六、自 首
早朝、富山で乗り換えた電車が、立山に近づくにつれて、眼の裏に真智子の面影が浮かんでは
消えた。
この事件で、真智子の立場は極めて微妙なのである。
高野山の追善供養という例外を除いて、真智子は浩市郎を送り迎えするほか、あの家から
外に出ていない。事件が内部で進行している以上、そのすべてを目撃するか、すくなくとも
熟知している筈であった。警察でも参考人としての事情聴取はしたのだろうが、全体の流れ
から見ると、まるで透明な水のように沈黙をつづけている。
意識的にそうやっているのか、あるいは、生まれながらにして血脈の異端者という、
息づまるような抑圧の世界に身を置いてきた過去が、真智子の性格を、これだけの事件にも
微動だにしない強さに圧縮してしまったのだろうか。
真智子が僅かに人間的な感情を見せたのは、ふたりで芦倉への道を走ったときだけであった。
女として生きるために、すべてを振り切ってあの異常な環境から抜け出すことの出来る力を、
真智子は求めているのではないだろうか…。
偶然に奈良で会ったときにも、不思議に吸いこまれるような衝動があったのである。
田丸五郎は、自分と真智子との間に、何か運命的な力が働いているのだと思いたかった。
電車は、雨あがりの富山平野を、少しづつ勾配を上げながら立山に向かっている。
さゆりが言うとうり、かなりの雨量があったのだろう。車窓の横を流れる常願寺川の水かさが
増していた。これが称名川の下流である。
「・・・・・・・・・」
今日一日ですべてが終る…。
そう思うと、田丸五郎は全身が次第にかたくなってくるような緊張をおぼえた。胸の中
には、高野山から嵯峨野にかけて組み上げてきた、一切の推理が畳み込まれている。
これには確信があった。犯人にとって、恐らく決定的な衝撃となるであろう。
空はまだ厚い雲で覆われている。前夜の雨で、立山行きの客の姿はまばらだった。少し
でも緊張をほぐしておきたい。田丸五郎は、窓にむかって口笛を吹いてみた。すると、
その窓にまた能面のような真智子の顔が浮かぶのである。
駅に降りるとすぐ、ホテルに電話を入れた。さゆりが受話器を取るまで、今度は呼出音に
して十二・三回ほどの時間があった。
「いま立山に着いた。これからケーブルカーに乗るよ」
「先生…」
沈んで、含みのあるさゆりの声がかえってきた。
「何かあったのか?」
「敬至郎さんが・・・」
「蛭牙公子か!」
「えゝ、ポケットに名刺をもっていて…」
だが、ショックらしいショックを受けなかったのは不思議なくらいだった。
「発見されたのは、いつだ?」
「今朝です」
「すると、実際には昨晩の、あの雨の中でか…?」
妖怪は、まさにあの雨をついて跳梁したのだ。
「場所は?」
「血の池です」
「どんな工合だ…」
「うしろから、頭をハンマーみたいなもので・・・」
極度に気を張りつめているのであろう。さゆりは、その都度息を引くようにして答えた。
要するに、敬至郎は後頭部を鈍器様のもので砕かれ、死体が血の池に捨てられていた…。
それがまるで二回目の映画を見るように浮かぶのである。
「ほかに…?」
さゆりはまたしばらく時間をおいた。受話器を持ちかえる微かな音が聞こえた。
「犯人が、自首しました」
「何だと…! いったい誰のことだ」
「倉田富蔵という使用人です」
「あいつが!」
敬至郎の死を聞いたときより、はるかに大きなシヨツクだった。
そのとたんに、かくされていた人形のひとつから、ハラリとヴェールが落ちたのである。
現われてきたのは、富蔵ではなく、大関良祐という奇怪な老僧の姿だった。
……真言院だ。間違いなくあの怪物のリモートコントロールなんだ!
富蔵の動きが、大関良祐の電話で指示されていることは明らかであった。こっちが嵯峨野に
まわっている間に、すぐ引き返せば、富蔵は昨夜のうちに立山に戻ることが出来た筈だ。
あの雨の夜に、富蔵はどうやって死体を血の池に運んだのだろう。
だが、もっと根本的な問題があった。富蔵は、果たして敬至郎を殺ったのだろうか?
……違う!
と、こころの声が叫ぶのである。
「先生」
さゆりは、小さくすゝりあげてから言った。
「敬至郎さんは、やっぱり何かを感じて、あんな電話をかけてきていたんですね」
「うむ」
「私、ものすごく責任があるような気がして…」
「そんなことないさ。責任は僕がとる…」
たしかに敬至郎には、はじめからあいまいなところがあった。血脈から外れているという
安心感や、真智子との感情的なからみもあって、軽視していたことは事実である。こう
なってみると、やはり何とも言いようのない後悔が残った。
「で、富蔵は今どこにいるんだね」
「警察に捕っています」
「逮捕されたのか?」
「えゝ、朝がた死体をこのホテルに運んだので、もう大変だったの。そのとき、自首した
という連絡が入ったんです」
「わかった、それじゃ僕は、先に捜査本部にまわって行くことにしよう。悪いけど、
もう少しの間そこにいてくれるかい」
「はい」
事件が最終段階にきている…。その自覚が、さゆりを強くしているようであった。
すぐ立山署に行くと、富蔵の身柄は本格的な取調べのため、富山市の本署に移されたと
いう。巡査部長の小見山が、ほっとした安堵と興奮がまださめやらぬ複雑な顔をしていた。
「富蔵が自首したんですって?」
「あゝ、えらく図太い男じやった・・・」
犯人が検挙ったにしては、何か割り切れない様子で、小見山は例のグラグラしたテーブルに
田丸五郎を招いた。
「動機は何です?」
「うむ、色と欲だな・・・」
「へぇ、色気のほうもあったんですか?」
「人間、いくつになっても、このふたつはなくならんものさ」
小見山はそう言って、しきりに髭を上下に動かしている。
「あの家に、真智子さんという妹さんがおるのを知っているだろう?」
「はぁ」
「その真智子さんに、富蔵はずっと前の頃から横恋慕しておった。はじめは敬至郎と組んで
興平とおてうさんを殺し、ふたりで財産をのっとろうと企んだようだが、昨夜、敬至郎が
妻のある身でありながら、危く妹さんまで犯そうとしている現場を見つけて、思わずカッと
なって殺ってしまったと言うんだ」
「真智子さんは、無事だったんですか?」
「その点は、何もなかったらしい。まぁ、殺した奴も悪いが、殺されたほうも殺された
ほうだな」
やはり地元の人間である。小見山巡査部長は、同じ立山の住人としてまことに遺憾なことだ、
と顔をしかめてみせた。
「凶器は・・・?」
「何とかいう鉄の道具だ。あの家には途方もなく在派な仏壇の部屋があるがね、そこで
使っていたものだと聞いたが…」
あるいは、高野山の石室で見た独鈷(どっこ)という仏具だったかもしれない。あれは、もともと
古代インドで使われていた武器なのである。
「自首したと言っても、それだけでは決め手にならないでしよう? ほかに、何か証拠でも
あれば別だが…」
「証拠はいくらでもある。興平の死体を運んだときのもっこや、てうさんの首をくゝった
縄も、裏山の雪のなかから全部出てきた。えらく難しい事件のように見えたが、犯人が
検挙ってしまえば、まぁこんなものだろうよ」
捜査員ではないから、小見山はそれで納得しているようであった。田丸五郎は、口元まで
出かゝった反論をようやく抑えた。
富蔵がそんな生易しい人間ではないことは、十分に承知している。一切が大関良祐から
の指示であることも疑う余地がなかった。
言いかえれば、彼らが真犯人を知っていればこそ、出来る行動である。どんな保障を
与えられているのか知らぬが、富蔵にとっては、むしろ殉教の美挙なのであろう。この精神に
支えられている限り、富蔵は五年や十年の刑期にビクともするような男ではなかった。
田丸五郎は、事件の裏側にひろがる暗い海のようなものゝ深さに震えた。
「わかりました。どうも有り難う…」
時折上下に動いている髭に頭を下げると、ボストンバックを引き寄せながら言った。
「浩市郎君が無事だったことは、何よりでした。僕も東京に戻る前に、もう一度あの家に
寄って挨拶をしてゆきたいんですが、構いませんか?」
「それはまぁ、あんたにはあんたの立場もあるだろうから、犯人が検挙った以上、こっちで
とやかく言う筋合いはないが・・・」
「では早速、顔を出してみましょう。ところで、小見山さん・・・!」
急に小声になって、髭を覗きこむように肩を寄せると、すわりの悪いテーブルがまたガクンと
揺れた。
「何だ?」
「実は僕のほうでも、いろいろと調べたことがあるんですがね。どうも、ただの挨拶だけでは
済みそうにないんで…」
「おい、冗談ではないぞ」
「本当なんです。何しろあの家には、千年も昔から有頼の亡霊がとりついていまして・・・」
「馬鹿らしい、良い可減にせいよ・・・」
「亡霊で悪るければ、代々伝ってきた佐伯一族の生き霊でしょうかね…。とにかく、こいつを
追っ払ってしまわない限り、事件はいつまでたっても解決しないんですよ」
小見山の眼に微妙な陰が走るのを、田丸五郎は見逃がさなかった。
「巡査部長! 本当のところ、あなたもまだ事件が終わったような気がしていないんじや
ありませんか…?」
「ふむ・・・」
「富蔵ひとりが自首してきたからといって、僕には、この事件がいっぺんに解決したとは
とても思えないんです。もし次に、万一のことがあったら…」
「わしに何をしてくれと言うんだ・・・?」
「決してお手数をかけるつもりではないんで…、ただ、出米ましたら今夜、暗くなって
から桂台のあたりに車で待機していてくれませんか。ねえ、頼みます」
「そりやあ、事件の直後だから、警戒はしておくにこしたことはないが・・・」
小見山は、腕を組んだ。
それからあたりを見まわし、誰も聞いていないことを確かめると、急に声を落として言った。
「あんた、調べたと言うが、いったい何を調べに行ってきたんだ?」
「事件の真相ですよ・・・」
ギョロリと小見山の目玉が光った。だが、声はいっそう低くなっている。
「それでは、富蔵のほかに犯人がいるという証拠でもあるのか?」
「何とも言えません。しかし僕の想像では・・・」
「想像でものを言われては困る!」
そこで、小見山はまた地声に戻った。
「とにかく、わしも今日は定時で勤務が終わる筈だから、時間があったら、出掛けても
良いと思うが、あんたもあまり勝手な行動は慎しんでもらいたい。いゝかね?」
「はぁ、よくわかりました。小見山さん・・・」
「何だね」
「先に、お礼を言っておきます」
「知らんよ。何も約束したおぼえはない・・・」
「そうでした。はゝゝ、では、僕はこれから悪城の壁まで行ってきます。暗くなってからが
勝負ですから…」
「