第 一 章  わがゴーストタウン (1)





        

  俺は、ゴーストである。“幽霊”と訳して貰っては困る。

 幽霊は空想の産物というか、いわぱ一種の幻影にすぎない。したがって、この世には存しない。

だがゴーストは生きとし生けるものの生命における実在の状態である。勿論、
死の世界に属する。

 追々御説明するが、シャバの人間は、まだゴーストの存在に気がついたものは一人もい

ない。それには理由がある。

 まず第一に、ゴーストは見えない。つまり、物質としての肉体を持っていないのである。

俺の肉体も、今ごろはもうとっくに焼き場の釜の中で灰になっている。しかし、生命えの

実感としての愛憎や苦悩は、その後も延々として続くのである。よく、死ねばお終いとい

うが、あれは嘘だ。現在の俺を見て貰えば、すぐにわかる。

 第二の理由は、人間はシャバに戻るとき、一切の過去の記憶を喪失してしまうからであ

る。過去がお終いになるのは、実は死の瞬間ではなくて、誕生の時だ。過去にどんなに頭

の良い人であっても、次の産ぶ声を上げた瞬間、生命のカウンターはゼロに戻ってしまう。

だから、思い出せといっても、どだい無理な話だ。

 人聞が死ぬと、肉体を失った生命は、海のように透きとうった闇の中をゆっくりと降り

てくる。だがある点までくると、大部分は反転して再び上昇をはじめる。つつがなく誕生

線に達すると、彼の生命はあらためて全く異った肉体と人格をもって活動を開始するのだ。
人間は、これを受精と呼ぶ。

 ところが、シャバで何かまずいことがあると、生命は上昇力を失って、そのままゴース

トエリアまで陥ちこんでしまう。

 これが、ゴーストである。

 一度ゴーストエリアに入ると、その原因を自分で精算解決しない限り、シャバに戻るこ

とは絶対に不可能なのだ。ここに、ゴーストとしての限りない悲劇がある。

 告白するが、俺は、シャバで殺人の罪を犯した。だがそのことについては、俺はさほど

の苦痛を味っているわけではない。悪かったとは思うが、それなりの理由もあったし、何

よりも、責任の追及を受けたことは一度もなかった。つまり、俺は完全犯罪をなしとげた

のである。

 俺が、ゴーストとなった決定的な理由はほかにある。それは、俺白身が誰かに殺された

ことだ。犯人は、いまだに見当もつかない。

 こいつを何とかしなかったら、俺は永久にシャバには戻れないであろう。考えてみれば、

完全犯罪をなしとげた程のこの俺が、自分で殺されておいて、犯人がわからないとは何事

であるか…。俺は、口惜しくて仕方がない。

 この口惜しさと、あの晩の阿呆らしさは、今でも俺の心をヂガヂガと責めつづけている。

死んですべてが終ってくれるなら、こんなに楽ちんな話はないとつくづく思うよ。

 

 あの晩、といっても、わづかに三日前のことだ。

 俺は、たしかに飲みすぎていた。一時ちょっと前までは覚えていたから、おそらく深夜

の二時前後の事だったろうと思う。俺は車の中で、ぐすりと眠りこけていた

 何となく、震動を感じなくなったと思ったら、車が停って横に誰かが入ってきような

気がした。そいつは、何故か俺のズボンに手をかけた。           ーーー

 痩せているほうではないが、俺はベルトレスのズボンを愛用している。ボタンを外して

ファスナーを引けば、簡単にひらいてしまうのである。それにしても、うすぼんやりとし

か感じない程度で脱がされてしまっだのだから、やつとしては、かなり慎重にやったのだ

ろう。

 

 ひやりとした感触が、俺にふれた。

 さすがにそのへんまでくると、すこしは意識も戻りかけてきた。

 ……はてな、どこで車を乗りかえたのだろう。

 混濁した半醒半睡のなかで、ぼんやりとそんなことを考えていた。だが俺は、あえて眠

りつづけることにした。

 

 ポルノ作家である俺にとって、これはなかなか貴重な体験である。“この女は誰かを

知ることよりも、“何をするのかのほうに興味があった。職業意識とはおそろしいもの

だ。

 

 女は、俺のものをつまんで、しばらく寝息をうかがっているようであった。それから、

今度は袋の部分を軽く握った。

 

 瞬間、漬されたら大変だ、と思わず眼をひらきかけたが、そんなつもりはないようであ

った。安心して、俺はまた眠リにおちた。

 

 指先が、袋のうら側をくすぐっている。どうでも良いことだが、あそこを軽いタッチで

 

やられると、気持ちの良いものだな…。だが、ここで眼をさませば、女は必らず行動を変

 

えてしまうに違いない。それでは、いやしくもポルノ作家として面白くないのだ。お

人良しにも、俺は浮き沈みする意識の底で、その次を期待しながら、ウットリとしていた。

 その時、俺は全く思いもかけなかったその下の汚い部分に、突然鋭い痛みを感じた。

 

 ……しまった!

 俺はポルノ作家だが、そのほうのケは全然ないのだ。女だとばっかリ思っていたらとん

でもない野郎だ。こんな所で妙な真似をされてたまるものかと、俺はとび起きようとした

のだったが、すでに身体の自由がきかなくなっていた。

 それまで快楽のワルツを演奏していたレコードの溝が突然きれて、同じところをぐるぐ

 

ると廻りはじめた。

 敏感な粘膜に太い針を剌されて、そこから43度のエチルアルコール溶液が注入される

と、俺の心臓はたちまち真ッ赤な太陽のようにふくれ上った。そしてアッと思うまもなぐ

ポコン、ポコンと三、四度大きな音をたてると、停止してしまっだ

 そいつは、なるべく擦過傷を作らないように注意しながら、動かなくなっだ俺の身体を

車からおろすと、眼だたない道の片隅においた。

 ズボンをもとに戻し、ファスナーをあげると、やがてかわいた足音がアスファルトを遠

ざかっていった。かすかに車のドァがしまる音がして、あたりが静かになっだ

‥‥‥何と言うことだ!

 俺は怒りのやリ場もなく、そのまま横転していなければならなかった。

 急に、全身が凍りついたように冷めたくなったと思うと、手や足の先端に、もの凄い重

さを感じた。生命が、バリッ、バリッと、肉体から剥がれはじめた。ヴォリュームの限界

を超えた音が、空間を埋めつくして、むしろ、韻々たる静けさを感じる。手足の先から、

今度は恐ろしいばかりの灼熱感が全身に拡がってくる。それが通りすぎたあとの肉体は、

感覚的には無であり、単なる物質にすぎないのだった。

 肉体を離脱した生命は、一点に凝縮し、やがて、ゆっくりとゴーストエリアにむかって

降下をはじめる。それが途中から上昇に転ずれば良いわけだが、俺の場合はもちろん駄目

であった。フラフラと、文字どうりふぬけのようになって、ゴーストエリアの底に沈澱し

てしまった。完全犯罪までなしとげた男の死にざまとは、とても思えない馬鹿らしさであ

る。

 こうして、俺はゴーストになった。

 どんな解剖の名人でも、これでは真実を発見することは不可能だったろう。事実、俺を

解剖した医者は、胃から心臓から、脳みそまで、たんねんに切りきざんだあげく、急性ア

ルコール中毒による心臓マヒが原因のショック死と断定してしまった。

 この野郎、何故もっと良く調らべないんだと、俺はものすごく焦れったかったが、どう

しようもなかった。症状は、たしかにその通リなのである。

 43度のエチルアルコールとは、ひらたく言えばウィスキー特級の謂いだ。商品名はさ

しひかえるが、まさしく俺がその晩飲んでいたやつ、そのものである。血液中には、すで

に相当な濃度で同一の物質が循環していた。あの医者が、俺のイボ痔のすぐ横にあつた、

微少な出血を見逃したからといって、責めるのは酷であろう。結局、俺はあきらめざるを

得ない破目になってしまった。誰だって、あんなところをくり抜いて、ためつすがめつす

るのは厭だろうからな。

 ただひとつ、なぐさめだったことは、俺の死が翌日の新聞でかなり大きく報じられたこ

とだ。

  “ポルノ作家 久留島 満さん(44)酔死”

 見出しにポルノだけ余分だと思ったが、とにかく俺が社会的知名人であったことだけは

立証してくれた。記事によると、殺された場所は、俺が仕事場に使っていたマンションの

すぐ横であった。どうみたって、酔ってタクシーか何かで帰ってきて、そこでぶっ倒れた

としか理解できない情況である。

 俺は、がく然となった。これでは、完全犯罪ではないか…!

 何回も言ったように、俺は聞違いなく犯人である。それなのに、反対に被害者にされて

しまうとは何たることか…! しかも、これからいよいよ傑作を書きはじめようという矢

先になって…、俺は今、殺されかたの阿呆らしさ以上に、そのことでプライドを傷つけら

れている。

 探偵としての能力はどれだけあるか、自分でもわからないが、俺は、どうしても俺を殺

した犯人を見つけ出してやる。プライドも大切だろうが、この難問を解決しない限り、俺

は二度とシャバに戻ることは出来ない。気持ちは焦るのだが、いくら作家だった俺でも、初

めての経験である。



 ゴーストになってまだ三日目なのだから、環境にも早く順応しておかなければなるまい。

その意味で、ゴーストエリアの実態について、もう少し述べておきたいと思う。

 ゴーストエリアは、この地表に厳然と存在している。先刻、落ちると言ったのは、あく

まで感覚上の表現であって、実際にはせいぜい三、四センチ、時としてほんの数ミリ程度

のものだ。生命は、それをまるで無限の深みにはまりこんで行くように感覚するのだ。ゴー

ストエリアが、もし地殻の内部にあるのだったら、そこはドロドロに溶けたマグマの中で、

生命はたちまち焼きリンゴのようになってしまう。

 それでは、地表上のどこにあるのかと言うと、シャバとまったく同一の条件下に、複合

して実在している。それ自体、物質を持たないので、どんなに複雑にからみ合っていても

少しもさしつかえない。シャバエリアが物質の世界であるのに対して、ゴーストエリアは

非物質の世界と考えても良いと思う。生と死との違いは、ただそれだけのことだ。

 色彩は感覚として存在するが、すべて透明である。赤もブルーも、このほうがはるかに

ゴージャスだな。音もさまざまなかたちで感じとることが出来るが、必らずしも聴覚は必

要としない。

 ゴーストというのは名詞である。人称として用いる時にはゴースターという。女性のゴー

スターも勿論いるか、披女たちはゴースティンと呼ばなければ失礼にあたる。ゴースト女

というのは蔑称である。

 ゴーストエリアには、ゴースター達の無数の集落がある。それぞれの集落は互いに独立

していて、時代や環境によって混乱してしまうようなことはない。総称して、これをゴー

ストタウンという。

 シャバに出られなくなった連中の集まりだから、さぞかし泣きわめいたり殺しあったり

して、憎悪、怨恨、執念、妄執の渦巻く凄絶な地獄の様相を呈しているかと思うと、それ

ほどシャバと違った暮らしをしているというわけでもなかった。

 毎日をさりげなく、のんびりと生活しているように見えるだけに、内面の苦悩はいかぱ

かりかと、身につまされるのである。

 さて、わがゴーストタウンだが、東京で言えば東村山か所沢といった郊外で、わりと暮

らしやすいところだ。これは、ゴーストエリアがシャバエリアに対して多少ズレて複合し

ているために起る現象であって、わかりやすいようにシャバでの位置を示すと、新宿区四

谷三光町、すなわち俺の仕事場だったマンションのすぐ横で、あの晩、俺が憤死した現場

にあたる。

 俺は、自分の仕事場の周囲に、かくも風変りで美くしいみどりが広がっていようとは、

全く気がつかなかった。遠くを森でかこまれ、点々と赤い屋根が散らばっている。のどか

な田園風景と違うところは、一種の妖気というか、かげろうのような気配がたちこめてい

て、ゆらゆらと流れているのだった。夜になると、かげろうは急に濃度を増し、すべての

色彩感覚が失なねれて、全体が海藻のように揺れながら、深い妖気の底に沈むのである。

 俺が、このゴーストタウンに降リてきたのは、ちょうどその時刻だった。

 なすすべもなく、立ちすくんでいる俺のところに、うっすらと黒い気配が近づいてきた。

 「いらっしゃい……。」

 黒い気配は、まったく表情のない、透明な笑いを浮かべていた。

 「あなたと、御一緒にいられるなんて、いいわ」

 何と答えて良いかわからないので、うつろな顔で俺はただうなづいてやった。それが、

 このゴーストタウンで最初に出合ったゴースティンだった。名前は、サトミと言った。

 彼女は、その後俺が出合ったゴースティンの中でも、とび抜けた美少女である。年齢は

17才であった。その時は、ただ影のようにしかわからなかったのだが、夜が明けてみる

と、全身をフワリと包むような感じで、ひだの多いデザインの白い衣裳を着ていた。

 それ以来、サトミはずっと俺のそぱにつききりである。

 夜が明けて、シャバでの酔いがさめてくると、俺はまず猛烈な明喉のかわきに悩まされ

ることになった。続いて、空腹が襲ってきた。こうなると、俺の全感覚は、ただもう空腹

のみで覆われてしまうのである。それがいつのまにか去ってゆくと、今度は尿意だった。

 いくら出そうと頑張ってみても、物質のないエリアではどうすることも出来ない。その

苦しさといったら、トイレの前で地団駄を踏んでいる女の子の比ではないよ。

 サトミは、こうして次々に起ってくる際限のない欲望に苛まれる俺を、まるで病人を

   
いたわるように、よりそってくれた。サトミがいなかったら、俺は七転八倒しなければな

   
らないところだった。

 彼女の体内にも、俺と同じように激烈な苦痛がかけめぐっているに違いない。だがじっ

とそれに耐えて、俺をはげましてくれる姿は、崇高なまでに美くしく、ゴースティンとい

うより、まるでエンジェルのように俺には思えた。俺はこのゴースティンと、シャバでも

何かの因縁があったのではないかと、ずいぶん考えてみたのだったが、こればどの美少女

に出合った記憶はなかった。面影が、漠然と誰かに似ているといった程度で、サトミとい

う名前さえ思い出せないのだった。

 もう一人、近くに風変りな老ゴースターがいた。

 そう言えば、ひと月ほど前に、俺のマンションの近くでひき逃げ事故があったが、その

時の老人らしい。春だというのに着ぶくれて、一番上の毛糸のチョッキは腰の下までたれ

下っていた。老人特有の細い眼をして、いつも人のいやな所ばかりを見ているような感じ

だったが、生来お人良しの俺とは、案外ウマが合ったようだ。わずか三日の闇に、これま

で述べたような俺が得た智識の大半は、ほとんどこの老ゴースターから教えられたのであ

る。

 「あの女にや、気をつけたほうがいい…」

 サトミが、ちょっと席を立ったすきに、老人は、その後ろ姿をすかすように見送りなが

ら早口になって言った。

  「どこに住んでいるのか、 どういうわけがあるのかさっぱりわからか。ここでは、あ

あいうのが一番こわい。」

 たしかに、サトミはどこからともなく現われて、俺に寄りそっているが、その他のこと

は一切わからなかった。

 「そうかね…?」

 と、俺は心中いささか不服だった。

 「あんなに親切なやさしい娘だ。こわいことはないだろう?」

 「いやそうではない。何かよほどの事情がなければこんな所をうろついていやせんよ。

うむ、あいつは宿無しだ。」

 「すると、家出したとか…?」

 「そんな意味じゃない。殺されかたがひどい……。」

 老人は、大袈裟に顔をしかめた。

 「お前さん、うっかりするとあの女に何もかも抜かれてしまうそ」

 「なぜだ。」

 俺はちょっと不安な気持になって聞いた。

 「苦しみが大きい奴ほど、おもてづらはとぼけて見せてるものだ。お前さんだって、そ

うだろう?」

 「………」

 内心、ギョツとした。この爺い、つまらんことを言うな、と思ったが、やはり顔に出し

てはまづい。しらばくれて、そのあとを促がしてみた。

 「まあ、恨み骨髄、といったところだろうな、あの女は……。だから憩む場所がないの

だ。お前さんの横にべったりとへぱりついて、少しでも苦しみをうつそうとしているのさ」

 「冗談じゃない!」

 これ以上、人の苦しみまで背負わされてたまるものか、と俺は身震いした。まったく、

油断もスキもあったものじゃない。

 しかし、この爺さんの言うことも、一理ありそうで無さそうな気もする。いわば半信半

疑なのである。

 「だったら、どういう事情があるのか、聞いてみようか?」

 「無駄だよ」

 爺さんは分別くさい顔で言った。

 「誰だって、自分のことは隠しておきたい。聞いたって話すものか…。第一、他人様の

事情にはあまり立ち入らないのがゴーストの奥ゆかしさというものだ。」

 そのくせ、一番立ち入ってきたいのが、この老人なのである。だがその時、ほのかな気

配が戻ってきたので、老人は黙ってしまった。

 「なに、お話し…?」

 「何でもない、いろいろな相談をしていたのさ。」

 徴かにうなづくと、ゴースティンはまた寄リそって、俺の横にびったりとすわった。









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