第 一 章 わがゴーストタウン (3)
シヤバで、ゴースターに出会うのは始めてである。俺は意外だったが、その反面、何故か
ホッとした気持になった。外国の町でバッタリと日本人に出会ったような親しみを感じる。
そのゴースターは、二十四、五才といったところで、気の弱わそうな、色白で顎の細い
青年である。俺のことに気がついているのかどうか、釣り人が浮きを見つめるように、じ
っと線路の一点を凝視していた。
しばらく迷ったあとで、俺は思いきって声をかけてみることにした。
「もしもし…」
「何です?」
若いゴースターは、相変らず線路から視線をそらさずに答えた。
「何を見ているんです。変ったものでも落ちているんですか?」
「いや……」
青年は、神経質そうな顔を上げた。眉をよせ、細い顎をつき出して俺をみつめた。
「ここで、僕が殺されたんです」
と、それだけ言うと、再び視線を線路の上に戻した。
「殺人ですか?」
「いえ、心中です」
「すると、二人で…?」
「いえ、一人です」
俺には、どうも話が良くのみこめなかった。黙っていると、若いゴースターは独り言のように
ポソポソと話しはじめた。眼は、ずっと線路に釘づけになったままである。
「僕は、信じていました。死のうと約束した時も、疑うなんて、僕には出来なかった。
彼女と、このベンチで最後の時を過したんです。ちょうど今頃の時間で、ホームにはほと
んど人影もありませんでした。本当を言うと、僕は死ぬのが厭だったんです。彼女は美人
だったし…、もちろん、肉体関係もあったんです。死ぬよりもっと他の途はないのかと言
ってみたんですけど、彼女の決心はとてもかたくて…、結局、次の電車が来たら、という
ことになったんです」
青年は、ホームの丸い時計を見上げて、ぽつりと言った。
「23時57分…、もうすぐ、やってきますよ」
終電車の二、三本前にあたるのだろう、なるほど、重い金属性の響きが近づいてきだ
「電車のくる音が、いつもの三倍くらい大きく聞こえるんでず僕は怖くて怖くて、
彼女の手を取ったまま、しっかりと眼をつぶっていました。その時、“今よ!"と叫んで彼
女がパッと立ち上ったんです。僕は夢中で走りました。と言っても、一秒と何分の一の距
離しかないんですよ」
そう言って、青年はベンチからホ一ムの端までの距離を顎で示した。
「三、四メートルといったところかな」
「そう・・・、たったそれだけの間に、彼女の気持ちが変わったんです。あと一歩のところで・・・、
彼女は突然"怖い!"と言って手を離しました。こっちは弾みがついているから、止まりゃしませんよ」
轟ツ、と電単の最前部が眼の前を通リすぎて行った。
「それだけなら、まあ仕方ないんですが、彼女はその手で、トン、と僕の背中を押した
んです。おかけで、モロに飛び込んじゃいました」 `
「そりゃまずいよ、君。女の子と心中するのに飛び込みは…、屍体が一番破損する方法
なんだぜ」
「えぇ僕もそう思います。彼女だって、ほんの何分の一秒かの闇にそのことを考えた
と思うんです。じつに、沈着というか、冷静というか…」
そんなことを感心している場合か、と俺は怒鳴りつけてやりた、かった。
「死んでから気がついたら、彼女は、僕が無理やり一緒に飛び込もうとしたんで・、夢中
で手をふりほどいたんですと言って、駅員に説明しているじゃありませんか。僕ア、吃驚
したなあ」
「よく、吃驚しただけで済ませましたね」
「仕方ないでしょう。死んでからでは…」
「しかし、背中を押したというのは、立派な殺人行為ではないか」
「殺意があったとは思いたくありません。彼女はそのおかけで、線路に落ちる寸前で踏
みとどまることが出来たんですから…」
寛大さにもほどがある、と言いかけて、俺は口をつぐんだ。こっちだって、あんまり
えらそうなことは言えないものな。
やれやれ…、と横を見ると、気のやさしい若者の気配は、いつの問にか消えていた。
どういう事情があったのか、いわば心中殺人事件の被害者となって、それ以来、毎晩
23時57分になると、駅のベンチに出て来て、優きもせず、ただ自分を納得させるだけの
ために、その時の線路を見つめている若いゴースターの心情を思うと、哀れだった。
サトミのことが気にかかる。俺も、早くゴーストタウンに帰りたい。
だがもう一ケ所、仕事場の様子だけは、どうしても見ておかなければなるまいと思った。
俺は気をとりなおして、まもなく入ってきた電単に乗ると、例のマンションのある四谷に
戻った。おそらく、終電車であっただろう。
駅から五分ほど歩いて、メインストリ一トのひとつ奥にある“ニュー四谷マンション"
というのがそれである。夜が更けているせいもあって、あの晩と同じように人通りはほと
んどなかった。もっとも俺のシャバへの通用門は、このすぐ横の道にあるのだから、いく
らおそくなっても問題はない。
仕事場は六階建てのマンションの五階で、あたりに高いビルがおおいために、それ程見
晴らしが良いというのでもないが、とにかく、他人の生活を見おろしながら仕事が出来る
ことは快適であった。
内部は、シンとしていた。ただし、寝静ま。ているわけではない。このあたりは、深夜
から夜明けにかけて帰宅する人種が多いのである。俺は慣れているから、かまわずに五階
まで上った。501号室に“久留島”と表札がそのままになっているのを見て、正直ホッとした。
しかし、ここでまた阿佐ケ谷の時のように甘い感傷にひたっていると、どんな事態に
ぶつかるか知れたものではない。十分に自戒しなければいけないと自分に言いきかせて、
俺はなかに入った。鍵は、死ぬ時ポケットに入ったままになっていたので助かった。そうで
なければ、締め出しをくらう所だった。
葬式を自宅から出したので、ここはまだ、ほとんど手がついていない。三日前に俺が外
出した時のままの状態が保たれていた。
2DKなので、手前を書庫がわりにして本棚などを置き、奥の部屋にベッドと執筆用の
机、それに整理机を脇にならべて、俺は仕事をしていた。疲れたらいつでもベッドに横に
なれる仕組みである。執筆机の上には原稿用紙が一センチ程の厚みで置かれ、愛用のモン
ブランが転がったまま、ベン先のインキが干からぴていた。前の晩おそくまで仕事をして
いたので、書き損じの原稿用紙が散乱している。明け方までかかって、短篇をひとつ書き
上げ、仮眠してすぐにとび出したので、ペッドの上では毛布がひっくり返っていた。
その夜、俺は死んでしまったのだから、あの時作品を渡しておかなかったら、今ごろは
編集長、青くなっていたろう。絶筆という程の大袈裟なものではないが、とにかくひとつ
の責任を果たしておいたことに、俺はひそかな満足と安堵感をおぽえた。
机にむかっていつものように座り、ポーズをとってみた。
たかがポルノ小説というが、こうして俺のペン先から、百数十篇の作品が生まれ、多く
の愛読者を得たのだと思うと、やはり感慨なしにはいられなかった。しかも、これから
いよいよ代表作にとり組もうとしていた矢先だっただけに、一層、未練と執着がつのるので
ある。やり残した仕事の多さに、シャバヘの郷愁というか、俺はしんしんと自らを責める
思いにかられていた。
カチ、カチ、と俺はその時、思いがけなく徴かに金属の触れ合う音を聞いたのである。
あるじが死んで、灯もなく冷えきった部屋に、この深夜、誰かが鍵をあけて入ろうとし
ている。俺は、総身に鳥肌がたつような気がした。
ゴーストのくせに、こんなことではいけないと自分をはげまして、ドアのところまで行
ってみると、向う側から、静かに鍵がまわり、やがてコトリとトアが開いた。
「どうぞ……」
と、ハスキーな女の声が言った。眼をこらすと、その後から、痩せぎすの背の高い男の
影が入ってきた。
俺は、あっと思った。玉石寿々子と、プロデューサーの瀬川和彦である。
二人とも、流石に緊張しているらしく`音がしないように後ろ手にドアを締めると、
電気のスイッチには手を触れずに奥に進んだ。
案の定、何かが動きはじめているようであった。
入って来たのが玉石寿々子とわがて、俺ははいっぺんに落ちつきを取り戻した。寿々子は同じ
マンションの、301号室の住人である。この部屋にはいつも出k-りしていたことだし、合い鍵を
持っていても不思議ではなかった。
手さぐりでスタンドをさがすと、寿々子は小さな豆電球のほうをつけた。
「お願い先生、一寸待ってて…」
「うむ」
瀬川は、あまり乗り気でもなさそうな声を出した。それ、から大きく股をひらいて、神聖
な俺の机の上に、どかっと尻を落とした。整理机や書棚のあたりを、一生懸命物色している
女の手元を面倒臭さそうに見守っている。
「ほら! あったわ、やっぱり…・・・」
途中まで書きかけて、投げ出してしまった三十枚ばかりの原稿を発見すると、寿々子は
声をはずませて言った。
「久留島先生は私のために、まだまだ面白い作品をいっぱい書いて、どこかに隠してある
のよ。きっとそうよ」
「フン、面白くも何ともねぇよ」
渡された原稿用紙を、お義理にパラパラとめくって、瀬川はすぐに机の上にほうり出し
てしまった。その尻を、思いきり蹴とはしてやりたい衝動を、俺はやっと抑さえた。
だが寿々子の目的は、どうやら判ったような気がする。悪ずれした瀬川にくらべて、
女優の執念というか、寿々子の気持は、行為の善悪は別として認めてやりたいと思った。
「よう、寿うちゃんよ」
瀬川は、俺の原稿用紙で、ふたつめの紙飛行機を折りながら言った。
「あんた、もう一人前の女優なんだよ。いつまでも、こんなつまらねぇホンに頼らなく
ったって、モノ書きなんか他にいくらでもいるじゃねぇか」
「わかっているわ。だけど、久留島先生は、私には恩人じゃない?」
「ひえぇ」
プロデューサーは、吃驚して紙飛行機を折る手を止めだ
「寿うちゃん、あんた本当にそう思っているの?」
「もちろん!」
「今どき、珍らしい人だねぇ」
瀬川は、まじまじと寿々子を見つめながら
「もしかして、まだ惚れてるんのとちゃうか?」
「かも、ね……」
しんみりと、寿々子は言った。
「子供がいて鳴かず飛ぱずだった私を、はじめて主役に推薦してくれたのも、
久留島先生だったわ」
「そらま、そうだが…」
瀬川もそのことは、十分に承知している筈であった。
「たしか、おととしだったかな」
「ええ、日東テレビの深夜番組で、先生の原作をやったとき‥・j
当時、名もない女優だったが、たまたま俺が同じマンションにいることがわかって、
寿々子のほうから積極的に近づいてきた。はじめは、すこしでも良い役にしてほしいというの
が本音だったのだろう。五階と三階だから、ことは簡単であった。
出来ぱえのほうは`可もなく不可もなしといったところで、そのことを、寿々子は今でも
恩に着ているのだった。
クスン、と寿々子が鼻を鳴らした。
「おいおい、寿うちやん……」
「だって、いろいろなことを、いっぺんに思い出しちやって……」
手あたり次第にかき集めた古原稿を抱きしめるようにして、寿々子は肩をふるわせている。
俺は、俺のために泣いてくれた人間に、はじめて出逢った。何故か、俺まで眼頭が熱く
なってきた。
「わかったよ、わかった。お、、可衰そうに……」
こいつ、馬鹿じやないか。瀬川は立ち上って、左手で寿々子の背中をさすり、右の手を
要領よく胸にのばした。
「よしよし、いい子だ。だけど、もういいかげんにして三階に行こうよ」
「やめて……!」
寿々子がうしろ向きのまま、その手を払ったので、腕が瀬川の顔にあたり、眼鏡が斜め
になった。ざまを見ろ。
あわてて眼鏡をなおすと、瀬川はムッとした様子で、俺の大切な机の上に、もう一度尻
を乗せた。
「寿うちやん……だけどね」
プロデューサーは、妙にこもった言い方になって
「あんた、本当に女優として認められるようになったのは、去年の暮れにやった人妻
シリーズからだってこと、忘れないでほしいな」
「何よ、それ……」
寿々子は涙がこぼれ落ちそうになった顔を上げた。
俺はツバをのんだ。その角度といい表情といい、成熟した女の演技が濡れて、ゆらめい
ている。たしかに、最近の寿々子は、あの頃とは人が違ったように、女優として眼ざましい
成長を遂げているのだった。
「つまりさ、玉石寿々子の本当の魅力を発堀したのは僕だってこと、忘れないでほしいわけよ」
「でも、利恵がいた頃には、私のことなんか見向きもしてくれなかったじゃないの」
「仕方ねぇだろうな。それは…」
ほの暗い豆電球の灯りで、瀬川は冷たく笑った。
「子供ってやつは、女優稼業にとっちや、決定的なハンデだったからな」
「子持ちでは、女優はっとまらないって言うのね1
「そう直線的にとってくれちや困るよ。すくなくとも、玉石寿々子の場合は、子供を
なくしてからのほうが魅力が三倍になった、という奪昧なの1
「それじゃまるで、私が利恵の命を奪って女優になったみたい…」
寿々子は大きくしやくり上げると、テレビの演技そのままに泣き伏してしまった。
いささか、これは興ざめである。
「利恵ちゃん、ごめんなさい。ママがいけなかったの。いいえ、みんな久留島先生が
いけないんだわ!」
いきなりお鉢がまわってきたので、俺は泡を喰った。
「あの晩、先生が何もしなかったら、こんなことにはならなかったのよ。先生ったら、
強すぎるの、私をなかなか錐してくれないんですもの…」
冗談ではない。あの晩…、というのは、俺だってはっきりと覚えている。
あの晩は、寿々子のほうから五階の俺の部屋に上がってきた。そして俺のベッドで三時間
近くもすごしたのである。
こっちの責任にされたのでは、たまったものではない。
「惚ろけてんの? それ……」
瀬川も、うんざりしたような顔になった。
「だって、正子が急に家出なんかしてくるんですもの。私が先生の部屋に行くしか、
仕様がないでしょう」
ようやく涙が止った様子で、寿々子はうらめしそうに言った。
「勿論、お仕事の話もあったわ。正子が利恵を見ていてくれるというから、安心して
いたんだけど、帰ってみたら部屋中がガスでいっぱい…。二人とも、折り重なるようにして
倒れているんですもの、私もう、吃鷲しちゃって!」
「ガス栓が、開いていたのかい?」
「えぇ、すぐに窓を開けて調らべてみたんですけど、いつも使っていない所が一個所、
半分ほど開いていたの。すぐ締めたけど、手おくれだったわ」
「子供だから、利恵ちゃんが悪戯したのかも知れんな」
「それにしても、正子は17才にもなって、どうしてあんなひどい匂いに気がつかな
かったのかしら?」
「ガスは、二人が倒れた後も洩れつづけていたんだ。半分くらい開いたところから、
ジワジワと出てきたのでは、わからなかったとしても仕方がない…」