八、 反 転
状況が緊迫すればするほど、一種の闘争本能というか、田丸五郎はふてぶてしさを増す。
「よろしい、とにかく始めからお話しましょう」
多少小柄な身体で、大きなあぐらを組みなおすと、胸を張った。
眼の前に、白装束の真理子が眉をあげ、真智子が細い肩をおとして身をかたくしている。
先刻から微動だにしていないのは、一〇才の浩市郎だけであった。
「立山の白鷹伝説は、大変おもしろいお話でした。しかも驚くべきことには、空海の十三年間の
謎を解く直要な鍵になっている。伝説ですから、長い間には変化もしているでしょうが、
肝心な部分をつなぎ合わせてみると、実在の佐伯有頼が弘法大師の血脈を引いていることは、
ほゞ間違いがない。さらに軌跡をたどれば、西暦七〇〇年代に生きた中国の不空三蔵という
妖僧に突き当たり、それを超えて古代インドのバラモンの魔界に没するのです」
「魔界か妖僧かは別として、私もそのように聞いています」
「弘法大師が不空の化身であることは、宗教的な事実としてひろく言い伝えられています。
仏教にかたちを借りてはいるか、不空は、経典を意識的に異釈して金剛頂経をあらわし、
金剛界、つまり密教の智の世界をひらいた。そして空海は、インドやチペットではほとんど
問題にされなかった大毘慮遮那仏(だいびろしゃなぶつ)成仏神変加持経、いわゆる大日経を用いて、
胎蔵界すなわち理の世界をつくりあげ、ふたつを統合して自ら生身の大日如来と称したのです。
大目如来とは、実は宇宙の真理といった意味の理論上の仏で、現実には、姿も形もないんですが・・・。
もともと釈迦が説いたもので、空海はそれを盗みとっただけだ。言わば、釈迦の頭に尻を乗せて、
われこそは宇宙の真理なりと号していたことになる・・・」
昨夜、清麿から聞かされたばかりの話なのだが、よくもまぁ、こうすらすらと出てきたものだ。
「さて、これからが本筋ですがね」
田丸五郎は、ほとんど火をつけただけの煙草を、灰皿に押しつぶしながら言った。
「不空から、一沙門に名をかりた女によって佐伯真魚に、そして有頼にと伝えられた血脈の
証明こそ、虚空蔵求聞持法と呼ばれる秘呪だ。空海は不空とまったく同じやり方で、
法を高野山に、血脈をこの立山に遺したのです。こうして高野山には弘法大師入定説がうまれ、
立山には、白鷹伝説が語り継がれることになった・・・」
真理子の態度は、毅然として一歩も退く気配もなかった。その気迫をそらすように、二三度
咳ばらいをしてから、田丸五郎は話の方向を変えた。
「昨日は奈良に行って、朝から大関良祐に会い、それから高野山まで足を伸ばしたんです。
すると意外にも富蔵が待っていました。そこで事件のあらましを闘いたんですが、随分
いい加減な話でしたよ。富蔵が自首したといっても、結局その延長に過ぎない…。真犯人で
ないことは判っています。ただ不思議に思ったのは、同じ家にいながら、どうしてあなた方が
無闘係でいられたのか? はじめはすっかり欺されましたが、考えてみれば、敬至郎さんが
いくら富蔵と組んでみたところで、大関良祐の監視がある以上、手も足もでない筈だ。
僕は反対に、あなた方こそ事件の中心にいるのではないかと思ったんです」
真理子の全身で、何かがめらめらと燃えている。
「奥の院というところに行って、弘法大師のお墓をを見せられたとき、びっくりしました。
お墓というやつは石で作るものとぽっかり思っていたけど、その上に家が建っていることも
あるんですね・・・」
がっしりと組み合わされた梁や天井を眺めまわすと、そこここに、死者の霊がこびりついて
這いまわっているような気がして、田丸五郎は思わず首をすくめた。
「富蔵と一緒に、燈篭堂の下の石室を見たとき、僕にはようやくこの家の意味がわかったんです。
これは家ではない、実はこの家全体が佐伯有額の墓だったということがね。祭壇のあった
ところが、もちろん中心でしょう。あなた方は、墓の中に住んで代々の血脈を受けついで
きたのだ!」
「否定いたしませんわ」
「家全体を墓にしてしまうなんて、まったく恐ろしい悪魔的なトリヅクですよ。だから
こそ、有頼は生き続けたとも言えるのでしょうが…。しかし現実の殺人事件は、そんな
夢物語じやあない」
周囲から忍び寄ってくる妖かしの気配を払いのけるように、田丸五郎はぐいと膝をすゝめた。
「真理子さん、あの祭壇の下には、いったい何があるんですか!」
「何か、と中しますと・・・?」
「燈篭堂の石室には、奥の院に続く岩穴がついていました。そこから生きている弘法大師を
見せるためにですよ。つまり、弘法大師は畳の上にではなく、地下の石室に入定して
いたのです。ふたつの家が同じに建てられているということは、当然、この家に石室も
あるのではないかと・・・」
「よくおわかりですこと、だとしたら、どういうことに・・・」
「それこそ、興平氏を餓死に至るまで閉じこめておくことの出来る唯一の牢獄でしょう。
僕は隙間から覗いただけだから良くわかりませんが、出入口は、おそらくあなたがいつも
坐っている、中央の一段高くなったところだ。興平氏はその下の石室に監禁されていたに
違いありません」
「どうして、私がそんなことをする必要がございますの?」
「本当の目的は他にあった。ただあなたは、てうが興平氏に殺意以上の憎悪を抱いている
ことを十分知っていました。それを利用して目的を遂げるために、復讐の手助けをしたに
すぎない。言わば、親娘ぐるみの二重殺人事件ですよ」
「本当の目的というと…、いったい何でしょう」
「敬至郎さんを殺すことです」
「なぜ?」
「血脈を護るために…。あなたには、それがすべてなのです」
真理子は、軽く肯いたようであった。
「嫉妬がなかったとは言えない。さっき仰言ったように、浩市郎君が生まれて、夫婦と
しての生活を一切断たれたうえに、ご主人の眼が自然と真智子さんに向くようになっては
尚更・・・」
真智子が、おびえたように顔をあげた。
「佐伯家には、これまでにも数えきれないほどの忌まわしい出来ごとがあったのでしょうが、
姉妹のどちらが正当な血脈の継承者となるのか、あなた方にとって、生死に等しい重大事です。
十五年間にわたる、幼い姉妹の骨を削り合うような闘争を想像するだけでも・・・」
蒼白な顔で、真智子が激しく首を握った。だが田丸五郎は、眼の横でそれを無視したまま
話を続けた。
「とにかく、勝ったのは真理子さん、あなたですね。母親に殺されかけたのは自分かも
しれないという、常識では考えられないハンデを克服して、あなたは勝った。血脈の正当な
後継者であることを、大関良祐をほじめとする高野山側にも認めさせたわけです。祭壇の部屋で、
いよいよ最後の宣告が下きれたとき、あなたは心の中で勝利の歓声をあげたに違いない。
今になって、ご主人と真智子さんの間に万一子供でも出未たらと思うと、十分、殺意にも
つながったでしょう」
「ほゝゝ、先生の素晴らしい想像力には、敬意を表しますわ」
「母親の嬰児殺し未遂事件と、それに続く養子の妻殺し。ここまではもう時効にかゝって
いますが、今日に至って姑の仇討ち殺人と謎の自殺、さらに浩市郎君の仮装人形惨殺事件、
最後に夫殺し…。あまりにもむごい、骨肉の相克だとは思いませんか…。そして、真智子さん!」
田丸五郎は、強いて厳しい表情をつくると真智子を見すえた。
「あえて言わせてもらうが、罪は、あなたにも同等にある・・・」
真智子は左手を畳について、ようやく身体を支えていた。双生児でありながら、真理子との
神経の差が痛々しかった。
「真智子さん、あなたもまた、すべてを知っていた筈だ。どうして、もっと早く打明けて
くれなかったんですか…?」
ガクッと、真智子の肩が落ちた。
「今日まで、いったい何を耐え忍んできたのです。あなたは、こんな奇怪なおきてなんかに
縛られる必要など、少しもなかったんだ」
「・・・・・・・・・」
「虚空蔵求聞持法…? あんなもの、もうとっくに破れていますよ!」
昂然として、田丸五郎は言った。
「いゝですか、二十六年前にあなた方が双生児として誕生した瞬間、血脈はふたつに割れ、
秘呪はやぶれた筈です。あなたは誰にも遠慮することなんかなかったんですよ。さぁ
言って下さい。今からでも遅くはない…。あなたのお父さんじゃありませんか! 興平氏は
どんな方法で、石室に閉じ込められるようなことになったのか…。まさか、自分から進んで
入ったわけではないでしょう? 御隠居は何故自殺したのか、三教指帰の人物の名前が
死体に残されていた理由は何か。そして敬至郎さんが殺されたときの模様は・・・?」
矢継ぎ早やの質問のあと、息づまるような沈黙がつづいた。そして、真智子の唇がわずかに
動きかけたときであった。
それまでまるで彫刻のように動かなかった少年が、突然、はっきりとした声で言ったのである。
「それは、ぼくです」
ぎょっとして、田丸五郎は浩市郎を見つめた。
三っめの人形は、みづからそのヴェールを脱いだのである。
「ぼくが中に入って、おじいちゃんを呼んだの。そうしたら、おじいちゃんも入ってきて、
ぼくが外に出たとき、おばばが梯子をはずしたのです」
何という単純なトリヅクだろう! そのときの鬼気迫るてうの顔が、ありありと浮かんだ。
「おばばがふたを閉めて、その上に乗ったの。母さまが駄目だと言っても、おばばは
言うことを聞かなかったので、それでおじいちゃんは死んだのです」
「浩市郎君、それは本当のことか!」
田丸五郎は、思わずうわづった声になるのを抑えることが出来なかった。
「それじゃ君は、おばばが死んだ時のことも知っているの?」
「おばばが、おじいちゃんを殺したから、かわりにぼくが、おばばを縄でくゝったのです」
「浩市郎!」
悲鳴に近い真理子の声がとんだ。
「うしろから、おばばの首にまわして、肩にかついで引いたら、おばばはすぐに動かなく
なったの。それでおばばは死んだのです」
浩市郎は、無邪気に言った。罪の意識は、ほとんど感じていないようであった。
真理子は凍りつき、真智子は気を失ったように、頭を垂れて動こうとしない。
てうは、やはり自殺ではなかった…!
敬至郎は腰を抜かし、富蔵は、対策に狂奔したであろう。その結果が、称名の滝の奇妙な
首吊り死体となったのである。
田丸五郎はわれに返って、あぐらを組んでいた足を正した。
「おばばのふところに、名前を書いた紙を入れたのは誰なの?」
「書いたのは、ぼくです」
筆跡を、子供のものとわからなかったのだろうか…。弘法大師が日本三名筆と言われる
ことを思うと、何故か背筋が寒くなった。
「おじいちゃんを捨てに行くとき、富蔵と一緒に、ぼくも行ったの。そのとき紙を落した
のです。おばばを捨てに行くときも、富蔵がもう一度書いてというから、書いてあげたの…」
「そのほかに、仮名乞児や蛭牙公子も、浩市郎君が書いたの?」
「そうです」
そう言えば、落ちていたのは亀毛先生だけであった。その後の死体は、きちんと名刺と
して持たされていた。思わぬ名前の出現を利用して、事件全体を外部からの犯行に見せた
富蔵の苦肉の策であろう。例えそれが作為的なものであったとしても、こうして、次々と
三教指帰の登場人物たちが消えていったのは、やはり虚空蔵求持聞法が破れたからだろうと、
田丸五郎は思った。
「浩市郎君…!」
その確信が、少年への思い切った質問になった。
「ゆうべ、お父さんが死んだときのことを、教えてくれないか・・・?」
浩市郎の眼に、そのときはじめて涙が宿った。それはみるみるうちにふくらんで、正座
した白い手の甲に落ちた。
「父さまが悪い…!」
ギュッとしゃくりあげたかと思うと、食いしばった浩市郎の歯の間から鳴咽が洩れた。
「浩市郎、だめ!」
「言わせてあげて下さい。真理子さん、一〇才の少年です。刑事責任はない!」
「そんな、残酷なことを・・・」
「違う、真実だ!」
鳴咽のなかから、浩市郎のとぎれとぎれの声が聞こえた。
「と、父さまが悪い。母さまを、殺そうとしたから…。うしろからぼくが、ぼくがぶった…」
田丸五郎は、息をのんだ。もう隠しようのない、犯人の告白である。
「どこで? 浩市郎君」
「裏で母さまの声がしたから、ぼく、行ってみたら、父さまが、雪の中で母さまを倒して
いたの。有頼公のところから、独鈷をもってきて、父さまをぶった…」
蛭牙公子は、まさしく仮名乞児に成敗されたのである。
真理子の身体が揺れた。これまで張りつめていた気持を、使い果たしてしまったかのように、
くなくなとその場に突伏ししてしまった。
「真智子さん!」
それに構わず、田丸五郎は声を励まして言った。
「事情を説明して下さい。さぁ、詳しく・・・」
何かにあやつられるように、真智子が顔をあげた。髪が頬にふりかゝっている。視線が、
しばらくの間あてもなく宙をさまよっていた。
「あの人は、このごろ私によく言っていたのです。俺は蛭牙公子にされるのは嫌だと…。
犠牲になるくらいだったら、姉を殺して私と結婚しようと…」
あり得ることであった。
敬至郎は、電話で自分が蛭牙公子として指名されていることを、告げたかったのであろう。
「あの人は、富蔵の留守を狙ったのです。昨夜、家の裏で叫び声がしたので、すぐに出て
みたのですが、手おくれでした。姉は気を失っていて、その横に浩市郎が・・・」
「敬至郎さんは、そのときはもう・・・?」
「はい。帰ったばかりの富蔵が、血の飛び散った雪を雨に流し、死体を車に積んでどこかに
運んだのです。夜の明けるころ戻ってまいりましたが、富蔵はその足で警察に出頭しました」
話を終わると、真智子は再びがっくりと首を垂れてしまった。
あの雨の中を、おそらく無灯火で、富蔵は死体を室堂の上の血の池まで運んだのだ。
のろのろと崖を這い上るような、危険な作業だったことであろう。ちょうど、嵯峨野から
室堂のさゆりに電話をかけていた頃の時間である。
推理のネガは、こうして、鴛くべき反転を見せたのだった。