七、 母 の 手
まだ濡れている石の道を、田丸五郎は危なげな足どりで一歩一歩辿った。どうも、この
道ははじめから苦手である。
悪城の壁が見えるところまで来ると、あたりは湿気の強い濃いもやのようなもので包ま
れていた。六月に入ったばかりの山の気温が、森の樹々から微かな蒸気を立ちのぼらせて
いるのだった。田丸五郎には、それが遠い過去からよみがえってきて、この家全体を取り
巻いている不気味な生命に思われてならない。
空気は意外に冷たかったが、古い門の向こうに、まるで森のなかに沈みこんでしまった
かのような家の屋根を見たとき、こめかみから、また一筋の汗が伝って落ちた。
高野山で見た屋根と、まったく同一である。
玄関をあけると、正面に仮名乞児の躍るような肉太の文字。式台の脇に、鉄の鎖に懸け
られた長方形の板木がピタリと静止していた。書かれている文字は、墨色の新しいものだが、
まさしく虚空蔵求聞待法そのものである。
独特の香気も、はじめて来たときと少しも変っていない。
呼吸を整えてしばらく立っていたが、人の気配というものがまるでなかった。朝のうちに、
三人目の死者を出した家とはとても思えない静けさである。
田丸五郎は、板木を打ったものかどうか、ちょっと迷った。
ここで音を立てれば、虚空蔵求聞待法は韻々として立山の亡者どもの眠りを打ち破り、
収拾がつかなくなってしまうのではないか・・・。理由もない恐怖が足元から這いあがってきて、
小槌を待ったまゝ、大きく息を吸った。
コーン…、と澄みきった音が響いて、板木がわずかに動いた。
だが家の中は、相変らず静まりかえっている。今にも襖が開くのではないかと緊張して
侍ったが、あの宙を浮くような、てうの姿が現われる筈もなかった。
出てくるとすれば、真智子であってほしい・・・。田丸五郎は、思い切ってもう一度力を
入れて板木を打った。
カーン・・・
その瞬間、板木がぐらりと揺れたのである。
鈍い音がして、片方の鎖が切れた。かなりの重量の板が、重心を失ってガクッと傾き、
左右に揺れながらぶら下っている。頬の肉が引きつるほどの衝撃であった。百数十年来、
何ごともなく重さに耐えてきた鉄の鎖が、今の一撃で何故ぷっつりと切れてしまったのか・・・。
元に戻そうとしても、一人の力ではちょっと無理のようだ。
襖が、スルッと開いたのは、そのときである。
「・・・・・・・・・」
浩市郎であった。
ネズミ色の薄いセーターに、おかっぱのような髪、眼が大きくて黒い。子供とは思えない
ゆっくりとした視線で、浩市郎は、田丸五郎をとらえた。
「こんにちわ」
「お、お母さんは? いまお家にいるのかしら…」
血の気の薄い頬に、唇だけが紅い。浩市郎はこっくりと頷きながら言った。
「おります…」
「あのね、おじさんが末たと言って下さい。ちょっと御用があって・・・」
浩市郎は、またこっくりと頷いて奥に消えた。
ふうっと、身体中の空気を吐き出してしまいたくなるような感じである。相手が子供
なのに、どうしてこんなに緊張させられるのか・・・。茶色のボストンバックを式台の上に置いて、
田丸五郎は、あらためて仮名乞児の分厚い板額を見上げた。
あけ放しになっている襖の向こうから、また浩市郎が出てきた。その後ろに真智子の姿を
見たときは、正直救われたような気持になった。
「やあ…」
「いらっしゃいませ」
一昨日会ったばかりなのに、真智子は初対面にように式台に指をついた。
粗末ではないが、如何にも地味すぎる感じの和服である。指輪をひとつもつけていない
ことが、印象に強く残った。
「いや、このたびはまた…」
意味もない言葉を受けて、真智子も黙って頭を下げた。
「富蔵のことは、警察で聞いてきました」
「はい・・・」
「何ひとつ、お役に立てなくて、申し訳けありません」
真智子はうなだれている。その細いうなじが憐れだった。
「でも、犯人がわかって良かった。浩市郎君にも、何事もなくて・・・」
「はい」
「それで僕も、そろそろ東京に戻ろうと思うのです」
うつむいていた真智子の視線が、わずかに上ったようであった。田丸五郎は、すぐ横に
立っている浩市郎を、なるべく見ないようにして言った。
「まわりをうろついただけで、何も出来なかったことをお詫びします。でも最後に、僕
の気持だけお話しておきたいと思って、お邪魔しました・・・」
そのとき、浩市郎が突然口をひらいた。
「どうぞ、おあがり下さい」
ぎょっとして見ると、浩市郎は表情のない視線を、ゆっくりとまだ揺れている板木に
うつした。
「かまいませんか、真智子さん…」
「はい」
真智子の指が、式台から離れた。
導かれたのは、この前と同じ尚信の襖絵で飾られた部屋である。
養子とは言え当主の敬至郎が死んだというのに、それらしいあわただしさは少しも
感じられない。
死体はまだ警察から戻されていないようだが、このまゝ葬式も出ないのであろう。興平や
てうのときもそうであった。敬至郎は、たゞ消えてしまったというだけで終りなのである。
違っているのは、今日ははじめから浩市郎が部屋にいることであった。真智子が出て行った
あとも、浩市郎は昨日まで敬至郎がすわっていた場所に、きちんと両膝をそろえていた。
たしかに一O才の子供なのだが、これで、わずかニケ月たらずの間に、三代目の当主が
その座についたことになる。しかも大関良祐をして、高貴なお方と言わしめた少年であった。
ヒトエ イツク アザナ タワーーノ
『父母偏(ひとえ)ニ悲(いつく)シミ 字シテ貴物(たうともの)ト号ス』
空海がまだ佐伯真魚といったころ、両親からこう呼ばれていたというが、あるいはこん
な子供だったのだろうか・・・。真魚の両親が、貢物と呼んで恐れおののいた気持も、わかる
ような気がする。
次に現れたのは、真理子だった。その姿を見たとき、田丸五郎はまた度肝を抜かれた。
衿元が締まって、袖は筒袖に近い。全体が男仕立てで、細くてかたい帯がきっちりと
巻かれ、そのすべてが白であった。死装束のようにも見えたが、これはあの祭壇の部屋で、
ころもの下につける正装なのであろう。黒髪だけが、肩にかけて妖しく波うっているのが
凄まじい。
「きっと、来ていただけると思っていました」
真理子は穏やかな調子で言った。浩市郎のとなりに座ると、一分の隙もない。顔かたちは
妹と瓜ニつなのだが、個性と環境の違いは、あまりにも歴然とこの姉妹を引き離していた。
最後に、ひっそりと真智子が戻ってきて、浩市郎をはさんで反対側の座についた。
これが、有頼から伝えられてきた佐伯一族の、残された血筋なのか・・・。
ともすれば圧倒されそうになる気持を懸命に支えながら、田丸五郎は、三人の前で
おもむろにあぐらを組んだ。
「すみませんね。どうも堅苦しい行儀には馴れていないもんで…、失礼します」
眼の前に、三体の生きた人形がならんでいる。が、それはまだ立山の雪のように深いヴェールに
覆われていて、真実の姿を現わしていないのである。
ポケットから、セブンスターの袋を出して、田丸五郎は脇にある古風な灰皿の横に並べ
て置いた。それから、あらためて真理子に向かった。
「ご主人には、まことにお気の毒なことをしました。実は何回もお電話をもらっていた
のです。一刻も早くお会いしなければと思ったのですが、ちょうどその頃は列車の中で…」
「どちらかへ、御旅行でしたの?」
「高野山まで…。帰りにどうしても必要なことがあって、京都にまわっていたものです
から」
「では仕方のないことですわね。敬至郎のことは、こちらからお願いしたわけでもあり
ませんし・・・」
白装束の背筋をすこしも崩さず、真理子は言った。良人を失った悲しみはまったく感じ
られない。片手をセブンスターに伸ばしながら、田丸五郎は、上眼使いに真理子から視線を
離さなかった。
「それにしても、ご主人は何故、僕にあれほど電話をかけたかったんでしょうかね」
「さあ…?」
「こちらにくる途中、警察に寄ってきたんですが、富蔵の自白では、事件は突発的に
起こったという話でしたね?」
「・・・・・・・・・」
「ねぇ、どうなんですか真智子さん」
答えはなく、真智子はうなだれている。田丸五郎は、再び真理子のほうに向きを変えた。
「もしそうなら、ご主人が事前にあんなにしつこく電話をかけるなんて、おかしいと思い
ませんか?」
「さぁ、どうなのでしょう。私にも良くわかりません」
「僕は一度だけ、ご主人と電話で話をしたことがあるんです。その時もかなり狼狽していた
様子でしたよ。それも真理子さん、奥さんのあなたを怖れて…」
「あの人には、いろいろと悪い噂が絶えませんでしたから・・・」
「女性問題ですか?」
「ご想像におまかせいたします」
「そこまで立ち入って伺うのもどうかと思いますが、ご夫婦の間にはお子さんは浩市郎君が
一人だけで、その後はつまり、ご夫婦としてのつながりはなかったのでしょう」
真理子は、毅然として顔をあげたまゝであった。
「これは大きな問題だと思うんですがね。ご主人に多少あやしい行動があったとしても、
男として止むを得ないのではないかと…」
「田丸先生」
「はぁ?」
「そのことは、敬至郎と結婚いたしますとき、祖母から言い渡されたたゞひとつの条件で
ございました。もちろん敬至郎も、納得した上でのことです。私はたゞ真剣にそれを守って
きただけですわ」
「しかし、例えば何かの便法を講じるとか・・・」
「有頼公の血脈は、そのようないい加減なことではありません。一人から一人へ、それ
以外のどんな方法も許されないのです。無理だと仰言るなら、女の私や真智子にも不可能
ではありませんか。どうして、男としてなどと都合のよいことが言えるのでしょう?」
「失礼しました。男としてと言ったことは取り消します」
あまりにも歪んだ禁欲の強制は、宗教的な裏づけがなければ、到底考えられることでは
なかった。いわば、悟りすました高僧の境地なのである。俗物の敬至郎など、とても及ぶ
ところではあるまい。 田丸五郎は、まだ火のついていない煙草を指先で弄びながら、
一方の手で、ゴシゴシと耳のうしろを掻いた。
「言いにくいのですが、失礼ついでにもうひとつだけ、失礼なことを伺わせて下さい」
「どうぞ・・・」
「いまの厳しいおきての話は、おふたりが十五才のとき、真理子さんの結婚式の前の晩に、
亡くなった御隠居様から申しわたされたということですが…」
「真智子さん、そんなことを先生にお話したのですか…?」
「はい」
「それなら、仕方がありません。その通りです。祖母は有頼公の御前にふたりを呼んで、
私に子供をひとりだけ産めよと、厳しく申しました。そして真智子には…」
「わかりました。もう結構です」
田丸五郎は途中で片手を上げた。それから、あらためて真理子の顔を見つめた。
「ほかに、御隠居様が仰言ったことは?」
「ほかに、と申しますと・・・?」
「例えばですよ。あの、二十六年前の事件について…」
「あゝ、そのことも何か言われたかもわかりません。でも私は責任の重さで頭が一杯に
なっていたものですから、あまりよく覚えていないのですけれど…」
「多分、そうでしょうね。ではこちらからお尋ねしましょう。二十六年前、滝子さんと
いう、おふたりのお母さまにあたるかたが、血脈の割れるのを恐れてわが子を殺そうとした
ことから、事件が起こったのでしたね?」
「真智子、あなたはそんなことまで…!」
「いや、これは高野山で直接富蔵から聞いたことです」
真理子の顔色が変ったのを見て、田丸五郎は急いで真智子をかばった。
「言いにくいことというのは、実はこゝなんですがね。そのときお母さんに殺されそう
になった赤ん坊とは、本当は真理子さん、あなただったのではないかと・・・」
「何ですって? 何を証拠に・・・!」
「脚ですよ。残酷な言い方で申し訳けありませんが、あなたのその脚は、生まれてまもなく、
狂った母親の手で握り潰されようとした怪我の名残りではないんですかねえ」
「失礼な、失礼な・・・!」
突然、眼が妖光を放って吊り上がったかと思うと、白装束がパッと立ち土がった。肩に
波打っている髪が、一斉にそゝけだったように見えた。
そのとき、二つめの人形のヴェールが、音もなく落ちたのである。
「落ち着いて下さい。どうぞ、おすわり下さい…」
真理子が気を取り直すのを待って、田丸五郎はそれまで指の間で弄んでいたセブンスター
をくわえると、シュボッとライターを鳴らした。
「さきほどの、ご主人からの電話ですがね。今思えば、僕だけには何とかして真犯人の
名前を言っておきたかったのではないかな」
「犯人って…、富蔵のですか?」
「いゝえ、敬至郎さんは、きっと気がついていたんですよ」
吐き出した煙の行方を追って、田丸五郎は横を向いたまゝ、ポツンと言った。
「犯人は奥さん、おそらくあなただということをね…」