第 二 章 ポルノ小説殺人事件 (1)
この十年間、俺はひたすら、ポルノ小説を書きつづけてきた。作品のなかで裸にした女
の数は、おそらく千人を超えている。
だからといって、俺がそれだけの経験をしたというわけではない。内心はいたって気の
弱い、女に対しては劣等感の持主なのである。ちょうど、推理作家が殺人事件を書いても
実際には虫も殺せない好人物がおおいのと似ている。あれはみんな、一種のコンプレックスの
裏返しなのだな。
十年もよく書きつづけたものだと思うが、想像力のほうは、そろそろ限界であった。
いくら考えてみたって、変った態位やテクニックなど、そうやたらに出来るものじやな
い、呼びかたにしたところで、花芯、構造、器官、亀裂、ひだ、小箱、泉、肉壷…、とそ
れこそ百三十種類以上の別称を用いてみたが、所詮“おまんこ“という一語の持つ偉大な
ひびきには及ばなかった。限界を感じたのは、俺よりも、むしろ読者のほうであったかも知
れない。
よく行った銀座の“きやら”で
「読んだわよ、先生…。小説ホリデーの今月号にのっていた先生のあれ、私をモデルに
使ったんでしょう!」
などとやられると、ドキッとした。
「うむ、まぁな…」
否定するわけにもゆかないので、そんなとき、俺はいつもあいまいに笑ってみせた。
「ひどいわ、先生ったら…。私のからだ、まだ本当は知らないくせに‥・、、私、あんな
バカみたいな叫び声を上げるように見える?」
「いや違う。つまり、小説のモデルなんていうものは…」
「だめ! あれでは作りものの女よ。嘘だと恩ったら、私でためしてみて…!」
ヅケヅケとこきおろされても、それほど腹も立だない。俺は、マンションの仕事場で
四苦八苦している自分と、この女の奔放な姿態とを頭の中で二重うつしにして、ひそかに
溜め息をつく。正直に言って、俺は焦っていた。
ここ一年ばかりの間、何故か満足のゆく作品が書けないのである。まして、久野に代筆
させてみたら意外に好評、ということになれば、尚更であった。
小説ホリデーの編集長は角田という、赤べこに似たデブであったが、“きやら”で飲む
にしても、いつの間にか俺よりもずっと若手の、SFやハードボイルドの連中と行くよう
になった。たまに店でぶつかったりすると、ばつの悪るそうな顔で、やぁ、と片手を上げる
だけである。俺は、むなしさと一諸に、兇暴な怒りさえ感じた。
理由もみえみえにわかっているだけに、そんな時、内心の焦りは誰にも気づかれたく
なかった。お人好しの俺は、鷹揚に挨拶を返して、カウンターのとまり木でひっそりと
彼らに背をむけるのである。
こうした内攻的な俺の性格は、ゴーストになってからもあまリ変らなかった。
たとえは、女房の加奈子が、俺の香でんをかぞえながら
「あの人は、ちょうど良い時に死んでくれたんじやないかと思っているの」
という言葉を聞いた時、俺の心底から発した怒りは、俺がゴーストでいる限り、絶対に
消えることはないであろう。
あの老人が、フラリと俺の棲み家にやってきたのは、それからひと月ばかり経ってから
のことであった。
覗きの晩以来、老人はぷっつりと姿を見せなくなったが、どういう風の吹きまわしか、
いけしやあしやあとやってきて、戸口のところに立っているのを見て、俺はわざと寝そべ
ったままでいた。
「元気かな?」
にやにやと笑いながら、老人は言った。
俺は黙っていたが、何となく懐かしさがこみ上げてきたのはおかしなものだ。
老人はそれ、きり何も言わないので、俺は突堅貧に聞いた。
「どこに行っていた?」
「ちょっと、ジャバにな」
「ふん…」
「いろいろとな、調らべて来たよ。あんたのことも、な」
老人は、いつもよりずっと上気嫌だった。
「知らなかったが、お前さん、シャバでは大分有名な人だったっていうじゃないかい」
「え? いや、べつに…」
俺は、急いで起き上りながら言った。
「それほどでもないよ。でもまぁ、少しは名前を知られて…」
「わかっているよ」
「もの書きとしては、これでも一流の雑誌に…」
「それも知ってる…」
俺は鼻白んで、黙ってしまった。そんな俺の気持ちにはおかまいなく、老人は真面目な顔
になって言った。
「実はそのことで、ちょっとお前さんに聞きたいのだがな」
「まあ、小説のことだったら、何でも…」
「何だか知らんが、お前さん、死ぬ前にその、何か特別の小説というのを書いていたかね?」
「ポルノ小説のことかい? それとも…」
まてよ、と俺は思った。うわべは呑気そうにしているが、この年寄りだって、内面では
一刻も早くシャバに戻りたいと必死であがいているのに違いない。こんなことを聞ぐからには、
それは果して俺にとってプラスになることなのだろうか。近ごろでは、俺もすっかリ
ゴースト的な駈け引きを身につけるようになったものだ。
「何故、そんなことを聞くんだ」
俺はわざとらしく、横をむいたままうそぶいてやった。
「どんな小説を書こうと、おっさんには関係ないだろう?」
「それが…、実はそうでもない」
俺の態度を見て、老人はしばらく迷っている様子だったが、やがて、思いきって口をひらいた。
「本当のところは、まだ良くはわからんのだがね、今度シャバに行ってみて、どうやら
気がついたことは…」
すばやくあたりを見まわして、サトミがいないことを確かめると、老人は、俺の耳もと
に口を寄せて、急に小さな声になって言った。
「わしはもしかすると、お前さんのその小説のおかけで、殺されたらしい」
「なに…?」
俺は呆れかえった。シャバでは縁もゆかりもなかったくせに、何でこの爺さんが俺の
小説のおかけで殺されなければならんのだ。
「おっさん、冗談じやないよ。おっさんはただ、あのマンションの近くでひき逃げされた
だけじやないか。言いがかりも良いかげんにしてくれ」
「だがよ、お前さんだって、やっぱり車で殺されたんだろうが…?」
と、老人はギロギロする眼をむけた。
それはそうだが、俺はあの晩の真相だけは、まだ誰にも話していない。あんなみっともない
殺されかたをしただなんて、第一恥かしくて言えるものか。
共通点と言えばたしかに共通点であったが、爺さんは、俺も同じように交通事故か何で
殺られたと勘違いしているんじやないかと思うと、かえって気がらくになった。
「私も、車で殺されたことは事実だがね」
と、一応それだけは認めておいて
「しかし、そのことと小説とは、やっぱり何の関係もないだろう?」
「うむ…」
老人は、言葉につまった。俺はおかしかったが、爺さんはまだ納得できかねる様子で、
□ばかりモグモグさせている。
「だがよ、お前さん、特別の小説を書いていたことは本当だろうが?」
特別の小説とは、いったいどういう意味だ? 俺はポルノ作家だが、まだ警察のお世話に
なるようなものを書いたおぼえは一回もないよ。
「あ、そうだ。なに、書いていたわけじやないがね」
その時、ふと俺の頭のなかでひらめいたことがあった。俺は、できるだけ勿体ぶって言った。
「私が殺される半年くらい前からだったが、実は、すごい作品を考えていた」
「ほう、ほう…、そりゃやっぱり小説かな?」
「もちろん、私は小説家なんだからね。まぁ、これまでの総決算というか、代表作になる
といっても良かっただろうな」
「ほうほう、なるほど…」
老人が身をのリ出してきた。俺は、その様子をうかがいながら
「構想は、大分前から練っていたのだがね。モデルは、玉石寿々子という女優で…」
「玉石寿々子なら、知っておるよ」
「ある有名な女優をめぐる疑惑がテーマで…、私にしか書けないといった性質のものだ」
「何故だね?
「玉石寿々子…、今では結構な人気女優になっているがね。あれは、もともと私の女だった。
いや、嘘ではないよ」
「そいつは大したもんだ。あんな良い女を、かね? そりゃ気がつかんかったなぁ」
「その頃は、まだ今ほどの人気はなかったがね。でもいい女だったよ、色が白くて…。
年は28だったから、ちょうど脂がのりきったところだ」
「ふう…、そりゃいい。やっぱり小説家の先生は違うもんだて…」
首を振って感心している老人を見て、お人良しの俺はすっかりいい気分だった。
「別にこっちから口説いたわけじゃないが、彼女のほうが私に夢中だったんだ。もっとも、
私があの女を女優にしてやったようなものだから、無理もないが…」
「先生、それで小説のほうは、それからどうなったんだね?」
「うん、そんなわけで、玉石寿々子のことなら私は何でも知っている。雑誌社からも
期待されていたもんだから、書いてやらねばなるまいと思っていた矢先、九月になって
ちょっとした事故があった」
「事故?」
老人は急に眼を光らせた。こういった言葉には、ゴーストは極めて敏感である。
「交通事故なんかではないよ」
と、俺は軽くつき放しておいて
「王石寿々子には、女の子が一人あったんだが、その子が、ちょうど遊びにきていた
親類の娘と一緒にガス中毒で死んでしまった。あれは、彼女にどてたいへんなショック
だったろうな」
「殺されたのかよ!」
「いや、そんな筈はないだろう」
と、俺は言った。
「あのマンションは、窓を閉めてしまうと、あとは空気抜きの穴…、といっても10センチ
くらいの小さな奴が一個所あるだけで、ガスの溜りも早がたんだろう。どう見ても事故か過失死だな」
老人は、不満そうな顔をしている。
「だって、季節から言っても、ストーブはまだ使っていないし、子供だけならともかく
親類の娘もいたんだから…」 `
爺さんは俺の言葉にとりつくしまもなく、不承無承に肯くと話をもとに戻した。
「それで、結局小説のモデルにするのをやめてしまったのかね?」
「いや、しばらく様子を見ることにした。どんな変化があらわれるか、気になったからね」
「うむ、それもそうだろうな」
「ところが驚いたことには、彼女はそれからめきめきと売り出してきて、たちまちの
うちに、おっさんが知っているくらい有名になってしまった」
「自分の子供が死んだとたんに、かね?」
老人は、何かありそうな…、といった様子で眉をひそめた。実際、それは俺にとっても
あまりにも意外ななりゆきだったのである。
「もうちょっと早く書いておけば良かったのによ。その小説は、さぞかし評判になった
ろうに…」
「書きはじめようとしていたところだったんだ!」
口惜しさのあまり、俺は思わず大きな声を出した。
「まぁ、仕方ないわな」
老人は、ニヤニヤと笑った。それから、ゆっくりと指を折るようにして言った。
「九月にガスの事故があって、わしがひき殺されたのが今年の三月、先生が四月…、こ
の勢いだと、まだまだ起るかもしれんな。やっぱりそれは特別の小説だったんだろう?」
「書いてない小説のおかげで、そう簡単に人が殺されてたまるものか…!」
イライラと俺は言った。内心の動揺を老人に気づかれないようにするのが精一杯である。
その上俺は、ある奇妙なことに思いあたってギョッとなった。
死んで三日目の夜、俺がマンションの仕事場に行った時には、あの作品の覚え書きは、
たしかに見あたらなかったのだ。俺の感じでは、あのとき、もうすでに誰かの手で持ち去
られていたような気がする。もしかしたら、あの晩の王石寿々子の真の目的も、実は書き
かけの原稿なんかではなく、覚え書きひとつにあったのではないだろうか?
俺が殺されたのも、やはりあの小説が原因なのだろうか。
しかし、特別の小説については、老人もそれ以上はつかまえどころがないようであった。
そろそろサトミが戻ってくる時闇なので、老人は気になるらしく、のろのろと腰をのぱし
ながら言った。
「新婚気分もいいがな、先生。自分のことも早く見きわめをつけておかんと`あとで
困ったことになるよ」
「そうだった。反省するよ・‥」
俺は、ハッとして我にかえった。たしかに、俺はこのひと月、サトミに夢中になりすぎ
ていた。こんな年寄りでさえ、おそら<必死の思いでシヤバからの情報をかき集めてきた
のだと思うと、恥1かしかった。
「だけど、おっさんもあんなことは、もうやめてもらいたいな」
帰りかけている老人の後姿に、俺は照れかくしのつもりで言った。
「あんなことって?」
「済んだことだが、覗きな人、て、悪い趣味だよ」
「何んだ、そりゃ…」
老人は、ポカンとした顔で言った。
「わしゃ、知らんよ」
トポケでいる様子はなかった。俺は、眼の前にスポッと大きな穴があいたような気がした。
それでは、あいつは誰だ…!
高窓から、じっと俺の背中を見つめていた視線の主は、まだ他にいるというのか。それ
とも、ゴーストタウンに幽霊が出るなどという話があって良いものだろうか。俺は呆然と
して、言葉もなかった。
老人は、もやの中に二、三歩あるきだしてから、ヒョイと振り返えって言った。
「先生、小説ホリデーの角田という男を知っているかね?」
「友人だよ。私があの作品をのせてやろうと思っていた雑誌の編集長だ」
「死んだよ、一週間ばかり前にな…」
うすぐろい影となった老人は、ニヤリと笑った。その姿が夕闇みにとけこんでしまった
後になっても、俺はぼんやりとただずんでいた。
消えた覚え書きには、はっきりと、編集長が殺されることが書きこまれてあったのである。
しかも俺は、そのことを当人に面と向って予告していた。もちろん、それがまさか
現実になるなどとは、夢にも思わなかったのだが…。俺は、そら恐ろしくなった。
とにか<、爺さんの今日の話は、さすがに身にこたえた。
グズグズしていると、俺はこのまま永久にゴーストタウンの妖気の中にとリ残されてし
まうかもしれない。
まして、サトミは宿無しである。
宿無しというのは、一種の差別階級であった。他からの力を借りるか、万にひとつ
の偶然を待つほか、自力ではシャバに戻ることが出来ない。もちろん、力を貸してやろう
などというゴーストがいる筈もなく、それをあてにしている宿無しを、最下層のゴースト
として極端に嫌うのである。爺さんのサトミに対する態度など、ひどいものであった。
みんな、自分のことだけで精一杯なのである。すこしでも不利になると思えば、極力
さけようとする。彼らはただもう自分だけのために、絶壁をよじ登ろうと懸命であった。
その努力を横からかすめとろうとする宿無しが嫌らわれるのも、当然であった。
だが俺は、心からサトミを愛している。
爺さんからどんなにお人良しとわらわれようと、何とかして、力になってやりたいと思う
のである。それには、一日も早く俺自身の生命の権利をとりもどすことだ。
サトミとの生活に溺れたわけではないが、あれ以来、何の手も打っていなかったことに、
俺は焦らだたしい後悔を感じた。
その時、もやのむこうから、うっすらと白い影が近ずいてきた。
サトミは、明けがたと午後の二回、どこかに姿を消すが、あとはいつでも俺と一緒だった。
はじめのうちは、俺の他にも同じように力を貸そうとしているゴーストがいるのでは
ないかと疑ったこともあった。だがあの夜のサトミは明らかに処女であったし、注意して
いてもそんな気配はまったく感じられない。俺はサトミを信じて良いと思った。
若いゴースティンとしては、やはり、他人には見られたくないようなこともあるだろう。
帰ってきたサトミと一諸に、俺は寝台に腰をおろした。
「お前は、信じてくれるね?」
あらましの計画を話して、俺は最後に言った。
「私が今度シャバに出るのは、決して自分だけのためではないのだからね」
サトミは、じっとうつむいたままである。
「どうしても信じられないと言うのだったら、私はこのままお前と暮らすほかはないわけだが、
それでは、お前が可哀想だ。この気持は、わかってくれるだろうね?」
サトミは、一層うなだれてしまった。自分の立ち揚がどんなに弱いものか、少女の胸に
も痛いほどわかっているのだ。もし、俺がすべてを解決してシャバに戻ることにでもなれ
ば、サトミに残るのは、永遠の孤独だけなのである。
口ではいくらうまいことを言っても、生命のライセンスを与えられた瞬間、ゴーストは
豹変する。そのあとで、自分にも力を貸してくれるだろうなどと、期待してまっているほうが
愚かなのだ。ゴーストにとって、生きるということは絶対の優先順位であった。サトミの
不安がわかるだけに、俺は何とかして、真実の愛というものの強さを理解させたかった。
長い沈黙が流れた…。
「わたし、やどなしだから…」
下を向いたまま、サトミは細い小さな声で言った。
「あなたの、思うとうりに…」
「では、信じるんだね…?」
サトミは、かすかに首を横に振った。俺はサトミの身体が崩れて、そのままー枚の布に
なってしまうのではないかと思った。あわてて肩を抱きよせ、揺すぶりながら言った。
「私を、他のゴースターと同じだと思っているのか、お前は・・・!」