第 二 章 ポルノ小説殺人事件 (3)
結局、話はそこまでで途切れてしまったわけだが、俺にとっては、たいへんな収穫で
あった。次の客がくるまで、俺はその席にうづくまったまま、今の話をとりとめもなく考え
ていた。
久野と瀬川和彦との間に連絡があったことは、それほど意外な発見ではなかった。しかし、
赤べこと乱交パーティは、どうしても結びつかないのである。あの男は大酒呑みだが、
ひとさまの前で堂々とセックスが出来るほど、決して大胆ではない。それなのに、どうして
乱交パーティなどに行ったのだろう。
警察の手入れに、みんな逃げてしまったというのもおかしな話だ。一人ぐらいは、捕ま
ったものがあったとしても良いではないか…。俺は、何か大きなトリックがあると思った。
赤べこは、間違いなく殺されたのである。
俺は、確信を持った。ゴーストタウンに戻ったら、早速さがし出して詳しいいきさつを
聞いてみる必要があるだろう。とにかく、場所が青梅街道ぞいのモーテルとわかっただけ
でも有難かった。
その時、新らしいアベックの客が来たので、俺はあわてて席をゆずった。
店の外には、相変らず細い雨が降りしきっている。これでは、あの日俺か歩いたコース
を、もう一度たどって歩くことは、とても無理であった。
あの日は、それから出版社をふたつほど廻ったのだが、どちらも簡単な用件だったし、
それが事件に関係があるとも思えなかった。二軒めの出版社は、新宿の近くだった。仕事
も一段落したので、俺はどこかで軽い食事でもしてから、“きやら”に行くつもりだった
のである。それで、新宿に出た。時間は、たしか六時ころだったと記憶している。
街には、ラッシュアワーが始まっていた。
どこからどう湧き出してくるのか、無限の人の波が続いて、やがてまたどこかに吸いこ
まれてゆく。無秩序のように見えて、それは不思議に一定のバランスを保ちながら、流れ
つづけているのだった。
俺ぱその中を、流れに追いこされながら、ゆっくりと歩いた。さしあたって、何を食べ
ようというあてもなく、駅からコマ劇場にむかう広い遭を下っていった。
若い女の服装が新鮮であった。いい子がいたら声をかけてみようか、と俺は臆面もなく
そんなことを考えていた。
翠を見かけたのは、この直後、コマ劇場に近い遊戯場の横であった。うしろから来て、
追いこして行ったカップルの女のほうが、間違いなく翠だったのである。
見たことのない藤色のワンピースを着て、左手を男の腕に巻き、上半身を寄せるように
して歩いて行く。わが家ではほんの子供に見えたが、こうして、街で偶然に出合った翠は、
しっかりと一人前の女になっていた。
相手は、30才をかなり出ているようであった。翠の恋人にしては、年がはなれすぎて
いる感じだ。声をかけるわけにもゆかず、そうかといって、このまま見送ってしまうのも
何となく心がかりなので、自然、あとをついて行くかたちになった。どこか喫茶店にでも
入るか、それとも映画館かと思っているうちに、二人は流れからはずれて、裏通りの暗い
道に曲って行った。
その先は、ラプホテルの密集地帯である。俺の胸が、いやな鼓動をうちはじめた。
30メートルほど前を、二人の後姿が歩いてゆく。そのへんは、もう通行人もまばらだ
った。明るい舞台から、急にその裏側にまわったような湿った雰囲気が、あたりにはただ
よっていた。
いつのまにか、男の腕が翠の背中にまきついている。男は、少し猫背のようであった。
向うの電柱の角で、二人の姿がフイと見えなくなった。俺は、足を早めた。そこは細い
枝道になっていて、奥をすかして見ても、翠の後姿はなかった。
枝道に面して、ラプホテルの眼立だない入り口が二、三個所あった。そのどれかに、翠
は男と一緒に消えたのである。俺は、背筋がしびれたような息苦しさを感じた。
しぱらくの聞、呆然と立ちつくしていて、俺は何事もなかったように、ぶらぶらと歩き
はじめた。街のほうに戻る気持にはなれなかった。
すぐ横に、うす暗い看板が出ている。盛り場からはずれた、ドア一枚だけの小さなバー
であった。もちろん、はじめての店である。なかには、バーテンと若い男が向きあって
いるだけで、テーブルの上にはコカコーラの空き瓶がころがっていた。
水割りを注文して、三杯ほどたてつづけに飲んだ。
これまで書いてきた小説のさまざまな場面が、頭のなかで翠と重なっていた。百メートル
と離れていないところに、現実にそれがあると思うと、水割りにアルコールの味がしない
のである。言葉では、言いあらわすことの出来ない醒めきった気持だった。
“第六茶房”の窓の外に降りしきる雨を見つめながら、俺は、ぼんやりと翠のことを
考えていた。
するなと言っても、いつかは覚えてしまうことだ。だが、翠はまだ17才であった。
早やすぎると思うのは親の感傷ではあるまい。やはり、俺の書いたものが影響を与えている
のだろうか…。
猫背の男は、いったい誰なのだろう。
もう中年といって良い年令であった。二人の様子からして、翠も十分に納得している。
決して昨日今日のつきあいのようには見えなかった。
ポーイフレンドとでも遊びまわってくれたほうが、まだ気がらくであった。あの男は、
翠の一生に何かズシリとした重いものを置きざりにして行くのではないだろうか…。翠は
あれきリ阿佐ヶ谷の家には帰ってこないらしいのである。母親の加奈子が、ケロリとして
いることが、何とも焦らだたしかった。
そう言えば、サトミも17才だったなあ…。
窓ガラスに、俺はサトミの面影を浮かべた。透明な枠の向こうで、それは哀しげに、
淋しげにほほえんで消えてしまった。探い海の底にとじ込められた薄幸の人魚のように、
ゴーストタウンの暗闇で無限の忍従を強いられているサトミにくらべれぱ、翠などは、
まだまだ幸せなほうなのである。
俺は我にかえって、腰を上げた。ここでいつまでも時間をつぶしているわけにはゆかない
のだった。また、濡れて歩るくのはみじめだったが、俺は、そのあとの自分の行動を
たどって、どうしても“きやら”に行ってみたいと思った。
第六茶房を出て、両手で頭をかかえ、神楽坂を小走りに急ぎ、飯田端の駅から地下鉄に
もぐりこんだ。
新宿のバーでは、俺は結局、水割りを七杯飲んだ。その闇じゆう、バーテンは若い客と
何やらヒソヒソ話しこんでいて、お代りの時のほかはふり向こうともしない。二度とくる
客ではないと思ったのだろう。立ち上る時、俺は黙って一万円札をカウンターの上にのせ
た。暴カバーでなかったことが幸いであった。
このあたりをうろついていると、今度はラブホテルから出てきた二人にぶつかるのでは
ないかという、いやな予感めいた不安から、一刻も早く逃げ出したかった。俺はすぐに
タクシーをとめて行き先を「銀座…」と告げた。
“きやら”は、四丁目からすこし新橋寄りの裏通りにあった。
今時、銀座で飲むなど、キザな話だと思うが、気ごころもわかっていたし、何となく
仲間の溜り場のようになっていて、つい足が向いてしまうのである。美歌という、
店のナンバーツーだかスリーと、友だちになっていたせいもあった。
俺にむかって
「嘘だと恩ったら、私でためしてみて…!」
と言った、あの女である。
残念ながら、実際にためしてみたことはなかった。そのかわり、結構面白い話を聞かせて
くれたし、二十四か五で、まだ若いくせに、ずいぶん俺に女を教えてもくれた。
女優の寿々子とも親しくしていて、よく、テレビ局のプロデューサーや作家仲間の徹夜
マージャンにもつきあうという、いわぱお互いに色恋ぬきの商売友だち、といったところだ。
「先生、顔色悪いわよ」
俺の前にくると、美歌は、すぐに言った。
その日は、濃い赤のワンピースに同系統のネックレス、爪にも真紅のマニキュアをしていた。
ところどころに、アクセントの強い黒を使っている。これだけ赤づくめが似合うのは、
さすがに銀座の女だった。
「うん、ちょっと悪い酒を飲んできたんで・・・、口直しだ」
美歌がこころえて、いつものやつを半分ほど咽喉に流しこむと、ようやく、気分も少しは
おちついてきた。
「なあ、美歌がバージンを失ったのは、いぐつの時だ?」
俺は、グラスを見つめながら、かなり真面目な調子で聞いた。
「あら。失ったことなんか。ないわ1
「おい、マジな話だ・・・」
「だったら失ったなんて、可哀想なこと言わないで、自分からちゃんとハートに包んで
プレゼントしたの。 19才の時・・・」
「ふうむ、バージンなんて、プレゼントしたくなるものかね」
「それはそうよ。やっぱり自分の意志でさし上げたいわ」
「なるほど、そんなものかねえ…」
「何よ? 感心して…」
「いや、案外おそかったんだな」
美歌は、クスッと笑った。
「先生、いつからそんな少女趣味になったの?」
返事のかわりに、俺はからになったグラスを、眼の前で振ってみせた。氷がコロコロと
良い音をたてた。
“きやら"では、四、五杯は飲んだと思う。このあたりから、量のほうは、かなり
あいまいなのである。
美歌がお寿司を食べたいというので、俺は“きやら"が閉まると、もう一人、夕子という
アルバイトの女子大生を連れて、三人で早稲田の“翁"に行った。江戸前の粋で通ぶっ
た店であった。
俺は、そこでもまたお銚子を何本かあけた。
午前中仮眠しただけで、それまで食事らしい食事もしていなかったので、疲労と空腹が
重なっていた。腹の虫だけがおさまってくると、急に全身がおもくなってきたような気が
した。時間は、もうとっくに十二時をまわっている。
「阿佐ケ谷に電話してくれよ、美歌…」
と、俺は言った。
「もう疲れた。今夜は仕事場に泊る」
「大丈夫? そんな電話して…」
横から、夕子が目をまるくして聞いた。
「いいのよ、公認だから…」
美歌は、陰のある微笑を浮かべた。これまでにも、こんなことは何回もあったし、
加奈子のほうでも、美歌を仕事上必要な遊び秘書くらいに考えているようであった。
「まあ、みんな理解があるのね」
夕子は、それでもまだ何となく心配そうな顔をしている。
「つまり、それだけ信用されているんだ」
「わかるもんですか!」
美歌が、俺の脇腹をつついた。
「先生はズルイのよ。私みたいなのをこしらえでおけば、あとが安全ですものね、そう
なんでしょう?」
「よし、だったら今夜は美歌のところに泊まる…1
「おゝ、こわ…」
と、美歌は立っていった。
美歌は玉石寿々子のことを言っているのだったが、アルバイトの夕子には、この会話の
意味はよくわからなかったようだ。
しかし、俺はその夜、寿々子のことは頭から考えていなかったのである。ただ、阿佐ケ谷の
自宅には帰りたくなかった。翠が家に戻っていてもいなくても、俺は平静な気持では
いられないだろう。酔ったまま眠ってしまったほうが、どれだけらくかしれない。それは
美歌にでも言うぺき筋合いの話ではなかった。
「三日でも四日でもどうぞ、ですって…、奥様うれしそうだったわよ」
暫らくして戻ってくるなり、美歌はさも面白そうに言った。
「あちらも、つい今しがたお帰りになったばかりだったみたい…」
「どうして?」
「だって、電話の声がはずんでいたもの。意外とかくせないものよ」
「そうかな、よく気がつもんだな」
と、俺は感心した。
「先生、心配にならない?」
「何か…?」
「決まっているでしょう、奥様のことよ」
「ならんね、全然…」
「あら、つまんない!」
二人の女は、顔を見合わせて笑った。今になって思えば、あの時、加奈子はどこかで
久野と逢ってきたのだ。美歌はどこかでその匂いをかいだのだろう。だが鈍感な俺は、
まったく気がつかなかった。そんなことより、翠が帰っている様子だったかどうか、よほど
美歌に聞いてみようかと思ったのだが、やめてしまった。
「先生、私、いいことをしておいてあげたから、あと三十分くらいしたら、このお店を
出なくては駄目よ」
美歌は俺の顔を覗きこむようにして、意味ありげに言った。
それが三十分だ!)たか、或いは四十分くらい後だったのか、俺には見当もつかない。
とにかく、家に帰らないと決めたとたんに、どっと酔いがまわったようだ。美歌にうながされて、
俺はようやく立ち上ると勘定を払った。
「先生、御馳走さまでした」
店を出ると、夕子が如何にもアルバイトらしい初々しさで頭を下げた。
ちょうどタクシーがきたので、美歌に車代を握らせ、二人を先に乗せた。
「先生、大丈夫?」
乗ってから、美歌はちょっと心配そうな顔をしたが、その前で、ガシャッと大きな音が
してドアが締まった。
タクシーが行ってしまうと、俺はひとりぼっちになった。早稲田から四谷三光町までは
さほど遠くない。俺は早く帰って、ベッドに身を投げ出したいと思った。そのとき、
スルスルと次の車が近寄ってきた。手を上げてそれを停め、ドアを開けると俺は朦朧とした
意識のままシートにのめり込んだ。
「四谷…」
と言ったところまでは憶えているのだつたが、あとは、泥のような眠りにおちてしまった。
それから闇もなく、冷んやりとした女の手が、スルスルとのびてきて…。
これが、あの日俺の周辺で起ったことのすべてだったのである。
それから三日後に、俺はシャバに出て、翠の家出や加奈子と久野との関係、そして作品
の覚え書きが誰かに持ち去られていることなどを知った。
今回は、ひと月めである。
仕事場は、すでに瀬川の城であった。寿々子はその後もますます売れっこになっていたし、
老人が言ったとうり、赤べこは殺されていた。事件は俺が殺されたあとも、めまぐるしく
展開しているように思える。すべては未解決だが、“きやら”に行けば、また新らしい
何かが起っているかも知れないのだった。
地下鉄を一度乗りかえ、俺は銀座でおりだ。
改札口をすりぬけると、ゴーストタウンではとうてい考えられない人工の光と、人の波
があった。現在の俺には、このほうがよほど幻想的に見えた。雨が小降りになっていて、
ほとんど濡れずに歩けることは有難かった。
“きやら”は、それほど大きな店ではない。客席の数は20あまりで、あとはカウンター
である。大きなビルの谷間のような路地の一角に、鮮やかな朱と紫の看板が出ていて、そ
の地下に、手造りの分厚いチョコレート色の扉があった。フリーの客はほとんど入って
こない。要するに銀座ごのみの気取った店なのである。