五、 嵯 峨 野 に て




 「ではまるで、こちらの手の内を教えに行ってきたようなものだな」

 清麿は、苦々しげに言った。

 その前に肩をいからせ、あぐらの間から首だけ持ち上げるようにして、田丸五郎が眼を

血走らせている。

 嵯峨野にある、和気野清麿の家であった。

 窓の外で、若やいだ緑の竹の枝が時々さやさやと鳴る。古い家を買って、そのまゝ洋風の

家具を持ちこんだので何ともアンバランスなのだが、それなりに奇妙な雰囲気が醸しだされ

ていた。

 八畳のタタミの上に絨毯を敷き、庭の障子にむかって、まるでベルサイユ宮殿にでも

ありそうな王朝風の机と椅子がある。すぐ横の床の間はギッシリと書物で埋められ、

清麿は、着流しのまゝ椅子に腰をおろして、例によってピカソのパイプをくわえ、片肘を

机にもたれて痩せた身体を支えているのだった。

 椅子がひとつしかないので、田丸五郎はじゅうたんに座蒲団で、ズボンの折り目を気に

しながらあぐらをかいている。その横に、これはまた純和風の黒いうるし塗りの座卓があった。

 「いゝかコロタ丸。今度の事件は、空海との知恵くらべだ。大関良祐だって、やはり

ただ者ではない。あいつらは、みな千数百年の甲羅を経た伝統のなかに住んでいるの

だからな…」

 「わかっていまさあ。だからこそ、こうやって嵯峨野くんだりまで、わざわざ廻り道を

してきたんで・・・」

 「立山は、どうなっている?」

 「さゆりが一人で淋しがっています。幌つきのダブルベッドが可哀想でさ」

 「うむ」

 清麿はパイプを離してしばらく考えていたが、やがて、陰欝な調子で言った。

 「あるいは、間に合わないほうが良いのかも知れん・・・」

 「間に合わないって、何がです・・・?」

 田丸五郎は、思わず中腰になった。

 「それじゃ、また新しい事件が起るとでも・・・」

 「いや、この事件全体が、空海には、すでに計算されつくされているのではないかと思うと

恐ろしいのだ」

 「馬鹿言っちゃいけないよ。計算済みですって? 第一、千年も昔の人間が・・・」

 「空海が今も生きていることは、見てきたばかりだろうが・・・?」

 「あんなもの、気のせいでしょうよ。でなければ催眠術か何かで・・・」

 「空海の魔術は、そんなに甘いものじゃない。虚空蔵求聞持法が、そうやすやすと

破られるだろうか・・・」

 「あんなまじないに、まだ効き目が残っているんですかね」

 「現に、わずか二十六年前に起こった殺人事件も、闇から闇に葬り去られようとして

いるではないか。今のうちに、血脈を断ち切っておかなければ…」

 「断ち切るって…?」

 「立山に血脈がある限り、空海は生きているんだ。事件は、今後も際限なく起こるだろうよ」

 田丸五郎は、顔色を変えた。

 「まさか、佐伯浩市郎を殺してしまえと言っているんではないでしょうね」

 眼を一点に据えたまゝ、清麿は、ありありと苦悩の色を浮かべた。何かをさぐりあてようと

している。身動きすれば切れてしまいそうな緊張が、二人の間に張りつめていた。

 コトリ、と清麿はパイプを机の上に置いた。

 「空海は、実は空海ではない。不空三蔵というものの化身なのだよ」

 「何です、聞いたことのない名前ですな」

 「中国の玄宗皇帝につかえた妖憎で、希代の魔法使いだ」

 「中国人? そんなものなんで今頃…」

 「まあ聞け。父はインドのバラモンで、母はサマルカンド人の混血だと言われているが、

とにかく西域の人だ」

 「関係ないでしょう。空海が讃岐の佐伯氏の出だっていうことはもう何回も…」

 「いや、それは日本の歴史から見た場合だ。もうひとつスケールをひろげてみると、

まだその先がある」

 田丸五郎は、呆気にとられた。

 弘法大師が不空三蔵の化身だということさえ夢物語なのに、突然、中国を飛びこえて、

西域のはるか彼方に行ってしまったのである。

 「空海がシャーマンではないかという説があることは前にも言ったが、仏法上、像法と

呼ばれるこの時代には、たしかにこうした不可解な人物が実在していたようだ。空海もそうだが、

不空の魔術にいたっては、まさに驚嘆するほかはない。科学では解明することのできない

人間の生命に関する奇跡を、いとも平然とやってのけている」

 「空海がそんなもんの生まれ代わりだなんて、どうしてわかるんですか!」

 「入定説とともに、宗教的な事実として知られたことだ。年表でも、不空が死んだ日の

まさにその日に、空海は生まれるわけだが、そのほかにも、不空の化身だと考えなければ

つじつまの合わないことが、いくらでもある」

 高野山への電車の中で、弘法大師の本をもう少し詳しく読んでいれば、このことも書いて

あったのかも知れない。だが田丸五郎にとって、それはやはり荒唐無稽なお伽話に過ぎない

のだった。

 「まあいゝや、この際ですから、話は最後までお聞きしましょう。結局、どういうことに

なっているんで・・・」

 「たとえば、謎の十三年間に、何故、三教指帰だけが残っているのか…」

 「なるほど・・・」

 「空海の仏教的な素養が劣っていたことは、三教指帰であれだけの文章を書いていながら、

儒教と道教と仏教の比較といった程度の、当時としてもごく初歩的なテーマしか使えなかった

ことでもわかる。同じ船で行った最澄とくらべたら、問題にならない…」

 「最澄というと、伝教大師ですね?」

 「そうだ。長安に着いてからも、空海が仏教を学んだらしい形跡は、どこにもないのだ。

ひとつだけわかっているのは、恵果という不空の高弟から密教のすべてを授けられたと

いうことだけなのだが、奇怪なことには、恵果はその直後、まるで枯木のようになって

死んでしまう・・・」

 「おかしいじやないですか、恵果という人は、どうして外国人の空海なんかに、そんな

大切な教えを伝授する気持になったんですかね?」

 「空海が、不空三蔵の化身だという証拠があったからさ」

 「証拠というと、何です?」

 「虚空蔵求聞持法だよ・・・」

  「・・・・・・・・・」 

 清麿は立ち上がって、障子を開けた。わずかに揺れている竹の葉ずえに、いつのまにか

こまかい雨が降っている。

 「うわべは、つまらない呪文のようなものだが、これこそ、妖僧不空が自らの化身と

定めた者に対する、血脈相承の暗号であったに違いない。こう考えるとはじめて、『ココニ

一沙門アリ 虚空蔵求聞持法ヲ呈示ス』という、あの謎の一節と、その後の空海が歩いた

道がいきいきと見えてくるのだ。一沙門こそ、不空から空海に、そして佐伯浩市郎へと

血脈を伝えるべき使命を持った女だった。あるいは、直接不空その人の血をわけた娘…」

 それでこそ、三教指帰は空海一代の予言書となる意味を持ったのであろう。

 「当時の交通事情がそうだったように、女は、高麗あたりから海を越えてきたと考えて

良い。着いたところは日本海の・・・」

 「出雲から富山湾にかけてだ・・・。立山のすぐ近くですね」

 「そう、不空と空海の生と死が、時間的に一致しているとすれば、女は、ちょうど三〇才

くらいになっていた筈だ」

 田丸五郎の頭の中に、ぼんやりと芦倉の姥堂が浮かんでいる。

 三〇才の女と十六才の少年との出会いは、決してただのロマンチックな恋物語ではなかった

のである。そして虚空蔵求聞持法こそ、佐伯真魚をして、みずからが不空三蔵の化身である

ことを自覚せしめた秘呪であった。

 「玄宗皇帝という人は、もともと道教の信奉者であったから、中国に於ける密教は、

恵果の死をもって事実上終りを告げる。その後空海によって日本に伝えられ大成されるわけ

だが、これこそ不空三蔵が演じてみせた大魔術のトリックではないか。中国での密教流布に

見切りをつけた不空は、血脈を一沙門に、法を恵果に託しておいて、彼自身の生命を日本に

移した。空海は、その生命を受けて誕生し、法と血脈を再び統合したにすぎない…」

 「もう少し具体的な事実はありませんかね。どうも、われわれ現代人というやつは、

生命なんてものは死ねば終りだと思っているんで…」

 「仮名乞児が、日本ではほとんど問題にされなかった道教を、何故こんなにこっぴどく

批判したのか、空海には生まれながらにして、不空の生命が内在していたと考えるほかは

あるまい。しかも、この神秘的な生命の魔術は、不空が元祖だというわけではないのだ。

さかのぼればさらに遠く、古代インドのバラモンの呪法にまで達するのではないか…」

 「仏教ではないんですか?」

 「かたちは如何にもそれらしく装ってはいるか、実は似ても似つかない魔性の世界だ」

 「では、では、高野山は?」

 清麿は無言だった。それでは昼間見てきたばかりの、あのまがまがしいまでの宗数的な

威圧感は、いったい何だったのだろう。清麿の言葉を借りれば、バラモンの呪法に発した

という奇怪な生命が、ある時は不空三蔵となり、ある時は弘法大師、ある時は幻の白鷹伝説と

なって、立山の佐伯家に脈々として伝わっているという。まさに時間と空間を超越した、

戦慄的なトリックなのであった。

 そのとき、田丸五郎は、これまで一度も考えたことのなかった不思議な呪文のようなものが

あったことを思い出したのである。

 「あのね、ちょっと見せて下さいよ! その虚空蔵求聞持法というやつを知っているんでしょう?」

 「机の上にある…」

 背を向けたまゝ清麿が言った。立ち上がって見ると、琥珀色の清麿の机の上に、奇妙な形をした

ピカソのパイプと、一枚の紙片が乗っている。

『南牟阿迦捨掲婆耶云阿利迦麻痢慕痢沙縛珂』

 「これだよ、これ…!」

 田丸五郎は、紙片を指さしながら叫んだ。

 意味はたゞの一個所もわからなかったが、それはまさしく、あの家の玄関にあった板木の上の

文字だったのである。

 「いつかは、きっと出てくると思っていた」

 その話に、それほど驚いた様子もなく、清麿は、痩身を肘で支えながら言った。

 「犯人は、たしかに現実の人間として存在するのだろうが、この事件は、佐伯家に伝わる

魔性がふくれ土がって、噴き出した結果なのだ。根本が解明されない限り、真相をつかむ

ことは絶対に出来ないだろうよ・・・」

 「その通りだとは思いますがね」

 ここにきて、田丸五郎にもようやく清麿の言うことが納得出来た。それは彼自身が高野山で

得た推理のネガとも、おぼろげながら一致している。

 「だったら、血脈が真理子と真智子の姉妹によって割れてしまった以上は、虚空蔵求聞持法も

破れたのでは・・・?」

 清麿は、何とも言いようのない不安そうな表情を見せた。これまでに、一度もなかったことだ。

 「はたしてそうだろうか。空海ほどの者が、それくらいのことを計算していなかったの

だろうか…?」

 同じようなことは前にも言った。清麿が何を怖れているのか、この部分だけは、全く見当が

つかない。

 「計算と言ったって、空海がいくら天才でも、千年も後のことまで…」

 「いや、それがわからないのだ。一千年前に、空海がどんな手を打っていたのか・・・」

 「弘法大師が? そうかなぁ・・・」

 清麿が、何故こんなことで苦しんでいるのか、馬鹿々々しいようにも思えた。

 立山にも降っているのか、竹の葉に鳴る雨の音が、ひとしきり繁くなった。そのとき急に、

田丸五郎は忘れていたもう一人の名前を思い出したのである。

 「そう言えば、蛭牙公子はやっぱり殺されることになるんですかね?」    ゛

 「興平も敬至郎も、魔性の生命にのみ込まれた哀れな犠牲者だ。彼らもやはり眷族というより

ほかはないだろうな」

 清麿はどちらとも言わなかったが、急に、胸が高鳴ってきた。田丸五郎は、あわてゝ手帳を

ひらきながら言った。

 「そうだ、そっちのほうが先だ! とにかく大至急電話をかして下さい・・・」

 机の反対側から電話を引き寄せると、すぐ立山の市外局番をまわした。

 「モシモシ、アッ先生」

 最初の信号音が消えないうちに受話器が上って、向こうからさゆりの声が聞こえた。

 「変わったことはないか?」

 「ありません。でも、すごい雨なの」

 ホッと息を抜くと、田丸五郎はようやくもとの明るい調子に戻ることができた。

 「いま京都だがね、こっちも降っているよ」

 「あら、では和気野先生と…?」

 「うん、弘法大師にも会ってきたが、やっぱり生きていたよ。おどろおどろと・・・」

 「いや! そんな気持の悪いこと言わないで、とっても怖いの・・・」

 「はゝゝ、とにかく詳しいことは立山に戻ってから話すが、今夜は十分に注意していて

ほしい。何が起きるかわからないからね」

 「本当ですか?」

 「こういう夜は、立山の妖怪が騒ぎだして、一人寝の女の部屋に忍びこんでくるんじゃ

ないかなア」

 「いじわる…!」

 さゆりは、泣き出しそうな声を出した。

 「先生、いつ戻ってくるんですか?」

 「これから夜行で発つ。明日の昼ころには着けるよ」

 「早く帰ってきて…!」

 「よしよし、わかった。あ、それからちょっと…」

 「何ですか?」

 「その後、敬至郎からは何も言ってこなかったかい?」

 「えゝ、あれきり電話は一度もかかってきません」

 また、かすかな胸騒ぎがおこった。

 「やっぱり、何かあったんですか…?」

 「いや、むこうから連絡がないんだったら、それで良いが…」

 「あのう…」

 今度はさゆりのほうから、何か言いたげであった。

 「何だい?」

 「ちょっと、和気野先生に・・・」

 「あゝ、いいよ」

 受話器を渡すと、清麿はときどき肯きながら聞いていたが、やがて、思いのほか楽しそうな

声で笑った。

 「ハゝゝ、そうか、そうだったな。一沙門は女たった・・・」

 清原は受話器を置いた。

 いったい何のこったい…。

 手早く帰り仕度をしながら、気がつくと清磨はパイプを握りしめて、じっと竹の葉を打つ

雨足を見つめている。その顔がひどく青ざめているように思えて、田丸五郎は、おや…、と

ボストンバックを持とうとしていた手を止めた。





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