九、 悪 城 燃 ゆ




 ひとつの高潮が去ってしまうと、あたりにはたゞ索漠とした空気が、えみ割れたまゝ

沈殿していた。あれほど鼻をついた香気も、馴れてしまったせいか、ほとんど感じなくなった。

 あまりにも空しく、みのり少ない結末である。外を見ると、いつの間にかとっぷりと暮れていた。

 あれが、高野聖というやつなのか…。

 富蔵は何が何でも事件の焦点を外に向けさせ、身を盾として、佐伯家の血脈を世間の眼から

覆いかくそうとしたのだ。いわばかけがえのない忠僕である。善悪は別として、富蔵にとっては、

壮烈なまでの殉教の行為に相違なかった。

 浩市郎を何としても被害者の立場に置くために、仮名乞児の人形を作って地獄谷に投げ

込んだとき、富蔵は涙したであろう。しかし、それが何になるというのだ・・・。

 いっぽうインテリの敬至郎は、見てくれの良さと内面の濁りがほどよくアンバランスに

なって、煩悩にのたうちまわったあげく、自分で墓穴を据ってしまった。文字どうり俗物的な

めくら人間である。

 それでは、この俺はいったい何だったのだろう・・・。

 長い長い沈黙のなかで、田丸郎はぼんやりと考えていた。

 奈良で会った真智子への見えない糸があったにせよ、大関良祐からの電話一本で飛び出して

きたこの俺が、受け持たされていた役はいったい何だ。浩市郎の保護という名目だが、

この少年こそ、実は犯人だったのである。

 まったく、もの悲しいばかりの虚脱感だけが残っていた。

 富蔵と高野山で出会ってからというものは、重畳と折り重なるアルプスの山なみのように、

次々と推理の転換がおこった。が、そのどれもが正しく、どれもが正確な的を射ていない

ような気がする。

 結局、俺のやったことは何もないのだ・・・。

 この事件の不思議さを、砂を噛むような思いで味わいながら、田丸五郎は、真理子に

むかって丁寧に頭を下げた。

 「失礼しました・・・」

 「・・・・・・?」

 「失言をおゆるし下さい。そろそろ、おいとまします」

 「先生・・・」

 真理子も、平静を取り戻しているようであった。

 「このことを、やはり公になさいますの?」

 「今更、マスコミに売りこむような気持はありません。たゞ、警察には極秘で連絡して

おきませんと…」

 「わかりました。お心使いをいただいたことには、本当に感謝します」

 「浩市郎君はまだ一〇才ですから、どのような処置になるのかわかりませんが、警察側

としても、すでに富蔵を逮捕してしまっていることですし、秘密は十分に守ってくれるでしよう」

 恐るべき少年であった。犯行のひとつひとつに、悪意というものが感じられない。しかし、

やはりこれは犯罪であった。

 浩市郎が佐伯有頼の生まれ変わりというなら、清麿の説のとうり、犯人はたしかに弘法大師である。

だが田丸五郎には、全然その実感が湧かないのだった。

 泣きやんだあとの浩市郎は、ぐったりとして、気を失ったように眠りこけている。

 もう一度会釈して立ちよかろうとすると、真理子が思い出したように声をかけた。

 「先生、お待ちください。真智子さん、あなたが先生を桂台までお送りして・・・」

 「はい」

 「いや、僕だったら結構ですよ」

 そうは言ったものゝ、あの暗い岩道をまた歩いて帰ることを考えると、やりきれなかった。

それに、真智子と二人だけになれる最後のチャンスでもある。

真智子が奥に立っていったのを見て、田丸五郎は心をきめた。

 「すみません。いろいろと御迷惑ばかりかけて・・・」

 「いえ、桂台まで出れば、立山行きのバスがまだあると思いますから・・・」

 まもなく、おもての門のあたりで軽いクラクションが鳴った。眠っている浩市郎をおいて、

真理子も玄関まで出てきた。

 すぐ横に、鎖の切れた板木が傾いて半吊りになっている。真理子も気がついた様子だったが、

さり気なく眼をそらして、口元に意外なほどおだやかな微笑を浮かべながら言った。

 「真智子に、気をつけて帰るようお伝え下さい」

 「わかりました、では・・・」

 言いようのない心残りをあとに、田丸五郎は玄関を出た。

 青色の車が、あの重々しい門の横に停っていた。真智子が薄いブルーのセーターとスラックスで、

ハンドルを握っている。大急ぎで着換えたので、ほとんど普段着のまゝである。

 「僕がやりましょうか?」

  「いゝえ、この道は私のほうが馴れていますから・・・」

 岩道に出ると、なるほど、道の状態をよく知っていないと車を傷つけてしまいそうな悪路

である。岩角を避けながら、一〇キロそこそこのスピードで、真智子は慎重に車をすゝめた。

 「・・・・・・・・・!」

  田丸五郎は、そのとき、ハンドルを握っている真智子の指に、一カラットはゆうにありそうなダイヤが

豪華な輝きを見せていることに気づいた。これまでになかったことである。

 「すごい指輪ですね」

 「姉のですわ」

  真智子は前方を直視したまゝ、無造作に答えた。服装を整えている時間がないので、とっさに

嵌めてきたのだと思うと、何となく心が明るくなった。

  「これは、個人的なことなんだけど・・・」

  田丸五郎は、ごく自然に言葉の調子を変えた。

  「この前、もう一度会って下さると言いましたね。約束は僕が東京に戻ってからでも実行

して貰えますか?」


 「はい、でも何時になるか判かりません」

 「いゝですよ。いつまででも待っています。必ず連絡を下さい。何だったら僕のほうから

手紙を出しても良い」

 「
わたくしからご連絡します」

  「きっとですよ」

  「はい・・・」

 答えが、その場限りの返辞でないことは確信がもてた。

 門を出てから、五分くらい過ぎたろうか・・・。まだかなり遠いが、前方に、夕暮れの薄墨色に

染まった台地が浮かんで見えた。桂台である。

 車が小さく揺れ、真智子がブレーキを踏んだ。

 「どうしたの・・・?」

 真智子がさらにサイドブレーキ引いたのを見て、ふと甘いものが心をかすめた。

 「先生・・・」

 「真智子さん、先生はもうやめて下さいよ」

 だが返ってきたのは、田丸五郎をもう一度事件のド真ん中に引き戻すような、緊迫した

言葉だった。

 「先生、姉は・・・、浩市郎と一緒に死ぬつもりではないでしょうか・・・?」

 「えっ、どうして?」

 「何故、私に先生をお送りするように言ったのでしょう」

 「はあ…?」

 真智子は、くるりと身体の向きを変えた。おびえた眼が、まぶしいほど近くにあった。

 「姉はあの日、正覚院で、富蔵と一緒にある方から厳しいお叱りをうけているのです」

 「正覚院というと、興平氏の追善供養があったときのことですか?」

 「あれは名目だけのことです。本当は、ある方に今度の不始末について呼び出されて、

きついご注意を受けました。とくに姉と富蔵は、今後もし浩市郎のことで何かあったら、

命にかえて償えと・・・」

 「ある方とは・・・。大関良祐?」

 「いゝえ、名前は言えません。でもそれからあとの姉の気持は、私にもよくわかって

いました…」

 真理子は、必死だったのだろう。大関良祐ではないとすると、佐伯一族をわざわざ高野山

まで呼びつけて厳しい言葉を吐くことの出来る人物とは、当然その上の地位の僧侶であろう。

事件の真の恐ろしさは、こうした底知れない奥の深さにあったのである。

 田丸五郎は、そんな不安を強いて払いのけるように笑った。

 「はゝゝ、真理子さんが浩市郎君と無理心中なんて、いくら何でも…」

 「ではどうして、私だけをわざと家の外に出したのでしょう? これまでの姉とは

違いますわ・・・」

 「わざと…?」

 突然、激しい不安が襲いかゝってきた。車で送らせようとしたのは、ただの好意では

なかったのか…?

 「あの家には、ダムやトンネルを造るときに使ったダイナマイトが、まだ残っています。

姉は、それを知っているんです」

 「何だってそんなものが…!」

 「工事をしたのは、現在のホテルの前身にあたる会社で、父はそのころから役員になって

いたので…」

 興平が、あの家にダイナマイトを持ち込んでいた…。今まで想像もしていなかったこと

であった。

 田丸五郎は、頭の中が急にしびれたようになった。

 「このことを、やはり公になさいますの・・・?」

 たしかに、真理子の最後の質問は、考えていた以上に深刻な決断を必要とする問題

だったのである。

 佐伯有頼の血脈に殺人者の汚名を冠することは、絶対に許されないであろう。真実が表面に

出れば、あるいは真智子の言うとうり、真理子は死を決意するかも知れない。軽々しく

慰めの言葉を残して、あの家を出てきてしまったことは、もしかしたら、悔やんでも

悔やみきれない大失態だったのではないか・・・。

 「もどろう! 真智子さん…」

 だが、車をUターンさせることは不可能であった。一度桂台まで登って、引き返してこな

ればならない。

 どうする…?

 一瞬、迷っていたとき、いきなり全身を押し漬されるような衝撃と、鈍くて重い爆発音が

襲ったのである。つづいて二度、三度…。

 ごうっと樹々がざわめき、音ははるか立山の山頂にこだまして飛び去っていった。夢中で

ドアをひらき、二人は車の外に出た。山裾をふたつほど越えたあたりの悪城の壁が、真っ赤に

染まっている。

 そのとき、近くで真智子の鋭い悲鳴が聞こえた。

 「どうした!」

 駆け寄ってみると、岩角に足をとられた真智子が、必死に起き上がろうとしている。

 「しっかりしろ…!」

 真智子は、立ち上がれないようであった。顔が苦痛に歪んでいる。あわてゝあたりを

見まわすと、思いがけなく桂台の上あたりから、二条のヘッドライトが白い光の尾を曳いて

浮かび上った。

 小見山だ。やっぱり来てくれた…!

 田丸五郎は、真智子の耳もとに口を寄せて叫んだ。

 「動かないで・・・。 真智子さん、今すぐに救援隊がくる!」

 パラパラと、砕けた瓦や木片が降りはじめた。田丸五郎は真智子をかばって、その上に

身体を伏せた。

 「先生…」

 苦痛をこらえて、真智子がねじるように顔を上げた。

 「浩市郎は、浩市郎は・・・!」

 あたりが、次第に明るくなってくるようであった。振り向くと、そゝけだつ岩肌のひとつ

ひとつが、焔となって燃えさかっているように見えた。

 ピシッと首筋のあたりに、平手で叩かれたような衝撃があった。押えると、柔らかくて

まだ熱いものが貼りついている。手のひらに、ヌルリとした血の感触が伝わってきた。

 悪城の壁は、広大な弥陀が原の暗黒を背に、くっきりとその怪異な姿を浮かび土がらせていた。

 そのとき、最後の轟音がひびいた・・・。事件は、凄惨な断末魔を遂げたのである。






つづく もどる