第 一 章 わがゴーストタウン (4)
そう言って、瀬川は、ふっと何かに気がついたようであった。
「あんた、部屋を出る時には、ガスの臭いはしなかったのかいり」
「全然・・・、だって私はそういうことにはスゴク敏感ですもの」
「ドアは、ちゃんと締めたんだろうね」
「内側から正子が鍵を掛ける音を聞いたわ」
「ふうん……」
プロデューサーは暫らく考えていたが、やがて、それを払いのけるように首を振った。
「ま、どうだって良いや…」
それからゆっくりと立ち上って、
「済んじゃったことだ。もう仕様がないだろう? 寿うちゃん、良いから早いとこあん
たのお部屋に行こう。連れて行ってよ」
「原稿を、必らず読んでくれるっていう約束よ。それでなくっちゃ、嫌」
「はいよはいよ、わかったよ」
古原稿の束を寿々子から受け取ると、瀬川は面倒くさそうに紙袋の中に入れた。
「全く・・・、ここは何だか死びと臭くって、それに先刻から誰かに見つめられているような
気がして、ちっとも落ちつかねぇよ」
「そんなこと、あるもんですか…」
と寿々子は笑いかけたが、途中から、ぞくっと首をすくめて笑いを消してしまった。
ドアのところで、瀬川が寿々子の肩を抱きよせようとするのを、俺は無気力に見送って
いた。この上、三階まで一緒について行って、彼らの情事を見せつけられるのは、もうた
くさんである。
二人が出て行ったあと、消し忘れた淡い豆電球の光だけが残った。
俺も、早くゴーストタウンに戻りたい。これだけお世話になった筈のシャバよりも、
死の世界のほうが安らかに思えるようになったのも不思議だった。俺はのろのろと立ち上って、
自分の仕事場に別れを告げようとした時、ふと気になったことがある。
寿々子がかき集めた原稿用紙の束の中に、俺がこれから書きはじめようとしていた作品
の覚え書きが見あたらなかったのは、何故だろう。
念のため、もう一度あたりを見まわしてみたが、それらしいものはなかった。
「………?」
もしかしたら、寿々子より先にこの部屋に入って、覚え書きだけを持ち去った者がいた
のではないだろうか。
俺は、いやーな気持になった。今はそれをたしかめる何の手がかりもないので、仕方なく、
重い足を引きずるようにして、俺はマンションの外に出た。時間は、とっくに一時を
まわっている。
外には、俺が死んでから四度めの夜が、更けわたっていた。わずか数時間のことであったが、
俺は疲れはててしまった。
この夜、可奈子は久野と、寿々子は瀬川とそれぞれ同じ屋根の下にいる。短時日の間に
俺はもう完全こ彼らの生活のリストから抹消ざれてしまっているのだった。
家出したという娘の翠も、今ごちは新宿のラブホテルにでも泊まっているのであろうか。
誰ひとり、悲しんだり途方にくれている者はなからた。俺にとっては、全くきぴしい現実
である。彼らはものの見事に人生の配置転換を完了して、ピタリとおさまっていた。
棚の上からひとつだけ転り落ちたダルマさんのように、俺は孤独だった。
マンションの横に立つと、カシヤリとシヤッターがまわった感じで、俺はゴーズトタウンの
ヒパの木の下に、背中を丸めて立っていた。
黒く透明な夜のゴーストタウンは、鬼気迫る冷気と沈黙の中で揺れていた。ウォーン、
と奇怪な拡がりを持った不思議な音が、空の上を移動している。音は森めほうからやってきて、
反対側に消えたかと思うと、突然頭上からおこり、大きく一回転して遠ざかっていった。
あらゆる欲望や煩悩を断ちき=られたゴーストの怨念が凝結すると、あのように愁々たる
響きを放つのであろうか。
空の泣く声をうしろに、俺はとぽとぽとゆるい坂道を登った。棲み家は眼の前めひくい
丘の上であった。
たどりついた家の入り口のところで、俺は、内部にかすかな気配があることに気づいた。
サトミに違いない! 良かった。やっぱり俺のところに戻っていたのだと思うと、胸の
中にパッと灯がついたような気がした。急いでなかに入ると、壁と床だけのうつろな棲み家の
片隅に、たったひとつだけある寝台の上で、サトミはうずくまっていた。
「サトミ!」
顔を上げて、サトミはあの白い水仙のような笑いを浮かべた。あの時のショヅクからは、
もう立ちなおっているようであった。俺は駈けよって、サトミのまったく重量感のない
からだを抱いた。
「淋しかったろう?」
サトミは、小さく首を振った。それから、俺の顔を覗きこむようにして言った。
「さっき、ごめんなさい…」
あの、独特の節まわしである。
「何も、わからなかったの」
「良いんだ。私が悪かった。お前のせいじやない!」
四十男のこの俺でさえ、たった半日シャパに行っただけで、これほど傷つくのだ。
まして、サトミはようやく思春期をこえたばかりの少女である。感情の木の葉はわずかな風の
そよぎにも震えおののくに違いない。それに耐えているだけでも、サトミにとっては
大変な努力なのだ。
俺は、今後サトミの傷痕に蝕れるようなことは金輪際いうまいと心に誓った。
寝台にならんで、こうしてサトミを抱いているうちに、ようやく僅かな安息がもどってきた。
それにしても、ここはおそろしく殺風景な場所なのである。
他のゴーストたちの棲み家はまだ見たこともないのでわからないが、何十年も前に、や
はりこのあたりで殺されたゴースターの誰かが建てたのだろう。全体が木ともコンクリート
ともつかない感触で作られ、窓が小さく入リロはひとつ、ただ真四角に囲っただけの
あぱら家である。家具と言えば、堅い一枚板の寝台がひとつきりであった。
そのゴースターは、やがてシャベに戻ることが出来たのかもしれない。ちょうど良く空
き家になっていたので、俺はそのまま棲みついてしまうことにした。ゴーストタウンまで
きて、家を新築するなど、俺にはとうていそんな気力はない。
丘の上と言えば聞こえは良いが、昼になって見ると、あたりには雑草が茂り、枯れ葉が
腐って足もとがフカフカしていた。のどかな田園風景だつたが、遠くに見える赤い屋根も、
行って見ると大体同じようなものであるらしい。それでもこのへんは、まだ住みやすいほ
うであった。
ゴーストたちは、そのなかで、内面の焦りや悩みごとをひたかくしに、如何にもさりげ
なくのんびりと暮らしている。
俺はむしろ、サトミとはシャバで何の関係もなかったらししいことに、ひそかな安堵と喜
びを感じていた。こうして寄りそっているだけで、殺風景な俺の棲み家に、ほのぼのとし
たぬくもりがよみがえってくる。俺は、それだけで満足であった。
疲れが、どっと出てきた。わずかな時間だったが、初めてのシャバで神経が相当に昂ぶって
いるのであろう。そんな俺を、サトミはやさしく庇って、寝台に横たえてくれた。
そしていつものように、枕もとにすわって、黙って俺を見守っている。だが、葬式の祭檀に
似た俺の寝台は、堅い木の一枚板で、とうてい、らくらくと手足をのはして休める代物で
はなかった。
俺は寝返りをうち、サトミの腰に腕をまわした。思いきって、力を入れて引き寄せてみ
た。重さのないサトミのからだは、抗うすべもなく手繰り寄せられ、スルスルと俺の腕の
中に入ってしまった。
サトミは吃驚したようであった。暫らくそのままでいると、小刻みに震えが伝わってき
た。だが俺は強引に離さなかった。
「怖わがるんじやない!」
と、俺はサトミの耳もとで言った。
それから先、どうしたら良いのか、自分でもわからなかった。せめて、わずかにでも
残っている骨の感触だけでもさぐりあてたい。俺は感覚の命ずるままに、ただ夢中でサトミ
と同化しようと努めた。堅い一枚板の上で、それは決してらくな作業ではなかった。
その時、俺は思いがけなく、サトミの身体の一点に、これまでにはなかった確かな抵抗
を感じた。
あっと思って見ると、サトミは眉をよせ、首をのけぞらせるようにして苦痛に耐えてい
る。いま、開花しようとしているのだった。おどろきと感動が、俺をさらに昂めた。
サトミのからだが揺れ、そのたびにあちこちから蒼白い燐光を発した。乱れたリズムで、
それは濃く淡く蛍火のように息づくのだった。俺は、こまやかな真珠の泡で、全身を包
まれているような気特になった。サトミと俺との感覚が同化し、まぎれもなく一体となっ
た瞬間、俺の身体の奥から突然冷たい炎がほとぱしって、ポッ、ポッと燃えた。
ぐったりと、サトミは薄い絹のドレスを投げ出したように、打ち伏してしまった。ひと
ことも、うめき声さえもらさなかったことが、かえって少女の懸命な意志を伝えて、いっ
そういとしさがこみ上げてきた。そっと手を肩にのせてやると、ようやく顔を上げて笑った。
痛々しいほどの美くしさだった。俺は、言葉を見失なってしまった。
サトミが、俺の胸に冷たい頬を寄せてきた。そして小さな声で言った。
「できたのね……」
「‥‥‥‥‥ 」
俺は、黙ってサトミを抱きしめてやった。感覚がゆっくりと沈静してきて、ある種の倦怠と
奪力感に覆われていた。が、その時、俺は背中に何か得体の知れない悪感のようなも
のを感じて、さっとうしろを見た。
壁にある小さな高い窓の隅から、ぎろぎろした一条の視線がのびている。俺が振りむく
と同時に、それはスッと窓の外に消えた。
あの爺いだ!
近くに灰皿でもあったら、思いきり投げつけてやったのに…、暫らくにらみつけている
と、黒い気配は、やがてヒタヒタと遠ざかっていった。
蓄生め、いつから覗いていたのか…。俺は無性に腹が立ってきた。せっかくの夜も、
これでは台無しである。
あやかしが行ってしまうと、サトミもほっとして腕の力を抜いた。
夜も、やがて明けようとしている。俺はサトミを促して、棲み家の外に出た。二人の
密着感は、もう昨日までの比ではなかった。こうして肩をならべていると、まるで百年も
二百年も前から一緒だったような気がする。この少女と、俺はいったいどういう因縁で結ば
れているのだろうか。おそらく、サトミもきっと同じようなことを考えていたに違いない。
サトミはいっそうすり寄ってきて、すがりつくような眼で俺を見上げた。
「あんな爺さんが何を言っても、気にするんじやないよ」
と、俺は言った。
「私は絶対にお前を錐したりはしない。安心おし…、信じるんだ!」
「はなれたら、つらいわ」
「わかっている…!」
俺は、ひしとサトミを抱いた。柔らかな羽毛のような身体が、実態となって腕の中に
もたれかかってきた。俺の体質は、明らかにゴーストとして変化し、成熟しはじめている。
つい数時間前まで、サトミの身体には何の実感もなかったことを思うと、鷲くべき進歩で
はないか…。
「うむ! そうだ。今日からはー緒に住もう。サトミ、お前はやど……」
宿無しだから、と言いかけて、ハッと言葉をとめた。
「いや、二人ともそのほうが良いじやないか…、え、そうだろう?」
少女は、暫らく俺を見つめていた。そして、力なく首を振った。
「何故だ。サトミ、いやなのか…?」
俺はせきこんで言った。答えるかわりに、サトミは、俺の胸に顔をうずめた。
…やはり、何かあるのだ。俺は焦らだたしかった。老人の言ったことが全部本当だとは
言えないにしても、サトミにとって、この部分はやはりタプーなのだ。追求すれば、また
例の恐怖に襲われかねないと思う。
「わかったよ、いいよ…。そのかわり、毎日来てくれるんだろう?」
漠然とした不安を払いのけて俺は言った。胸の中で、サトミは何回もうなづいてみせた。
気がつくと、もう夜明けが近い。森のむこうに微かな明るさがよみがえりつつあった。
一晩中、虚空を飛ぴかっていたあやかしの音も、次第に遠くなっている。
サトミは、それまで握っていた俺の腕をはなして、うなだれたまま、おぽつかない足どりで
ゆるい坂道を下って行った。そのうしろ姿の可哀そうだったこと、俺はとんで行って
引き戻してやりたい衝動をようやくこらえた。
夜来の妖音が、やがて長い尾を引いて北の空に飛び去ってしまうと、かすかなサトミの
唄声が流れてきた。
若い娘の身を、死んだ後でしか開花することの出来なかった薄幸を恨んでいるのだろうか。
サトミ自身が作ったという、あのせつせつたる哀音が、銀色のクモの糸のように俺の
心にふかく絡みついて、はなれなかった。
その時、森の一角が、キラッと冴えた白光を放った。湖の氷が割れるように、それはび
っしりと敷きつめた冷たい光の粒となって、みるみるうちに視界の限り拡がってゆく。
ゴーストタウンの朝であった。
眼をこらすと、サトミはもう白い点となって遠ざがていた。そして、燦らめく光の粒
の中に溶けこんでしまった。
ゴーストタウンに太陽はない。ただ明暗のみが、昼と夜とを区別していた。ー瞬のうちに
光の波が通りすぎてしまうと、あとには透きとうった
緑の森と赤い屋根、サトミの唄声
は、もうどこにも聞こえなかった。