第 二 章 ポルノ小説殺人事件 (2)
サトミは、今度は激しく首を振った。そして俺を見上げた。ゴースティンに涙はない、
だがそれ以上に、サトミは泣きぬれていた。
ふと、あの晩の玉石寿々子の泣き顔がダプった。あの巧みな演技にくらべて、サトミは
何という哀しい真実を訴えていることであろうか。たしかに、いつの日か俺の復活が決まった時、
今のこの気持がどう変化するのか、それは俺白身にもわからないことだ。
軽はづみに信じてしまって、うらぎられた時の悲惨な孤独は、サトミにとって絶望以上の恐怖な
のであろう。俺はもう、事実で証明するほかにないと思った。
他のゴースターがすべて豹変しようと、俺だけはかわるまい。生への執着を超えて、
愛というものの偉大さを俺は立証してやる。
「信じるんだ、サトミ!」
俺は、きっぱりと言った。
「淋しかったら、毎日、あのひぱの本の下で持っていなさい。私は必らず良い報らせを
持って帰ってくる」
サトミの肩を抱いたまま、俺は寝台に倒れた。しなやかな髪が波をうった。
「ふたりでシャバに戻ろう。ゼロから出発するんだ。シャバのどこかでめぐリ逢った時、
あらためて今日わを言おうよ!」
その時には、こうやって堅い寝台の上で愛しあった記憶も、もちろん消えてしまう。
だがサトミとは、必らず再会できる運命になっている筈であった。やがてサトミの全身が、
蒼白い燐光を発した。
翌日…。
サトミが戻ってくるとまた別れにくくなるので、俺は夕暮れの前に、自分の棲み家を出た。
途中、爺さんのところに寄って、留守中にサトミが来ても決して追っぱらったりしないよう、
くれぐれも頼んでおいた。
丘のふもとにある小さなひばの本の下が、ちょうどマンションの横の道にあたる。角度
を合わせると、カシャリ、とシャッターの駒がまわった。
シャバには、梅雨の前ぶれのような、ショボショボした雨が降っていた。
濡れた舗道を、若い女のレインシューズが水たまりをよけて通っていた。ーヶ月あまり、
ゴーストタウンから出なかった俺の眼には、まるで、その靴が軽やかに跳びはねている
ように見えた。むこう側のパン屋の店先から子供連れが出てきて、母親が、黄色い傘を
ひろげてやっていた。店の明るさと、ならんでいるパンが、たまらなくあたたかそうであ
った。俺は、つくづくサトミにもこの情景を見せてやりたいと思った。
だが、感傷にふけっている場合ではなかった。
俺はこの前、行きあたりぱったりに歩きまわってひどいめにあっているので、今度は
慎重に行動するつもりだった。まづ確かめておかなければならない所は、マンションの
仕事場である。俺は雨をさけて、マンションのドアを押しだ
いつも編みものばかりしている女の管理人が、今日は新蘭を読んでいた。その横を通る時
俺は、アレ…? と思った。新聞受けの501号室の名札が“瀬川”と変っている。
いつのまに変ったのか、俺は急いで五階に上ってみたのだったが、ドアの名札もやっぱり
“瀬川”だった。これは、日東テレビの瀬川和彦の他に考えられない。あのいかれた
プロデューサーが、何で俺のところに、と思うと、みるみる不輸快になった。
幸い、この部屋の鍵だけは持ったまま死んだので、自由に出入りすることが出来る。
俺は遠慮なくなかに入った。そしてもう一度、前にもまして不愉快になった。
何という変りようであろうか。俺があれほど愛着を持っていた執筆用の机も、ベッドも
書棚も根こそぎなくなっていた。その代りに、花柄の毛布をかぷった上等なダプルベッド
が据えられ、しやれたスタンドとステレオのセットが場所を占領していた。ステレオの上
には玉石寿々子の大きな写真がほほえんでいる。カーテンも赤っぽい派手なものに変えら
れ、書庫に使っていたほうの部屋に至っては、壁にデカデカと等身大のヌードポスターが
貼りつけてあった。
瀬川の自宅は板橋にあるので、ここは生活とは別の目的のために使用しているのであろう。
どう考えても、これは女房の加奈子が貸したのである。俺は、何かを冒涜されたよう
な気がした。
時間が早いので、本人は留守であった。あたりを見まわしてみても、事件の参考となる
ようなものはなかった。俺は寿々子の写真をにらみつけると、早々に退散することにした。
帰リぎわ、ベッドの上に、出たばかりの小説ホリデーが放り出してあったのを見つけた。
何気なくその表紙を見て、俺は頭にきた。死ぬ前の晩、ほとんど徹夜して書き上げた俺の
作品をボツにして、そこには、久野久雄の名前がのっていた。赤べこのやりそうなことだ。
だが俺は、死んでしまったという編集長よりも、弟子の久野が許せなかった。呪いをかけ
られるものなら、あいつこそ第一番に呪い殺してやりたい。
手荒くドアを閉めて、俺はそれからすぐに三階に行ってみた。
301号室の名札は、相変らず“玉井”となっていた。玉井鈴子というのが彼女の本名
である。
どうせ、ここも留守だろうと思っていたのだったが、俺が三階に下リるとほとんど同時に、
ガチャガチャとなかから鍵のあく音がして、寿々子が出てきた。
テレビにでも出るのか、寿々子は新らしい和服を着ていた。この前より、またひとつ色
っぽくなったような気がする。わずか半年の間に、女が成熟するというのは、こんなもの
であろうか…。
寿々子がエレベーターのボタンを押したので、俺も一緒に降りてみることにした。せま
いエレベーターのなかに、香水とまざって女の甘い匂いがこもった。だが寿々子は、俺が
後から腰のあたりをさわると、急にぞくぞくっと身ぶるいをして、襟もとをかき合わせていた。
玄関には、日東テレビの三角旗をたてた黒塗りのプレジデントが待っていた。管理人の
愛想笑いにかるく会釈をかえして、寿々子はその車に乗った。
このままよほど一緒に行って見ようかと思ったのだが、行きあたりばったりには、もう
懲り懲りしているので、俺は黙って見送ることにした。雨の中を、寿々子を乗せた車は、
銀色のわだちの跡を残して走り去っていった。
子供を寝かしつけてから、時間を気にしながら俺の仕事場で束の間のひとときをすごし
ていた頃の寿々子には、考えられなかった出世である。どこでどう歯車か回転したのか、
人間の運命とはわからないものだ。
結局、俺はあの日の足どりを、もうー度はじめからたどってみることに決めた。それがは
じめからの計画でもあった。301号室には、近いうちに必らずまた訪れるときがくるだろう。
俺は、ショポショポと降る雨の中を、全身を濡らしながら歩きはじめた。行き先は、
小説ホリデーの編集部である。
神楽坂をのぽって右手に、小説の友社というかなり古風な五階だてのビルがあり、小説
ホリデーはその出版社から発行されていた。四谷のマンションから、歩いたら30分以上
かかる。雨に濡れて行くのは嫌であったが、サトミの事を思えば、とにかく前進しなけれ
ばならない。今ごろは、俺がシャバに行ってしまったことを知って淋しがっているだろうか。
爺さんから、虐められてはいないだろうか…。俺は際限もなく、そんなことを考えながら歩いた…。
あの日…。
ようやく、60枚ほどの短篇を書きあげ、ベヅドにもぐりこんだのは明け方の五時すぎであった。
眼がさめたのは十ー時ころで、俺はそれからすぐ、小説ホリデーの編集部に行った。
原稿を渡すと、編集長の角田はプスッとした顔で
「間に合うかな…」
と言った。二、三年前までは、印刷機をとめてでも待っていたのにと思うと、俺はひとこと
言いたかったが、黙っていた。
しばらく雑談したあと、角田は、椅子の背に反りかえるほど、大きなあくびをして言った。
「久留さん、何かこう、ほかにもっと面白いネタは、ないもんかね?」
この野郎、人の原稿を読みもしないで、ほかにないかとは何事だ。流石に俺の顔色も
変ったのであろう。角田は、ちょっとすまなそうな顔つきになった。
「いやね。ポルノも最近ではすっかり倦きられてしまって…、何しろ毎度同じように、
男と女がいたすことばっかり書いているんだから、無理もないがね」
「つまり、マンネリというわけだな」
「うむ、よほど良いものが書ける新人でも出れば別だが…」
チラリと、久野久雄の下卑た笑いが眼のうらをかすめた。だがここで引っこんでしまった
のでは負けである。
「じつは、いま、面白いものを考えているんだがね」
と、俺は言った。
「ポルノ小説殺人事件、なんていうのはどうかね?」
「久留さん、推理小説も書くのかい」
「まあ、それもあるが、どちらかと言えば、実験小説といったところだ」
そこで、俺はしまっておいた例の作品のトリックを、半分だけ話してやったのである。
「本当か…!」
話の途中から、角田の赤い顔が、ますます赤べこに似てきた。
「玉石寿々子が、なるほど、たしかに子供を亡くしてから、変ったものな」
「ただし、これはあくまで私の創作だがね」
「わかってる。しかし、あり得ることだ…」
そこで、角田はちょっと心配そうに額を押さえて
「面白いが、ただプライバシーは…、まさか名誉棄損というようなことにはならんだろうな」
「それはないだろう。だって、架空の話だ」
と、俺はうそぶいてやった。
「だから、はじめから実験小説だとことわっているだろう」
「ううむ…。こいつはただのモデル小説とは違う。ウケるぜ」
「でも良いのかね? ストーリーが私の考えている通りになるとすれば、編集長も
殺されてしまうことになるんだぜ」
「かまわん!」
角田は大見得を切った。
「実験小説というなら、それも面白いわい。とにかく、早速とりかかってくれ」
「メモだけなら、もう出来上っているから…」
「よし、今が絶好のタイミングだ。次号から、すぐに始めよう! 久留さん、今度こそ
印刷機をストップさせて待っているからな!」
俺はこの時、こんな架空の物語りが、まさか現実にー人歩きをはじめようとは、夢にも
思ってなんかいなかったのである。
雨は、すこしづつひどくなってくるようであった。ようやく神楽坂にたどりついた時に
は、全身にべったりと濡れた感触が貼りついていた。
坂を登ると、小説の友社の古風なビルは、何事もなくささくれたコンクリートの肌を雨
に晒していた。
編集長の一人や二入死んだところで、ビクともするような出版社ではなかった。馴れた
階段を登って、三階の編集部に行くと、そこは相変わらずゴタゴタした雰囲気の中で、電話が
鳴り、タバコの煙が立ち込めていた。
編集部は雑誌別に、いくつかのセクションにわかれていたが、奥の正面でこちらを向い
ている角田のデスクの上だけが、きれいに片づけられ、空席となっているのがわびしかった。
皆それぞれにいそがしく、全くべつの仕事をしていて、角田の存在は、わずかの間に
この部屋から完全に消滅していた。
あくの強い男だったが、あいつも俺と同じように、死に損だったひとりではないかな。
赤べこは、ゴーストになったのではないだろうか…。
殺ろされたのか死んだのか、まだはっきりとしないが、俺はその場所を知リたいと思った。
ゴーストには死んだ現場のすぐ近くに棲みつくという原則的な習性がある。死に場所
さえわかれば、ゴーストタウンに戻ってから、赤べこをさがし出して詳しい事情を聞くことも
可能なわけであった。
俺は編集部をあとに、近くの“第六茶房"という喫茶店に行った。
そこには、よく若い編集者や作家連中がたむろしている。あの日の行動にはなかったことだが、
俺は赤べこについて、ここなら何か情報が得られそうな気がした。
うまく客の出入りを利用して、店の中に入った。隅のボックスに、久野久雄の特徴のあ
る後姿を発見した時には、しめた! と思った。ひとつ間違えば、ゴーストの悲しさで、
いたづらにシャバをさまよい歩るくだけに終ってしまうのである。ここで久野をつかまえ
ることが出来だのは、ついていると言うべきであった。
こちら側に顔を見せているのは、岸本という編集の次長で、赤べこの後は、おそらく
この男が編集長だろう。温厚で口数の少い、角田とは対照的なタイプである。
久野は、いつ新調したのか、派手なチェックのブレザーを着ていた。痩せてとがった肩
をふりながら、何か熱心に説明している。岸本は、黙ってそれを聞いているのだった。
「どうでしよう。まあざっと、こんなストーリーです」
俺が近づいた時、久野はそう言って、ぐいとコップの水を飲んだ。
「一応、書いてみて下さい…」
岸本は、ほとんど表情を変えずに言った。
「とにかく、読ませていただいてからでないと…」
「ぽくアね、編集長」
相手の反能がにぶいので、久野は焦らだっている様子だった。
「すくなくとも、久留島満よりはユニークで、現代的な作品が書ける自信があるんです。
久留島のは、ありゃあポルノじゃない、春本ですよ」
よくよくこの男は、人間が下司にできている。俺は思いきり勢いをつけて、久野の横に
ドシンと腰を下してやった。椅子はピクリともへこまながたが、そのとたんに、久野は
ひとつ大きなくしゃみした.
「失礼・・・、たとえば人物の設定にしてもですね。久留島のは重役と芸者とか、セールスマンと
二号とか、ありきたりでちっとも面白くない」
「でも先生の作品には、安定感がありましたよ。最近はちょっとマンネリだったが…」
「そりゃそうでしょう、あんなもの、十年も書きつづけていればネタも切れるでしょうよ。
だからですね、編集長、ぼくは…」
「まだ編集長なんかじゃありませんよ」
「いや、もう同じことです。ぼくはね、編集長、もっと新らしいものをとり入れてみたいん
ですよ。たとえば乱交パーティとか、SMなんか…」
そこで久野はまたひとつ、くしゃみをした。重役と芸者なら春本で、乱交パーティはポルノ
だとでも言うのかい。
「前の角田さんも、だいたいそんな考えではなかったんですか?」
「さあ、編集長は編集長、私は私ですから、そのへんのところは…」
「そう言えば角田さん、いや前の編集長は乱交パーティで死んだんですってね」
俺は、あっけにとられた。こともあろうに、赤べこが乱交パーティで死ぬとは、常識では
とうてい考えられない椿事なのである.
「えっ、どこで、そんなことを…?」
岸本は、急に眉をしかめた。否定しなかったところをみると、あるいは真実であるのか
もしれない。
「まあ風のだよりに…、でもマスコミにのることだけはどうやら止ったようで、何より
でした」
「なるべく、外部には伏せておいてほしいのですが…」
「わかっています。実は、そのパーティに出席していた男を知ってましてね。ほら、
日東テレビの瀬川という…、彼から聞いたんです」
「………」
「たしか青梅街道ぞいのモーテルで、大麻の乱交パーティの手入れがあったそうです。
みんな逃げてしまったあとで、角田さんだけが死んでいたらしい。あの人、よっぽどお好き
だったんですね」
「………」
「本当の死因は何です?」
「心臓マヒです」
「腹上死でもしていたんですかね」
久野は、そう言ってから真顔になって声をひそめた。
「まさか、殺されていた、というわけではないでしょうね?」
岸本は黙って伝票をつかんだ。久野もあわてて立ち上ったのだが、そのとき、
イヤというほど俺の足を踏んづけていった。