛人も、そして佐伯真魚も眺めたのだろうか。一千年たった今、
その人々はいったいどこに行ってしまったのであろう。田丸五郎は、ふと、そのなかに
真智子もいたのではないかと思った。それが何かのはずみで、ひょっこりと現代に生まれて
きてしまったのではないか・・・。未来がわからないのと同じくらいに、人間には過去が
わからないものだ。
近鉄の奈良駅から東大寺まで、歩いてもニ○分たらずである。
あの古めかしい土塀の前に立ったとき、田丸五郎は、十日前の自分がベンチにまだ座り
続けているような気がした。たしかめると、石標の文字はやはり真言院であった。
門を入ると、若い憎が庭に箒目を立てゝいた。名所にはなりそうもない、ごくふつうの
庭である。
「ちょっと、お願いしたいのですが」
朝早いので、若い憎はびっくりしたような顔をあげた。
「大関良祐という方に、お眼にかゝリたいんですがね」
「執事さんですか?」
「はあ・・・」
それがどういう役職であるのか、とにかく、かなり上のものであるらしかった。
「あちらからどうぞ」
指されたほうに行くと、内玄関である。もう一度声をかけると、なかから女の声で応え
があった。
へぇ、東大寺にも女がいるのか・・・。とちょっと奇異な感じだったが、出てきたのは、
白いころもをつけた六〇才に近い恰幅の良い僧侶である。
「どちらさんですか?」
言葉は重々しく、たしかな関西なまりがあった。
「東京の、田丸五郎と申します」
「ほう、そらまた遠くから」
「大関さんですね?」
「はい、私ですが、何か御用?」
内心、はてな、と思った。声と言いなまりと言い、間違いなくあの時の電話の主なので
ある。だが顔色には、微塵もそれらしい様子が見えないのだった。
「たしか、お電話をいただいた筈ですが…」
「電話? 知りまへんな」
「最近のことですよ。本当に、お心当りはないんですか?」
「ありまへん」
「おかしいですね。こちらでは、たしかに大関さんから依頼をいただいたことになって
いるんですが・・・」
「さぁ、何かのお間違いですやろ」
田丸五郎の全身が熱くなった。この野郎、白ばくれるのもいい加減にしろ!
「では、大石良雄という方を御存知ではありませんか」
「赤穂浪士のでっか?」
「結構でしょう、御存知ないんだったらそれでも良い。実はほかのことで、ちょっと
お尋ねしたいと思って伺ったのですがね」
「ふうむ」
眼光だけが妙に鋭い。大関良祐は、大きな鼻を突き出すようにして言った。
「それは、どんなことで・・・?」
「立山の、佐伯興平さんが亡くなった事件について…」
「佐伯興平? どこかで聞いたような名前ですな」
「この二十二日に、高野山で追善供養があったとき、あなたが友人代表になっていた
でしよう?」
「はゝぁ、それはおそらく、名前を貸してくれと言われたからやろ。近頃は、そういう
ことが多くて…」
「では、それも知らないと仰言るんですか?」
「はぁ、申しわけないが…」
「そうですか、では佐伯浩市郎君も知らないでしょうね」
「どちらかの御親戚でっか?」
「いや、法事のあった日に、あなたが真智子さんと一緒にこゝでお会いになった坊や
ですよ」
「何のことです? 田丸はんと言われましたな・・・」
大関良祐は、はじめて語調を変えた。
「知らないお人が、訪ねてくるわけがおまへんやろ。あんた、いったい何しに来な
はったんや」
これは、大変な坊主だ。
年をふり甲羅を経て、鍛えに鍛えられたしたゝかさである。明白な嘘とわかっていながら、
表情ひとつ、微動だにさせないのだった。これでは本人を連れてきて目の前に据えても、
知らないと言いきるだろう。
田丸五郎は、ようやく正攻法であたることの愚かさを悟った。
「わかりました」
こうなれば、こっちも開きなおるまでだ。田丸五郎は、ふてぶてしい笑いを浮かべた。
「そうか・・・。こゝは奈良の大仏さんでしたね。ついうっかりして、おかど違いしていたもんで…」
「ほう、何とでっか?」
「実は、弘法大師で・・・」
「ふむ」
老僧の顔に、鋭いものが宿ったようである。
「それはまた、仰山なおかど違いで…」
「まったく、おかしな話でさぁ。どうも御迷惑をおかけしました」
「では、お帰りでっか?」
「何しろ、先を急ぎませんと・・・」
そして、つい調子に乗って言ってしまったのである。
「弘法大師が殺人の犯人だなんて、まるで夢みたいな話ですからね。へっへっ…」
「田丸はん・・・」
背中を向けたところに、低いが凄味のある声が剌さった。
「電話では、何を開いたか知らんが、お大師さんの悪口は言わぬほうがえゝ、せめて、
伝説くらいまでにしておきなはれ・・・」
その声に殺気のようなものさえ感じて、田丸五郎は、ぎょっとして足を止めた。何か
言い返えそうと思ったのだが、そのまゝふり向かずに門の外に出た。正直、怖しかったの
である。
荒唐無稽と思えるような、和気野清磨の弘法大師犯人説は、まさに驚くべき効果を発揮
したのだ。
空海は、本当に生きているのか…!
大関良祐の言ったことは、決してただの駆け引きや出鱈目とは思えなかった。とにかく
徹底的に見ざる聞かざる、手を出すと何か起こるかわからないぞという警告である。
それは、最初の電話から一貫した依頼者側の立場だった。
田丸五郎は、弘法大師を人殺しなどと口走ってしまったことを悔やんだ。
これは、清麿の頭脳が到達した、事件の究極であろう。言いかえれば、犯人の死命を
制する切り札である。舞台裏で中心的な役割を果たしてきた人物に見せびらかして、恰好を
つけている場合ではなかった。
こちらがそのことに気づいていることがわかれば、事件は、またどんな新しい展開を
しないとも限らないのではないか…。半分足が地についていないような気持で、田丸五郎は
電車の駅に急いだ。
高野山には、そこから一度大阪の難波に出て、あらためて三時間ほどの道程である。
乗り換えの合間に、立山のさゆりに連絡を入れた。
「昨夜から、変わったことはないかね?」
「ありません。ただ電話が三回ほどかゝってきました」
「誰から・・・?」
「佐伯敬志郎さんです。何だかひどく急いでいるみたいだったけど・・・」
「あゝ、あいつか・・・」
三日前の風の晩に、ぜひもう一度会って話をしたいという電話があったことを思い出した。
とりまぎれて、忘れるともなく忘れていたのだったが、どうやらそのことであろう。
「まあいゝや、二三日したら帰ると言っておいてくれ」
どこか精神分裂症みたいなところがあって、敬至郎の言うことはどうも信用できない。
餓鬼の田ん圃をうろついてみたり、てうの首つりは自殺だと言ったり、何か事件に関係して
いるらしいことはわかるが、この際、構ってはいられないと思った。
「こっちは大丈夫だ、これから高野山に行く。そうしたらまた連絡するから・・・」
「いままで、どこにいたの?」
「奈良にまわって御利益の張本人に会ってきたよ。いやもう、鵺みたいな坊主だ」
あの御利益も、もうこないのではないか・・・。
「先生・・・」
さゆりが、心配そうな声を出した。
「そこに、弘法大師の本を持っていますか?」
「うん、一冊だけ入れてきたよ」
「なるべく早く、三教指帰のところを読んでおいて下さい」
「何だい…?」
「すごく気になることがあるの。私、昨夜は眠れなかったから、ずっと本を読んで
いたんですけど…」
「ふん、あのダブルペヅドに一人じやあ、さぞ眠りにくかったろうよ」
「いやね・・・!」
「まぁい、わかった。仰せのとうりにするよ」
発車のベルが鳴っている。田丸五郎は、小走りに改札口を抜けた。