第 一 章  わがゴーストタウン (2)



 っして、悪い気持ちではない。

 「くるしい? くるしくない…?」

 「大丈夫、もう馴れてきたから……」

 「痛いところ、ない?」

 「ないよ……」

 俺は、母親に甘えているような安らぎさえ感じた。抱かれているのは俺のほうである。

年は倍以上違う筈なのに……。

 この情景を、爺さんは細い剌すような眼でにらみつけていた。視線に嫉妬の影があるの

に気づいて、俺は、ははんと思った。サトミにわからないように、ニャッと笑い返えして

やった。爺さんは、プイと立ち上ると、どこかに行ってしまった。

 ちょうど、透明な妖気が次第に濃度を増してくる、夕まずめであった。あたりの緑や赤

い屋根が、みるみるうちに色彩を失ってゆく。カラーフィルムが突然モノクロに変ったよ

うに、あとはただ黒の濃淡だけがすべてを支配するのだ。ゆらゆらと揺れている森の影さ

え、今の俺にはロマンチックにうつるのである。

  「サトミ……」

 俺は出来るだけ甘く、やさしく言った。とてもじやないが、40男の出せる声ではなか

った。女の胸に抱かれながら、掌でそっと卜口のような頬を愛撫してやろうと思った。だ

がそこには、何の感触も残っていない。俺の手はむなしく宙を流れただけであった。

 しかし、ムードは最高に盛り上っている。このチャンスは逃すべきではないと、俺は思

った。

  「私が、好きなのかい?」

  「そう……」

  「これからも、ずっと一緒にいてくれるかい?」

  「いるわ」

  「サトミ‥・!」

  ハッとして、俺はいまサトミが何の感触も持っていなかったことに気づいた。うっかり

抱きしめようものなら、肩の骨も外しかねない。俺自身、まだゴーストの体質になり切っ

ていないのである。俺はようやくのことで、その衝動を自制した。

  気持は、サトミにもわかったようだ。少女はうつむいて、水仙の花のように淋しく笑゜

 た。夕暮れに、フワリとした白い衣裳だけが浮かんでいる。

  「そのうち、できるわ」

  ゴースティン特有の、感情を抑さえた物言いが一層せつなく、俺の胸をかきむしるので

 ある。

  「サトミ……」

  俺は、溜め息をついた。

  「どうして、お前はここにいるの?」

 「ころされて…」

 「苦るしかったかい?」

 「そうでも、ない」

 「なぜ、殺されたの?」

 「わからない」

 「誰に?」

 「わからない……」

 その言葉が終るか終らないうちに、俺は、ぞっとする冷たさを感じた。

 よりそったまま、サトミが突然おそろしい冷気を発散して、俺を包みこもうとしている。

全身が氷河に閉じこめられてしまったような息苦しさである。

  「う、わ、わ…!」

 夢中で、感触のない身体を突きとばすと、俺はつんのめるようにして走った。物凄い形

相をしたゴースト女が、うしろから追いかけてくるような気がして魂が宙を飛んだ。

 五、六十メートル走って、ようやく振り返えると、サトミはそのままの姿で哀しげにう

つむいていた。急に、激しい後悔といたましさがよみがえってきた。何故か胸をしめつけ

られるような思いで引き返えそうとすると、俺は誰かに背中を引っぱられたような気がし

た。

  「やめときな」

 ふりむくと老人が、今までのことを全部見ていたのではないかと思えるしたり顔で、首

を振っている。

  「このもやの中だ。行ったって、お前さんにはもう判リやしないよ。気持が鎮まれぱ、

また戻ってくるさ」

 サトミは、いま暮れかけた透明なもやの中に、黒い影となって溶けこんで行こうとして

いる。泣きたいような気持で立っている俺に、老人は、ひとつ大きなしわぶきを入れると、

  「あれは怨念だよ。だから、他人のことには立ち入るなと、そう言ったろう」

  そのとき、ゆれる藻のような森の奥から、かすかな歌声が流れてきた。余韻をひいて、

絶えたかと思うと、じょうじょうとしてまた続く。風に流れるクモの糸よりも細く、波間

の夜光虫よりも一層はかない歌声であった。

  俺はあんな不思議なメロディを、まだ聴いたことがない。それは哀しい子守唄であリ、

 絶望の鎮魂歌だった。森の奥からこだまして、まるで地を這うように、歌声はゴーストタ

 ウンのすみずみにまで拡がっていった。

  「あの娘が、自分で作ったとよ…」

  と、老いたゴースターは言った。

  「あんまり真剣に聞かんほうが良い。気分が滅入ってしまうからな・・・」

  老人は、背をむけて立ち去ろうとしたが、また戻ってきて、

  「お前さん、いい年をして、あんな娘に惚れんほうが良いよ。ろくなことはないよ」

そう言って、トボトボと行ってしまった。いい年だろうが、余計なお世話だ。

俺は、老人の後姿をにらみつけてやった。

 たしかに、俺はこれまで女に惚れたことは何回もあった。しかし、その女のために何か

をしてやりたいと思ったことは一度もなかった。ゴースターになって、俺ははじめて本当

の恋を知ったような気がする。

 俺は、生き甲斐を感じた。ゴーストに生き甲斐というのもおかしな話だと思うが、そう

としか言いようのない気持だった。

 だが今は、着ぶくれた老人の言うとうり、サトミのことはそっとしておいたほうが良い

と思う。このままのめりこんでしまったのでは、俺自身、いったいどうなるというのだ。

ー日も早く、シャバへの権利をとリ戻すことが、サトミの幸福にもつながると俺は信じた

い。

 ひとりになると、俺は気をとりなおして、あの晩のことをいろいろと考えてみた。

 無礼極わまるやり方で俺を殺害した犯人は、男か女かさえまだ解ってはいない。ただあ

の時の感触からして一人であることだけは確かだった。第二に犯人は車を持っている。

そして俺が仕事場にあのマンションを使っていることを知っている奴だ。つまり、身近か

な人間である。

 手の中にあるたったこれだけのカードでも、しぼってみると、案外その数が限られてく

ることがわかった。俺は、そのひとりひとりについて、直接あたってみるより他に方法は

ないと思った。死んで三日目ともなれば、もう俺の葬式も終った頃であろう。ほとぼりが

さめないうちに、俺はまず、妻の可奈子から、はじめることにした。車を持ち、当然マン

ションも知っている。いわば最も身近かだった人間である。

 あの毒にも薬にもならない女が犯人だなどとは思えなかったが、今のうちなら、何か具

体的なことがわかりそうな気がする。

 また、あの年寄りにうるさいことを言われるのがおっくうだったので、俺は黙って、サ

トミと初めて出会った場所に行った。ちょうど良い目印に、小さなヒバの本が立っている。

俺にとって、ここは唯一のシャバに出るための通用門なのであった。ヒバの本の下をくぐ

ると、俺はとたんにマンションの横の細い道に立っていた。

 ことわっておくが、ゴースターは決っして超能力者ではない。

 それは物質か非物質かというだけの違いなのであって、宙を飛んで変幻自在に出没する

のはお伽話である。シャバを移動する時には、ちゃんと二本足の感覚で歩かなければなら

ないのだよ。

ちょうど良く、その時マンションから若い女が出てきて、眼の前で車を止めた。こういう

時には、非物質はまことに好都合である。いい按配だと思って、俺は同乗させて貰うこと

にした。

 車が走り出すと、女は「上野」と言った。失敗ったと思った時はもうおそかった。わが

家は「阿佐ケ谷」である。

 超能力とは違うから、煙のように車から脱け出すことなど出来よう筈もなかった。ドァ

を開けて降りるわけにもゆかず、俺はとうとう上野まで運ばれる破目になってしまった。

女はその間じゅう、寒むそうに首をすくめて黙りこくっていた。こんなわけで、上野から

国電に乗って、ようやく阿佐ケ谷の自宅に辿りついたのは、夜の十時をすこしまわった頃

であった。

 我が家の前に立った時には、流石に感無量だった。葬儀の花環はすでに取り払われ、家

は静まりかえっていた。それでも二階にぼうっと灯のかげを見た時には、涙が出そうにな

った。何とも言いようのない寂寥感である。

 あの部屋に、可奈子が一人悄然としているのかと思うと、たまらなく可哀想な気が

した。愛情というより、曲りなりにも夫婦としての十余年の歴史がそれを感じさせるので

あろう。わずかな隙間を見つけて、俺はようやく家の中に入ることが出来た。

 灯が見えたところは、仕事場とは別に俺が書斎として使っていた部屋であった。

 玄関に、男物の靴があったのがー寸意外だったが、二階に上って行くと、内側からポソ

ボソと話し声が聞こえた。声には聞き覚えがあった。

  「これで、全部です」

 と、その声が言った。

  「ざっと、百二十万といったところですよ、奥さん」

  「案外、少なかったわね」

  これは、可奈子である。いつも使っていたテーブルの上に、かなりの千円札と、わずか

ばかりの一万円札が置かれていた。それが俺の香典であることは、すぐに察しがついた。

  「人間、死んでしまうとこの位にしか評価されないものなのかしら、はかないものね」

  と、可奈子は肩を落とした。

 男は、久野久雄である。俺にとっては、まあ弟子兼マネージャーみたいなことをしてい

た。小才の利く男で、一寸した代作くらいならやってのける腕も持っていたので、重宝な

存在であった。

 ようやくすべてが落着したので、最後に香典の整理をしていた所であろう。それにし

ても、百二十万とは、すくないな…。

  「本当に、何から何まで、御苦労様でした。いろいろとお世話になって…」

 おそらく、葬式万端この男が取りしきってくれたのであろう。済まなかったな、と俺も

かげながら頭を下げた。

  「翠さんは、あの晩からずっと帰ってこないんですか?」

 さめた茶をごくりと飲んで、久野は話題を変えた。

  「まさか、本当に家出してしまったんじやないだろうな」

  「親が死んだっていうのに、あの子ったら、ボーイフレンドがいる様子もなかったんだ

けど・・・、どうしたのかしら、わからないわね」

 可奈子は、さほど心配そうな顔も見せずに言った。

  r友達から、ポルノ作家の娘っていう眼で見られることが死ぬほど厭なんですって、あ

な父親なんかいなければ良いって、いつも言っていたから…、もともと、あの子は父親

とは合わなかったのよ」

 やはりそうか…、俺は視線を落とした。

 「それはそうだろうな、まだ17才じゃ無理もない…」

  「あら、それは私だって同じ、年なんて関係ない」

 茶をつぎたしてやりながら、可奈子はうすい唇をまげた。

  「ご近所から、私のことどんな眼で見られているかと思うと、ぽんと、嫌になっちゃう」

  「ほう、そんなものですかね」

  「つめたいのね」

 可奈子は、すねたような声を出した。

  「夜の生活だって、ずいぶんスゴイんじゃないかなんて…、そのくせ、近頃は本当にあ

の人とは何もなかったのよ。ねえ、わかるでしょう? よくあれで、ポルノ小説なんか書

けてたと思うわ。ほかに女でもいたんだったら別でしょうけど…」

 久野は、クックッと笑った。細い肩をゆすって、いやな笑いかたである。

  「まあ、いいじゃないですか、先生には、先生の世界があったんでしょうから…」

  「浮気も仕事のうちって言うのね。勝手なものね」

 ふてくされたように、可奈子は札束を片づけはじめた。それを指先で器用にかぞえなが

ら、ちょっと声を低くして言った。

  「でも、私、あの人はちょうど良い時に死んでくれたんじゃないかって思っているの」

  「へぇ、何故です」

  「だって、何んとか家も建ったし、四谷のマンションは売れぱかなりのお金になるし、

あの人の保倹だって、まだ三年とちょっとしか掛けてないのよ」

  「筆一本にしては、ずいぶん残りましたね」

  「あんなポルノ小説で稼いだんだから、どうせあぶく銭よ。あいつのことだから、どう

せすぐ飲んで使っちゃうわ。これだけでも、ちょうど良く残ったところで死んでくれたん

だから助かったわ」

 そのあぶく銭でたらふく飯を喰っておきながら、可奈子の言ったことは、俺を逆上させ

るのに十分であった。その上、次の久野の言葉を聞いた時、俺は、全身が火柱になったか

と思った。

  「僕は、むしろ遅すぎたんじゃないかと…、奴っこさん、自分ではしっかりと流行作家

のつもりでいましたがね。本当のところは、失業一歩手前だったんだ」

  「あらどうして?」

  「ネタは古いし、マンネリでちっとも面白くない。どうやらもっていたのは、僕が代筆

 してやっていたからでしょう?」

  ケラケラと、可奈子が笑った。

 「作家なんて、名前の売れているうちに死んじやったほうが、トクなわけね」

何と言う奴らだ! 

 いつのまにか、あの人があいつになり、先生が奴こさんに変っている。俺はかりそめ

にも、先刻この男に頭を下げる気になったことを悔やんだ゜たしかに代筆はさせたが、何

と言う忘恩の徒だ。 

 しかも、俺はその時、なお信じられないような情景に接した。ケラケラと笑いながら、

可奈子がヒョイと久野の膝に手を置いたのである。

  「ねぇ、今夜はもう帰らなくたって良いんでしょう?」

  「さあ、どうしようかな…」

  「いじわる!」

 

 可奈子は膝に置いた手で、久野を揺すりながら言った。

  「三日も御無沙汰なんて、私、辛抱できないわ。ねえ、今夜から、堂々とやって……」

 と、言うことは、こいつらはあの晩も、どこかで逢っていたのだ。俺を仕事場に追いや

゜ておいて、何があぶく銭だ。この調子では、とても二度や三度ではあるまい。俺は馬鹿

らしい程のお人良しであった。

  「あゝ嫌だ嫌だ。家中にまだ死人の臭いがしているみたい。私、お風呂をつけてくるわね」

 可奈子はそう言うと立ち上って、急いで部屋を出ようとした。見馴れた女房の顔が、い

きなり眼の前に追ってきたので、俺は思わず二、三歩後に退った。その途端、階段から足

を踏みすべらせて重心を失った俺は、そのまま後頭部から一挙に階下まで転落してしまった。

 ド、ド、ド、と音こそしなかったが、俺は息がつまったようになって、動くこともでき

なかった。非物質の俺の顔の上を、可奈子の素足が思う存分踏みつけて通っていった。

 はじめに、家の前に立った時の感傷が如何に甘いものであったか、思い知らされた感じ

だ。怒りとか嫉妬とかいった感情とは別の、深刻な人間不信の中に、俺はうちのめされて

しまった。

 シャバにいる間だったら、まだ報復の手段もあろうが、一方的に傷つけられたまま、俺

はこの家を出た。どう怒り狂ってみたところで、相手にそのことを伝える方法は皆無である。

 彼らが、俺を殺した犯人と、どういう関係にあるのかもつかめなかった。可奈子と久野

との秘密も、今となってはまるで自分の阿呆をたしかめに来たようなものだ゜ようやく阿

佐ケ谷の訳まで戻ってはみたものの、孤独と絶望と、周期的にやってくる猛烈な空腹感と

に虐まれて、俺は、ベンチにへたりこんでしまった。

 二十分以上も、そうやってうづくまっていたであろうか・・・。

 いつのまに来たのか、俺は、同じベンチにもう一人のゴースターがいることに気づいて

眼をみはった。






つづく もどる