四、まぼろしの弘法大師



 ケーブルカーが終わると、そこから奥の院に直行するバスが出ている。バスはすぐ満員に

なって走りはしめた。

 さきほどの胸さわぎが、何故か消えない。 ケーブルカーに乗っていたときからそうで

あったが、誰かにじっと見つめられているような気がしてならないのである。

 パスは、高野の町並みを抜けた。よくもまあ、こんな山の中にたくさんの寺を建てた

ものだと思う。正覚院もこのなかのひとつなのであろう。奥の院までは二〇分たらずで、

参道の手前でバスを降りるとあとは徒歩になる。

 京都や鎌倉の寺はよく見てまわったものだが、参道に一歩足を入れると、田丸五郎は、

度肝を抜かれてしまった。こゝは、そのスケールが根本的に違うのである。

 墓碑の数、およそ三十万基という。

 大小さまざまであったが、ひっそりと大樹のかげにたヾずんでいるもの、敷石の脇に

どっしりと腰をおろしているもの、もうひとつの墓のうしろから、そっと顔をのぞかせている

ものなど、それぞれがみな無言で、不遜な侵入者を凝視しているように見える。恐怖は

感じなかったが、生きているものの世界とは別の冷気が、ひんやりとあたりを覆いつくて

いるのだった。

 少し行くと、ある高名な事業家の墓があった。名前は良く知っていたが、本人はまだ

生きている筈だ。

 ……こんな所に、墓を作っていたのか。

 非凡な才能と倦くことのない事業欲で自らの王国を築き、マスコミに一代の覇を唱えた

人物である。華麗な生涯を終わったあとの、彼自身の死に対する恐怖と孤独をまざまざと

見るような気がした。

 「・・・・・・?」

 また妙な胸さわぎを感じて、田丸五郎は、そっと後をふりかえってみた。誰かにずっと

監視されているような、何故か不安な気配を感ずるのである。

 まさか墓石に見つめられているせいでもあるまい。田丸五郎は、そんな気持を振りきる

ようにして、先を
急いだ。

 生前喜劇王と呼ばれた俳優の墓、富豪、政治家など、あれよあれよという程、いわゆる

有名人の墓石が並んでいる。昭和のはじめ頃のもあり、つい最近、新聞でその死を報じ

られたばかりの人のものもあった。だが、こんなのはまだ序の口である。

 旧幕苑に入ると、時間は突如として数百年前に遡り、ピタリと停止してしまうのであった。

 臣秀吉、淀君、春日の局、武田信玄、上杉謙信、そして明智光秀…。古くは鎌倉将軍家の

北条、足利。熊谷直実や敦盛もある。江戸時代に入ると、細川、黒田、鍋島、伊達、島津、

毛利、加賀百万石の前田家まで、ほとんどすべての大名の墓が密集していた。

ひとつひとつが苔むして、観光用につくられたものではないだけに、異常なまでの迫真力を持つ。

 赤穂四十七士の墓もあったが、意外なことには、彼らはまるで人の眼に触れるのを厭うように、

ひっそりとうずくまっていた。

「・・・・・・・・・」

 田丸五郎は、足をとめ、思いがけないほど小さな墓石を見つめていた。東京の泉岳寺にあるのは、

人々にもてはやされて、無理矢理衣装を着せられ、舞台に並んでいる観光用の人形にすぎない

のだろう。これが、彼等の本心だろうな・・・。

 「田丸はん・・・」

 突然、うしろから声をかけられて、ぎょっとして振り返ると、古いセーターに法被を着た

老人が笑っている。

 「ようお見えで…。お大師はんにご参詣でっか?」

 「富蔵さんだね?」

 間違いなく、あの坂道をとぶようにして下っていった老人である。

 「さっきから、あんたが後を尾けてぃたのか・・・?」

 「そんなつもりではおまへん。あんまり考えこんでいなはったんで、声をかけたら悪いやろ

思いましてな」

 「大関良祐だな。東大寺から電話が入ったんだろ?」

 「へぇ? 奈良の先生がどうかしやはりましたか」

 富蔵はとぼけて、先に立ってトコトコと歩きはしめた。その後姿に、老人とはとても思えない

たくましい筋肉が盛り上がっている。

 「これで三度目だな。富蔵さんには、いつもおかしなところで会う」

 「そうでっか?」

 「立山から、いつこっちに来たの?」

 それには答えず、富蔵は全然べつのことを言った。

 「田丸はん、東京にはいつお戻りでっか?」

 「ほう、東京に戻るって、そんなこと誰が決めたんです? それとも奈良の先生とやらの

お指図かい」

 「・・・事件は、もう終りましたんや」

 「はっは、そんな馬鹿な、こっちはこれから始るんだと思ってぃるのに・・・」

 「何故でんね。仮名乞児が出てしもうたら、それで終わりや」

 「あれは人形だ!」

 「同じこってす!」

 「富蔵さん・・・」

 「へえ」

 「どうして、あんな人形を殺すなんて、人騒がせなことをゃったんだね」

 「あれが、仮名乞児やったからやろ」

 「どうして…?」

 「田丸はん、これ以上は立ち入っていただかんほうがえゝ、それが奈良の先生からの

ご伝言や・・・!」

 富蔵は、ピシリと言った。

 三○万基の墓石が無言で見守っている。田丸五郎は、ゆっくりとトレンチコートを脱いだ。

ひんやりとした空気とは裏腹に、全身がじっとりと汗ばんでいる。

 「佐伯興平を殺したのは、姑のおてうはんや…」

 トコトコと歩きながら、驚くべき言葉が何の抑揚もなく、富蔵の口から洩れた。

 「なに? なんだって・・・」

 「二十六年前に、双生児の姉妹を産んだおてうはんの娘が、婿やった興平に殺された

事件のことは、真智子はんから聞いてますやろ」

 「うむ」

 「あの時は、わいが奈良の先生のお力で診断書をまわしてもろて、まぁ無事に済み

ましたんやが、おてうはんの胸のうちはとてもおさまらなかったのやろ。執念深く二十六年も

かゝって、とうとう娘の仇を討ちましたんや」

 「富蔵さんも、あの事件を知っているのか・・・!」

 「わいは、はたちの年からあの家に居りますさかい」

 これまで、さほど気にしなかったが、思えば犯人と被害者の母親が、二十六年間ひとつ

屋根の下で暮らしていたのだ。てうがそれに耐えることが出来たのは、ひたすら真理子が

成長して子供を産み、血脈を伝えてくれるのを待っていたからであろう。あの常識ばなれ

した殺しかたには、つもりにつもった母親の怨念が、立山の万年雪のように篭められてい

たのだろうか…。田丸五郎は、背筋にぞっと冷たいものが走るのを感じた。

 「おてうはんの強っての頼みで、わいと敬至郎が、興平の死体をもっこで餓鬼の田ん圃まで

運んだんやが、おてうはんも一緒についてきて死体を足蹴にしたもんや。田丸はん、

恐ろしいのは娘を殺された母親の恨みでっせ」

 「その御隠居が殺されたわけは?」

 「自殺や・・・」

 富蔵は、敬至郎と同じことを言ったのである。

 「あんたがあの家に来なはったことで、おてうはんの心も決まったんやろ。その晩のこと、

おてうはんは滝子の滝が拝めるようにぶらさげてくれと遺言して、首を吊ってしもた。

わいが駆けつけた時には、敬至郎めは腰を抜かしておるし、もう、どうにもならんかったんや」

 富蔵の言うことが真実であれば、敬至郎など手も下せないような鬼気迫る情景であったであろう。

たしかに、てうの行動は狂っていた。しかし、同時に恐るべき必然性を内蔵している。

 「敬至郎めの尻を叩いて、おてうはんを梁からおろし、もう一度首に縄をかけなおして、

二人で滝見台に運んだ。山はおだやかやったし、あのあたりには人家もないから、今度は

灯りをとがめられる心配もなかった。おてうはんが心ゆくまで滝を拝めるように、手首を

くくって、崖の下におろしてやったんや。あれは、せめてもう二三日そっとしておいてやり

たかったんやが…」

 「何故他殺だなどと…」

 「そうすれば、事件は迷宮に入るやろ。おてうはんも興平も、今さら、殺人犯人になら

なんでもすむ」

 「随分勝手な考え方だな」

 「仕様がおまへん。案の定、警察は他殺と断定してくれた。それで良かったんや。田丸はん、

わいと敬至郎を死体遺棄の罪で訴えることは御自由やが、訴えてみたところで、興平もおてうはんも、

つまり犯人はもうおりまへんのや」

 「富蔵さん・・・」

 田丸五郎は、引きずっていたトレンチコートをぐいと肩にかついで、不敵な笑みを浮かべた。

 「それだけでは、どこにも仮名乞児の人形を殺さなければならなかった理由なんて、

みあたらないようだな」

 「あれは茶番や、真相はこうしてお話してしもた。くどいようやが、このことは誰にも

言わんでおいてほしい。あんたはんの仕事も、もう終りましたんや。奈良の先生からも、

くれぐれもよろしゅうとご伝言や・・・」

 立ち止まって、富蔵は法被の内懐から分厚い札束を出して見せた。とたんに、田丸五郎の全身が

カッ
と火を吹くように燃えたのである。

 「冗談じゃねぇ!」

 田丸五郎は、あたりの墓石がびっくりするくらい大きな声を出した。

 「浩市郎の身代わりは人形でもすむが、こっちはそう簡単にはゆきませんぜ」

 「何やて・・・?」

 「随分、もってまわったお話だが、まぁそんなことはどうでも良い。田丸五郎の推理を

お聞かせしよう…」

 くるりと振り向くと、背の高い富蔵を反対ににらみ上げるようにして言った。

 「それならば何故もうひとつ、蛭牙公子の人形も殺しておかなかったんだね?」

 「蛭牙公子? へえっへっへっ。。。」

 富蔵の陰気な笑いが、あたりに吸いこまれるように響いた。

 「富蔵さん、あんた、あの道楽者の養子野郎と組んだね?」

 「わいが、敬至郎とグルやて・・・? 何故でんね」

 「二十六年前の事件に、あんたが一枚噛んでいたとなれば話は別だ。あんたは、隠居が

いつかは興平に復讐するだろうということも、知っていた筈だな」

 「まぁそれとなく、察してはおりましたがな…」

 「それどころか、老人の恨みを煽りたて、実行に踏みきらせたのはむしろあんただ。いや、

幕のうしろにもっと大物がいたな、大関良祐だ!」

 「証拠がおますんかいな」

 「興平が行方不明になってから、あんたが何回も立山を抜け出している事実は、駅員の

証言でわかっているが、どこにどういう用件があったんだね?」

 「さぁ、それは…」

 「大の男の興平を監禁するなんて、とても老人の力で出来るわざではない。いくら娘の

仇をとりたいと思っていたとしても、年寄り一人ではどうすることも出来まい。てうに

復讐の意志があったのは事実だろうが、それを利用して直接手を下した犯人は、富蔵さん、

あんたと敬至郎だ。指示はおそらく大関良祐から出ていた。興平殺しの対策を協議し、

指示を仰ぐために、あんたは度々奈良に出掛ける必要があったんだろう。良祐にしても、

佐伯家の正統の血脈である滝子を殺害した興平を、そのまゝにしておくわけにはゆかない。

遂に殺して良しということになった・・・」

 道は、やがて苔むした墓石の林を抜け、大師廟にむかう参道に入った。いくつかの伽藍が

ならび、僧たちの姿も見えたが、低い声で話しながら行く二人の様子を怪しむ者はなかった。

 「だが事件は必ず表面化する。今度は病死というわけにはゆかないからね。そこで、奈良の

先生が考え出した妙案は、本当に狙われているのは浩市郎君だということにして、ついでに

手におえなくなった隠居も殺してしまえと…。そうすれば、いかにも佐伯家の断絶を企む

外部の者の仕業と見える筈だ」

 「何で、わいがそんなもんの手助けをせなあきまへんのや」

 「欲さ・・・」

  田丸五郎は、細い眼で正面の一段高いところにある建物を見つめながら言った。あれが

大師廟なのだろうか…。

 「興平とてうを殺してしまえば、残るのは女と子供だけだ。法律的にも敬至郎が新しい

当主となるわけだから、財産は思いのまゝだろうよ」

 「そううまく計算どうりになれば、あの養子野郎にとっては好都合でんな」

 「そうさ、そのためにわざわざ東京から頭の悪そうな私立探偵を呼んで、さぁこれでもかと

仮名乞児の人形まで殺して見せた。違うかい?」

 「ふえっへっへっへっ」

 「浩市郎君は、はじめから狙われているわけでも何でもなかった。捜査の眼をそらせる

ためのおとりにすぎない。案の定、警察は犯人外部説をとった。ところが意外にも、道化役の

へぼ探偵が、佐伯家の内部に眼を向けはじめたのを知って、あわてたのは奈良の先生だ。

せっかく、警察が見当違いをしてくれているのに、今度は何とかして、こいつに手を

引かせなければならない羽目になったわけだ」

 富蔵は、黙ってしまった。

 眼を内側に向けさせたものこそ、清麿の弘法大師犯人説だったのである。だが清麿の存在には、

さすがに富蔵もまだ気がついていない。

 いつのまにか、二人は正面の建物の庇を仰ぎ見るような位置に来ていた。

 「これが、燈篭堂や」

 富蔵がポツンと言った。覗くと、内部には無数の燈明がゆらめいている。昔ながらの

菜種油が使われているからであろう、その不思議な明るさには、無言の墓石よりよほど鬼気迫る

ものを感ずる。

 廟はさらにその奥にあるらしく、富蔵はまた黙って先に立った。あたりは欝蒼とした杉木立の

なかで、山裾がもう眼の前に迫っている。

 燈篭堂のちょうど真後ろにあたるところに、ずっしりとした門があり、それから少しはなれて、

山ふところに包まれた森の中に、灰色の屋根が見えた。

 「お大師はんや・・・」

 立ちどまって、富蔵が言った。

 「・・・・・・・・・

 田丸五郎は、いままで考えていたことが、一瞬のうちに崩壊して、混沌とした霧の向こうに

吸いこまれてしまうのを感じた。

 これが、大師廟なのか・・・!           建物

 そこには、まさしく立山の佐伯本家とまったく同じ建物が、モノトーンのフィルムを重ね

合わせたように、厳然と存在していたのである。しばらくの間、田丸五郎は言葉を失ったまゝ

その場所に立ちつくしていた。

 「田丸はん、弘法大師に会いに来なはったのと違うか?」

 思わず二三歩門に近づこうとすると、富蔵が、さっと身体を寄せた。

 「おっと、この門は係のお役のほかは通れまへんのや。まぁ、こっちぃ来なはれ」

 ちょうど、燈篭堂の裏をぐるりとまわったかたちで、反対側に出た。

 眼立たない入り目があって、富蔵について中に入ると、あの匂いがいっそう濃くなる。

立山の佐伯家にあった、あの芳香である。

 「何を焚いているの?」

 「護摩や。…乳木と言うて、芥子、丸香、散香、塗香、薬種、香の栗などいろいろと

種類があります」

 富蔵は答えながら、すぐ横にある石の階段を降りた。参拝客では気づかない細い階段である。

 そこは燈篭堂の地下になっていて、同じように燈篭の灯が並んでいた。その数は、おそらく

千を超えよう。ひとつひとつは蝋燭ほどの大きさだが、見渡す限り天井と言わず棚と

言わず、ぎっしりとならんで揺らめいている。死者の未練や執着が、この灯ひとつに篭め

られて燃えつづけているのかと思うと、肌がそゝり立つように怖い。田丸五郎は、なるべく

灯の色を見ないようにして歩いた。

 何回か道を曲がって、やがてひょっこりと奇妙な場所に出た。

 岩をそのままくり抜いたような、かなり長い自然のトンネルがあって、その前に鉄の鎖が

張られている。経机に似た重々しい台が据えられ、台の上に、三〇キロ以上はありそうな、

奇怪なかたちをした仏具がズシンと置かれていた。その向こうに、直経七八メートル

程の大きな数珠が横たえてある。

 「そのお数珠を撫でてから、こちらの三本独鈷の上に手を置いて、岩穴の奥を覗いてみなはれ」

 富蔵が、仏具を指さしながら言った。

 薄気味が悪いので、田丸五郎はそのまゝ何もしないで、そっと奥を覗きこんで見た。

 ボンヤリと明りがさしているようにも思える。だが、それだけでは何も見えなかったことは

確かである。

 このまゝ引き下がるわけにもゆかず、田丸五郎は内心びくつきながら、富蔵に言われた

とうり数珠を撫で、もう一度岩穴の奥に眼をこらした。

 「見えますやろ?」

 突き当たりは磨かれた平らな一枚岩で、そこにほのかな薄明りがさしこんでいる。

 どういう錯覚なのだろうか…。距離感のまったくつかめない一枚岩の表面に、不可解な

人間の像のようなものが、もうろうとだが見えるのである。輪郭もさだかではない。宙に

浮いているようにも見えるし、正面を向いて、岩のなかからじいっとこちらを見つめて

いるようにも思える。

 ……まさか、電気仕掛?

 だがこゝは高野山である。祭りの見せ物まがいの、そんなインチキがあって良い場所では

なかった。

 「見えましたやろ。ふぇっへっへっ」

 うしろで、また富蔵の声が聞こえた。

 「よろしいか。田丸はん、よろしいか? 大師は生きてこの世におわしますんや・・・」

 田丸五郎は、一瞬息を止めた。思い切って振り返ると、富蔵の姿は忽然として消えていた。

 はっとした瞬間、田丸五郎は、事件の全貌をおぼろげながら悟ることが出来たのである。

 そうか、これがからくりだったのか…!

 それは自分自身の推理とも、まして富蔵や敬至郎の告白とも違う、第三の解答…。身の毛も

よだつ骨肉相克の、地獄曼荼羅なのであった。




つづく もどる